両陛下は戦後50年に沖縄、長崎、広島、60年にサイパン、70年にはパラオで慰霊を行い、1月26日からはフィリピンでの戦没者に対する慰霊を行った。訪れた日本人戦没者慰霊園は、ルソン島中部カリラヤにあり、ここには太平洋戦争で亡くなった約52万人戦没者が弔われている。しかしフィリピン人犠牲者が100万人にも及ぶことは忘れてはならない。
1944/7/6 サイパンが玉砕すると、1944年10月11日、大西瀧治郎はフィリピンに向かう途中で中継地の台湾・高雄基地に降りた。この日、索敵機が台湾東方海域に敵機動部隊を発見、台湾は艦上機による大規模な空襲を受けたために、台湾・沖縄を統治していた第二航空艦隊司令長官・福留繁中将は敵機動部隊に対して航空総攻撃を命じた。10月12日から16日にかけての総攻撃で空母10隻撃沈などの成果が報じられたが、すべて誤報とわかり、撃沈した敵船艇はなく、日本側が失った戦闘機は400機にも及んだ。この台湾沖航空戦での惨状を大西は目の当たりにしたあとフィリピン・マニラに到着したのは10月17日、また同日、敵攻略部隊の先陣はレイテ湾東のスルアン島に上陸を開始し本格的な侵攻が始まった。この晩、寺岡中将にかわって大西中将が第一航空艦隊司令長官として就任したとき、必死必中の特攻作戦が練られたという。18日夕刻、艦隊司令部はフィリピン防衛のため捷一号作戦を発動、栗田健男中将率いる戦艦・大和、武蔵などの第一遊撃部隊が、敵が上陸中のレイテ湾に突入して敵上陸部隊を殲滅し、戦艦・扶桑、山城などの別動隊、重巡洋艦・那智、足柄を主力とする第二遊撃部隊が栗田艦隊に呼応してレイテに突入する。その間空母、瑞鶴・瑞鳳・千歳・千代田を基幹とする機動部隊が囮となって敵機動部隊を北方に誘い出すという作戦である。10月19日、大西は第一航空艦隊戦闘機隊・第201海軍航空隊が展開するマバラカット基地を訪れ、栗田艦隊のレイテ湾突入を支援するために、敵空母の甲板使用を不能にすることを理由に、零戦に爆弾を積んだ体当たり攻撃の編成を指示した。隊員の人選は第201海軍航空隊副長玉井中佐と中島少佐に一任された。玉井中佐は気心知れた予科練出身の搭乗員を集めたという。この隊の指揮官が関行男大尉、5月に結婚したばかりの23歳、艦上爆撃機出身の教官であり零戦の搭乗経験はなかったが、後に続くべき隊員の士気高揚を狙っての指揮官選抜と考えられる。
かくして発動されたフィリピン防衛のための捷一号作戦であったが、状況はどんどん悪化。アメリカ連合軍がレイテ島攻略着手にあたり、20万以上の陸上部隊が投入された。航空支援には陸上機約3200機に加え、艦載機約1200機も参加、海上からも艦隊が火力支援をしていた。アメリカ軍第24軍団と第10軍団は、レイテ島東岸から上陸を開始した。猛烈な艦砲射撃で、沿岸の日本軍陣地は壊滅した。連合軍は急進して26日までに6個の飛行場を確保した。この戦闘の間、日本軍の通信状態は悪く、大本営やマニラの方面軍ではレイテ島の戦況の把握が困難であった。日本が配備した第16師団の残存部隊は増援部隊と合流しながら翌年2月頃まで戦い続けたが、11月20日時点で約3800名、翌年3月には約800名まで消耗していたのである。
1945年1月9日になると、アメリカ連合軍は、ルソン島リンガエン湾に上陸を開始した。アメリカ軍の第6軍が上陸すると、2個師団がマニラ奪還を目指して南下をはじめ、2個師団が北部の制圧へと向かった。対する日本側の山下大将率いる第14方面軍総勢29万の兵は持久戦を図る。南部へ向かったアメリカ軍2個師団は、1月下旬にはマニラ郊外へ到達した。連合軍は、マニラ南方へも上陸、多方面からマニラ市への攻撃を開始した。マニラにはマニラ海軍防衛隊などが立て篭もり、約1ヶ月間の激しい市街戦となった。3月3日にマニラは陥落したが、それまでに連合軍の激しい無差別砲爆撃によって市街地は廃墟と化した。市民の犠牲者は約10万人と言われ、民間人を巻き込んだ無差別爆撃が行われたのである。日本軍の損害はマニラ市街戦のみで戦死1万6千名に及び、コレヒドール要塞は3月に陥落し、9月上旬に投降した時の日本軍残存兵力は僅かに約280名だった。