釣れづれNickey

時々行く釣りや身近な出来事などのレポートです。つれづれなるままに、心にうつりゆくよしなし事を・・・。

ちょっといい話(卒業式で聞いたものです)~人の心の痛みが理解出来る人になりたいものです~

2009年03月13日 | いい話
小学校で5年生の担任をしていた教師の話です。
その先生は、小学校5年生の担任になった時、自分のクラスの中に一人、
どうしても好きになれない少年がいました。服装が不潔でだらしなく、好き
になれなかったのです。先生は、中間記録に、少年の悪いところばかりを
記入するようになっていました。

ところが、ある時、少年の1年生からの記録が目に止まりました。

1年生の時は、
「朗らかで、友達が好きで、親切。勉強もよくでき、将来が楽しみ」
と記録されていました。

「間違いだ。他の子の記録に違いない。」と、先生は思いました。

2年生になると、
「母親が病気で世話をしなければならず、時々遅刻する」
と記録されていました。

3年生では、
「母親の病気が悪くなり、疲れていて、教室で居眠りする」

3年生後半の記録では、
「母親が死亡。希望を失い、悲しんでいる」

4年生になると、
「父は生きる意欲を失い、アルコール依存症となり、
 子どもに暴力をふるう」

先生の胸に激しい痛みが走りました。

ダメと決めつけていた子が突然、深い悲しみを生き抜いている生身の
人間だと感じられたのです。先生にとって、目を開かれた瞬間でした。

放課後、先生は少年に声をかけました。

「先生は夕方まで教室で仕事をするから、あなたも勉強していかない?
 分からないところは教えてあげるから。」

少年は初めて笑顔を見せました。

クリスマスの午後、少年が小さな包みを、先生の胸に押しつけてきました。
あとで開けてみると、香水の瓶でした。

亡くなったお母さんが使っていたものに違いない。
先生はその一滴をつけ、夕暮れに少年の家を訪ねました。

一人で本を読んでいた少年は、先生に気がつくと飛んできて、先生の胸に
顔を埋めて叫びました。

「ああ、お母さんの匂い!きょうは素敵なクリスマスだ!」

6年生の時、先生は少年の担任ではなくなりました。
卒業の時に、少年から一枚のカードが届きました。
「先生は僕のお母さんのようです。
 そして、今まで出会った中で、一番すばらしい先生でした。」

それから6年が経ち、またカードが届きました。
「明日は高校の卒業式です。
 僕は5年生で先生に担当してもらって、とても幸せでした。
 おかげで奨学金をもらって医学部に進学することができます。」

さらに10年が経ち、またカードが届きました。

そこには、先生と出会えたことへの感謝と、父に叩かれた体験があるから
患者の痛みがわかる医者になれると記され、こう締めくくられていました。
「僕はよく5年生の時の先生を思い出します。 あのままダメになってしまう
僕を救ってくださった先生を、神様のように感じます。大人になり、医者に
なった僕にとって最高の先生は、5年生の時に担任してくださった先生です。」

そして1年後、届いたカードは結婚式の招待状でした。

「母の席に座ってください」
と一行、書き添えられていました。

(「到知」12月号 到知出版社より)
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感字

2009年03月13日 | 学校行事
漢字をモチーフにイメージを膨らませたものです。
なかなか面白いですね。
センスがないと面白いものは出来ません。
優秀作品(独断と偏見の^^)お見せしましょう。
これはそのまま“馬”ですね。



崖っぷち



人助け



迷いは永遠



化けられなかった狸

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超一流の人間の共通点

2009年03月13日 | いい話
 私はさまざまな方とお会いしてお話をしますが、学者でも経営者でも作家でも、どんなお仕事をされている方でも、超一流と言われる方たちはみなさん謙虚でいらっしゃいます。その道では大家とか大御所と言われるような方たちが、自分の能力や地位に驕ることなく、「私などは、まだまだ未熟です」とおっしゃるのです。自分の才能や実績を誇示するようなことは、一切おっしゃいません。その慎み深いものごしに接したときに、私は深く感銘を受けるとともに、自分自身の小ささを自覚して、襟を正す思いになります。
 『老子』の中に、「上善は水の如し」という有名な言葉があります。上善とは、最上の生き方のことですが、それは水のようなものだというわけです。私たち人間は、自分を上に見てもらいたいと焦ったり、人と接するときも、自分のほうを上の優位なポジションに持っていこうとすることがあります。一方、水は自ら低いところへと流れていくので、他と競争することがありません。自ら低いところへ身を置こうとするこの謙虚さと、どんな形にも変化する柔軟さが水の特長であり、それこそが私たち人間にとっても最上の生き方だと、老子は教えてくれるのです。

 ふつう私たちは、何かで成功を収め、それなりの地位や実績を手に入れると、「自分がすごいから成功したのだ」と驕ってしまいがちです。そして、才能や地位や実績を誇示したくなります。しかし、このように謙虚さを失った状態では、自らの生き方を深く反省することがないので、人間として成長できません。一方、超一流のレベルにまで到達する人は、謙虚さがあるからこそ、常に自らを省みることができ、人間としてどこまでも深く大きく成長していけるのです。この謙虚さはどこから生じるのでしょうか?
 私は、謙虚さの源になるものは次の二つだと思っています。一つは、“ おかげさまの精神” です。おかげさまの精神とは、「自分の力で生きている」と考えるのではなくて、「自分は、水や空気や太陽のおかげで、大自然のおかげで、ご縁あるたくさんの人々のおかげで生かされている」と考えることから生じる、“ 慎みをともなう深い感謝” です。これは、「何かいいことがあったから感謝する」という条件つきの感謝ではなく、「今こうして生かされているだけでありがたい」という無条件の、最上級の感謝です。
 この精神を内に持つ人は、どんなに成功しても、それを自分の手柄と考えて自己満足するのではなく、それを自分の役割や使命と考えて感謝します。「おかげさまで、ここまで来させていただいた。自分の役割があるというのは幸せなことだ。さらに自分の役割を全うして、世の中にもっと恩返ししたい」という心境になるのです。
 こうなると、競争相手を意識することもないし、仮にナンバーワンの状態になったとしても、それに満足して止まってしまうことがありません。このような心境になった人が、どこまでも高みに上っていかれるのは当然かもしれません。謙虚さの源となる二つ目のものは、“ 本物の自信” です。私たちは、自分に自信をもてないときに、才能や地位や実績によって自分を飾ろうとします。そのままの自分ではだめだと思うから、自分を他人から認めてもらうための証拠を集めたくなるのです。
 そしていつのまにか、その証拠( 才能や地位や実績) と自分を同一視してしまいます。つまり、自分のアイデンティティ( 自分が自分である証) を、才能や地位や実績に置いてしまうのです。だからこそ、自分の価値を証明するために才能や地位や実績を得ることに必死になり、それらを手に入れた結果、「自分はすごい人間になった」と錯覚するのです。この場合、「才能や地位や実績を手に入れたからこそ、自分には価値がある」という考えになってしまうので、まだそういったものを手に入れていない人を見下げるようになり、謙虚とは程遠い、傲慢な人間になってしまいます。
 一方、本物の自信を持っている人は、「能力や地位や実績に頼らなくても、自分の存在はそのままで素晴らしい」と感じているので、自分を能力や地位や実績と同一視することがありません。成功して能力や地位や実績が手に入っても、「自分が偉くなった」と錯覚することはなく、むしろ「たくさん与えられてありがたい」と感謝するようになるのです。また、本物の自信があるからこそ、謙虚ではあっても決して卑屈にはならず、つつましさの奥から輝きが感じられるような、そんな存在感を周囲に放つのです。
 ナイチンゲールが書簡の中で、「人間は賞賛を勝ち得ているときが、最も危険なときである」と語っています。また、『菜根譚』にも、「順調にいっている時ほど、慎みを忘れないようにしなければならない」という意味の言葉が出てきます。
私たちは、人生が順調なときで、まわりから高い評価を得ているときに、謙虚さを失ってしまいがちなのです。心しておきたいものですね。
 一方、人生で大きな困難や逆境に直面したとき、私たちは謙虚になるチャンスを与えられていると言えます。それは、順調にいっていたときのありがたさに感謝するチャンスであり、また、自らの生き方を深く反省して、人間として大きく成長するチャンスなのです。
 順調なときこそ謙虚になり、また、逆境に出合っても謙虚になる。そんな生き方を実践していった先に、私たちは超一流と言われる人間になるようです。

※ この文書は、拙著 『心眼力 ~ 柔らかく燃えて生きる3 0 の智恵~( C D 付)』
( 野口嘉則 著、サンマーク出版)の中から、その一節を抜粋したもので
す。この内容を誰かに教えてあげたいと思われたら、このファイルをメ
ールに添付して転送することも、コピーして配ることも、自由にやって
いただいてO K です。 野口嘉則

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泣ける感動ムービー 「僕を支えた 母の言葉」

2009年03月13日 | ユーチューブ
泣ける感動ムービー 「僕を支えた 母の言葉」


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ハクモクレン?コブシ?

2009年03月11日 | 花巡り
自転車でぶらついていると、突然現れた花の迫力に圧倒されました。コブシにしてはちょっと花が大きいような気がします。

春ですねえ。
コメント (2)
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町中の菜の花

2009年03月11日 | 花巡り
同僚に教えてもらったので、早速写真撮って来ました。
川が汚いんですが、菜の花が綺麗なので我慢することにします。

友泉亭公園前の樋井川の両側にに生えています。町中としては珍しく大きな
菜の花の群落だと思います。行ってみて下さい。すっかり春になりましたね。

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竹のプランター

2009年03月11日 | 園芸
こないだ日田で見つけた竹製の三段になっているプランターです。
春らしい花を植えてみました。ピンクが綺麗です。満足な出来です。
枯れずに咲き続けてくれたらいいんですが・・・・。

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あらかぶ定食

2009年03月11日 | 食べ物
西海橋の近くにある万十屋という定食屋さんのあらかぶ定食です。
西海橋に行ったら、これを食べないとね。あらかぶがまるまる一匹入ってます。
お薦めです。自信あります。

是非、西海橋に行かれたら食べて下さい。一緒に出てくる真鯛の刺身がこれまた美味しい。

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九十九島遊覧船

2009年03月08日 | 観光
久しぶりの遊覧船です。
2隻の遊覧船が交互に運航されていました。この写真は2隻の船が、ちょうどすれ違うときに撮ったものです。綺麗な船です。今日は天気が良く臨時便が出ていました。九十九島を約50分かけて一周します。途中風が強く当たるところは、まだ少し肌寒く感じました。



これが乗った遊覧船です。(300人乗り!だったかな?)





有名な田崎真珠の筏前では、たくさんの釣り人が釣り糸を垂れていました。
船から降りて行って魚釣りしたかったです。^^


天気も良く、至る所で綺麗な景色を見ることが出来ました。遠くには平戸や五島も見えていました。

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崎戸の町魚は、あらかぶです。

2009年03月08日 | ドライブ
愛嬌のあるあらかぶですが、この崎戸ではテトラや波戸まわりでよく釣れるそうです。竿持って行けば良かった。餌はヤドカリでいいとのこと。磯でヤドカリ探しましたが見つけることは出来ませんでした。あらかぶの他にクロやチヌが釣れる場所を聞いて来ました。今度は釣りをしに行きたいと思います。磯で釣りをしている人に聞いたんですが、潮が良ければクロも35~40センチ位のが釣れることのことでした。波戸ではイカを狙っている人が多かったですね。

あらかぶのバス停(かなり大きい)と一緒にパチリ。
あらかぶのバス停はこの他にも2カ所で発見しました。
このあらかぶは色が少し鯛っぽいですね。

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ウォーターデッキステーション

2009年03月08日 | ドライブ
海の上に木製のデッキが260メーター続いています。綺麗な海でした。潮が引いていてデッキの下は水がありませんでしたが、潮が満ちてくると海の上を歩いている様な感じになるんでしょうね。


岩場には海草の若芽が出て春の到来を告げています。いそぎんちゃく、亀の手、ビナなどたくさんいて、磯を見て歩くのも楽しいですね。魚釣りがしたかった。

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この生命力には脱帽です。

2009年03月08日 | 観光
七ツ釜鍾乳洞の出口を出たところで目に入った木です。このあたりは岩山でほとんど土がない所で、岩を抱き込むように根が張り付いていました。執念ですね。上の方が見えませんが、10メーター以上ある大きな樹でした。

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旧西海橋

2009年03月08日 | 観光
今月の大潮の日には、大きな渦ができます。今日は小さな渦しかありませんでしたが、潮が小さいんでしょうか?
今月末は桜、5月はツツジとこれから西海橋周りは春の花が咲き乱れます。

世の中不景気で、安くて手軽に行けそこそこ楽しめる。ということで西海橋は大人気になり、あまりにもたくさんの人が押しかけるようになり、そのため大混雑をひきおこし今年は観潮会中止だそうです。人が多すぎるからなんて・・・・・・・。せっかく駐車場や公園を整備したのに皮肉なことですね。

この写真は新西海橋の中央部から撮った写真です。旧西海橋は橋の上を歩きますが、新西海橋は橋の上の道路の下に通路があって通り抜けることが出来るようになっています。中央部には下が覗けるガラス張りの覗き窓が4つ設置されています。高所恐怖症の人はちょっと怖いかもしれません。

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伊勢海老

2009年03月08日 | 観光
長崎の崎戸に行って来ました。地元の海で獲れた伊勢海老と魚で至福の時を過ごしました。
あーーー!美味しかった^^V
大きいでしょう。1.3キロ位あります。私にはエビ・カニアレルギーがあり、恐る恐る食べてみましたが、大丈夫でした。大きいエビはいいみたいです。小さいエビはダメです。特にリンガーハットのチャンポンのスープはエビのエキスが多くて全くダメです。


突端の木に覆われた建物は、旧海軍の見張り台です。その建物の左の展望台に登ると素晴らしい海の眺望が開けます。手前の建物の青い覆いのある部屋は展望風呂(ラジウム温泉)で、天気がよく雲がないときは太陽が沈むのを眺めながら温泉に入ることが出来ます。絶景だそうです。この日は曇りでダメでした。
向こうに見える島は五島列島です。


これは展望台から見た宿泊したホテルで、四方海に囲まれています。このホテルの下が釣りの穴場です。今度行ってみたいです。釣り人があちこちにいました。波もなく天気も良く絶好の釣り日和でした。


展望台近くにはたくさん菜の花が咲いていました。

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ある店で見つけたいい話

2009年03月06日 | いい話
「心の中のふるさと」---天草島--- 荒木忠夫
 先日、会社の定期歯検診で、私の歯を見た医者が「この年齢で虫歯が一本もなく、しかも歯並びがきれいな歯は珍しい」と感心し、生まれはどこかと聞いた。私が、「九州の天草島だ」と答えると、「やはり、そうですか」とうなずいて納得していた。その医者の話では、島育ちの人は、海草などの食べ物の影響で、統計的に、歯が強いのだそうである。なるほど、私は38歳の現在になるまで、虫歯の痛さというものを全く知らないし、歯医者にかかったことが一度もないのである。
 しかし、私は、医者のいとも簡単な納得に、何か物足りなさを覚えたのである。私には、38歳の現在の強さよりも、歯が強くならざるを得なかった幼少年時代の、ふるさとでの貧しい生活、しかしその中でも、常にほのぼのとしたぬくもりを感じさせてくれた母の、心の匂いが大切に思えるのである。
 私のふるさとは、熊本県の天草島である。島原の子守歌に「おんのいけ(鬼池)の忠助どんの連れにこらるばい」と歌われている天草下島の最北東にあたる、五和町鬼池という港のある半農半漁の小さな町である。
 五和町は、昭和30年頃、五つの村が合併して出来た町であり、私はその中の鬼池村で育ったのであった。私は昭和23年に鬼池小学校に入学した。私の家は、いわゆる五反百姓の農家で、八人の子供を養うのは楽ではなかった。米飯を食べるのは、盆と正月と村祭りに限られており、日常はさつまいもか麦飯であった。しかし当時は鰯(いわし)が豊富で、地引き網でいくらでもとれたため、食べきれずに田畑の肥料(いわしごえ)にするほどであった。私たち兄弟は、厳しい父に、この鰯を魚のまま食べさせられており、父の目を盗んでは、そっと、骨をおぜんのしたに隠して、捨てたのを覚えている。芋と鰯が当時の私たちの常食であり、お菓子や飴など甘いものなどめったに食べず、鰯を骨のまま食べて腹を満たしていたから、歯医者などいらないのである。終戦から何年かは、日本中どこでも同じような食糧難の状態が語られているが、私の家では、零細農家のうえに、八人兄弟という子沢山で私が中学に行くようになっても、あまり生活水準の向上は見られず、相変わらず同じような状態であった。
 当時のように、姉や兄は中学卒業と同時に口減らしの為、ちょっとしたコネでも頼って島から出ていったのである。
 私は、姉や兄が小さな連絡船で港から出ていくたびに、突堤の先端の赤い灯台の下で、いつまでも立ち続けていた母の姿を、今でもはっきりと思い出すことができる。海の上に約200メートルも延びた防波突堤と、その先端にあるこの赤い灯台の物寂しさは、8月15日の夜の幾重にも重なって、その灯台の沖を流れる精霊(しょうろう)船と共に、私の心の中にあるふるさとの一つの風景である。
 鬼池には、天神山という富士山に似た形の山がある。天神山は鬼池で一番高い山で、海抜171メートルあり、その山頂からは、村中が見渡せ、海の青さと小さな島々の松の緑、波の白さなど、その眺めは素晴らしいものであった。天神山は鬼池村の守り神で、山頂には、ほこらが建てられ、7月25日がその祭りであった。祭りには、村中が仕事を休みダゴ(田子)を作って祝い、山頂で子供達の相撲大会が行われるのであった。私は一度だけ、その相撲大会で関脇をもらったことがあった。
 中学一年生に入学した年の春の遠足は、私にとって、一生忘れられない遠足であった。遠足の楽しみは弁当であり、私の家でも、遠足の時だけは母がいつも、米飯の大きなにぎりめしに、卵焼きを添えてくれるのであった。その遠足の朝、母は、私に弁当を手渡しながら、悲しそうな目で、中身が芋であることを、告げたのであった。そして、私の手を強く握って、しばらく離そうとはしなかったのである。私は大声で母をののしり、その手を振りほどいて、泣きながら走ったのだった。弁当の時間、天神山のつわぶきの、芽吹いた藪の中で、私を探す友達の声を遠くで聞きながら、私は空腹に勝てず、私はその芋を、泣きながらかじったのであった。中学生の私には、そのときの母のつらさがどんなものであったのか理解できるはずもなく、帰ってからも、母をせめ続けたのであった。
 昭和36年の夏、天草地方は未曾有の干ばつに見舞われた。水の出そうな場所は、至る所で井戸が掘られ、水探しが続けられたが、水田は大きく干割れし、稲は白くなって枯れようとしていた。しかし、雨は、いっこうに降らなかった。
 そして、誰が言い出すこともなく、雨乞いをすることになったのである。各農家から一人づつ人を出して、何人かづつ組になって、天神山の山頂から、雨乞いが本当におこなわれたのであった。毎日、朝から夕方まで天神山の上でうち鳴らされる太鼓の音が、村中に響き渡ったのである。私の家からは、母が出ることになり、真剣な顔をして、近所の人達と一緒に、山道を登って行ったのであった。雨乞いの結果で、雨が降ったかどうかは、はっきりした記憶がない。しかし今でも、天神山の祭りが続いているところをみると、多分、神様のごりやくがあったのではなかろうかと考えるのである。
 鬼池の守り神であるこの天神山の懐かしい姿もまた、少年時代の思い出の中で、何とはなしに母のイメージと重なって、私の心の中に、ふるさとの風景として残っているのである。
 天草の正月もまた、母を通じて、私の心の中に一つの風景を残している。それは、私が中学3年生で、高校受験を間近に控えた頃のことであった。私は先生のすすめもあって、他の二人の友人と共に、天草島を離れ、熊本市内の高校を受験することを目標に頑張っていた。市内の高校に行くことになれば、下宿が必要で、そのために要する費用は大変なものであった。八人の子供を抱えた五反農家の父母には、とうてい、そのような余裕などなかったのである。それでも父母は何とかして、私を希望通りの高校に進学させようと、いろいろ努力したようであるが、やはり、無理だったのである。
 12月のある寒い夜、父は私を囲炉裏の端に座らせ、市内の高校をあきらめて、地元の高校に進学して欲しいと私に言った。私は、泣きながら父のかいしょうの無さを、大声でののしった。日頃、厳しい父も、その時は無言で何かをかみしめているようであった。母は、何かを頼むような目で私をじっと見つめ、その目には涙が光っていた。しかし、私は、消えかけた囲炉裏の火を見つめながら、父母をののしり続けたのであった。
 それから、私は勉強もせず、家族にも口を聞かない日が続いていた。その為、家の中は、毎日、何となく重苦しい日が続いていた。そして、年が明け、元旦となった。私は、家族全員で毎年行う初詣に参加せず、一人でふとんをかぶって寝ていたのであった。
 朝、目を覚ますと、枕元に五・六枚の年賀状がおいてあった。私は床の中で何気なくそれを手にし、たいした感情もなく、一枚づつそれをめくっていった。それは、ほとんどが同じクラスの友人達からのもので、今年も頑張ろう、今年もよろしく、という内容のものであった。しかし、最後の一枚を読みながら、私は驚いた。それは、およそ、年賀状らしくない長々しいものであり、鉛筆書きで、ところどころ、なめたらしい濃い部分が残り、カタカナ混じりで書かれていた。差出人の名前はなかったが、私には、それが同じ家に住む母からのものであることは、すぐにわかった。
 「おまえに、明けましておめでとうと言うのはつらい。でも、母さんは、お前が元旦に、みんなの前で笑いながら、おめでとうと言ってくれる夢を何回も見ました。母さんは、小さい頃、お前が泣き出すと、子守歌を唄って、泣きやませましたが、今はもうお前に、唄ってやる子守歌もないので、本当に困っています。今度は、お前が母さんに、親守歌を唄って欲しい」
 14歳の私は、元旦の床の中で声をあげて泣いた。それは、中学3年生の反抗期の私に対する、母の心からの子守歌だったのである。
 この母の子守歌のおかげで、私は立ち直り地元の高校に進学し、その後、高校卒業と同時に、大学へも進学した。父は、私の大学入学の時、大切に残してあった、山の種松を売って、3万円の入学費用を作ってくれたのであった。しかし、その後は、私は父母の援助をほとんど受けず、アルバイトと奨学金で大学も卒業することが出来たのであった。
 そして、現在の会社に就職して、もう16年の年月が経ち、長男はやがて中学生になろうという年齢になってしまった。そして、昔の私と同じように、もう、親に反抗し始めているのである。
 しかし、私の心の中にふるさとの母の心の匂いのする鬼池の赤い灯台と、天神山のやさしい風景がある限り、私は、大丈夫だと考えている。
 母も、70歳となった。この母が、これからはどんな子守歌を唄ってくれるのだろうかと考えながら、同じふるさと出身の妻と、反抗期の子供達を連れて、私は母の住む天草島に、今年もまた、帰りたいと考えている。

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