仁徳天皇の皇后・磐之媛
仁徳の皇后が葛城襲津彦の娘・磐之媛である。 葛城襲津彦の本拠地は奈良・葛城地方であるが、御所市にある室大墓古墳が葛城襲津彦の墓とみられている。 また、磐之媛は奈良市の佐紀古墳群、神功皇后陵のすぐ東1kmくらいのところにある磐之媛命陵(ヒシアゲ古墳)に眠っている。
磐之媛命陵(ヒシアゲ古墳)(撮影:クロウ)
仁徳天皇は難波の高津宮にいた。難波と葛城は大和川水系の河口と上流の位置関係であり、舟による交通が発達していた当時を考えると、そのつながりは強い。 あるとき仁徳天皇は宮廷に仕えていた玖賀姫(丹波南部の出)に関心を示したが、おかげで玖賀姫は国に帰らされた。 その後仁徳は菟道稚郎子の妹・八田皇女を妃にしようと言い出した。 当時、異母兄弟の結婚は不思議ではないが、嫉妬深い磐之媛が応じることはなかったが、皇后の留守中に八田皇女とまぐわってしまい妃にしたのである。 それを知った皇后・磐之媛は高津宮へ帰らず、その数年後の349年に乃羅山に葬られた。 磐之媛は民間からでた最初の皇后で、後に光明子が異例の皇后になっている。 磐之媛が亡くなった翌年に仁徳は八田皇女を皇后とし、その二年後に八田皇女の妹・雌鳥皇女を妃にしようとしたが、ある事件が起こり雌鳥皇女は殺された。
佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群で代表されるのが磐之媛陵であるが、すぐ隣には小奈辺陵・宇和奈辺陵がある。 丁度、平城宮跡の北へ1kmくらいのところに位置します。
小奈辺陵・宇和奈辺陵(撮影:クロウ)