「心の中のふるさと」---天草島--- 荒木忠夫
先日、会社の定期歯検診で、私の歯を見た医者が「この年齢で虫歯が一本もなく、しかも歯並びがきれいな歯は珍しい」と感心し、生まれはどこかと聞いた。私が、「九州の天草島だ」と答えると、「やはり、そうですか」とうなずいて納得していた。その医者の話では、島育ちの人は、海草などの食べ物の影響で、統計的に、歯が強いのだそうである。なるほど、私は38歳の現在になるまで、虫歯の痛さというものを全く知らないし、歯医者にかかったことが一度もないのである。
しかし、私は、医者のいとも簡単な納得に、何か物足りなさを覚えたのである。私には、38歳の現在の強さよりも、歯が強くならざるを得なかった幼少年時代の、ふるさとでの貧しい生活、しかしその中でも、常にほのぼのとしたぬくもりを感じさせてくれた母の、心の匂いが大切に思えるのである。
私のふるさとは、熊本県の天草島である。島原の子守歌に「おんのいけ(鬼池)の忠助どんの連れにこらるばい」と歌われている天草下島の最北東にあたる、五和町鬼池という港のある半農半漁の小さな町である。
五和町は、昭和30年頃、五つの村が合併して出来た町であり、私はその中の鬼池村で育ったのであった。私は昭和23年に鬼池小学校に入学した。私の家は、いわゆる五反百姓の農家で、八人の子供を養うのは楽ではなかった。米飯を食べるのは、盆と正月と村祭りに限られており、日常はさつまいもか麦飯であった。しかし当時は鰯(いわし)が豊富で、地引き網でいくらでもとれたため、食べきれずに田畑の肥料(いわしごえ)にするほどであった。私たち兄弟は、厳しい父に、この鰯を魚のまま食べさせられており、父の目を盗んでは、そっと、骨をおぜんのしたに隠して、捨てたのを覚えている。芋と鰯が当時の私たちの常食であり、お菓子や飴など甘いものなどめったに食べず、鰯を骨のまま食べて腹を満たしていたから、歯医者などいらないのである。終戦から何年かは、日本中どこでも同じような食糧難の状態が語られているが、私の家では、零細農家のうえに、八人兄弟という子沢山で私が中学に行くようになっても、あまり生活水準の向上は見られず、相変わらず同じような状態であった。
当時のように、姉や兄は中学卒業と同時に口減らしの為、ちょっとしたコネでも頼って島から出ていったのである。
私は、姉や兄が小さな連絡船で港から出ていくたびに、突堤の先端の赤い灯台の下で、いつまでも立ち続けていた母の姿を、今でもはっきりと思い出すことができる。海の上に約200メートルも延びた防波突堤と、その先端にあるこの赤い灯台の物寂しさは、8月15日の夜の幾重にも重なって、その灯台の沖を流れる精霊(しょうろう)船と共に、私の心の中にあるふるさとの一つの風景である。
鬼池には、天神山という富士山に似た形の山がある。天神山は鬼池で一番高い山で、海抜171メートルあり、その山頂からは、村中が見渡せ、海の青さと小さな島々の松の緑、波の白さなど、その眺めは素晴らしいものであった。天神山は鬼池村の守り神で、山頂には、ほこらが建てられ、7月25日がその祭りであった。祭りには、村中が仕事を休みダゴ(田子)を作って祝い、山頂で子供達の相撲大会が行われるのであった。私は一度だけ、その相撲大会で関脇をもらったことがあった。
中学一年生に入学した年の春の遠足は、私にとって、一生忘れられない遠足であった。遠足の楽しみは弁当であり、私の家でも、遠足の時だけは母がいつも、米飯の大きなにぎりめしに、卵焼きを添えてくれるのであった。その遠足の朝、母は、私に弁当を手渡しながら、悲しそうな目で、中身が芋であることを、告げたのであった。そして、私の手を強く握って、しばらく離そうとはしなかったのである。私は大声で母をののしり、その手を振りほどいて、泣きながら走ったのだった。弁当の時間、天神山のつわぶきの、芽吹いた藪の中で、私を探す友達の声を遠くで聞きながら、私は空腹に勝てず、私はその芋を、泣きながらかじったのであった。中学生の私には、そのときの母のつらさがどんなものであったのか理解できるはずもなく、帰ってからも、母をせめ続けたのであった。
昭和36年の夏、天草地方は未曾有の干ばつに見舞われた。水の出そうな場所は、至る所で井戸が掘られ、水探しが続けられたが、水田は大きく干割れし、稲は白くなって枯れようとしていた。しかし、雨は、いっこうに降らなかった。
そして、誰が言い出すこともなく、雨乞いをすることになったのである。各農家から一人づつ人を出して、何人かづつ組になって、天神山の山頂から、雨乞いが本当におこなわれたのであった。毎日、朝から夕方まで天神山の上でうち鳴らされる太鼓の音が、村中に響き渡ったのである。私の家からは、母が出ることになり、真剣な顔をして、近所の人達と一緒に、山道を登って行ったのであった。雨乞いの結果で、雨が降ったかどうかは、はっきりした記憶がない。しかし今でも、天神山の祭りが続いているところをみると、多分、神様のごりやくがあったのではなかろうかと考えるのである。
鬼池の守り神であるこの天神山の懐かしい姿もまた、少年時代の思い出の中で、何とはなしに母のイメージと重なって、私の心の中に、ふるさとの風景として残っているのである。
天草の正月もまた、母を通じて、私の心の中に一つの風景を残している。それは、私が中学3年生で、高校受験を間近に控えた頃のことであった。私は先生のすすめもあって、他の二人の友人と共に、天草島を離れ、熊本市内の高校を受験することを目標に頑張っていた。市内の高校に行くことになれば、下宿が必要で、そのために要する費用は大変なものであった。八人の子供を抱えた五反農家の父母には、とうてい、そのような余裕などなかったのである。それでも父母は何とかして、私を希望通りの高校に進学させようと、いろいろ努力したようであるが、やはり、無理だったのである。
12月のある寒い夜、父は私を囲炉裏の端に座らせ、市内の高校をあきらめて、地元の高校に進学して欲しいと私に言った。私は、泣きながら父のかいしょうの無さを、大声でののしった。日頃、厳しい父も、その時は無言で何かをかみしめているようであった。母は、何かを頼むような目で私をじっと見つめ、その目には涙が光っていた。しかし、私は、消えかけた囲炉裏の火を見つめながら、父母をののしり続けたのであった。
それから、私は勉強もせず、家族にも口を聞かない日が続いていた。その為、家の中は、毎日、何となく重苦しい日が続いていた。そして、年が明け、元旦となった。私は、家族全員で毎年行う初詣に参加せず、一人でふとんをかぶって寝ていたのであった。
朝、目を覚ますと、枕元に五・六枚の年賀状がおいてあった。私は床の中で何気なくそれを手にし、たいした感情もなく、一枚づつそれをめくっていった。それは、ほとんどが同じクラスの友人達からのもので、今年も頑張ろう、今年もよろしく、という内容のものであった。しかし、最後の一枚を読みながら、私は驚いた。それは、およそ、年賀状らしくない長々しいものであり、鉛筆書きで、ところどころ、なめたらしい濃い部分が残り、カタカナ混じりで書かれていた。差出人の名前はなかったが、私には、それが同じ家に住む母からのものであることは、すぐにわかった。
「おまえに、明けましておめでとうと言うのはつらい。でも、母さんは、お前が元旦に、みんなの前で笑いながら、おめでとうと言ってくれる夢を何回も見ました。母さんは、小さい頃、お前が泣き出すと、子守歌を唄って、泣きやませましたが、今はもうお前に、唄ってやる子守歌もないので、本当に困っています。今度は、お前が母さんに、親守歌を唄って欲しい」
14歳の私は、元旦の床の中で声をあげて泣いた。それは、中学3年生の反抗期の私に対する、母の心からの子守歌だったのである。
この母の子守歌のおかげで、私は立ち直り地元の高校に進学し、その後、高校卒業と同時に、大学へも進学した。父は、私の大学入学の時、大切に残してあった、山の種松を売って、3万円の入学費用を作ってくれたのであった。しかし、その後は、私は父母の援助をほとんど受けず、アルバイトと奨学金で大学も卒業することが出来たのであった。
そして、現在の会社に就職して、もう16年の年月が経ち、長男はやがて中学生になろうという年齢になってしまった。そして、昔の私と同じように、もう、親に反抗し始めているのである。
しかし、私の心の中にふるさとの母の心の匂いのする鬼池の赤い灯台と、天神山のやさしい風景がある限り、私は、大丈夫だと考えている。
母も、70歳となった。この母が、これからはどんな子守歌を唄ってくれるのだろうかと考えながら、同じふるさと出身の妻と、反抗期の子供達を連れて、私は母の住む天草島に、今年もまた、帰りたいと考えている。
先日、会社の定期歯検診で、私の歯を見た医者が「この年齢で虫歯が一本もなく、しかも歯並びがきれいな歯は珍しい」と感心し、生まれはどこかと聞いた。私が、「九州の天草島だ」と答えると、「やはり、そうですか」とうなずいて納得していた。その医者の話では、島育ちの人は、海草などの食べ物の影響で、統計的に、歯が強いのだそうである。なるほど、私は38歳の現在になるまで、虫歯の痛さというものを全く知らないし、歯医者にかかったことが一度もないのである。
しかし、私は、医者のいとも簡単な納得に、何か物足りなさを覚えたのである。私には、38歳の現在の強さよりも、歯が強くならざるを得なかった幼少年時代の、ふるさとでの貧しい生活、しかしその中でも、常にほのぼのとしたぬくもりを感じさせてくれた母の、心の匂いが大切に思えるのである。
私のふるさとは、熊本県の天草島である。島原の子守歌に「おんのいけ(鬼池)の忠助どんの連れにこらるばい」と歌われている天草下島の最北東にあたる、五和町鬼池という港のある半農半漁の小さな町である。
五和町は、昭和30年頃、五つの村が合併して出来た町であり、私はその中の鬼池村で育ったのであった。私は昭和23年に鬼池小学校に入学した。私の家は、いわゆる五反百姓の農家で、八人の子供を養うのは楽ではなかった。米飯を食べるのは、盆と正月と村祭りに限られており、日常はさつまいもか麦飯であった。しかし当時は鰯(いわし)が豊富で、地引き網でいくらでもとれたため、食べきれずに田畑の肥料(いわしごえ)にするほどであった。私たち兄弟は、厳しい父に、この鰯を魚のまま食べさせられており、父の目を盗んでは、そっと、骨をおぜんのしたに隠して、捨てたのを覚えている。芋と鰯が当時の私たちの常食であり、お菓子や飴など甘いものなどめったに食べず、鰯を骨のまま食べて腹を満たしていたから、歯医者などいらないのである。終戦から何年かは、日本中どこでも同じような食糧難の状態が語られているが、私の家では、零細農家のうえに、八人兄弟という子沢山で私が中学に行くようになっても、あまり生活水準の向上は見られず、相変わらず同じような状態であった。
当時のように、姉や兄は中学卒業と同時に口減らしの為、ちょっとしたコネでも頼って島から出ていったのである。
私は、姉や兄が小さな連絡船で港から出ていくたびに、突堤の先端の赤い灯台の下で、いつまでも立ち続けていた母の姿を、今でもはっきりと思い出すことができる。海の上に約200メートルも延びた防波突堤と、その先端にあるこの赤い灯台の物寂しさは、8月15日の夜の幾重にも重なって、その灯台の沖を流れる精霊(しょうろう)船と共に、私の心の中にあるふるさとの一つの風景である。
鬼池には、天神山という富士山に似た形の山がある。天神山は鬼池で一番高い山で、海抜171メートルあり、その山頂からは、村中が見渡せ、海の青さと小さな島々の松の緑、波の白さなど、その眺めは素晴らしいものであった。天神山は鬼池村の守り神で、山頂には、ほこらが建てられ、7月25日がその祭りであった。祭りには、村中が仕事を休みダゴ(田子)を作って祝い、山頂で子供達の相撲大会が行われるのであった。私は一度だけ、その相撲大会で関脇をもらったことがあった。
中学一年生に入学した年の春の遠足は、私にとって、一生忘れられない遠足であった。遠足の楽しみは弁当であり、私の家でも、遠足の時だけは母がいつも、米飯の大きなにぎりめしに、卵焼きを添えてくれるのであった。その遠足の朝、母は、私に弁当を手渡しながら、悲しそうな目で、中身が芋であることを、告げたのであった。そして、私の手を強く握って、しばらく離そうとはしなかったのである。私は大声で母をののしり、その手を振りほどいて、泣きながら走ったのだった。弁当の時間、天神山のつわぶきの、芽吹いた藪の中で、私を探す友達の声を遠くで聞きながら、私は空腹に勝てず、私はその芋を、泣きながらかじったのであった。中学生の私には、そのときの母のつらさがどんなものであったのか理解できるはずもなく、帰ってからも、母をせめ続けたのであった。
昭和36年の夏、天草地方は未曾有の干ばつに見舞われた。水の出そうな場所は、至る所で井戸が掘られ、水探しが続けられたが、水田は大きく干割れし、稲は白くなって枯れようとしていた。しかし、雨は、いっこうに降らなかった。
そして、誰が言い出すこともなく、雨乞いをすることになったのである。各農家から一人づつ人を出して、何人かづつ組になって、天神山の山頂から、雨乞いが本当におこなわれたのであった。毎日、朝から夕方まで天神山の上でうち鳴らされる太鼓の音が、村中に響き渡ったのである。私の家からは、母が出ることになり、真剣な顔をして、近所の人達と一緒に、山道を登って行ったのであった。雨乞いの結果で、雨が降ったかどうかは、はっきりした記憶がない。しかし今でも、天神山の祭りが続いているところをみると、多分、神様のごりやくがあったのではなかろうかと考えるのである。
鬼池の守り神であるこの天神山の懐かしい姿もまた、少年時代の思い出の中で、何とはなしに母のイメージと重なって、私の心の中に、ふるさとの風景として残っているのである。
天草の正月もまた、母を通じて、私の心の中に一つの風景を残している。それは、私が中学3年生で、高校受験を間近に控えた頃のことであった。私は先生のすすめもあって、他の二人の友人と共に、天草島を離れ、熊本市内の高校を受験することを目標に頑張っていた。市内の高校に行くことになれば、下宿が必要で、そのために要する費用は大変なものであった。八人の子供を抱えた五反農家の父母には、とうてい、そのような余裕などなかったのである。それでも父母は何とかして、私を希望通りの高校に進学させようと、いろいろ努力したようであるが、やはり、無理だったのである。
12月のある寒い夜、父は私を囲炉裏の端に座らせ、市内の高校をあきらめて、地元の高校に進学して欲しいと私に言った。私は、泣きながら父のかいしょうの無さを、大声でののしった。日頃、厳しい父も、その時は無言で何かをかみしめているようであった。母は、何かを頼むような目で私をじっと見つめ、その目には涙が光っていた。しかし、私は、消えかけた囲炉裏の火を見つめながら、父母をののしり続けたのであった。
それから、私は勉強もせず、家族にも口を聞かない日が続いていた。その為、家の中は、毎日、何となく重苦しい日が続いていた。そして、年が明け、元旦となった。私は、家族全員で毎年行う初詣に参加せず、一人でふとんをかぶって寝ていたのであった。
朝、目を覚ますと、枕元に五・六枚の年賀状がおいてあった。私は床の中で何気なくそれを手にし、たいした感情もなく、一枚づつそれをめくっていった。それは、ほとんどが同じクラスの友人達からのもので、今年も頑張ろう、今年もよろしく、という内容のものであった。しかし、最後の一枚を読みながら、私は驚いた。それは、およそ、年賀状らしくない長々しいものであり、鉛筆書きで、ところどころ、なめたらしい濃い部分が残り、カタカナ混じりで書かれていた。差出人の名前はなかったが、私には、それが同じ家に住む母からのものであることは、すぐにわかった。
「おまえに、明けましておめでとうと言うのはつらい。でも、母さんは、お前が元旦に、みんなの前で笑いながら、おめでとうと言ってくれる夢を何回も見ました。母さんは、小さい頃、お前が泣き出すと、子守歌を唄って、泣きやませましたが、今はもうお前に、唄ってやる子守歌もないので、本当に困っています。今度は、お前が母さんに、親守歌を唄って欲しい」
14歳の私は、元旦の床の中で声をあげて泣いた。それは、中学3年生の反抗期の私に対する、母の心からの子守歌だったのである。
この母の子守歌のおかげで、私は立ち直り地元の高校に進学し、その後、高校卒業と同時に、大学へも進学した。父は、私の大学入学の時、大切に残してあった、山の種松を売って、3万円の入学費用を作ってくれたのであった。しかし、その後は、私は父母の援助をほとんど受けず、アルバイトと奨学金で大学も卒業することが出来たのであった。
そして、現在の会社に就職して、もう16年の年月が経ち、長男はやがて中学生になろうという年齢になってしまった。そして、昔の私と同じように、もう、親に反抗し始めているのである。
しかし、私の心の中にふるさとの母の心の匂いのする鬼池の赤い灯台と、天神山のやさしい風景がある限り、私は、大丈夫だと考えている。
母も、70歳となった。この母が、これからはどんな子守歌を唄ってくれるのだろうかと考えながら、同じふるさと出身の妻と、反抗期の子供達を連れて、私は母の住む天草島に、今年もまた、帰りたいと考えている。