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平安時代中心の歴史紹介とポートレイト

古代史から現代史に至る迄(日本史/世界史)の歴史散策紹介とポートレイト

沖縄-25 沖縄・普天間基地

2015年03月29日 | 太平洋戦争

 那覇市街を出て国道58号線(軍用道路1号線と呼ばれていた)を北上すると南北3kmに及ぶ巨大な倉庫群がある。この牧港補給基地はベトナム戦争中にはあらゆる軍需物資を前線部隊に補給していた。戦後はここ牧港基地を管理していた米陸軍第二兵站部隊は解散し現在は海兵隊支援軍が駐留し、那覇軍港に陸揚げされる海兵隊の装備類の整備点検を行っているという。

 牧港を過ぎると宜野湾市である。その中心を占めているのが普天間飛行場である。この近くには沖縄戦最大の激戦地となった嘉数高地がある。米軍は沖縄占領と同時に、本土攻略のための滑走路を建設し飛行場として整備した。現在は海兵隊第一海兵航空団36海兵航空軍の基地となっており、100機以上の軍用機が配備されている。当初はB29、B32重爆撃機用の滑走路が建設され、その後何度か拡張されていった。そして長さは2800mとなり、ジェット戦闘機やC5ギャラクシー大型輸送機の離着陸も可能となっている。主に離発着するのは第36海兵航空軍のCH53大型ヘリ、CH46中型ヘリ、UH1多目的輸送ヘリ、AH1攻撃ヘリなどで、全体の80%を占める。これらのヘリは同基地と沖縄本島内の演習場で上陸作戦支援の対地支援攻撃、偵察、などの訓練を日常的に行っている。一方本土の海兵隊の航空基地である岩国基地にはスカイホーク観測攻撃機、ハリアー垂直離着陸攻撃機が駐留しているが、普天間へ飛来するジェット戦闘機部隊は、普天間を航空母艦に見立てて着陸訓練も行っている。

 アメリカは沖縄を、ハワイからアフリカまでカバーする太平洋の要石として位置づけ、あらゆる戦闘能力を保有していると強調しているが、普天間のある宜野湾市街は飛行場を取り囲むようにして文教施設や病院などが密集し、日常騒音に悩まされ産業振興の妨げになっており、事故の際には惨事に結びつくことは間違いない。日米両政府は基地問題解決へ努力する姿勢を見せないわけにはいかなくなり、普天間移設を検討しているのである。

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沖縄-23 伊江島の戦い

2015年03月23日 | 太平洋戦争

 伊江島に米軍が上陸したのは1945年4月16日、わずかに1週間の激戦で伊江島守備隊は全滅した。ここには東洋一といわれた陸軍飛行場が建設されていたが、3月10日突如として軍から破壊命令が下った。完成はしたものの配備する航空機がなく、敵に逆利用されるのを恐れたためである。2700名の守備隊が配備されていた。防衛隊、青年義勇隊、女子救護隊、婦人協力隊の前に激しい砲爆撃が始まり、守備隊は洞窟壕、地下陣地に立て篭もって機関銃や小銃で応戦したが、米軍の圧倒的な火力によって陣地はつぶされた。女子義勇隊の娘までもが爆雷と手榴弾により肉弾戦をかけ、米軍は空からナパーム弾を投下して樹木を焼き払ったのである。アガシャガマの壕跡が今でも残っているが、隠れていた住民120名は爆雷で自爆するという沖縄戦の縮図といっていい。21日の総攻撃で伊江島守備隊は全滅し戦死者4500名のうち住民は1500名だったという。

 1983年、サンダタ壕の遺骨収集が行われ、横穴壕の奥に64体の遺骨が折り重なっていたという。伊江島を占領した米軍は島の人々を慶良間に移し飛行場を拡張整備して本土進攻作戦に備えたが、戦後2年を経た1947年にようやく帰島を許されたが、島のほとんどは米軍の軍用地に囲われていた。

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沖縄-22 北部離島の戦跡

2015年03月22日 | 太平洋戦争

 恩納村から北側はヤンバルと呼ばれて戦争とは縁のなさそうな山脈が続いているが、ここにももうひとつの戦争があった。ヤンバル地方は沖縄中南部住民の疎開地に指定され、約15万人の避難民が疎開していた。ここには軍隊はいないかというとそうではなく、本部半島の八重岳には伊江島飛行場の守備を任務とする国頭支隊が布陣し山岳地方には正規部隊とは別のゲリラ部隊が配備されていた。そして軍人と避難民との間にはさまざまな摩擦が起こり、住民虐殺事件まで発展したのである。恩納村は珊瑚礁で有名な景勝地であるが、第二護郷隊之碑が立っている。さらに北の名護市には少年護郷隊之碑がある。護郷隊とは遊撃隊、つまりゲリラ隊の暗号名である。太平洋戦争で日本はニューギニアとフィリピンに第一遊撃隊と第二遊撃隊を配置、陸軍中野学校でスパイ戦の訓練を受けた特務将校たちが、現地住民を組織して展開していく秘密部隊である。1944年頃同様の将校が密かに沖縄にも潜入し第三遊撃隊と第四遊撃隊を編成していた。第三遊撃隊は名護に、第四遊撃隊は恩名村に拠点をおいて秘密作戦のネットワークをめぐらせていた。さらに西表島、竹富島、など正規部隊が配置されていない島々にも準備は進められていた。大本営がフィリピンに続いて沖縄にも遊撃隊を組織したところに、沖縄観が伺える。つまり大本営にとって沖縄は本土の一角というより南方戦線の延長線上に位置する島々という図を描いていた。

 そしてこのような秘密戦において諜報と防護、つまりスパイ活動とスパイ取締りが行われるなかで、住民虐殺や拷問事件が多発したのである。ヤンバル山中に非難した住民にとっての敵は飢餓、マラリア、敗残兵、そしてゲリラ兵だったのである。

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沖縄-21 捨石作戦の理由

2015年03月20日 | 太平洋戦争

 なぜ沖縄守備軍は首里から喜屋武半島に撤退したのだろう。これは軍の首脳部でさえ予期しておらず、首里陥落によって沖縄戦は終結するはずだった。一般住民もそう信じて島尻の洞窟地帯で避難生活を送っていたのである。部隊は移動し避難民は壕を追い出されたために、住民の犠牲者は以降の一ヶ月に集中している。つまり沖縄戦の最大の悲劇は軍の首里撤退によって引き起こされたのである。では何故軍は撤退したのか。首里北方の主陣地では50日に及び攻防戦が続き、両軍におびただしい戦傷者がでた。5月下旬には主力兵は消耗し、4万の残存兵力のみである。しかもその8割は防衛隊などの補助兵力であり、食糧も残すところ一ヶ月そこそこであったという。軍の内部でも総攻撃論と持久戦論に別れ、師団長クラスの指揮官も首里からの撤退には反対であり、海軍部隊の大田司令官もその一人である。だが、牛島軍司令官の次の言葉が断を下した。「命を受けて東京を出発するにあたり、陸軍大臣、参謀総長は軽々しく玉砕してはならないと申された。残存兵力と島民をおもって最後の一人まで戦い続ける覚悟である」 つまり軍部中央の方針に従って玉砕戦を続けたために沖縄県民の運命は決まったのである。この頃大本営では米軍の本土進攻を9月頃とみて決戦体制の準備にやっきになっていた。地上兵力50個師団を結成しなければならず、その時間稼ぎのために沖縄守備隊は南に退いて戦わなければならなかったのである。そのために一般住民を巻き込み、およそ1万の傷病兵を手榴弾や毒薬で見殺しにすることとなった。

 6月18日米軍は摩文仁の軍司令部に軍使を派遣して正式に降伏を勧告したが、牛島司令官はこれを黙殺し、「最後の一兵に至るまで果敢に戦い悠久の大義に生くべし」と最後の命令を下して自分は先に自決したのである。これによって日本軍側は戦闘を収拾する責任者は不在と成り、沖縄戦は終わらないということになった。かくして沖縄戦における戦没者総数は沖縄県援護課資料によると20万656人、その内訳は沖縄県出身者は12万2228人、県外出身日本兵は6万5908人、米軍戦没者は1万2520人である。また沖縄県の戦没者のうち一般住民は9万4千人、軍人は2万8228人にのぼる。

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沖縄-20 ひめゆり隊最後の地

2015年03月19日 | 太平洋戦争

 沖縄本島最南端の荒崎という岬から東に5kmの摩文仁崎までの間の海岸は沖縄戦最後の地獄となった場所で、ここには魂魄の塔がある。首里、那覇から逃げてきた避難民や敗残兵がひしめき、陸上からは火炎戦車隊が迫り、頭上からは戦闘機によるナパーム投下が行われた。絶望のあまり軍から支給された手榴弾で自爆する光景が広がったのである。このとき米軍は投降を呼びかけ、命を助けるビラを持っていけば安全は保障され食事も医薬品も与えられたのであるが、投降すれば後ろから友軍兵によって射殺されるというのが現実である。6月18日伊原の病院壕から脱出したひめゆり隊の学徒達はこの海岸に追い詰められ、自爆したのである。ひめゆり学徒散華の地という記念碑には教頭以下16名の教師・生徒の名が刻まれている。

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戦艦武蔵-3 戦艦武蔵の建造費用

2015年03月15日 | 太平洋戦争

 何を思い立ってか、今年最初に始めたブログネタが「戦艦武蔵」であった。しかし沖縄戦のほうが気乗りがしたので、武蔵から沖縄戦に変更した。従って武蔵記事はふたつ書いたのみである。少し気になってはいたが・・・、すると2015年3月2日突如飛び込んできたのが、沈没した武蔵が発見されたというニュースである。発見したのはマイクロソフト社の共同創業者であるポール・アレン氏。フィリピン・シブヤン海の水深1000メートルの海底に沈んでいた戦艦武蔵を発見したというのである。当ブログで何度も紹介した1944年10月24日レイテ沖海戦で戦闘むなしく撃破されて沈没して以来71年後の出来事になる。ということで戦艦武蔵-3について記載する。ここでの話は武蔵の建造費用についてである。

 海軍艦政本部と三菱側とで戦艦武蔵建造の契約書が交わされたのは昭和13年2月10日、一隻の請負代金は5265万円である。引渡し日は昭和17年3月31日。尚、契約後に色々な条件が変更と成り最終的な建造費用は6490万円となっている。因みに呉で建造された第一号艦の建造予算1億4千万円の約半分に満たないが、これは甲板、エンジンなどの主要部品が海軍からの支給品であったからだ。起工式は昭和13年3月29日、普通であれば多くの参列者を迎えるが、なにしろ極秘であるから、主席監督官、玉井所長以下20名足らずのひっそりとしたものだったらしい。かくして甲鉄に打ち込まれる第一鋲の音とともにスタートしたのである。鋲の大きさは一般の戦艦で直径15mmであるが、武蔵の場合は40mm、16000本にも及ぶ試作を繰り返して強靭なものが開発されている。

 この頃から古賀副主任と梶原監督官は山歩きを定期的に行うようになる。長崎造船所を見下ろすことのできる場所に行って前景の状況を把握するためである。極秘で進むこの建造は外部から見えないように巨大な棕櫚縄の簾で覆われており、棕櫚の隙間から建造物が見えないようになっているかどうかを確認するのである。途中ですれ違う憲兵のいぶかしそうな顔から、市中でも簾が話題になっていることを知る。6月にはいると長崎では有名なペーロン祭りが行われるが、長崎湾内でのレースが禁止されるなど警戒は厳しくなるにつれて市民の関心も高くなっていった。舷側に貼る甲鉄の厚みは41cm、あの戦艦長門の場合が30cmを考えると途方もなく分厚い。夏になるとある事件が起こった。46cm砲の砲台に関する軍極秘設計図面の紛失であるから事は重大である。監督官たちの目が血走るのもあたりまえで、図面が発見されない場合には主席監督官以下助手に至るまで自決を覚悟しての捜索であった。

大和型戦艦の二番艦・武蔵の船首にはこのような菊の紋章がはめられている

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沖縄-19 韓国人慰霊塔

2015年03月13日 | 太平洋戦争

 平和記念堂の隣にある饅頭型の石塚が韓国人慰霊塔である。沖縄戦史には韓国から強制連行された軍夫に関する記述は少なく公式の沖縄戦戦没者の数字に含まれていない。碑文には、1941年太平洋戦争が勃発すると多くの韓国人が大陸や南洋の各地に配置された。この沖縄戦でも1万の青年が徴兵され犠牲になったという。

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沖縄-18 沖縄師範健児の塔

2015年03月12日 | 太平洋戦争

 摩文仁ヶ丘の近くに沖縄師範健児の塔があり、塔の東側が鉄血勤皇隊最後の地である。1944年春、沖縄守備隊第32軍が創設されると県下の中等学校生は全員飛行場建設や陣地作りに動員された。45年いよいよ敵上陸の情勢になると、彼らは鉄血勤皇隊や通信隊に編成されていった。わずかに15歳から19歳までの兵隊である。なかでも師範学校生は軍司令部の直属となり首里戦線では爆雷を背負って肉弾攻撃に参加するという危険な任務を背負うこととなった。学徒隊には6月18日に解散命令がでていたが、連絡ミスにより摩文仁での最後の総攻撃に参加させられて200名近くが亡くなっている。実は沖縄本島の各地にこのような学徒隊の塔があり、犠牲者は1000名にも及ぶのである。

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昭和天皇の侍従長・鈴木貫太郎

2015年03月11日 | 太平洋戦争

 日本の早期降伏を最大の目的としていたアメリカはバーンズ国務長官の名で天皇の国家統治権が連合国最高司令官の制限の元に置かれ日本国政府の形態は日本国民の自由な意思によって決定されるとする見解を公表した。このいわゆるバーンズ回答が8月11日に日本に通告されるや再び戦争継続派の猛烈な反対を呼ぶこととなる。天皇の地位が国民の自由意志によって決定されるとしたことは、天皇元首制に反するというものであった。連合国側は天皇制の根本的見直しを迫っていたのである。そうした連合国側の姿勢への反発意見が、8月12日に開催された閣僚懇談会でも噴出した。これは最初の聖断を否定することを意味し、米内光政海軍大臣と木戸幸一内大臣は、即刻受理することが日本国家と国民を救う道だと考えていた。日本の条件付受諾通告に対して連合国側は13日、改めて無条件降伏を求めてきた。阿南陸軍大臣を筆頭に陸軍主戦派は最後まで反対を表明し続けた。14日に再び御前会議が開かれ、天皇は「国体については敵も認めていると思う毛頭不安なし」として二回目の聖断が下された。かくして無条件降伏が最終的に決定されることとなる。その後天皇はただちに詔書の作成を命じ、内閣書記官長と漢学者がその作成にあたった。漢学者・川田が草案を起こし、書記官長が第二稿を書き下ろした。これに手を加えたのが陽明学者の安岡正篤である。その内容は「義命の存する所、堪えがたきを堪え、忍び難きを忍び、万世の為に太平を開かんと欲す」である。しかし14日の閣議で、ポツダム宣言受諾反対の急先鋒であった阿南陸軍大臣が細部にわたって修正を求めた。多くの修正が加えられた詔書はその日のうちに録音となり、天皇自ら録音された玉音盤は翌日に完成した。このとき最後まで降伏を認めようとしない終戦阻止の動きは玉音盤奪取未遂事件として現れたが、15日正午無事に放送された。阿南惟幾陸軍大臣は14日未明切腹し、玉音放送を聴くことなく絶命した。

 こうして太平洋戦争を終結させるに至る天皇の聖断に重要な関わりをもった人物はもちろん鈴木貫太郎である。鈴木貫太郎といえば陸軍青年将校によるクーデター2.26事件で標的となった人物でもある。2.26事件では4発の銃弾を受けながらも、妻・たかの止血によってかろうじて死には至らなかった。1936年2月26日未明に起きた2.26事件、陸軍青年将校に率いられた1500人の兵士が首相や政府要人を襲撃、わずか数時間で占拠したあと9人が殺害された。天皇親政を目指し、国家改造をもくろんだ近代史上最大のクーデター事件と云われている。当時鈴木貫太郎は昭和天皇側近の侍従長であった。十数人の兵が鈴木貫太郎の自宅を襲うと、「閣下でありますか」と尋ねると「暇がありませんから撃ちます」。 こうして銃弾4発が打ち込まれ、「とどめだ」 という声に 「それだけはどうか待ってください」という妻・たかに反応した安藤大尉は「とどめは残酷だからよせ、みんな閣下に対して敬礼をしろ」 といった。閣下の考えていることと我々躍進日本を志している若い者との意見の相違ですとして兵はでていった。鈴木貫太郎は元々海軍の出身で日露戦争ではバルチック艦隊と砲火を交え、連合艦隊司令長官、海軍令部長を歴任した。そのなかで揺るがない信念は、軍人は政治に関与しないということであった。ところが昭和4年61歳のとき思いがけなく昭和天皇との縁が、侍従長に推挙という形で現れた。青年将校は鈴木を君側の奸、つまり国家体制破壊の一人として標的とした。昭和天皇はこの暴挙に怒りをあらわにして、反乱軍の断固鎮圧を命じ、2.26事件は4日で終息した。貫太郎も奇跡的に命をとりとめ、この年侍従長を辞することとなった。

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今日は東京大空襲から70年目

2015年03月10日 | 太平洋戦争

 今から丁度70年前の今日、1945年3月10日、東京大空襲によって東京は一夜にして焦土と化した。硫黄島の擂鉢山山頂に米軍の星条旗が掲げられた二週間後である。この星条旗が掲げられた写真はピューリッツァ賞を受賞した歴史に残る一枚となったが、まだ硫黄島が陥落したわけではなかった。日本軍は擂鉢山奪還を目指して総攻撃を行ったのが3月8日であるから、翌日にあたる。米軍が沖縄の慶良間諸島に上陸したのが3月26日であるから、3月9日はその二週間前にあたる。最初の特攻といわれた菊水作戦は4月6日に行われたが、実は海軍により3月21日に桜花特攻が行われていた。つまり3月9日の時点では、沖縄戦はまだ行われていないのである。さて、3月9日-10日であるが、これは東京大空襲によりわずか1日にして10万人の犠牲者がでた日なのである。そのようにしてみると、沖縄戦は米軍による本土空襲を阻止するために沖縄が最後の砦になった戦いであると思っていたのであるが、そうではない。沖縄戦とは関係なく日本本土の空襲は行われていたのである。このときにやってきた爆撃機B-29は330機以上に及ぶ。高度2000mという超低空飛行によって38万発、総重量2000トンの爆弾が投下された。これだけ大量の焼夷弾による絨毯爆撃つまり無差別爆撃は本土にとっても初めてのことであった。実はそれまでに小規模な本土空襲は何度も行われていた。最初の空襲は空母を使っての1942年4月の空襲というから3年も前のことである。その後途絶えてサイパンが陥落した1944年7月に東京が空襲圏内に入ったことでB-29 80機程度による空襲が1945年2月まで続いた。しかし攻撃目標は軍需工場や港湾施設であり、民間人ではなかった。またB-29の高度が8000mからであったために失敗が多かった。東京大空襲では2000mという超低空飛行による空襲であったことから、被害は膨大となり東京は焦土と化したのである。同じく3月に行われた大空襲は13日の大阪(死者4200)、17日の神戸(死者2600)、19日の名古屋(死者2800)である。

 被害が甚大であった大きな理由のひとつに投下された爆弾の特殊性にある。この焼夷弾は米軍が日本本土への絨毯爆撃を効果的に行うために開発したものである。焼夷弾一発の大きさは、直径8cm・全長50cm・重量2.4kg程度で、これら38発の焼夷弾を子弾として内蔵するクラスター爆弾としてB29から投下されると、上空700mでこれらが分離し、一斉に地上へ降り注ぐのである。焼夷剤(発火性の薬剤)は攻撃対象を焼き払うために使用するものであり、日本の家屋が木造であるために使用された。家屋に降り注いだ焼夷剤は一面を火の海にし、人々に火傷を負わせて窒息死させるのだから国際法違反の大量虐殺に他ならない。このようにして大日本帝国が本土防衛と戦争継続のために不可欠と定めていた領土(絶対国防圏)が突破され、重要資源の確保が不可能となったのであるが、時の小磯国昭内閣は本土決戦を呼号した。しかし連合国軍が沖縄本土に上陸して後の4月5日に小磯内閣は総辞職し、天皇に信頼の厚かった鈴木貫太郎海軍大将が内閣を組織したのは、戦艦大和が沈没した4月7日であった。これにより海軍戦争終結派は陸軍の戦争継続派を抑え、戦争終結に向けて工作が開始されることとなる。昭和天皇の侍従であった鈴木貫太郎は1936年の2.26事件の際には陸軍青年将校により4発の銃弾を受けたが奇跡的に回復、そのあとは侍従を退いていたが、太平洋戦争によって再び天皇の信任を得て内閣を組織した。戦争終結に向けて天皇の聖断を仰ぐなど、1945年8月14日未明に責任をとって自害した陸軍大臣の阿南惟幾氏さえも認めていた人物である。

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沖縄-17 摩文仁ヶ丘

2015年03月05日 | 太平洋戦争

 摩文仁の丘には各県の慰霊碑が立ち並び、頂上には黎明の塔がある。戦跡の中心は沖縄県で最初に建立された慰霊碑・魂魄の塔から摩文仁に移っている。黎明の塔は、この地で自決した牛島軍司令官と長参謀長を祀った慰霊碑である。塔の形は切腹を象徴しているといわれ、塔の手前には両将軍の首塚があり、司令部壕はこの足元の崖の中腹に横たわる。1945年6月19日、軍司令官は隷下部隊に最後の命令電文を発して作戦の指揮を打ち切った。そして6月23日米軍が丘の頂上を征服するにいたって軍司令部は解散となり、両将軍は沖縄戦の責任をとって司令部壕の中で割腹自殺したという。ここが沖縄戦のシンボルの地となり自決の日が沖縄県の慰霊の日になっていることはさまざまな意見がある。6月23日が沖縄戦終結の日となっているが、これは適切とは言えないようだ。守備隊の組織的抵抗が終わった日なら6月19日、米軍の勝利宣言の日なら6月21日となるからだそうだ。

 沖縄戦の特徴は軍人よりも一般市民が多く死んだことにある。それを考えれば沖縄戦の中心地は魂魄の塔であり、将軍自決の日を終戦記念日とするのはおかしいとの考えもある。そして摩文仁の丘に立ち並ぶ慰霊碑の多くは英霊顕彰を目的とした美文調で綴られているが、これらが沖縄県民の感情を刺激し碑文問題を引き起こしたこともしばしばあったことを忘れてはならない。

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沖縄-16 轟きの壕

2015年03月04日 | 太平洋戦争

 糸満街道を摩文仁崎に向かう途中に直径50mのすり鉢状の洞口があり、数千人が避難をした壕がある。沖縄戦史に名高い轟の壕は、沖縄県庁の最後の所在地である。沖縄戦が始まって県庁は沖縄後方指導挺身隊に、県警は沖縄県警警備隊に編成され、島田知事の指揮の下戦場行政を続けていた。避難民の誘導、壕生活の指導などで弾雨のなか駆け回っていたのである。軍司令部が摩文仁に移動するに伴って、挺身隊も南へと移動し、6月5日島田知事、荒い警察部長らはこの壕にはいった頃には、米軍の猛攻は激しさを極め、6月9日島田知事は最後まで残っていた警察警備隊に解散を命じて、14日には軍司令部に合流すべく摩文仁に向かったのであるが、消息は途絶え今尚不明であるという。その後洞窟内には各地からの避難民がなだれ込み、直後に十数名の日本兵が洞窟内に敗走してきた。敗残兵たちは避難民を追い出し、銃剣で脅して食料を取り上げると若い女性は使役に駆り出された。6月18日糸満街道から進撃してきた米軍に攻撃を受けるとなすすべくなく捕虜になる覚悟を決めていた。その頃地上では米軍が洞窟全体を爆破する計画を立てていた。投降を呼びかけても応じない日本兵、避難民を生き埋めにして掃討作戦の終了をもくろんだのである。

 このときある日本人が日本兵に見つかれば射殺されるのを覚悟に米軍に対して爆破中止の説得を行った。6月24日牛島中将が摩文仁で自決した翌日、この壕で生活をしていた多くの避難民は這い出し、敗残兵も同じく脱出して捕虜となったことが後でわかったという。

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沖縄-15 最後の激戦地

2015年03月03日 | 太平洋戦争

 最後の激戦地となった喜屋武半島ににある摩文仁村、真壁村、喜屋武村では人口の約40%を失っている。現在の糸満市は当時再建の目途がたたずに三和村という新村を立てた直後は数々の慰霊塔でわかるように付近の洞窟内に散乱した遺骨を集めることで始まった。中でも真壁集落の萬華之塔はもっとも規模が大きく、2万体近くの遺骨が納められている。沖縄を占領した米軍は最初慰霊塔の建設を好まなかったのは軍国主義の復活を恐れたからである。喜屋武半島のほぼ中央に位置する真壁集落は、周囲を米軍戦車に包囲されて逃げ場がなくなった。洞窟は軍民雑居の状態となり、その様子は悲惨を極めた。元気な兵隊は奥の安全な場所を占め、老人子供は追いやられ、泣く子供は米軍による発見を恐れて殺された。追い出された住民は砲弾にさらされて倒れ、これらの遺骨が無縁仏となって萬華之塔に眠っているのである。ところが後になって、隣に砲兵山吹之塔が建てられた。野戦重砲第一連隊の残存部隊がこの洞窟を最後に陣地としたことで、戦友会が建立したものである。石碑には忠霊と題する明治天皇の和歌が刻まれて連隊の戦歴が讃えられている。しかしこれは千人壕の現実とはあまりにもかけ離れている。また「八紘一宇」というアジア侵略の理念を示した合言葉を掲げた石碑が建てられるなど、犠牲者の霊を侮辱した、沖縄県民感情を踏みにじったものが物議をかもした。

 この記載は「観光コースではない沖縄」という本から抜粋している。もうすぐ沖縄に旅行に行こうと思っているが、単に観光をするのではなく、沖縄戦跡を巡り、本だけでは感じることができない何かを感じることが目的である。そのために少しでも沖縄戦の実態を知っておこうとして色々と記載している。1日でも本土決戦を引き伸ばそうとして行われた肉弾戦が沖縄戦であるが、実はこのときすでにB29による日本本土への空襲、絨毯爆撃は開始されていた。アメリカが標的にした160に及ぶ都市のうち約半数が焦土と化した。この現実を見れば、もはや沖縄戦、本土決戦を先延ばしにするための肉弾戦の意義はなくなっている。もしも一ヶ月早く沖縄戦を終結していたら犠牲者はこんなに多くはなかった。大本営の判断の過ちが沖縄県民に多大な犠牲を強いたことはいうまでもない。

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沖縄-14 真栄平集落の悲劇

2015年03月02日 | 太平洋戦争

 南部戦線の日本軍主力部隊は山部隊という第24師団であった。糸満市真栄平の南側にある山雨の塔の地下洞窟に師団本部を置き戦った。真栄平集落の東側にあるアパタガマという洞窟は集落住民の避難壕としてつかわれていたが、首里から撤退してきた部隊によって住民は追い出され山部隊第89連隊の本部になったのである。避難壕を失った住民は半壊した集落で生活をおくることとなるが、艦砲、機関弾をしのぎながらの生活である。艦砲弾によってえぐられた穴には水が溜まり死体がころがり、蛆がわく。そんな生活が3週間ほど経った6月17日、米軍は八重瀬岳、与座岳に猛攻をかけて日本軍の防衛線を突破し、19日夜からは真栄平と師団本部をめがけて集中砲火をあびせかけてきた。20日には日本部隊は崩壊し、逃げ場を失った兵隊たちは真栄平集落になだれこみ、防空壕に隠れていた住民に日本刀を振り上げ、手榴弾を投げ込み、避難民を追い出したという。こうして数十人が虐殺された。壕から追い出された人々は鉄の暴風の中砲弾の餌食になり、61%の住民が犠牲になった。戦後真栄平の住民は付近に散乱する遺骨を集めてアパタガマ付近に遺骨堂を建てた。これが現在の南北の塔で、遺骨数は4500柱にのぼるという。

 真栄平集落の近くにあるクラガーという地下洞窟は、師団本部の戦闘指揮所になった。師団長の雨宮中将は、摩文仁の軍司令部が崩壊した後もこの洞窟壕で指揮にあたり6月30日ついに軍旗を焼いて自決した。しかし一部の将兵は師団長の自決後も敗残兵となって各所の洞窟にこもり、付近の住民から恐れられていたという。クラガー壕の上には山部隊と雨宮中将の名をとって山雨の塔が建てられている。

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沖縄-13 小禄壕で自決した大田少将

2015年03月01日 | 太平洋戦争

 豊見城村にある海軍壕、いわゆる小禄海軍壕には陣地壕と資料室と海軍戦没者慰霊之塔がある。壕内の説明は、この壕で自決した司令官・大田実海軍少尉の遺徳を賛美一色である。かつて壕内には「海ゆかば」の曲が流されていた。今ここは旧海軍関係者にとってのメッカであり、沖縄観光の主力となっている。この壕から発信された一通の電文が現在も尚多くの人々をひきつけるという。南部戦線の戦闘が始まった1945年6月上旬、小禄海軍飛行場の守備にあたっていた海軍部隊にも軍司令部から摩文仁方面へ集結せよとの命令が下ろされた。しかし大田実司令官はこれを無視してこの地下陣地に留まっていた。6月4日、米第六海兵師団は水陸両用戦車100台、兵員600名をもって那覇港の南岸に上陸し、6月6日には本部壕に狙いをさだめた。もはや最後のときが来たと判断した大田司令官は、東京の海軍次官宛に異例の電文を発信したのである。それは単なる戦況報告ではなく、戦闘に巻き込まれた沖縄県民の状況を克明に記すものであった。県民の献身的な作戦協力の模様をるる述べているのである。「・・・県民は青年壮年のすべてを防衛召集にささげ、残る老幼婦女子のみが相続く砲爆撃に家屋と財産のすべてを焼却せられ、僅かに身をもって軍の作戦に差し支えなき場所の小防空壕に避難、なお砲爆下にさまよい風雨にさらされつつ乏しき生活に甘んじしありたり。しかも若き婦人は率先陣に身をささげ、看護婦、炊飯婦はもとより、砲弾運び、挺身隊、斬り込み隊すら申し出る者あり・・・」 軍の報告でこれほど生々しく一般住民の行動を描いたものは他に例がない。そして電文は次の言葉で結ばれている。「沖縄県民かく戦えり。県民に対して後世特別のご高配を賜らんことを」 戦後米軍の占領下にさらされてきた沖縄県民が、大田少将を沖縄県民に理解のある温情あふれた軍人として例外的に評価したことはいうまでもない。こうしたことから海軍壕は海軍戦友会の霊地となったのである。

 この電文がどうなったかを知る人は少ない。電文の全文は6月15日本土の新聞に紹介されたのであるが、次の解説がついていた。「今日まで沖縄県民は米軍上陸とともに敵の軍門にくだり、その行動は皇軍に対して非協力的な態度をとったとの説を耳にした。しかしこれらは大田司令官の報告により根拠なき浮説であったことが明らかにされ・・・、本土もまた決戦場となった今日、民一億は戦う沖縄の同胞を鏡として・・・・」。当時沖縄県民は総スパイの噂が流れていた。そして沖縄人がスパイを働いたせいで守備軍は負けた、という情報すら陸軍筋を通じて台湾、朝鮮にまで伝わっていたのである。将軍達の責任転嫁はこのようなものなのである。恐らく大田司令官は、このような状況を知っていて、沈黙するに忍びなく沖縄県民の名誉回復のために異例の電文を送ったのである。大田司令官が率いる沖縄海軍根拠地隊役1万人のうち正規海軍軍人は1割、残りは現地召集である。しかも次々と第32軍の陸軍に兵力を裂かれたために、およそ10日の戦闘で全滅、司令官自身も海軍壕の中で自決にいたった。大田司令官を含む海軍は沖縄持久玉砕戦には批判的であり、大田司令官が摩文仁への集結命令を無視したのはこうした理由がある。一般住民を巻き込んでまで戦争を続けなければならないことへの不満がこの電文にもあるのである。

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