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平安時代中心の歴史紹介とポートレイト

古代史から現代史に至る迄(日本史/世界史)の歴史散策紹介とポートレイト

沖縄-12 白梅の塔

2015年02月27日 | 太平洋戦争

 山形の塔のすぐ北となりにあるのが白梅之塔である。白梅隊といって県立第二高等女学生の最後の地である。6月上旬八重瀬岳の野戦病院が解散になったために女生徒達は衛生兵のあとをついて、この地の洞窟にたどり着いた。6月22日ついにこの洞窟も米軍の攻撃を受けたために女学生達は全滅したのである。火炎放射器で焼かれ、手榴弾で自殺したのである。戦後、この洞窟の中から折り重なった女学生34名の遺体が発見され、上部に白梅之塔が建てられ、入口には自決の壕という看板があるが、ひめゆり学徒隊の「ひめゆりの塔」とは対照的に、ここを訪れる人はほとんどなく。沖縄戦が収束した6月23日の前日のできごとを考えると悲しさもこみ上げる。

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沖縄-11 山形の塔

2015年02月26日 | 太平洋戦争

 国吉丘陵は南部戦線の西側を守る最前線で、日本軍はこの一帯の地下洞窟に山部隊の山形第32連隊を配備していた。1945年6月12日、米軍は糸満海岸に水陸両用戦車で上陸したあと、国吉丘陵に対して本格的な攻撃を開始した。武器弾薬が尽きた日本軍は洞窟の奥に潜伏して砲爆弾をしのぎ、夜になると爆雷や手榴弾による肉弾攻撃を行った。約1週間の攻防戦のあと、戦車隊は丘陵を突破して喜屋武半島の平野部になだれ込んだ。6月18日米軍司令官バックナー中将が真栄里の丘で戦死した直後から、米軍の攻撃は激化したのである。火炎戦車、ナパーム弾、黄リン弾による総攻撃である。かくして付近の洞窟に潜んでいた地元住民のからも多くの犠牲がでたのである。連隊本部壕から50名の残存兵が投降したのは8月29日、壕内にはおびただしい数の遺体は壕内の岩穴に集められ、今は埋没しているという。現在、山形の塔が立っている真下にあたる。

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沖縄-10 南風原陸軍病院

2015年02月25日 | 太平洋戦争

 首里の軍司令部壕の南にある南風原陸軍病院址は「ひめゆりの悲劇」の出発点である。沖縄陸軍病院が1944年10月10日の空襲により全滅したために、元々は小学校であったここへ移動してきた。軍医、看護婦350人でスタートしたこの場所には多くの横穴壕が貫通して収容人数4000名にまでなり最も安全な場所となった。ひめゆり学園の生徒200人は県下の女学校や青年団から補助看護婦として招集され、配置されたのは3月24日、米軍上陸の一週間前である。女子生徒たちは負傷兵の治療、糞尿の処置、死体の埋葬、食事運搬などに追いまわされ、やがて5月25日守備軍が首里を撤退すると軍病院にも撤退命令が下されたが、全患者を移動させる能力はなく、重症患者は青酸カリや手榴弾によって処置されたのである。これは軍司令部の命令である。今ここには「重症患者2千余名自決の地」という碑がある。

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沖縄-9 沖縄戦は総特攻作戦

2015年02月23日 | 太平洋戦争

 沖縄戦は15年戦争の総決算である。1931年に満州事変が始まり、1937年日中戦争をへて1941年から始まった太平洋戦争では大艦巨砲主義から航空主力主義に変わったことで、西太平洋における航空基地として沖縄が脚光を浴びたことが不幸の結果を招いた。沖縄はまさに不沈空母の役割を担わされたのである。沖縄は日本本土を防衛する防波堤であり、米軍にとっては日本を降伏に追い込むための布石であった。米軍がアイスバーグ作戦において45万もの兵力をこの小さな沖縄という島に投入したのには、そんな重要な戦略があったからである。これを迎え撃つ沖縄守備軍・第32軍は12万、主力1/3は中国戦線から移駐してきた精鋭であったが、2/3は現地で召集した未訓練な補助兵だった。さらに大本営と現地軍の意思疎通を欠き、海上輸送が敵潜水艦の妨害により絶望的であったのは、ガダルカナル以降同じミスの繰り返し状態であったと言わざるをえない。建設した飛行場を守備するだけの兵力も兵器もなく、圧倒的な火力と重機を持つ米軍と衝突しては、一日でも足止めをさせることしか考えていない。すべては本土決戦に備えて大幅な軍の再編と陣地構築を進めるために沖縄を最初から犠牲にしていたのである。

 沖縄守備隊の使命は時間かせぎの持久戦であり、そのためには住民の協力が必要という方針を出した。陣地構築、食料運搬、などに住民を総動員した。上陸地点の読谷や嘉手納の住民は放置され、集団自決にまで追い込まれたのは、軍の作戦上の要請の結果である。「第32軍戦斗指針」は「1機1船艇、1艇1船、1人10殺1戦車」の意味はこうである。特攻機は体当たりで1船艇を沈め、特攻艇は敵の輸送船を沈め、兵士一人で敵10人を殺したあと爆雷を抱いて戦車1台を撃破せよ、というものである。防衛隊や義勇隊まで「1人10殺1戦車」の合言葉のもと死んでいったのである。つまり沖縄戦は戦史に例のない陸海空前面特攻作戦だったのである。

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沖縄-8 軍司令部壕跡

2015年02月21日 | 太平洋戦争

 約二ヶ月に及ぶ中部戦線の死闘は首里城の軍司令部をめぐる防衛線であった。壕は城跡を南北に貫通する390mの横穴を幹線に延長1km、1トン爆弾や40cm艦砲弾にも耐えうる構造になっている。1945年3月29日、いよいよ米軍の砲弾が首里に集中すると、牛島軍司令官、長参謀長以下の首脳部は壕生活にはいった。首里古城への集中砲火によって正殿をはじめとする文化遺跡は飛散した。壕の内部は司令部、参謀室、作戦室、命令伝達室、医療室に区切られ、1000名の将兵が入ると息苦しい状態となる。数百名の軍属、学徒隊、女子軍属、辻遊郭の遊女が雑居していた。5月下旬には主力部隊は壊滅状態となり、守備隊は総突撃を敢行し、沖縄戦は終わる予定であった。ところが、22日軍は方針を変えて島の南部・喜屋武半島への撤退を決定し、27日首里城を放棄したのである。5月31日米軍は首里を占領し、以降の1ヶ月は地獄の南部戦線となった。現在司令部の壕跡は当時の状態で埋没し、忘れ去られた状態である。

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沖縄-7 血塗られた嘉数高地と前田高地

2015年02月20日 | 太平洋戦争

 読谷補助飛行場から嘉手納空軍基地を通り南下するコースは、米軍が日本守備隊の本拠地・首里を目指した足取りと一致する。宜野湾市に入ると中央部がアメリカ海軍に占領され、その南に嘉数高地、前田高地が連なり、ここで両軍は激突したのである。南下してくる米軍に対して日本軍は地下陣地を構えて息をひそめていたが、これらの高地は防衛線の中核であった。1945年4月8日から、米軍はこの丘陵地帯に猛攻をかけ、太平洋戦争以来最大級の砲爆撃が集中したのである。かくして地下陣地やトーチカは埋もれてしまうが、夜になると守備隊は肉弾戦を繰り広げたことで、米軍の戦車の70%は破壊されたという。これは米軍にとっての最大の損害となり、1日で100m前進するのもやっとであったという。しかし2週間後には嘉数高地は陥落し、前田高地の争奪全へと移行した。嘉数高地から首里までの距離は約10km、この距離をめぐって両軍は総力戦を行い、沖縄戦の半分の日数がかけられている。日本軍はこの戦線で6万4千名が戦死、米軍も2万6千の戦傷者をだした。ここで日本軍は主力の80%を失い、首里の軍司令部は那覇、浦添、与那原の3方向から包囲されて、首里城陥落は明らかであり誰もがここ戦いの集結を信じたことだろう。ところが、ここからさらに悲惨な地元住民の犠牲という結果を数多く導くこととなる。

 嘉数高地は現在公園として整備され展望台からは米軍上陸の読谷、嘉手納海岸、中部戦線の全体が見渡せる。日本軍のトーチカや洞窟壕跡も無残な姿を残している。丘の上にはこの地で戦った第62師団に京都出身が多かったことから「京都の塔」などの慰霊碑が建てられている。碑文は地元住民の犠牲者への追悼の念と戦争への反省の意が刻まれて、南部戦跡にある英霊賛美の碑とは異にしている。「青丘の塔」は朝鮮から強制連行され戦死した朝鮮人軍夫を祀り、「嘉数の塔」は地元住民の慰霊塔なのである。沖縄戦の特徴は地元住民の犠牲の多さにある。疎開など許されず部隊に協力し、戦死した嘉数の住民は54%、一家全滅は33%にのぼる。しかも日本軍により地下壕を追い出され、食料を奪われての結果なのである。日本陸軍はもはや国民を守るための軍隊ではなかったことに注目しべきである。司馬遼太郎が非難する日本陸海軍の実態はこういうことなのである。

 

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沖縄-6 嘉手納空軍基地

2015年02月18日 | 太平洋戦争

 読谷村から比謝川を渡ると嘉手納町、この84%がアメリカ空軍基地にとられている。1945年4月1日米軍上陸後に嘉手納飛行場を制圧したときは全長1350mの滑走路が1本あるのみであった。現在は4000mの滑走路が2本伸び、その南側には2棟の格納庫が並んでいる。これが陸軍中飛行場の遺跡である。近くにあるウマカジーという岩山には海軍の沿岸砲と機関銃の陣地があり、弾薬運搬に村々の娘が女子挺身隊として駆り出され、軍服や手榴弾が最後には手渡されていた。米軍上陸直後に一斉射撃を浴びせられて集団自決が起こったのである。生き残ったのは僅かに3名、手榴弾が渡されなければ半分以上は助かっていたという。終戦後の9月7日、岩山で降伏調印式がとりおこなわれ、米軍代表は司令官のスティルウエル中将、守備軍の代表は宮古部隊の納見中将、滑走路にはB29やB17が並べられて執り行われた。嘉手納飛行場は上陸から調印まで、沖縄戦の終始を見届けた場所なのである。

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沖縄-5 海上特攻艇の戦果

2015年02月17日 | 太平洋戦争

 飛行場が特攻機の基地となったように海岸には特攻艇の基地があった。読谷飛行場から南へ数キロのところに米軍の上陸の中心地があり、上陸早々に米海軍が軍政府を開設したのが渡具知、日本守備隊にとってもここは要塞の地であり、海上艇進隊が配備された。比謝川河口に特攻艇を秘匿する壕が造られ、マルレという暗号名を持つ特攻艇が隠されていた。マルレは長さ5.6m、重さ1トン、合板製のエンジン付ボートに爆雷を搭載した特攻艇で、特攻隊員1名が乗り込んで全速で敵艦に突進して爆雷を落とすというものであるが、実際は体当たりをするのである。この海上特攻艇は沖縄の各地に配備され、読谷、北谷のは第29戦隊が山本大尉を長として置かれた。44年暮から特攻隊の海上艇進隊がやってきたが、輸送船団は途中の海上で空襲を受けて現地に到着したのは第一中隊の特攻艇わずかに20隻にすぎなかった。45年3月29日、17隻の特攻艇は慶良間に集結した米艦隊めざして出撃していったが、その戦果は米軍側の記録には見られない。

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沖縄-4 読谷からの特攻機と爆撃機 

2015年02月16日 | 太平洋戦争

 沖縄本島を中心とする南西諸島が1944年7月のサイパン陥落以降に注目されはじめ、読谷、嘉手納に本格的な飛行場の建設が始まり、広大な土地が強制的に接収された。工事は国民学校の児童までもが総動員され、沖縄守備軍・第32軍がこの航空基地を守備するために編成された。1944年夏ごろから軍の主力部隊が続々と沖縄に移駐してきたが、これらの戦闘部隊も読谷飛行場工事にかりださえれて、こうした根こそぎ動員によって住民は県外疎開どころではなかった。突貫工事により秋頃には各地の飛行場が完成したが、皮肉なことにフィリピン戦で多くのパイロットと飛行機を失っていたため、ここへはこないのである。やがて読谷飛行場は特攻機の発信基地として転用されることとなり、格納庫には桜花などを貼り付ける作戦であった。1944年末、軍の主力の第9師団が台湾にひきぬかれてからは、航空基地は厄介なものとなり、軍司令部は特攻機の発信地を九州としたため、読谷の飛行場は破壊されることとなる。やがて1945年4月1日、米軍第10軍18万3千名がバックナー中将の元、読谷湾に集結して上陸した。艦隊434隻の援護射撃に守られて殺到したのである。日本軍の反撃は全くなく、上陸部隊は無傷で上陸すると北、中飛行場を獲得すると直ちに整備して偵察機や戦闘爆撃機を発進させることができている。そしてこの飛行場から本土に向けて爆撃機が飛び立っていったのである。沖縄の人々は米軍のために土地を整備して滑走路を建設していたのである。

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沖縄-3 米軍基地の象徴・読谷

2015年02月15日 | 太平洋戦争

 沖縄には日米安保条約に基づく米軍基地の75%があり、本島の0%の面積を占める。基地労働者は3万人から8千人に減り、面積は15%減ったものの、いまだに脅威であることには違いない。沖縄市、北谷町、嘉手納町にまたがる嘉手納空軍基地は、面積2007万m2、4千m滑走路2本、軍人家族など併せて2万人が住む。ここは元々日本軍の中飛行場で、防波堤目的で作られたもののほとんど使われることなく米軍の手におちて拡張された。と同時に読谷村は40%を米軍基地にとられるという軍事村で、15世紀の琉球王国の英雄・護佐丸によって築かれた座喜味城は1944年、日本陸軍は対空陣地として本丸をつぶして高射砲をすえた。1945年4月1日とうとう米軍は1300隻の艦艇を読谷海岸に並べて上陸した。飛行場はその日のうちに占領され座喜味城の陣地も敵軍の手に落ちた。上陸早々飛行場は整備拡張されると沖縄作戦に利用され、城跡の高射砲陣地跡にもレーダーが置かれて九州から飛んでくる特攻機の攻撃に備えた。沖縄が日本に復帰した1972年になってようやく城跡は開放されたのである。

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沖縄-2 米軍事支配下の沖縄

2015年02月14日 | 太平洋戦争

 幕末の1853年、日本の開国を求めるペリー艦隊はまず琉球に現れている。彼は日本が開国に抵抗すれば、琉球を占領して軍事的拠点にしようと考えていたといわれる。第二次世界大戦末期には日本から見れば本土防衛の拠点として、結果的に激しい争奪戦の対象となったから、うなづける。沖縄戦は本土決戦の時間稼ぎとし、捨石作戦として引き伸ばされたために必要以上の犠牲を出した。住民の中には日本軍によって非難豪を追い出されたり集団自決に追い込まれたりし、司馬遼太郎は国民を守るための軍隊ではなかった点を鋭く批判している。悲惨な戦争が終わっても沖縄に平和は訪れなかった。焦土と化した沖縄は米軍の支配下に置かれて、軍事的重要拠点となった。朝鮮戦争勃発という情勢のなか、アメリカ政府は日本を同盟国として独立させるべく、1952年対日平和条約を発効するが、沖縄は半永久的に日本と分離されることとなったのである。かくして沖縄はアメリカの軍事的施設となり1950年代は暗黒の時代となる。

 沖縄の戦後派は絶望的困窮状態のなか、1951年の対日講和を前に奄美大島や沖縄では日本復帰を求める署名運動が行われ、それは85%に及んだ。ところが日米両政府は対日平和条約を1952年4月28日に結んだことにより沖縄にとっての屈辱の日となる。1953年奄美大島は返還されたが、1954年には沖縄基地の無期限保有を宣言し、軍事政策が強化されたことで島ぐるみ闘争が爆発した。1956年、米下院の沖縄調査団による住民要求拒否をした上で沖縄基地の重要性を指摘したことが契機となっている。1972年、沖縄は日本に返還されることとなったが、その条件としてベトナム政策の全面支援、東南アジア軍事政策の援助、自衛隊の増強、在日米軍基地の自由使用などがあり、国民的願望の結果とは決して言えないものであった。

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沖縄-1 日本でなかった沖縄

2015年02月13日 | 太平洋戦争

 今まで通史と称して歴史を紹介してきたが、沖縄そのものについての紹介は少なかったので、しばらく沖縄に触れていきたい。周知のように沖縄は太平洋戦争では盾となって米軍の本土上陸を阻止した。今も尚米軍基地が散在して色々な意味で犠牲を強いられ続けているが、そもそも琉球王国の頃は日本とはどういう関係であったのか。アイヌと同じく琉球は17世紀初めまで日本の領域には含まれていなかった。アイヌはついに独自の国家を形成することはなかったが、琉球には古代国家が形成されたのである。統一王朝の第一尚氏が成立したのは15世紀の前半で、1470年には王朝が第二尚氏にかわり、北は喜界、南は与那国に至る島々まで統治した。以来、中国、朝鮮、インドシナ、インドネシアなどと交易を通じて大きな利益を得て独自の文化を創ったのである。

 1609年薩摩の島津氏は約3千の兵力で琉球王国を征服。平和外交を貫く琉球にとって戦国を生き抜いた雄藩・薩摩の攻撃にはひとたまりもなかった。琉球制圧後、薩摩はこの地域の検地を行い石高を9万石として、3割を薩摩に上納することを義務づけ、那覇に奉行を置いて内政外交を監視した。薩摩藩は奄美大島以北は直轄植民地としたが、奄美以南は琉球王国として存続させ中国・清との友好関係を維持させた。そしてこの状態が260年続いたのである。明治維新後日本政府は琉球が日本の領土であることを明確化するために沖縄県を設置し、そのための処置つまり琉球処分を実施した。しかし琉球士族は経済的特権が奪われることを恐れて非協力的であった。日本政府はできるかぎり琉球特権を認め、近代化への改革を遅らせるという政策をとった。つまり古い慣習を温存させる政策である。かくして沖縄における市町村制の施行や県議会開設などは本土に比べて大幅に遅れることとなる。沖縄全域が本土と同様に整備されたのは1920年台の第一次世界大戦後の混乱期である。しばらく記載予定の沖縄については、「戦争と沖縄」「観光コースでない沖縄」から抜粋させて頂きます。

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戦艦武蔵-2 極秘の武蔵建造

2015年01月09日 | 太平洋戦争

 昭和12年、海軍艦政本部から三菱重工業長崎造船所玉井所長のもとに建造条件についての司令がでた。それは建造中の第二号艦の外観を察知できないようにすること。すり鉢の底のような所に位置する長崎港にとっては、外観を完全に覆うのは至難の業である。かくして台風などにも強いすだれのような覆い、棕櫚が考えられ500トンもの棕櫚繊維が集められたのである。ところで、武蔵の建造計画は昭和9年から始められていた。軍司令部から海軍省に要求がだされ、艦政本部が研究を担当していた。平賀譲造船中将の指揮のもとに福田啓示造船大佐が設計基本計画主任となり23種類の設計を経て2年半かかって最終決定を見せた。設計に参加したのは造船関係で竜三郎、牧野茂、松本喜太郎、岡村博、土本宇之助、今井信男、造機関係では渋谷隆太郎、近藤市郎、長井安弐、造兵関係では菱川万三郎、甲鉄関係では笹川清といった海軍技術関係の最高峰が集まった。

艦長263m、最大幅38.9m、排水量7万トン、重油満載量6300トン、航続距離7200浬、軸馬力15万馬力、主砲46cm九門、乗員数2300名、当時のイギリスの主力戦艦214mをはるかに超えた化け物の設計図が呉工廠から次々と送られてきたのは昭和12年7月、昭和13年になるとその数がどんどん増えていった。因みに、最終的に作成された設計図面は31380枚に及ぶ。2月に入ると造船監督官として梶原正夫造船中佐が長崎に赴任してきた。東大船舶工学科出身の技術科仕官で呉海軍工廠の第一号艦の設計主任を経ていた。その力量をかって海軍艦政本部は第二号艦の建造に協力させようとしたのである。これは技術的な問題だけではなく呉工廠との連携という面でも役立つ。

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戦艦武蔵-1 武蔵は大和型二番艦

2015年01月08日 | 太平洋戦争

 昭和12年7月7日、盧溝橋事件に端を発した中国大陸の戦火が広がっていた頃、ある計画が秘密裏に進められていた。海軍艦政本部・主席監督官・平田周二大佐、三菱長崎造船所・玉井喬介所長(後に三菱の社長となり昭和31年死去)、馬場熊雄を長とする芹川正直、古賀繁一などの技師たち11名が宣誓書にサインをし、武蔵という大日本帝国海軍の大和型戦艦の二番艦の建造計画が立てられた。この第二番艦は呉の第一番艦と全く同じである。海軍艦政本部から呉工廠へ渡された基本設計図面は、第一番艦設計主任牧野茂造船少佐によって具現化され工場へ流れてくる。それらは極く一部だけであるが、途方もなく大きな艦である。舷側に張る甲鉄は厚さが40cm以上もあり、日本で最も大きい主力戦艦・陸奥のものが30cmであることを思えば、そのえたいの知れない怪物が想像できない。長崎造船所での第二号艦建造は、実は昭和8年にガントリークレーンを建設していた頃に企てられていたのである。三菱重工業長崎造船所では、戦艦としては、金剛型戦艦「霧島」、伊勢型戦艦「日向」、加賀型戦艦「土佐」、天城型巡洋戦艦「高雄」が、また数多くの三隈、利根、筑摩などの巡洋艦が建造されており、員数は15000人を超える有数の造船所であった。第一次世界大戦以降、アメリカ海軍は主力艦の拡充計画を立案し海軍兵力を増強していた。こういった背景から日本でも激しい建設競争が生まれたのである。そして三菱重工長崎造船所は満州事変以降に、「土佐」や「高雄」の4万排水トンクラスから大和型7万トンクラスの建造の受け入れ態勢を整える必要があった。

 ガントリークレーンを含む造船所内の施設設計は、幅38m、長さ260mの船艇設計を基本とし、7万トンという世界最大の戦艦建造の準備にかかった。当時建造中だった巡洋艦利根・筑摩には新規採用工員をあてて、熟練した精鋭は新艦建造に振り向けた。昭和10年12月にはいるとロンドンで軍縮会議が開催され、翌年1月に日本は正式に脱退通告を突きつけた。2・26事件が発生したのはその直後である。内大臣斉藤実、大蔵大臣高橋是清、陸軍教育総監渡辺錠太郎らが、陸軍の青年将校率いる反乱軍に暗殺され、侍従長鈴木貫太郎が重傷を負った。これをきっかけに陸軍による政治介入が露骨になっていったのである。そうしたなか、昭和12年年明け早々、三菱の岩崎小弥太社長常務の伊藤達三は艦政本部で、本部長上田宗重海軍中将から軍機密事項を告げられている。呉海軍廠では戦艦1番艦、長崎では2番艦を建造するということと、2番艦は長崎造船所で建造するとの内定である。

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零式艦上戦闘機-28 日本が犯した愚かな戦争を零戦に見た

2015年01月02日 | 太平洋戦争

 硫黄島陥落に続いて沖縄戦も6月23日に惨敗、菊水作戦で出陣した陸海軍機は699機、突っ込んだ特攻機は355機、哀れな戦争は終焉を迎えた。こうした状況の中でも零戦は昭和19年10月の145機に比べると少なくはなっていたが、昭和20年2月59機、3月40機、4月37機、5月38機、6月23機、7月15機が生産されていた。零戦の最終整備を行う鈴鹿整備工場が空襲の被害にあわなかったからでもある。ここの従業員は8000名、半数は学徒、女子挺身隊員で、責任者に帰れといわれても帰ろうとせずに、工場泊り込みの作業に加わっていた。完成した零戦は工場の外に出ると、女子挺身隊員や女子学生の手で1000mほどの通路を鈴鹿飛行場のほうへ押されていく。わびしい光景であったが工員にとっては零戦が一層いとおしいものに思われたに違いない。

 アメリカ軍による日本本土上陸は時間の問題である。無力化した陸海軍はそれでも徹底抗戦を決意していて作戦準備に全力を傾注していた。その作戦とは、全機特別特攻作戦である。桜花、神竜、剣といった帰還することを全く考えない人間爆弾の訓練もしきりに繰り返されていたのである。海上部隊でも駆逐艦、潜水艦とともに海竜、蛟竜、回天、震洋、伏竜の5種の特攻舟艇を整備していた。そしてこの特攻機、特攻舟艇は太平洋沿岸各地にばら撒かれ、日本本土は決戦場と化していた。日本本土上空はアメリカ機に覆われ、B29来襲機数は延べ33000機にも及んでいた。消失した都市は96都市、そのうち72都市は重要な軍需施設を持たない都市である。この時点で軍人に死者数は260万人、一般市民は40万人。そしてついに広島長崎に原爆が投下されたのである。8月中に三菱で生産された零戦は6機。沖縄への特攻作戦を指揮した宇垣纏中将は、多くの若者を死に追いやった責任をとって、大分から艦上爆撃機・彗星にのって沖縄本島沖のアメリカ艦船に突入すべく出発した。同乗していた遠藤秋章飛曹長は宇垣に引きずりおろされたが、同乗を嘆願した。また中津留達雄大将以下9機も追った。しかしながらいずれも突入前にアメリカ機の迎撃にあって撃墜された。翌日の16日、特攻の出陣を企てた大西瀧治郎中将も自刃。

 ここでは中国大陸での戦線において、はなばなしく零戦がデビューし、長きに渡ってアメリカ連合軍から恐れられて世界最高峰の地位を築いたものの、新型精鋭の戦闘機に押されて次第に衰退していったことを28編で表現してきた。太平洋戦争終結までの零戦の経緯を辿ることは、日本の行った戦争の姿そのものを辿ることに等しい。これはまさに平家物語でいう栄枯盛衰そのものの近代版であるのである。今回は零式艦上戦闘機を通じて太平洋戦争を見たが、次回は戦艦を見てみたいと思う。完

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