人生行路の旅,出会いと別れのソナタ

生活・仕事・旅行などの総合ブログです! カテゴリを選んでご愛読ください! (Sorry Japanese Only)

2008_アルゼンチン便り (19)

2008-07-27 | 2008_アルゼンチン便り
◆ 小鳥の卵が孵化,親鳥は目下子育て中! ◆

 前回の記事で,筆者が住むアパートのベランダにある植木鉢に小鳥が巣を作ったことに触れたが,二つ生んだ卵を抱き始めてから2週間あまり経った7月21日(月)の未明に,このうちの1個の卵が孵化した.お世辞にも「かわいい」とは言い難い不細工な姿の雛が確認できたが,もう一つはまだ卵のままである.それ以来1週間弱が経つが,この残る一つの卵はいっこうに孵化する気配がない.親鳥は,孵化した雛の子育ての傍ら,この卵を抱き続けてはいるが,はたして無事に孵化するかどうか心配である.

 よく観察していると,親鳥はときどき巣を離れて餌を探しにいくようだ.そして巣にもどっては,雛鳥に口移しで餌をやっている姿が見える.この作業もけっこう大変だろうと,近くにパン屑をまいてやったら,以前は見向きもしなかったのに最近はこれをついばむようになった.水たまりを作ってやると,水も飲むようにもなった.もう一つの卵のほうは,気長に抱いている気配もあるが,時には脇へ放り出している場合もある.ひょっとしたらダメなのかも知れない.まあ,もう少し様子を見ることにしよう.

 今回は,そんな親鳥の子育ての様子などを画像で紹介しておこう.
夜明けに1羽の雛がかえってた!
【夜明けに1羽の雛がかえってた!】
もうこんなに大きくなった!
【もうこんなに大きくなった!】
親子の鳥が寄り添って!
【親子の鳥が寄り添って!】
あれ,たまごが一つ残ってる!
【あれ,たまごが一つ残ってる!】
親鳥が巣を離れた!
【親鳥が巣を離れた!】
餌を探しに行こう!
【餌を探しに行こう!】
こんなところにパンくずが!
【こんなところにパンくずが!】
このパン,食べられるかなあ!
【このパン,食べられるかなあ!】
えい,食べちゃえ!
【えい,食べちゃえ!】
パンの餌,どうもありがとう!
【パンの餌,どうもありがとう!】

(2008/07/27,アルゼンチン・コルドバ市の自宅にて,筆者)

2008_アルゼンチン便り (18)

2008-07-20 | 2008_アルゼンチン便り
◆ ベランダの植木鉢に小鳥が卵を産んで抱き始めた! ◆

 少し堅い話が続いたので,ここで一息入れよう.筆者が住むアパートが20階建ての18階の部屋で,見晴らしの良い広いベランダに恵めれていることは最初のほうの記事で触れたが,このベランダの一角にある一つの植木鉢に最近小鳥が卵を生み,親鳥が(たぶん)交替で抱き始めた.ハトよりも小さく,スズメよりも大きいが,ネットで調べてみると,どうやら野バトもしくはキジバトらしいことがわかった.気がついたのは今月(7月)5日(土)のことである.

 土曜日はいつも,ベランダに並ぶ植木鉢にホースで水をやるのが日課だが,この日ふと上のほうにある植木鉢を見ると,小鳥がその中に座り込んでいる.あわててホースを遠ざけ,少し近づいてみたが,逃げる様子もない.目をパチクリさせてじっとこちらを眺めながら,様子をうかがっている.さては巣を作ったかとそのとき初めて気がついたのだが,ほんの2~3日前までは思いもよらなかったので,ホースで上からジャージャーと植木鉢を水浸しにしていたものである.もしかして,卵に洪水を浴びせたかもしれないと,その後しばらく気になっていた.

 それ以来,植木鉢への水やりには,ずいぶん注意するようになった.できるだけホースは使わず,台所からやかんに水を汲んできて,植木鉢一つ一つに静かに丁寧に水をかけるようにしている.またベランダには,折々に洗濯物を干すときもあるが,大きいシーツなどを干すときはどうしてもこの小鳥の巣に近づいてしまう.風で洗濯物が空中に舞うこともある.しかし,この親鳥は驚いて逃げる様子はなく,ただ目をパチクリさせながら,じっと卵を温め続けている.安心しきっているんだと思い,挨拶でもしようかと小鳥に向かって右手を振ったとき,一度だけバタついて飛び立とうとしたことがあった.

 あれから2週間が経つ.来る日も来る日も,日射の強い昼間も,かなり冷え込む夜間も,ずっと卵を抱き続けているのには,ほとほと感心してしまった.強い風が吹くときなど,同じ植木鉢の草花がなびいて小鳥の頬を打つこともあるが,いっこうに気にする気配がない.それより,いったいいつ餌を食べているのかと心配になる.このままでは,飢え死にしてしまうのではないかと,本気で考えるようになった.パンのかけらや米粒をそっと近くに置いてやったが,食べようとはしなかった.そして,よくよく観察してみると,実はこの鳥にも相棒がいる(そのときにはお父さん鳥と思っていた)ことがわかった.

 あるとき,ベランダをそっと眺めていたらこの小鳥,巣から出て近くを散歩し始めた.見ると,もう一羽の鳥(一見しても区別はつかない)が飛来して,2羽おそろいでベランダの塀の上をうろついている.そうだ,ちゃんと餌を運んできてもらってそっと食べているに違いないと,妙に納得して安心したものである.ネットで調べたところによると,ある種の小鳥は,必ずしも雌鳥だけが卵を抱くのではなく,雄雌交替で卵を温め続けることもあるそうだ.まあ,どちらにしても,とりあえずは一安心である.その,親鳥が巣を離れたちょっとした時間の合間に,工夫して上部から卵の様子を撮影することができた.うずらよりも少し大きめのまっ白い卵が2個あることが確認できたのである.

 卵が孵化するまで,どのくらい時間がかかるのかよくわからない.ネット情報では20日くらいとの記事もあったが,とするとあと1週間以内で雛がかえるのだろうか.たいへん楽しみである.このアパートでの生活を始めて以来,植木鉢への水やりと洗濯物干し作業をたいへん煩わしく思っていたが,最近では,この小鳥のおかげで楽しいひと時となった.今では,目をパチクリさせながらじっと卵を抱き続ける親鳥に,遠くから視線を送って挨拶するのがほとんど日課となっている.そして,本能とはいえその忍耐強い親鳥の持久力に,思わず励まされている自分を発見したりして,今日も暮らしている次第である.
植木鉢に巣をつくった親鳥
【植木鉢に巣をつくった親鳥】
小鳥の巣にあった2個の卵
【小鳥の巣にあった2個の卵】
2羽おそろいでベランダの塀を散策
【2羽おそろいでベランダの塀を散策】

(2008/07/20,アルゼンチン・コルドバ市の自宅にて,筆者)

2008_アルゼンチン便り (17)

2008-07-13 | 2008_アルゼンチン便り
◆ 南米最初の日本人移民・亜国入国第一号:牧野 金蔵 ◆

 日本人の南米移民の歴史が,ともすれば明治期にブラジルやペルーへ渡った「官制移民」の経緯から説き起こされることが多いが,実はここ亜国(アルゼンチン)のほうが古い歴史をもっている.有名な「笠戸丸」での第1回ブラジル渡航は1908(明治41)年のことだったが,それより22年も早い1886(明治19)年に,すでにアルゼンチンには日本人移住の足跡が刻まれている.その名を「牧野 金蔵」といい,はっきりとした記録に残されている南米最初の日本人移民といえる人物である.以下,研究者の調査に基づき,その逸話を紹介してみよう.

== 牧野金蔵は,1859(安政6)年,相州三浦三崎(神奈川県)に生まれ,のち東京本所区四ツ目に本籍を移した.母親の下里お房(しもさと・おふさ)は彼が幼少の折り死亡,父親が再婚し,継母との折合い悪く,また彼の家は徳川直参の旗本の流れだったので,当時の彼としては官軍政府から徴兵に召集されることが何となく癪に障り,その上,次男坊で早く親の下を辞して外国に渡り,立身の道を立てようと志した.外国へ行くには外国通いの汽船の乗組員になるのが早道だと聞き,種々苦心の末,やっと上海往復の国内船に乗り込むことができたのは18歳の時であった.==

== それから2年間料理人兼ボーイ,水夫見習いを勤め,副業として上海から鶏卵や煙草を買い入れ,内地に持ち帰って売り,相当の利益を上げていたが,当時の一般水夫の放縦な生活ぶりに関心できず,彼は転じて英国船の帆船に乗り込み3年ほど働いたが,その間,ずいぶん苦労した.ある時はインド洋を航行中烈風のため海中に吹き落され,九死に一生を得たこともあった.==

== その後転じて,今度は大きな汽船に乗り込み北米に渡り,鉄道の工夫やホテルの皿洗い等の労働に従事し,多少の貯蓄ができたが,悪友に謀られ無一文となってしまったので,ふたたび馴れた海上生活に帰った.そして北米と南米の間を往復し,蓄えもできたが,どうしても海上生活に満足できず,千思万考の末,決心して上陸したのがアルゼンチン国ブエノスアイレス港で,時は1886年,彼が28歳の時であった.==

== 長く英国船に乗ったり北米で労働した関係上,英語は多少話せるが,スペイン語圏のアルゼンチンへ上陸した彼はまず言語の不通に閉口した.加うるに船中から苦楽を共にした同輩に貯金全部を拐帯され,またもや一文無しの身となった.しかし彼は,自己の力であくまで運命を開拓しようと決意し,当時コルドバ市は鉄道建設事業勃興の時で,肉体労働の有望なるを聞き,ブエノスアイレスより700余キロの道を徒歩でたどり着き,はじめに材木運搬人夫となり,次に鉄道馬車の馭者に転じ,熱心に機敏に働くのを鉄道会社が認めるようになった.==

== 殊に倉庫課長の信頼は絶大で,ある日,課長は彼に1枚のロッテリーア(宝くじ)を買わせた.それが偶然当たって課長は10万ペソ儲けた.そのうち数千ペソを彼に与えようとしたが,彼は堅く辞して受けなかったので,課長はその精神の美しさに感じ,自家に働いているアマリア・ロドリーゲスというセニョリータ(娘)との結婚をすすめた.彼も,彼女が温厚な心の持ち主であるのを日ごろから察しており,また彼女も彼の真心をよく知っていたので,1892年8月13日,ロッテリーアの縁で目出度く結婚した.==

== その後はますます精励し,機関運転助手に進み,俸給も数倍になり,その上,長い船中生活から得た機械に対する経験が役立って遂に機関運転手となることができた.そして彼の運転振りが鮮やかであったため,欧州から新型の機関車が到着すると,必ず彼を呼んで試運転をさせたというほど,アルゼンチン中央鉄道会社になくてはならない存在となった.==

== 彼が当地にきた時は,自分は日本人だといっても当地の者はほとんど日本という国を知らず,たぶん,ボリビアのCOLLA種族であると考え,仇名をコージャと呼んだくらいで,仕事の帰りを物珍しく家までついてくる者さえあったが,日露戦争が始まって日本軍が連戦連勝するに及び,初めて当地の人も日本国の存在がわかり,日本人であると認められた.(中略)1927年に退職し,その後は恩給で静かな日を送っていたが,1929年8月19日没す.(以上は山岸新作著「南米雑録」から転載の由.)==

 上記の逸話を裏付ける史実が,実は1985年に発掘されている.この年の3月,著者の大城氏は牧野金蔵氏の3男ペドロ・キング氏など3人で,当時のアルゼンチン国鉄バルトロメ・ミトレ線コルドバ駅の人事課長パシアローニ氏を訪ね,牧野金蔵が就職していた鉄道会社の資料と,また同じく鉄道会社に就職していた大野与三松の資料が是非欲しいと実情を打ち明け懇請したところ,1か月ほどしてこれを見つけたという知らせがあり,出かけてみると鉄道会社の真正なるミゲル・キング(牧野金蔵)の勤務表で,百年近い眠りからやっと陽の目を見るようになった貴重な史料であった.

 この勤務表の題目は全部英字で刻まれており,往時の英国資本の権勢が容易にうかがわれる.ために,牧野金蔵の英語名も「マイケル・キング」とされている由である.ちなみに,アルゼンチン最初の鉄道開通はフェロカリール・オエステ線で,1857(安政4)年8月9日のこと.日本では新橋・横浜間の鉄道開通が1870(明治2)年で,牧野金蔵就職の19年前であった.

 なお,史実があまりはっきりしないために単なる断片記録の域を出ない逸話では,「牧野金蔵入国以前の日本人」として次のような紹介がされている.1873(明治5)年3月8日付のポスターに「サツマ一座」曲芸団がコロン劇場に出演という資料があるという.(崎原朝一氏発表)また,ペルーのリマには軽業師一座が2回来ていることがわかっているが,この2回目は1888(明治20)年2月で,興業師はチャス・コメリーでチョンマゲを結って裃姿で紙の蝶々を自由に飛ばして大好評を受けたという.

 こうしたことから,南米に本格的に日本人移民が来る前は,軽業師,曲芸師が各国を巡回し,盛んに活躍していた時代だったといえるようだ.そのほかに,日本帝国海軍練習艦「竜驤丸」は伊東祐亭海軍大佐司令の下,太平洋を廻ってペルー国カリャオに1883(明治15)年5月入国,その後太平洋を南下してマゼラン海峡を通航,アルゼンチン,ブラジルを訪問(ペルー新報のペルー邦人75年の歩み)と載っているが,それが事実であれば牧野金蔵入国3年前になる.しかし,その件に通じているフラギオ・元駐日亜国大使が日本の資料に問い合わせたところ,竜驤丸はペルーで当時の悪性伝染病が艦内に感染流行し,それ以上航行に耐えることができず,ペルーから日本へ引き返した由である.

 アルゼンチンへの日本人移住(移民)はこのように始ったわけだが,これ以降,1898(明治31)年には日亜修好条約が調印され,ここコルドバにも,第2号と思われる小柿ホセ―(日本名不明)や第3号と思われる大野与三松(西語名アントニーオ)などの名が現われて,開拓時代の列伝が続いていく.ちなみに,現在,アルゼンチン全体の日系人の数はいろいろと説はあるがだいたい3万~3万5千人,ここコルドバの日系人口は約1500人ということである.最近では,若い日系青年男女が逆に日本へ出稼ぎに出かけ,1世や2世の高齢化も進み,在亜日系人たちの胸のうちもかなり複雑であるようだ.
1897年当時の牧野金蔵機関士(右)38歳
【1897年当時の牧野金蔵機関士(右)38歳】

(2008/07/13,アルゼンチン・コルドバ市の自宅にて,筆者)

2008_アルゼンチン便り (16)

2008-07-06 | 2008_アルゼンチン便り
◆ 日本人移民発祥の地はコルドバか?<続> ◆

 前回記事の末尾で紹介した書籍『日本移民発祥の地 コルドバ』の書き出しによれば,この国アルゼンチンへの移住(移民)は,他のブラジルやペルーなどの場合といささか異なる歴史的経緯をもっていたことが分かってくる.著者は,「アルゼンチン国移住の位置づけ」と題した序章の中で,まずは次のように述べている.

== アルゼンチン移住は,ペルーやブラジルに比して独自の発展構図を持っている.当国の移住政策は専らヨーロッパ系を対象にその導入を奨励した.また,当時欧州は,宗教的人種的な迫害や生活難から逃れる気配もあって,アルゼンチンに多数の移民が押し寄せてきた.1854年100家族のスイス人移民に端を発し,1930年まで76年間に450万人のヨーロッパ移民が到着した.南北アメリカ大陸に戦前100年間に約6千万人のヨーロッパ移民が入国した.北米に次ぐ第二の移民受入国の亜国(アルゼンチン)は,スペイン人とイタリア人を主体に他のヨーロッパ系も入れて,今日の亜国人口の7割以上が構成されている.==

== そのような状況下でアルゼンチンの初期日本移民は,移民会社の手を経て入国したものは一人もなく,各々英国船によって渡亜した者,または船員の脱船者,ブラジル,ペルーからの転任者で,移民局や大使館に何一つ記録がない.そういう人たちによって在亜日本人社会の基礎が築かれた.また,ペルーやブラジルの場合は,外国移民の導入は主として奴隷に代わる労働力の補給の目的であったので,労働賃金はきわめて低かった.それに比べてアルゼンチンの労働賃金は高いレベルにあって,ブラジルやペルーからの転任者は止まるところを知らない勢いで入ってきた.==

== ブラジルの第1回渡航(笠戸丸)の農業契約移民の781名のうち,前宣伝と全く違った現地の惨めな生活労働条件の耕地から脱耕し,アルゼンチンに渡った者が168人に達したといわれる.当時,アルゼンチン側では国の発展のための人手が必要だったし,必ずしも正式でないルートから入ってくる日本人移民に対しても法律は緩やかだったし,門戸は開放されていた.==

 こうして,アルゼンチンへの日本人移住(移民)は始まったのだが,その経緯からして,通常の日本における公式の「移民史」にあまり記述が登場してこない理由も納得できる.さらにこの著書は,本編冒頭の「先人の足跡」と題する章建ての中で,「コルドバで売られた日本奴隷は最初の南米移民では?」との副題を付け,次のような驚くべき史実に触れている.その著書が書かれる三十余年前(今から数えれば四十余年前)に,日系二世も含めた大学生の研究グループがコルドバ州立古文書保存館から見出した貴重な資料で,当時の日系社会で話題を呼んだが,その後1982年に裁判問題資料を発掘して決定版となった由である.

== 時は1596年,今から約400年前の出来事.いわゆるフランシスコ・ハポン(サポン)なる日本人が奴隷としてコルドバで売られ,「自分は奴隷として売買される謂(いわ)れはない」と裁判に訴え,自由の身になった経緯である.(この後,奴隷売買契約公正証書や裁判告訴の経過を示す原文資料の翻訳が掲載されているが,ここでは省略する.)前記の事件の背景を史書の記録を参考に,当時の情勢を断片的に記してみる.==

== コロンブスの新大陸発見の1492年に端を発し,ヨーロッパ人の未知の世界に対する探検,植民,貿易,布教等が活発に行われ,以後世界の動向と運命を大きく変えた.(中略)16世紀の初期にスペインの遠征軍は中部アメリカを掌握するや兵を南に進め,強大と思われたインカ帝国を壊滅(1533)させ,いよいよ植民地政策遂行の基礎を固めていった.==

== かくて1543年ビレイナット・デ・ペルー(副王領=スペイン王国の代理行政機関)をリマに設置,中南米大陸の当時の拠点としたスペイン遠征軍はさらに南下し,ボリビアのポトシー,アルゼンチン領のサンティアゴ・デル・エステーロ(1553),トゥクマン,コルドバ(1573),ブエノスアイレス(1580)と次々に征服,新しい町をつくっていった.(中略)ブエノスアイレスはリマから長距離の陸上輸送で経費が高くつく.そこで,ポルトガル,イギリス,オランダの船はブエノスアイレス港で盛んに密貿易を働いたといわれている.==

== 一方,当時の日本はどうであったか.1542年種子島に鉄砲を伝えてきたポルトガル人(南蛮人)によって,これまで隔絶,孤立していた島国日本もヨーロッパ人との接触で世界の激流に巻き込まれることになり,政治,経済,軍事や思想上に直接間接に受けた影響は甚大であった.とくにカトリックの伝道は植民地化の勢力と密接に結びついていると受け取られ,したがって,この外圧に対する危機感が幕府をして,後200余年の鎖国に踏み切らせた根源といわれている.==

== 16世紀は,まさに群雄割拠して戦乱と闘争が繰り広げられた時代,それも漸く終局に近い1583年大坂城入りした豊臣秀吉により日本統一が着々と進められつつあった.当時ポルトガルとスペインが主な貿易国で,彼らの出入りする貿易港を中心に,キリスト教が急速に広まっていくに驚愕して,キリシタン禁止令が布告された.それにもかかわらず,いっこうに自省の色が現われず,最早,伝道を黙過できない段階にきて,1596年遂に秀吉は26聖人の惨酷極まる処刑を決行させるにいたった.==

== キリスト教の禁止令と同時に人身売買禁止令も布告された.当時ポルトガル貿易商人は,日本人奴隷を買いあさった.このような貿易商人の非行の実情を非難してポルトガル政府に抗議し,取引き禁止の勅令を発布させたが,一片の勅令だけでは遠隔の地日本で盛んに行われていたこの利益の大きい奴隷売買を阻止することができなかった.このようにして,ポルトガル商人に買い取られた日本人奴隷は,南アジア各地から遠くはメキシコ,アルゼンチンなど南北アメリカ大陸まで売り飛ばされた.==

== (中略)さてフランシスコ・ハポンという日本青年は,当時日本との貿易が頻繁に行われていた南蛮人(ポルトガル人)によって連れられてきたことが濃厚に示されている.また正式なスペインの航路を通らず,ブエノスアイレス港に入ってきたと推測できる.ということは,スペイン国法に照らし,奴隷に処せられる条件になかった.さらに,当時日本の置かれていた社会情勢から推してこの青年の出国を考えた場合,熱烈なカトリック信者であったか,もしくは戦乱の浪人「侍」であったともいえる.いずれにせよ同民族間で限りない闘争で明け暮れる日本に見切りをつけ,たまたまポルトガル人に嘆願し,新天地を求める好奇心と活路を求める意で大きな野望を抱き,ポルトガル船に乗り込み,大陸アルゼンチンに来た「最初の南米日本人移民」だった,と史実に基づいて断定してよかろう.==

== (中略)フランシスコ・ハポンは,裁判の結果自由の身となったが,その後の消息はわからない.当時の社会情勢からして,寺院に登録してある出生,死亡届の書類を調べるのが良策と思うが,これも難作業である.案外その血統が子孫に脈々と伝わり,アルゼンチン,または南米大陸で大発展しているものと期待する.(中略)1982年,ほとんど不可能と思いながら,歴史家のロべーラ教師に実情を話し協力していただき,コルドバ国立大学のビブリオテーカ・マジョール(大図書館)に(裁判問題資料が)潜んでいるのを引き出した.(中略)なお,奴隷売買契約証書並びに裁判起訴状等の原文と翻訳文は,日本の国会図書館に寄贈され保管されている.==

 以上が,この著書で述べられている日本人のアルゼンチン移住(移民)の前史にあたる部分の抜粋・紹介である.日本の戦国時代の末期ごろに,このような出来事があったとしても不思議ではない気もするが,これほど具体的に史実が記録されているのは珍しいのではないか.また,それらの資料を発掘し,熱心に追跡調査・研究をされてきた日系アルゼンチン人の方々,ならびに協力されたアルゼンチン人関係者の方々に敬意を表さずにはいられない.
 次回には,近年(明治以降)のアルゼンチンにおける日本人移住(移民)の歴史について,同じくこの著書の中から主だった逸話などを紹介していこう.
紹介した書籍の表紙
【紹介した書籍の表紙】

(2008/07/06,アルゼンチン・コルドバ市の自宅にて,筆者)