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司馬遼太郎は何故「ノモンハン事件」を発表しなかったのか

2014年12月31日 | 太平洋戦争

2014年も大変多くの方々に「平安時代中心の歴史紹介とポートレート」を見ていただき、感謝いたします

文字だらけの歴史を読んで頂いたあとには、ポートレートでほっこり(^0^)

今年最後のネタは、私の好きな司馬遼太郎先生の苦悩についてです

最後までお付き合いいただければ幸いです

それと、再びほっこりのために ポートレート2014総集編を掲載予定

 去年、今年の二年間は、近代の中でも太平洋戦争という無意味な戦いに於ける大本営の責任について記載してきたが、これらは司馬遼太郎先生の思うところでもある。司馬遼太郎といえば「梟の城」で1959年に直木賞を受賞し、「龍馬が行く」を1962年に発表したことで日本における歴史文学の地位を確固たるものとした歴史小説家である。そして龍馬が行くの後、精力的に神骨を注いだのが「太平洋戦争が何故起こったのか、何故止めることができなかったのか」である。司馬遼太郎は大阪外国語学校モンゴル科に入ったものの学徒出陣で兵庫県小野市の青野が原の戦車第十九連隊に入隊した。22歳のときに敗戦を迎え、軍人時代に経験した疑問をずっと抱えて記者生活を送る。軍人はえらそうにしているが、それは何故か?命を賭けて一般市民を守っているからであるというのが大義名分。ところが、「軍人は命令を遂行するために一般市民を戦車で轢き殺してもよい・・・・」という事を陸軍時代に経験し、軍人大義との乖離に苦しめられている。1968年に手がけた「坂の上の雲」では日露戦争を祖国防衛戦争として捉え、これ以降日本の軍隊は迷走し、日本の近代はゆがんできたと、司馬遼太郎は言う。しかし、日本はそれ以前の江華島事件で朝鮮侵略を始め、明治9年に不平等条約を挑戦に押し付けている。江華島事件とは1875年に日本の軍艦が朝鮮半島の江華島を挑発して戦争に発展させた事件である。当時朝鮮王朝は鎖国政策をとり、日本は朝鮮に開国を迫り、翌年の1876年に日朝修好条規を結んだ。そしてその後日清、日露戦争を経て1910年に日本は韓国を併合するのである。そして朝鮮では35年に及ぶ日本による植民地支配が続くのである。日本という国家は、数千年の文化を持った独立国を平然と合併という形で奪ってしまった、というのが司馬遼太郎の思いである。

 幕末の歴史を考えてみると、ペリー来航以来江戸幕府はアメリカ側から開国を迫られて拒絶した。しかし坂本龍馬を筆頭に夢見た開国による夜明けは、決してアメリカによる植民地支配ではなく、アメリカとともに技術を学んで対等に交易をはかろうとする幕末の志士たちの思いであった。ここに英雄・坂本龍馬を見出し、「龍馬が行く」という明るい歴史感を司馬遼太郎は描いたのである。そして今度は、日露戦争以降、太平洋戦争が終わるまでに、どんな夢が日本にはあったのだろうと司馬は考えていた。太平洋戦争という愚劣な行為が日露戦争の後に起こるのは何故か、ということも坂の上の雲では伝えたかったことの一つである。日露戦争を境として日本人の国民的理性が大きく後退して狂騒の昭和期にはいる。やがて国家と国民が狂いだして、太平洋戦争をやってのけて敗北するのは、日露戦争後わずかに40年のちのことである。韓国を併合した日本はやがて大陸に進出し、満州事変、日中戦争へと突き進み太平洋戦争という愚かな戦争に向かった。司馬遼太郎は22歳のときに考え始め、昭和の日本に取り組んだ。

 坂の上の雲当時、文芸春秋の編集者であった半藤一利氏は、司馬遼太郎の切り口を見守っていた。日露戦争後の日本を陸軍がどのようにして引っ張っていこうとしたのか、を司馬は考え、統帥権にたどり着いたという。統帥権とは軍隊の指揮・統率権のことで、大日本帝国憲法では次のように記されていた。「天皇は陸海軍を統帥す」 統帥権は天皇に直属し内閣からは独立していた。陸海軍はこれを大きく解釈して、統帥権からインチキの理論・論争を持ち出すことができる。つまり統帥権を持ち出すことで政府が軍に介入できない構図が生まれるというのである。

 分岐点となったのは1931年に起こった満州事変、これは満州の関東軍が謀略により始めた軍事行動をいい、政府はこれを追認した。これを司馬遼太郎は魔法の時代の始まり、日本史上異様な時代の始まりという。統帥権をテーマに司馬遼太郎は小説を書こうとし、昭和14年5月に始まったノモンハン事件に注目し昭和の時代を浮き彫りにしようと考えた。ノモンハン事件とは満州とモンゴルの国境をめぐる事件で、日本軍はソ連のモンゴル軍団と戦って2万人にも及ぶ死傷者をだした。しかしこの事実は当時極秘とされ、国民に知らされることはなかった。関東軍の参謀であった服部卓四郎と辻政信は事件を独断で拡大。その間、関東軍を統括する東京の陸軍参謀本部は、服部卓四郎、辻政信の行動を追認したのである。何故大本営は、こんな無謀な戦いを止めなかったのか。司馬は当時の参謀本部の担当者を取材している。ノモンハン事件当時、陸軍参謀本部作戦課長だったのは稲田正純。この取材は全く的を得ず、司馬遼太郎の確信に触れた問いに対して、稲田は巧みにかわす。つまり稲田には妖怪の怖さみたいなものが残っていて、官僚的な意味のない答弁だけで取材は終始したという印象だったようだ。つまり参謀本部は関東軍に対してどのような指揮を行ったのか、ああいう悲惨な戦闘になるような作戦を練ったのか、何故関東軍は参謀本部の指揮下にあるのに暴走したしたのか、という問いに対しては 「もちろん大本営は指揮をしたが、関東軍のあのばかどもは暴走したのだよ・・・」という調子だったようだ。しかしこの発言は大嘘であり、無責任極まりない。大本営参謀本部の命令・指揮は絶対であり、その指揮に違反した場合には罪に問われるはずである。つまり関東軍の服部卓四郎と辻政信は責任を取らされるはずであるが、のちに大本営参謀になるという大出世をしている。大本営参謀本部作戦課の稲田正純氏は、取材において大本営の責任を認めず、関東軍に全責任を押し付ける発言をしたのである。

 ノモンハン事件の惨状詳細については既に当ブログで今年の10月に触れた。最終的には壊滅的な状況に追い込まれながらも参謀は、戦争を肉弾戦により続けたのである。当時の連隊長で生き延びたのはわずかに3人だけで、そのひとりを司馬遼太郎は長野県に訪ねている。応じたのは連隊長の息子・須見武さんである。歩兵第26連隊を率いた須見新一郎氏は、関東軍のあまりにも無謀な作戦を終始批判したものの、命令には従った。そして事件後には自決を強要されたという。典型的な大本営の卑怯なやりかたであり、証拠隠滅のための自決強要であることは言うまでもない。須見新一郎氏は、これに従わなかったために予備隊に配属された後は、軍人としては除名処分を受けている。これらの詳細、須見氏の憤りは、ノモンハン事件の体験を記した須見氏の手記からもはっきりと伺える。兵士たちを無駄に死に追いやった上官への怒りに満ちた手記は次である。「我が作戦の愚昧なること、また装備もお話にならない。その性能極めて鈍重なる我が戦車は敵の戦車砲の前には豆腐のごとき存在でしかなかった。迷夢の酔者たちは日本を引きずってついに大東亜戦争まで突き進み、すべてが終わった」

 関東軍を率いた服部卓四郎と辻政信は間もなく大本営の参謀となり、ノモンハン事件から2年後に日本は太平洋戦争へと進むのである。司馬遼太郎の小説には暗闇の中にあっても一筋の光を与える主人公がいる。しかしノモンハン事件を描こうとするときに、主人公とも言える人物がどこにもいないことを多岐に渡る取材から悟った司馬遼太郎は、とうとうノモンハンを小説にはしなかったのである。ノモンハンに出てくる連中に明るさを持つものは誰一人としていなかったのである。昭和45年、大本営の作戦本部参謀だった瀬島龍三氏と司馬遼太郎との対談が文芸春秋に掲載されたとき、いきのこりの連隊長、須見新一郎は、大本営の参謀と意気投合している(かのように写った)司馬遼太郎に対して激怒し、その内容を手紙にして司馬に送っている。かくして10年近くも取材をしてきたノモンハンという小説は、「日本人は何故このような愚かな戦争に向かったのか」、を問い続けてきた司馬遼太郎によって表現されることはなかった。

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