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平安時代中心の歴史紹介とポートレイト

古代史から現代史に至る迄(日本史/世界史)の歴史散策紹介とポートレイト

沖縄-うるま-2 シネリキヨの住居

2015年05月17日 | 太平洋戦争

 女神アマミキヨの場合は墓であったが、ここは墓ではなく神聖なる住居である。住居と説明板には記載があるが、日本書紀に関係する神の場合なら宮と表現する。この差は何だろう。そして古来より霊力を持つ巫女が拝んでいたパワースポットなのである。アマミキヨとシマミキヨは琉球神道、つまり琉球固有の宗教を語る上で必ず登場する神である。この宗教を御嶽信仰とも称され、霊力を持つ女神官「ノロ」、呪術者「ユタ」とともに、今後当ブログに何度か登場させる予定である。特に各地にある城の中には必ずといっていいほど御嶽(ウタキ)と呼ばれる聖林があり、そこには神が住み絶対的守護の役割を担っていたようで、偶像崇拝をしない琉球の特徴でもあるという。

奥にはいかにもパワースポットと称される鍾乳洞がある

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沖縄-うるま-1 アマミキヨ(阿摩美久)の墓

2015年05月16日 | 太平洋戦争

 今回は琉球の島作りを行った神に出会うためにうるまの浜比嘉島へ。その神とは女神・アマミキヨと男神・シネリキヨである。記紀に出てくる伊邪那岐命・伊邪那美命に相当すると考えるとわかりやすい。当日の午前中は同行者がダイビングをする恩納村に行き、そこからうりま市に入ると延々と続く浅瀬に建設された海中道路を通って平安座島を経由して浜比嘉島へ到着。ゴルファー・比嘉真美子さんの出身地はこのあたりかな、と思いつつ間もなくアマミキヨの墓に到着。現地ではアマミチューというのです。

 沖縄の開闢神話は、歴史書としては中山世鑑、琉球神道記などに残されているという。アマミキヨ、シネリキヨの男女二体の神によって島が作られ、七御嶽を作り、そこに彼らの子孫としての人間が増えていったというもの。記紀にある日本神話と良く似ているが、久高島、古宇利島、この浜比嘉島などには少しだけ違った形の話として伝わっているという。ここで中山世鑑について解説する。これは琉球の最初の史書で、中山とは琉球の別称らしい。成立は1650年、国王命により向象賢が編纂を手がけたもので、尚清王代の1555年までの記述を含むが,歴史上重要な位置を占める尚真王の治世が完全に欠落しているという。720年に編纂され、伊邪那岐命・伊邪那美命の国づくりから邇邇芸命の降臨を含み、紀元前660年の初代神武天皇以降に至るまで30巻詳述されている日本書紀と比べると、極めて不備が多いようである。ここで気になるのはアマミキヨとシネリキヨの先祖・子孫についてであるが、追って補足したい。

アマミキヨの墓がある小島・アマゾンは海水により侵食されていて浅瀬に浮いているよう

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沖縄-読谷-7 電信屋の碑

2015年05月15日 | 太平洋戦争

 ここは渡具知集落の比謝川河口を見下ろす道路脇にある「沖縄海底電信陸場所」を記念する石碑のあるところ。崖下には特攻艇秘匿壕がある。碑に刻まれている説明は次。 「明治29年(1896)、鹿児島・沖縄間に海底電信が敷設された。ここ読谷村渡具知の浜に陸揚げされ、那覇とは架空電信線で結ばれた。これが、沖縄における電信線のはじまりである。日本の電信創設より27年遅れて、沖縄と県外と直接に電報を送受することができ、孤島苦を抱える沖縄に新しい文化をもたらした。更に、明治30年には石垣経由の台湾線、明治38年には南洋ヤップ島の海底電信がこの浜に陸揚げされ、海外通信にも大きく貢献した。以来、島内の通信線も整備されたが、残念ながら、去る第二次世界大戦で、これらの海底電信施設は、破壊された(後略)」

 明治29年敷設の2年前、日清戦争が起こり、国土防衛上沖縄と本土を結ぶ電信の必要性が大きく浮かび上がった。翌28年、日清戦争が日本の勝利に終わり、台湾が清国から割譲されると、すかさず明治30年には台湾線が敷設されている。そのような軍事用海底電信でしたが、県民の願いもあって後には軍事通信のかたわら、公衆通信でも利用できるようになった。無線電信が敵方に傍受される危険性に反して、このような有線通信はそうした心配はなかったという。(以上、読谷村HPより抜粋)

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沖縄-糸満-5 摩文仁の丘

2015年05月14日 | 太平洋戦争

 ここ摩文仁の丘は「沖縄戦終焉の地」ということになっている。牛島満陸軍中将を司令官とし、最大約10万人の将兵で組織された沖縄守備隊の第32軍は、首里の司令部陥落後の1945年5月27日、南風原町津嘉山へ移動し、5月30日にはここ摩文仁の壕へと後退する。この時既に敗戦は濃厚となり、軍司令部が最後の砦としてこの自然壕を司令部としたのである。背後には崖がそびえ、逃げ場所を失った日本軍は、6月23日に司令官牛島満中将が他の司令部将校とともに自決したことにより組織的抵抗は終わった。しかし、アメリカ軍からの攻撃はやまず、事実上の戦いはそれからも続いた。いったいどういうことなのかというと、牛島中将は自決の直前6月18日に決別の電文を送信した後、「各部隊は各地における生存者中の上級者これを指揮し,最後まで敢闘し,悠久の大儀に生くべし」と命令を出している。そして自分は23日未明,長勇参謀長と共に,摩文仁岳中腹の司令部壕内で自決をしたのである。この最後は海軍の大田実中将とは大きく差がある。この差については明らかに陸軍と海軍の差として現れているように考える。いずれにしても沖縄県民の名誉回復の電文を打って自決した大田実海軍中将が英雄として讃えられている一方で、沖縄県民にさらなる犠牲を強いた牛島中将は県民の批判にさらされたのは致し方ないことである。尚、この壕の上には、第32軍司令部慰霊碑「勇魂の碑」が建てられているが、碑の場所は、牛島司令官及び長参謀長の墓跡である。

第32軍司令部終焉の地

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日本陸軍・参謀本部作戦課長・稲田正純大佐

2015年05月13日 | 太平洋戦争

 昭和10年代の日本陸軍・参謀本部はまさしく国策決定の中枢であった。参謀本部跡地には元帥・有栖川宮熾仁親王の銅像が陸軍の威厳を象徴するかのように建っていたが、現在では平和の群像に変わっている。参謀本部とは大元帥(天皇)のもつ統帥大権を補佐する官職である。主要任務は毎年の国防および用兵の計画を策定することであり、参謀の職にある陸軍将校の統轄と教育である。1937年7月の日中戦争勃発以来11月には宮中にも大本営が設置され日本は戦時国家となった。参謀本部の主要任務は大本営陸軍部として海軍部と協力して、統帥権独立の名の下に中国大陸での戦争に勝つことにある。そのために議会の承認をへずに国税を湯水のごとく臨時軍事費として使うことが許された。昭和12年南京、翌年徐州、漢口、広東と次々と攻略し、日本軍は中国の奥へと進撃した。三宅坂上の参謀本部は常に頼もしく戦略戦術の総本山として民衆から眺められていた。重要な任にあたる参謀達がいずれも陸軍大学校出の秀才であることは変わりない。海軍もそうであるが、陸軍は秀才信仰というのがあった。日露戦争の国難を勝利に変えたのは陸大出の秀才のおかげであると組織をあげて信じたのである。特に参謀本部第一部第二課にはエリート中のエリートが終結した。花形は誰が何と言おうと作戦と戦争指導を掌握する第二課であり、そこは聖域であった。全ての根本の作戦は第二課で立案され、天皇の勅許を得て大元帥命令として発進された。

 1939年3月の人事で第二課はいつの時代とは遜色ないくらいの面々が布陣した。陸大恩賜の軍刀の作戦課長・稲田正純大佐を筆頭に、12名中3名が軍刀組である。堀場一雄中佐、荒尾興功少佐、島村矩康少佐、そして第一部長橋本群中将も陸大恩賜である。他の参謀は秩父宮雍仁親王、有末次、谷川一男、櫛田正夫、武居清太郎、井本熊男である。彼らは長い伝統にもとづき一丸となった集団意識を至高と考え、閉鎖集団をいつしか形成し、外からの批判派全て無視した。外からのものを純粋性を乱すという理由で徹底的に排除した。つまりこの組織は近代主義とは無縁で、唯我独尊主義そのものなのである。我が決定こそが正道として邁進した。さて、そんな参謀本部の面々が戦後責任を取ることは一切なかった。作戦課長・稲田正純は、司馬遼太郎がノモンハン事件での取材において、あきれるほどの無責任な男と評価している。戦後40年間も軍人恩給を受け取り1986年89歳で没っしているのである。堀場一雄は1953年病没52歳、荒尾興功は1974年72歳で没。橋本群は1908年生まれで55歳で没。彼らの杜撰な作戦によってどれだけの戦死者が出たかについてはさんざん当ブログで紹介した。それらの杜撰な作戦は今だからこそ言えるというものではなく、当時から無謀・無計画と非難されながら実行に移されていることも多い。そんな作戦が何故実行されたのかは、前述したように彼らの決定こそ正道、唯我独尊主義そのものとしか言いようが無い。それだけに、エリート中のエリートでありながら作戦失敗に基づく戦後処理をすることなく、無責任な余生を送ったことが誠に残念であり、許せないのである。

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沖縄-読谷-6 読谷補助飛行場跡

2015年05月12日 | 太平洋戦争

 ここは読谷の義烈空挺隊玉砕の地碑を探すときの基準位置でした。当時は読谷飛行場ではなく北飛行場と呼ばれて日本陸軍の主要滑走路として整備されていたが、米軍の上陸間もなく占領(4/1午前中)され、ここから爆撃機B24などが日本本土に向けて飛び立っている。これを阻止するために玉砕したのが義烈空挺隊であり、まさにこの飛行場が玉砕の地なのである。隊長は奥山道郎大佐26歳。辞世の句は「吾か頭南海の島に 瞭さるも 我は微笑む 國に貢せば」 ここは、読谷村のほぼ中央に位置し、施設の東側には幅42m、長さ2,000mの滑走路と1,500mのエプロンがあるが、老朽化している。海兵隊管理の下に陸軍特殊部隊、海兵隊、空軍によるパラシュート降下訓練等が行われていたが、該当区域にフェンスなどの設置はなく、出入りは自由である。1995年のSACA合意により返還が決定し、金武町キャンプハンセンへの同施設移転後の2006年12月に全面返還され、今では飛行場の一部が学校の運動場などに利用されているが、飛行場全景の保存はできなかったものかと思う次第です。以下に「読谷村史編集室」のHPにて紹介されている飛行場に関する記載を示す。

 北飛行場(読谷山飛行場)建設は、太平洋戦争の戦局でアメリカ軍を主とする連合軍が日本軍に反撃し始めた1943年(昭和18)夏、日本陸軍航空本部によって計画され実施に移されました。実際の建設業務は、日本陸軍航空本部と國場組の契約により、國場組が球9173部隊の指揮・監督の下で進められました。当時、設営工事管理責任者の地位にあった國場幸吉の話では、おおよそ次のとおりとなっています。「読谷山飛行場の工事予算は2千3百万円でした。予算規模だけから言っても、沖縄では歴史上かつてない桁外(けたはず)れで、面積も東洋一といわれ、73万坪で、2千メートルの滑走路が東西と南北に2線が敷設され、飛行場の周辺には戦闘機の誘導路がはりめぐらされ、その誘導路は地下掘り込みのコンクリート格納庫に通じていました」(『読谷村誌』より引用、ただし文体は口語文に書き直した)。國場幸吉の話では「掩体壕(えんたいごう)」という言葉はなくて「コンクリート格納庫」となっています。コンクリート造りの格納庫なら、「掩体壕」に他なりません。それに類するような他の構造物はないからです。國場幸吉は「コンクリート格納庫」は地下掘り込みと言っていますが、「掩体壕」は掘り込み施設ではありません。地上に造られた分厚いコンクリート造りで、入口はカマボコの切り口みたいに口を開いていますが、奥のほうに徐々にしぼりこまれた構造になっています。構築工事に参加した人の話によりますと、当時は仮枠などはなく、まず空きドラム缶を積み、土をかぶせて形を整え、その上に紙を敷いてコンクリートを流したということです。もちろん鉄筋なども使用されなかったということです。そのような構造ですから、風化が激しく、今後どのように保存していくかが課題です。1978年頃に作成された資料では7基あると記されていますが、2003年1月末現在3基が現存しています。

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沖縄-糸満-4 ひめゆり学徒隊散華の跡

2015年05月11日 | 太平洋戦争

 ひめゆり学徒隊散華の跡は糸満市束里475番地にある・・・として探したが見つからなかったのは珍しいことではない。しかし魂魄の塔というのがあった。ここは沖縄本島最南端の荒崎という岬から東に5kmの摩文仁崎までの間の海岸は沖縄戦最後の地獄となった場所である。首里、那覇から逃げてきた避難民や敗残兵がひしめき、陸上からは火炎戦車隊が迫り、頭上からは戦闘機によるナパーム投下が行われた。絶望のあまり軍から支給された手榴弾で自爆する光景が広がったのである。このとき米軍は投降を呼びかけ、命を助けるビラを持っていけば安全は保障され食事も医薬品も与えられたのであるが、投降すれば後ろから友軍兵によって射殺されるというのが現実であったという。6月18日、伊原の陸軍病院壕で解散命令を受け、壕から脱出したひめゆり隊の学徒達はこの海岸に追い詰められた。引率教員は手榴弾を使って集団自爆を図り8名が死亡、さらに米軍の機銃掃射により3名が死亡し3名が重症を負った。ひめゆり学徒散華の地という記念碑には教頭以下16名の教師・生徒の名が刻まれている。

 ひめゆり学徒隊の一員であった本村つるさん(1925年生まれ ひめゆり平和祈念資料館館長) は山城陸軍病院壕にて撤退命令が出たときに沖縄陸軍病院第三外科地下壕ではなく、やや被害が少なかった第一外科地下壕に移ったことで生き残ったという。以下は解散命令が出されたときの状況を本村つるさんが語ったもの。 

 「出て行ったらですね、19日の。18日に解散命令が出て、19日の夜中にみなさんそれぞれ出て行って、私が出たのは5時ぐらいに出たんですよ。白々と夜が明けていて。それで山城の方に行く人と、それからあちこち。先生がおっしゃるには、国頭の方に向かってという話はあったんですよ。危険はあれして、国頭の方ではまだ静かだから、そこに行くように。だから私たちはみんな「国頭突破、国頭突破」ということで向かったんですけど。山城の丘に登る人、あちこち、海岸に下りる人があったんです。私たちは、戦争終わっていますのでね、東側に行ったんですね。今の大度海岸の方向に向かって行ってるんです。それで私が出たときにはもう飛行機が飛んでいました。だから飛行機がもう弾を落とす、りゅう散弾と言って、途中ではじけるのがあるんですよ。それも飛んでるし。もうとにかく「あの木の陰に行こう」って言って、畑を突っ切って行きましたのでね。桑か何かの木があったんですよ。その木のところにみんな行ったら、そこでまた至近弾が落ちて、土煙を浴びて、何も弾じゃなかったから良かったんですけど。しばらくしたら今度は、迫撃砲がですね、ポンポンポンポン、とこちらに向かって落ちてくるのが見えるんです。「ああ、もうここは危ない」とすぐに「走ろう」って言って走って荒崎海岸の近くにモクマオウ林がいっぱいあって、そこにみんな走って行ったんですよ。そこは木が生えていて上からは見えないけど、下は何も壕があるわけじゃないんですね。だけどそこに兵隊がいたし、それから民間の人がですね、何名かそこにいて。私たちはそこに走って行ったら、たまたま土くれがここに当たったもんですから、とても痛かったんですね。それでその民間の人がちょっと砂を掘って、ちょっと溝みたいなの作って、そこに入ってる人がいたから、「入れてください」と私そこに飛び込んだんですよ。他の人たちはみんな、それぞれに散らばってなにしたんですね。そのとき津波古さんも一緒ですけど。津波古さんたちは何かソテツの下にいたとか。アダンの下にいたとか言ったんですけど。もうそうなったらどこに誰がいるか分からないんですけどね。そこで大舛さんがやられたんですよ。その丘の上で。そのときにですね、非常に敵のあれが近づいていたと思うのは、戦車の音が聞こえたんですよ、ゴロゴロゴロして。そしたら民間の人がですね、棒に白いハンカチをあれして走って行く人がいたんで、「あ、あの人は捕虜になりたいんで行くんだね」とそれを見ていたんですよ。その見てるときに弾が落ちたんですよ。私はそれを見ていました。そして大舛さんがこの、ここの背中の方をやられてですね、もう足が伸びきってもう全然動かせないんですね。もう大変でしたね。だから大舛さんを置いていっちゃったんですよ。これはとっても私も人に話するの苦しいんですけどね、置いて行っちゃった。「後で迎えに来るからね」と言って、みんなで下りたんですよ。そこにもうその兵隊は来るのは分かっていましたのでね。今ここあれだから、後で迎えに来るから「しばらく」と言って出てったんですけどね。結局は下りて行って、そして民間の人がいっぱいどこかに行くんですよ。そのうちに一緒に行こうとしたら、「捕虜になるからだめだ」と言って、また慶座(ギーザ)バンタの近くのね、海岸をずっと歩いて。そこの近くの丘の上に登っていたんですけど。ここがもう兵隊が急造爆雷を持ってですね、斬り込みに行くと言ってあれして、「ここは危ない」って言ってまた海岸に下りて。海岸からずっと歩いて、あそこには水が流れるところがあったんですよ、真水が。そこで水をくんでちょっと行ったところにしばらくいたんです。そこにまた弾が落ちたんだから、上にあがって、結局私が捕まったのは、慶座バンタだったと思うんですけども。その海岸をですね、歩くのに弾が来るもんですから、「海に入ろう」と海に入ったんですよ、みんな。それぞれ手を引いて。西平先生は下級生の人、潮平さん(昭和高女の生徒)の手を引いたみたいですね。私と石塚さん、それからそういうふうにして、みんな2人ずつ手を組んだ。それで私は泳げないもんですからね、もう海に入ったら私はもう死ぬかもしらんと。波がですね、すごいんですよあそこの波。それで来たらばっと流されそうで、もう怖かったんですけど。珊瑚礁ですから、うんと低くなってね、また上がったり、中は大変なんですね。それでうんと浸かったり、また上がったりしていたら、また今度はまた海に弾が落ちてきたんですよ。兵隊がいっぱいいました、その日本兵が、下りてきた兵隊がね。それでそこに弾がどんどん来るもんですから、もうそこからまた断念して、海から上がる。断念して海岸、岩のこうなったところずっと歩いて行って、やっと、やっと上にあがったんですけど。とにかく先生が「こうした方がいい、ああした方がいい」と言って付いて行ってるから生きているもんであって。どうしていいか分からない。私はだから、先生と一緒だった人は大体みんないいんですよ。仲宗根先生と一緒だった人も、与那嶺先生と一緒だった人も、みなさんそのまま助かっていますので。結局は、生徒だけで行った人はどうしたらいいか分からなくて、犠牲がたくさん出たんじゃないかと私は思うんですけうんですけどね。もう解散命令になってから、100名近くは亡くなっていますから。それまではそんなに、まあ20何名かぐらいだったと思うんですよ。だからあの解散命令の後のあれがね。何か先生方は、何名かずつを連れて行こうという案も出たようですね。だけど先生の中には、もしこの連れて行って、自分が先に死んだらどうするかという話もあったようですね。それはもう先生方の話で、よく分からないんですけど。そういう話もあったと、ちょっと聞いてるんですけどね。」

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沖縄-糸満-3 ひめゆりの塔と陸軍病院第三外科職員之碑

2015年05月10日 | 太平洋戦争

 ひめゆりの塔はあまりにも知られた慰霊碑であるが、私的には沖縄陸軍病院第三外科地下壕跡という名称のほうが沖縄戦跡にはふさわしいと思っている。沖縄陸軍病院第三外科地下壕に学徒隊として従軍していた沖縄県立第一高等女学校の「乙姫」と沖縄師範学校女子部「白百合」を合わせてひめゆりと名づけられた。地下壕巡りが今回の旅のテーマであっただけに、その歴史の悲惨さを思うと感慨深い。1945年3月24日米軍が上陸する一週間前、「乙姫」と「白百合」女子生徒及び職員総計240名(生徒222名)は、南風原にある沖縄陸軍病院に看護要員として従軍した。しかしその後激しい戦闘により日本軍の防衛戦が前田高地附近に撤退、5月25日には負傷兵・学徒を置き去りにして陸軍病院山城本部壕に撤退した(山城壕についてはすでに紹介済)。戦局が絶望的になった6月18日、学徒隊は解散を命じられるが、それは死を意味したともいえる。最も被害を受けたのは第三外科壕の学徒隊で、翌日手榴弾攻撃を受けて壕中の96名のうち87名が死亡、さらに生存者8名のうち3名は壕脱出後に銃撃され死亡した。実は、ひめゆり学徒隊だけではなく県立首里高等女学校のずゐせん学徒隊などそれぞれ所属校にちなんだ名称がついた学徒隊などもほぼ同様の運命をたどって非業の死を遂げていることも忘れてはいけない。

 また、陸軍病院山城本部壕から脱出したひめゆり隊の学徒達は沖縄陸軍病院第三外科地下壕ではなく、沖縄本島最南端の荒崎という岬にたどり着いたが絶望のあまり軍から支給された手榴弾で自爆する。この慰霊塔については追って紹介したい。

ひめゆり学徒隊だけではなく、陸軍病院第三外科職員にも慰霊

 ひめゆり学徒隊の一員であった本村つるさん(1925年生まれ ひめゆり平和祈念資料館館長) は山城陸軍病院壕にて撤退命令が出たときに沖縄陸軍病院第三外科地下壕ではなく、やや被害が少なかった第一外科地下壕に移ったことで生き残ったという。以下は解散命令が出されたときの状況を本村つるさんが語ったもの。

 「西平先生はですね、「軍から解散命令が出た」と。そのわけは、「もうそこにアメリカの兵隊が来てる」と。「それでこの壕にみんな一緒にいると壕にもう弾が一発入れられたら、みんな全滅するんだ」と。「だからこの夜でね、今日の夜でこの壕からは脱出しなければいけない」と。「だけどみんなで一緒に脱出すると目立つから、グループを作って出なさい」とおっしゃったんですよ。「それには、上級生は下級生を連れて出なさい」と。「だいたい4、5名ずつのグループ。そのグループの中には、北部、中部、南部といって、その各部の人が入るようなグループを作りなさい」と。「ここから出るときには南部の人が道を知ってるだろう」と。「中部に行ったら中部、北部に行ったら北部の人が道知ってるから、そういうようなグループ作りをして、出て行きなさい」と。なるべく、何て言うんですかね、危険でないところを探して行きなさい」、とおっしゃったんですよ。ですから先生は、「自分は東の方へ行きたい」と。だけど、「僕はそう思うけども、だけど今はどこにどうしているか、どこが正しいっていうことは自分には言えない」と。「言えないけれども、一応みんなで相談してなるべく危険でないところを探して行きなさい」という話をしておられました。そして地図をですね、上級生を集めて、ここに行ったらこうなる、こうなる、という地図を見せて話をしておられたんですけど。「それはどこへ行っても、どこが安全でどこが危険ていうことは、もう僕には言えない」という話をしておられて。「相談して出なさい」と。その時に、ひとりでも生き残って、何て言うんですかね、「自分たちがいわゆるひめゆりの学徒隊は、こういうことをしたんだ、ということを伝えるようにしなさい」と。「もしそのグループの中でひとりでもケガしたら、戦だから仕方がない」と。「ケガしたらもう置いてけ」と。「その人ひとりをあれするために、みんながまた犠牲になってもいかんから、これはもう戦争だから仕方がない、置いて行け」と言って、先生おっしゃってました。「だからみんなよく危険でないところを探して出て行きなさい」と。

 私はですね、もうそこに、何て言うんですか、その兵隊が来ているのは、斥候を見たという人も聞きましたのでね、「ああ、本当にそこまで来てるんだな」と。やっぱり出ないといけないんだなと。これはもう出て行ったら死ぬかもしらん。もう死ぬ覚悟をして出て行ったんですけどね。いったん出たらもう私は死ぬかもしらん。とにかくもう、出なさいとうか、出ないといけないと。それで本部の人たちは、私たちは上級生ですから、私と石塚さん、本科2年生は2人いましたから、「どうする?」と。で石塚さんも那覇の人なんですよ、私も那覇だし。その辺何も分からないんです。それからあとひとり比嘉さんが北部の人で、与那嶺さんも北部の人で、あと予科の1年、大舛さんは八重山だし。それから1年生も八重山で、その辺のこと何も分からないから、「どうする。この壕で残って、もうそこに残っておこうか」と、最終的にはそんな話をしたんですよ。だけど先生は「早く出て行け、出て行け」するし、「もうすぐかね」と言って、みんなでそれぞれあるんですね。私の友達に新垣キヨさんっていう人がいるんです。この人は首里の人でね、女学校から師範一緒だったものですから、「私も家帰ろうか」というぐらいしていたんですけど。あの人第一外科に行って、私は本部壕に行って、それから全然会わなかったんですよ。だけれども先生が「出て行きなさい、出て行きなさい」って、みんな出たくないけども、この新垣さんがね、「先生、出て行きます」と言って、何名か連れて出て行ったんですよ。外はもう弾は来るし、弾の閃光と言うんですかね、それが壕の入口にビーン、ビーンって入って来るんですよ。だから本当に出て行くのが怖いんですけど、もう夜が明けると、出なければいけないといったときに、その新垣さんがですね、大変大人しい人なんですけど、「先生、出て行きます」と言ったから、この人が出て行ったからですね、みんなそれぞれにつられて、みんな出て行ったんですよ。で私たちグループはもう出きれない、「もうもうここでいよう」と言っていたんですけど、最後に出たんです私たちは。そのときに先生と、岸本先生と西平先生とね、それから岸本先生の弟(妹)の津波古(ヒサ)さん、津波古さん本当は第二外科だったんですけど。お兄さんのとこに来ていて、私たちと一緒になったんですけど。最後にいて、私も「私たちも連れてってください」と言って先生を追って行ったんですよ。だから「先生」と追って行ったから生き残ってると思います。多分途中で死んでいたかもしれません。でも手りゅう弾なんか持っていませんので。死ぬと言ってもね、なかなか死なないんですけど。手りゅう弾持ってなかったですよ。 」

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沖縄-北谷-1 海上特攻艇秘匿壕と若き隊員1600名

2015年05月09日 | 太平洋戦争

 以前糸満・真栄里にある特攻艇秘匿壕を紹介した。ここでは北谷町にある海上特攻艇秘匿壕まで行こうとしたが、結果は撃沈。見つけることはできずです。秘匿壕があるのは、北谷町吉原990番地付近・・・北谷町の白比川沿い、北谷城の対岸に旧陸軍の海上特攻隊の特攻艇マルレの秘匿壕が残っているというところまで調べたが残念。再度マルレ(〇の中にレ)について、正式名称は「連絡艇」といい陸軍の作った合板製のモーターボートで、全長5.6m、速力25 ノットで、250kg爆雷を1基か、または120kg爆雷を2基を搭載し、目標に体当たりするという特攻艇である。

 

北谷町吉原990番地付近・・・北谷町の白比川沿い、北谷城の対岸・・を手がかりに行ったのはここ。川沿いのどこかにあるのだが。。。

 

 目的達せず消化不良につき、日本陸海軍が行った海上特攻について補足説明です。海上特攻隊が編成された理由は、戦況の悪化にある。本来であれば敗戦の決断がなされるはずの1944年、最後の切り札として考えられたのが海上特攻である。1944年、米軍がマリアナ諸島・ニューギニア西部に進出したため、フィリピン目前となり沖縄侵攻も予測範囲内となり戦局は益々悪化。すでに航空戦力の消耗は激しく、敵の進撃を阻止するには敵船団を上陸する前に撃破する以外に方法は無かったのである。かくして1944年7月に陸軍海上挺進戦隊が結成されて訓練が開始された。

  結成された陸軍海上挺進戦隊の隊長には陸軍士官学校51期・52期・53期・54期の若い少佐と大尉(当時22歳~25歳)があたり、中隊長には陸軍士官学校57期を主体とした中尉・少尉(僅かに21歳頃)がその任に就いた。従って小隊長や一般隊員は船舶特別幹部候補生の当時16才~18才の少年兵が主として充当されたのである。こうして選ばれた16才から25才の若き精鋭たちは1944年10月、おのおの最後の決戦地へと配備されたのである。これら陸軍海上挺進戦隊は国軍の大きな期待を担っていたにもかかわらず、無防備な特攻艇を操り、生還を期すことはできない。こうした条件下で、敵船艇を撃沈すること数十隻という戦果を上げたにもかかわらず隠密部隊であっただけに世に発表されることはなかった。青春のすべてを秘匿特攻攻にささげた隊員は1600名以上の多きに及んだことは決して忘れてはいけない。

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沖縄-読谷-5 特攻艇秘匿洞窟群

2015年05月08日 | 太平洋戦争

 ここは読谷村にある海上特攻艇の秘匿豪。米軍上陸の地碑がある海岸沿いの崖上から比謝川河口を臨むと見ることができます。ここ渡具知ビーチの東にある渡具知基地には6カ所の壕が確認されているらしいのですが、壕入口が6箇所なのか、大規模な秘匿壕そのものが6箇所なのかよくわかりません。基地から壕出口までは数十mのトンネル壕があるということなので、壕トンネルが6箇所なのでしょう。

海岸線には洞窟が点在している。これは侵食によるものであるが、特攻艇を秘匿するには好都合であったに違いない

特攻艇マルレ (鳥飼行博研究室HPより)

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沖縄-読谷-4 集団自決が行われたチビチリガマ

2015年05月07日 | 太平洋戦争

 先に紹介したシムクガマとは対照的に、ここチビチリガマは集団自決という惨劇の現場です。実はここへは探索むなしくたどり着くことができませんでしたが、是非とも紹介したくアップです。

 読谷村HPより抜粋 ------ チビチリガマは、アメリカ軍の沖縄本島上陸の翌日1945年(昭和20)4月2日、鬼畜と教えられたアメリカ兵の残虐な仕打ちを恐れて、肉親相互が殺しあうという凄惨な地獄絵図を現出したといわれる「集団自決」が行なわれた所なのです。証言では、「アメリカ軍上陸直後に、壕の中から男女3人が竹やりを持って出て行き、男2人が壕の前でバタッと倒れた。すると壕内の住民は絶望感でパニックに陥り、集団死が始まる」とあります。別の証言では、「火を燃やして窒息死を図ったり、毒薬注射をして死にいたらしめ、注射液が尽きると、鎌や包丁などの刃物で肉親相互が殺し合うという惨劇が繰り広げられた」ということです。こうして、この洞窟への避難者約140人の内、無辜(むこ)の住民83人が非業の最期を遂げたということです。後に人々は犠牲者の死を悼み、永久平和を祈念して「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」を建立しました。現在、チビチリガマ内部へ入ることは遺族会の意思により禁止されています。ご了承ください。

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沖縄-読谷-3 義烈空挺隊玉砕の地碑と掩体壕

2015年05月06日 | 太平洋戦争

今回の沖縄慰霊旅で最も行きたかったところの一つが義烈空挺隊玉砕の地です。 
  ・読谷村役場の近く、読谷飛行場(当時は北飛行場といった)跡の北詰に位置すると思っていたのですが、全く無い・・・。私の歴史の散策ではよくあることなのですが困った。連れの杉峯さん、いいこと言います。「村役場で聞いてみよう」 確かに・・・ということで行って受付の可愛いお嬢さんに聞いてみると、場所が移設されたという。 
  ・義烈空挺隊玉砕の地碑は、掩体壕(飛行機や物資の格納庫)の横に移設されたということで、掩体壕を目指して行くが見つけることができない・・・。零戦3機が格納可能な掩体壕と思っていたので遠くからでも見つけられると思っていたのが間違いで、結構小さい格納庫でした。 
  ・ここで空挺隊員について説明です。敵地にパラシュートやグライダーなどで降り立ち、あとは歩兵として敵地施設の爆破を行う兵のことを言います。義烈の場合は九七式重爆機で敵地(日本陸軍が開拓した読谷飛行場はすでに米軍に占拠されており、ここからB24爆撃機が日本本土空襲に飛び立っていた) に胴体着陸して大小航空機・施設を爆破しようと考えた。従って帰りの切符はもちろんありません。

 
  ・読谷村HPより抜粋 ------ 「義烈空挺隊」は、「義号作戦」にのっとって行なわれた作戦で、その目的は、飛行場爆破・後方撹乱であり、陸軍中野学校出身者が指揮官となり、それに沖縄出身者が2名搭乗していたといわれます。この作戦で2名の沖縄出身者(山城金栄准尉と比嘉春弘伍長)が搭乗していますが、山城准尉は中飛行場で戦死したようです。特攻隊は海上の艦船への体当たり攻撃だけではなく、このように陸上の敵陣への攻撃もあったわけです。碑柱の建立者は不明ですが、水や酒、それに線香なども供えられたあとがありますので、関係者は時々訪れているようです。

  
  ・以上の説明では物足りないので半年時代を遡って補足です。1944年10月25日の夜、ルソン島マバラカット基地のすぐ南にあるクラーク基地には台湾から進出してきた福留繁中将率いる第二航空艦隊350機が特攻作戦に加わることになった。25日の敷島隊・菊水隊が大きな戦果を挙げたためである。第二航空艦隊の特攻第一陣(艦上爆撃機隊の第701航空隊)は第二神風特別攻撃隊と呼ばれ、忠勇隊・義烈隊・純忠隊・誠忠隊・至誠隊の5隊が編成命名されることになった。10月27日午後、第一陣15機の艦上爆撃機がニコルス飛行場を発進し米機動部隊攻撃に向かったが隊員30名は全員生還することはなかった。この特攻成果は10月30日、米内海軍大臣と永野軍指令総長によって天皇に奏上され、「かくまでやらせなければならぬことは遺憾であるが良くやった」 「攻撃隊員に対しては真に哀惜に堪えない」と述べた。 
  ・かくして特攻隊は日常化し、第3、第4神風特攻隊と続々と編成され、陸軍航空隊も加わって、全軍特攻へと拡大するのである。沖縄読谷村に米軍が上陸(4/1)すると、天号作戦による沖縄特攻が1945年4月6日に実施された(菊水一号作戦)。菊水とは当時の軍人が忠臣の模範としていた楠木正成の家門である、この日の特攻は海軍機210機、陸軍機90機、体当たりした米艦船は軽空母・サン・ハーシントなど15隻にのぼり駆逐艦3隻を含む6隻を撃沈させた。しかし日本軍の戦死者も347名にのぼり、特攻最悪の犠牲者を生んだ作戦となった。 
  ・ここで記載しておかなければならないのは、この時期米軍にとっての戦場は沖縄のみであり、1300隻の空母・戦艦を含む艦船がここに終結していたのである。恐らく沖縄沿岸は米軍艦船により埋め尽くされたに違いない。そしてこの艦船中に、日本陸海軍特攻機300機が突っ込んでいった割には沈没6隻という成果に注目したい。4月12日の菊水二号作戦で投入された特攻機は160機、しかし成果はわずかに駆逐艦1隻のみである。4月16日の菊水三号作戦では200機を越える沖縄特攻二番目の規模の特攻が行われ、戦艦・ニューヨークと駆逐艦3隻を損傷させるのみ。4月28日菊水四号作戦では320機の出撃のうち特攻機は121機であるから、通常攻撃機も出撃している。つまり特攻の成果が乏しいから、通常攻撃を取り入れているのである。かくして4月の沖縄特攻では陸海軍約500名のうち452名が特攻攻撃を敢行したのである。5月になると沖縄地上軍総攻撃に呼応して菊水五号作戦を実施、201機が出撃すると駆逐艦リュース、軽巡洋艦などに損傷を与えた。駆逐艦リュースは二機の特攻機にやられ、艦尾から煙を出しながら左舷に傾き、148名の乗組員とともに沈んだ。5月11日には菊水6号作戦が行われ、特攻機69機を含む244機を出撃させて、正規空母バンカー・ヒルを大破させ、約400名の乗組員が戦死した。これに対する報復措置として米軍は1600機以上の航空機で南九州を空爆している。

  
  ・いよいよ義烈空挺隊の出番がやってきたのは1945年5月24日。目的は日本本土空襲のために読谷飛行場から飛び立つ米軍戦略爆撃機他の破壊である。つまり、自ら敵地・読谷飛行場に九七式重爆機で降り立って、敵機に爆薬・爆雷を仕掛けて爆破するというもの。諏訪部忠一大尉率いる12機の九七式重爆撃機(飛行隊隊員2~3名、空挺隊員11~12名)は陸軍熊本飛行場を出撃、読谷飛行場に6機、嘉手納飛行場に2機着陸したとの記録がある。しかし一方、アメリカ陸軍省の記録では、読谷に胴体着陸できたのは1機のみで、残る九七式重爆機は激しい対空砲火を受けて読谷上空で炎上撃墜されている。胴体着陸した1機から10名ほどの空挺隊員が挙げた成果はF4U戦闘機コルセア2機・C-54輸送機4機・PB4Y-2カタリナ爆撃機1機を破壊、B-24爆撃機1機、F6F戦闘機3機、F4U戦闘機22機を損傷という記録が残っているらしい。しかし隊員は全員射殺されている。沖縄守備隊司令部が首里から摩文仁に移されたのが5月22日、もはや特攻機も底を尽き効果を挙げることは不可能となった。かくして5月24日、九七式重爆12機と200名もの義烈空挺隊員を犠牲にしてでも、本土空襲を食い止めようとしたのです。 

義烈空挺隊玉砕の地碑と掩体壕 大変小さくて驚き

 

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沖縄-読谷-2 シムクガマ

2015年05月05日 | 太平洋戦争

 読谷村にいって欠かせないのがシムクガマと呼ばれる鍾乳洞。沖縄戦が始まると同時に多くの人達がここへ非難。読谷村HPの抜粋で記載していますが、ここは多くの住民が助かったことで知られる壕なのです。もしもアメリカ軍を説得する通訳がいなかったら、住民はそれまでの教えに従って手榴弾か青酸カリを選んで死ぬことになったでしょう。そんなことを思いながら、地元の人たちに場所を教えてもらって行ってきました。とにかく私が行こうとするところは、見つけにくい・・・。それもそのはず、このような壕はアメリカ軍に見つからないような場所を選んでいるのですから。

これ以上奥に進むのは根性がいります

 「読谷村HPより抜粋」 シムクガマは波平又川原(マタガーバル)に洞口を開いた天然の鍾乳洞です。資料によると、「洞口はアガリシムクとイリシムクの二つあり、総延長2,570メートル」とあります。1945年(昭和20)3月、アメリカ軍の空襲は日を追って激しくなり、やがて艦砲射撃も始まるようになると、波平では約1千人の字民がこの洞窟に避難するようになりました。やがてアメリカ軍の沖縄本島上陸の日、激しい砲爆撃の後、アメリカ軍は読谷山村の西海岸から怒濤(どとう)のような勢いで進撃してきて、戦車をともなったその一部は、シムクガマに迫って来ました。アメリカ兵が銃を構えて洞窟入口に向かってくると、人々は恐怖の余りうろたえ、洞窟内は大混乱に陥りました。いよいよ殺されるのだと、洞窟の奥へ逃げ込もうとしますが、足の踏み場もありません。その時、ハワイからの帰国者、比嘉平治(当時72歳)と比嘉平三(当時63歳)の2人が、「アメリカーガー、チュォクルサンドー(アメリカ人は人を殺さないよ)」と、騒ぐ避難者たちをなだめ説得して、ついに投降へと導き、1千人前後の避難民の命が助かったということです。この事実に基づいて波平では、命を救った二人の先輩に感謝の意をこめて洞窟内に記念碑を建立してあります。

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沖縄-糸満-2 陸軍病院・山城本部壕

2015年05月04日 | 太平洋戦争

 ここは糸満市山城にある陸軍病院山城本部壕である。首里が陥落したことで南風原陸軍病院の撤退が余儀なくされた後に、陸軍病院関係者が避難してきた壕である。1945年6月14日に米軍の直撃弾を受けて、病院長・衛生兵・ひめゆり学徒らが多数死亡したという。病院本部の機能は壊滅状態となり、翌6月15日に生存者は伊原第一外科壕、伊原第三外科壕などに分散したが、そこでも激しい攻撃にさらされることとなる。かくして陸軍病院の生き残りはどんどん南へ移動しながら地下壕で避難をするが、それらの始まりは、首里の軍司令部壕の南にある南風原陸軍病院であり、「ひめゆりの悲劇」の出発点となる。沖縄陸軍病院が1944年10月10日の空襲により全滅したために、元々は小学校であったここへ移動してきた。軍医、看護婦350人でスタートしたこの場所には多くの横穴壕が貫通して収容人数4000名にまでなり最も安全な場所となった。ひめゆり学園の生徒200人は県下の女学校や青年団から補助看護婦として招集され、配置されたのは3月24日、米軍上陸の一週間前である。女子生徒たちは負傷兵の治療、糞尿の処置、死体の埋葬、食事運搬などに追いまわされ、やがて5月25日守備軍が首里を撤退すると軍病院にも撤退命令が下されたが、全患者を移動させる能力はなく、重症患者は青酸カリや手榴弾によって処置されたのである。これは軍司令部の命令である。そして南風原陸軍病院址には「重症患者2千余名自決の地」という碑がある。今回の旅では訪問できなかったので、次回には是非。

慰霊碑に刻まれた句を読むと、戦争の無残さを感じずにはいられない

以下はひめゆり学徒隊の生き残り、本村つるさん(1925年生まれ ひめゆり平和祈念資料館館長)の証言です。ここ山城本部壕での様子や、直撃弾を受けて第1外科壕、第3外科外科壕への移動の状況が語られている。

「私たちが行く壕が。どこに入るか。結局は撤退はしたけれども、陸軍病院の壕というのはなかったんですよ。それで陸軍病院の兵隊たちが、あちこちあの辺に行って、壕を探して来たと思うんですけどね。で第一外科、第二外科みなさんかわったところに入ったんですけど。私たちも、何て言うんですかね、一応担架を下ろして休んでいたら、本部壕は山城ということが分かったんで。一日目はですね、みんなの石部隊か山部隊かの、24何とかって言ってた壕の、山城の丘のところにですね、壕がひとつあったんですよ。そこにみんな一応入ったんですけど。私がそこから出たのが26日だったんですが。結局は25日に撤退して、26日には着いたんですいたんですよ、一晩だいたいかけて。そして26日にそこに入って。そうだ27日に山城に行ったんですけどね。海軍記念日というのがありますよね、3月の25(海軍記念日は5月27日)ですかね。そのときには日本軍がまた逆襲して戦がもうすぐ良くなるんだというぐらい、言っていたんです。なにしろあそこに行ったら弾があんまり来なかったんですよ、そのころ。もう周辺は青々として、弾が落ちてないんです、今の伊原辺り。これはですね、6月の14日にね、弾が落ちたんですよ、入口に、山城本部壕の。そのときには、私は山城本部壕に入ってからは、各外科には伝令が行かなかったんですよ、本部員は。それはですね、今度は各外科からね、衛生兵と、それから生徒が本部壕に。そこに本部壕がありますので。各外科からは、衛生兵、兵隊とその生徒が付いて来ていたんですけれども。6月の14日のですね夕方、もう夕方になると敵の戦闘機、爆撃機はいなくなりますので、そのころにみんな壕から出てね、食料探しとかそういうのをやるんですけれども。他の壕から来た人たちも、入口でみんな「いつ飛行機がいなくなるかなあ」と言って、空を見上げてみんな立っていたんです。その中に病院長もおられたんですね。普通病院長っていうのはこちらにあんまりいらっしゃらないけど、 なにしろこの日はおられたんですね。で私たちは、本部員は、この方たちが出ていった後に、また私は出て、食料探しに行くつもりで、下の方で待っていたんですよ。その夕方ですね、7時、あの時は夏ですから、ずいぶんと日が暮れるのが遅いですよね。多分7時ごろだったと思うんですよ。そこに弾が落ちたんですよ、すぐ近くに。多分向かって左側の、ちょっと低くなったところがあるんです。そこに落ちたと思うんですよ。どこに落ちたか知らないけど、とにかく落ちたから、壕の中には煙が、白い煙が入ってきたんですけど。そこで落ちて、たくさんの人がそこで亡くなったんですよ、待ってる人。それでその時に生徒が、第二外科から来た宜保さんといって、予科3年生です。それから安座間さんといって、予科2年生が、この人は第三外科から来てたんですけど。安座間さんはケガしてすぐ下の方に連れて来られたんですよ。宜保さんはもう、どこに行ったか分からなくなっていると。先生が捜しに行ったけど、捜せなかったと言って。で兵隊がたくさん亡くなって。それで病院長もケガして、下の方に連れて行かれたんだそうですけどね。その病院長がケガしているのは、見てはないんです、とにかくその日は連れて行かれて。翌朝、病院長も亡くなって。私たちはもう陸軍病院ではもう病院長が亡くなったから、指揮は総務主任とか何とか、佐藤さん(佐藤悌二郎少佐)という方が、少佐か何か、少佐じゃない、何だったか。とにかく一番上の人が指揮をとると。だから生徒はこの壕からもう第一外科、とにかく出なさいと。「各壕に行きなさい、各外科に行きなさい」という命令だったんですね。それで西平先生は、私たちはみんな第三外科に行きたかったですよ。なぜか第三外科はとっても大きな壕で堅剛だって、といううわさが流れていたので、「第三外科に行きたいね」と、「みんなだ第三外科に行こう」と言ったら、先生は「こんな大所帯」、12名でしたから、「第三外科には行けない」と。「だから半分ずつ分けるよ」と。で先生が分けなかったんですよ。「じゃあどうする?」って言ってじゃんけんにしたんですよ、学年同士。で「負けた人はじゃあ第一外科ね」と。で「勝った人は第三外科ね」と。みんな第三外科に行きたいから。「じゃあ勝った人は第三外科」と言ってじゃんけんしたら、負けた人は第一外科に行ったんです。私は負けた方で第一外科に行ったんですけど。半分は第三外科に行ったんですね。それで第三外科と第一外科の分かれになって、最終的には第三外科に行った人はみんな亡くなっちゃったんですけど。 」

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沖縄-首里-3 沖縄守備隊・陸軍第32軍総司令部の地下壕

2015年05月03日 | 太平洋戦争

 太平洋戦争中の沖縄戦において、日本陸軍は首里城の下に地下壕を掘り、陸軍第32軍総司令部(牛島満司令長官、長勇参謀長)を置いた。地下壕入口は、守礼門から園比屋武御獄石門の前を通って円鑑池に向けて行く途中にある。1945年5月25日から3日間に渡りアメリカ軍艦・ミシシッピなどから砲撃を受けたために27日に焼失したという。さらに日米両軍の激しい戦闘で、首里城やその城下の町並み、琉球王国の多くの文化財が破壊されている。戦後、首里城跡に琉球大学が置かれ、多くの遺構が撤去あるいは埋められたが、1992年11月に正殿を中心とする建築物が再建されて首里城公園が完成した。

 ところで陸軍第32軍とは何かというと、1944年3月15日に編成され沖縄本島だけではなく近隣の群島、諸島をその守備範囲として米軍の上陸に備えた守備隊である。この作戦は八原博通・高級参謀によって立案されたもので、司令部はここ首里に置かれ、米軍上陸後は先に紹介したように嘉数台地、前田台地を第一線として戦い悲惨な戦いとなった。私がいつも思うのは、沖縄戦の戦略を立てた高級参謀・八原博通大佐の戦後処理である。歴史を学ぶとき、英雄が何故英雄と呼ばれるかの一つに戦後処理がある。八原博通は大本営参謀・作戦課の軍人である。沖縄戦の作戦を立案し、沖縄県民を巻き込み、23万人とも云われる犠牲者を出したのにもかかわらず、何ら責任をとらずに生き延びている。海軍司令部の大田実少将や牛島満陸軍中将の生き様とは大きな違いがある。日本では、司令された軍人は玉砕・自決し、司令した軍人は無責任に生き延びる構図があり、戦後70年間、公式には何も反省されていないのである。靖国問題はこういうところから始まる一面を持つ。前に少し紹介したが、日本も現在のドイツを見習わなければいけない。ドイツはヒトラー政権の下で極めて残虐な行為を行ったが、国民全員で反省をし教育をすることで戦後処理を世界に発信している。ドイツに旅行に行けば日常からそれらを読み取れる面があるのである。一方、日本はというと日本帝国軍・大本営、参謀本部は70年間何も語らず、何も責任を取らず沈黙を続けている。70年も経った今では生き残っている軍人官僚はほとんどいないだろうが・・・。

 旧海軍司令部地下豪は現在公園として整備されて戦歴が後世に語り継がれている。しかしここ陸軍第32軍総司令部地下壕は何ら整備されることなく放置状態であり、ご覧の通り戦争史跡として無残と言わざるを得ない。その理由はどこにあるのかを考えることが私の根本である。追ってその理由についての持論を紹介したい。

陸軍第32軍総司令部地下壕入口

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