◆ 日本人移民発祥の地はコルドバか?<続> ◆
前回記事の末尾で紹介した書籍『日本移民発祥の地 コルドバ』の書き出しによれば,この国アルゼンチンへの移住(移民)は,他のブラジルやペルーなどの場合といささか異なる歴史的経緯をもっていたことが分かってくる.著者は,「アルゼンチン国移住の位置づけ」と題した序章の中で,まずは次のように述べている.
== アルゼンチン移住は,ペルーやブラジルに比して独自の発展構図を持っている.当国の移住政策は専らヨーロッパ系を対象にその導入を奨励した.また,当時欧州は,宗教的人種的な迫害や生活難から逃れる気配もあって,アルゼンチンに多数の移民が押し寄せてきた.1854年100家族のスイス人移民に端を発し,1930年まで76年間に450万人のヨーロッパ移民が到着した.南北アメリカ大陸に戦前100年間に約6千万人のヨーロッパ移民が入国した.北米に次ぐ第二の移民受入国の亜国(アルゼンチン)は,スペイン人とイタリア人を主体に他のヨーロッパ系も入れて,今日の亜国人口の7割以上が構成されている.==
== そのような状況下でアルゼンチンの初期日本移民は,移民会社の手を経て入国したものは一人もなく,各々英国船によって渡亜した者,または船員の脱船者,ブラジル,ペルーからの転任者で,移民局や大使館に何一つ記録がない.そういう人たちによって在亜日本人社会の基礎が築かれた.また,ペルーやブラジルの場合は,外国移民の導入は主として奴隷に代わる労働力の補給の目的であったので,労働賃金はきわめて低かった.それに比べてアルゼンチンの労働賃金は高いレベルにあって,ブラジルやペルーからの転任者は止まるところを知らない勢いで入ってきた.==
== ブラジルの第1回渡航(笠戸丸)の農業契約移民の781名のうち,前宣伝と全く違った現地の惨めな生活労働条件の耕地から脱耕し,アルゼンチンに渡った者が168人に達したといわれる.当時,アルゼンチン側では国の発展のための人手が必要だったし,必ずしも正式でないルートから入ってくる日本人移民に対しても法律は緩やかだったし,門戸は開放されていた.==
こうして,アルゼンチンへの日本人移住(移民)は始まったのだが,その経緯からして,通常の日本における公式の「移民史」にあまり記述が登場してこない理由も納得できる.さらにこの著書は,本編冒頭の「先人の足跡」と題する章建ての中で,「コルドバで売られた日本奴隷は最初の南米移民では?」との副題を付け,次のような驚くべき史実に触れている.その著書が書かれる三十余年前(今から数えれば四十余年前)に,日系二世も含めた大学生の研究グループがコルドバ州立古文書保存館から見出した貴重な資料で,当時の日系社会で話題を呼んだが,その後1982年に裁判問題資料を発掘して決定版となった由である.
== 時は1596年,今から約400年前の出来事.いわゆるフランシスコ・ハポン(サポン)なる日本人が奴隷としてコルドバで売られ,「自分は奴隷として売買される謂(いわ)れはない」と裁判に訴え,自由の身になった経緯である.(この後,奴隷売買契約公正証書や裁判告訴の経過を示す原文資料の翻訳が掲載されているが,ここでは省略する.)前記の事件の背景を史書の記録を参考に,当時の情勢を断片的に記してみる.==
== コロンブスの新大陸発見の1492年に端を発し,ヨーロッパ人の未知の世界に対する探検,植民,貿易,布教等が活発に行われ,以後世界の動向と運命を大きく変えた.(中略)16世紀の初期にスペインの遠征軍は中部アメリカを掌握するや兵を南に進め,強大と思われたインカ帝国を壊滅(1533)させ,いよいよ植民地政策遂行の基礎を固めていった.==
== かくて1543年ビレイナット・デ・ペルー(副王領=スペイン王国の代理行政機関)をリマに設置,中南米大陸の当時の拠点としたスペイン遠征軍はさらに南下し,ボリビアのポトシー,アルゼンチン領のサンティアゴ・デル・エステーロ(1553),トゥクマン,コルドバ(1573),ブエノスアイレス(1580)と次々に征服,新しい町をつくっていった.(中略)ブエノスアイレスはリマから長距離の陸上輸送で経費が高くつく.そこで,ポルトガル,イギリス,オランダの船はブエノスアイレス港で盛んに密貿易を働いたといわれている.==
== 一方,当時の日本はどうであったか.1542年種子島に鉄砲を伝えてきたポルトガル人(南蛮人)によって,これまで隔絶,孤立していた島国日本もヨーロッパ人との接触で世界の激流に巻き込まれることになり,政治,経済,軍事や思想上に直接間接に受けた影響は甚大であった.とくにカトリックの伝道は植民地化の勢力と密接に結びついていると受け取られ,したがって,この外圧に対する危機感が幕府をして,後200余年の鎖国に踏み切らせた根源といわれている.==
== 16世紀は,まさに群雄割拠して戦乱と闘争が繰り広げられた時代,それも漸く終局に近い1583年大坂城入りした豊臣秀吉により日本統一が着々と進められつつあった.当時ポルトガルとスペインが主な貿易国で,彼らの出入りする貿易港を中心に,キリスト教が急速に広まっていくに驚愕して,キリシタン禁止令が布告された.それにもかかわらず,いっこうに自省の色が現われず,最早,伝道を黙過できない段階にきて,1596年遂に秀吉は26聖人の惨酷極まる処刑を決行させるにいたった.==
== キリスト教の禁止令と同時に人身売買禁止令も布告された.当時ポルトガル貿易商人は,日本人奴隷を買いあさった.このような貿易商人の非行の実情を非難してポルトガル政府に抗議し,取引き禁止の勅令を発布させたが,一片の勅令だけでは遠隔の地日本で盛んに行われていたこの利益の大きい奴隷売買を阻止することができなかった.このようにして,ポルトガル商人に買い取られた日本人奴隷は,南アジア各地から遠くはメキシコ,アルゼンチンなど南北アメリカ大陸まで売り飛ばされた.==
== (中略)さてフランシスコ・ハポンという日本青年は,当時日本との貿易が頻繁に行われていた南蛮人(ポルトガル人)によって連れられてきたことが濃厚に示されている.また正式なスペインの航路を通らず,ブエノスアイレス港に入ってきたと推測できる.ということは,スペイン国法に照らし,奴隷に処せられる条件になかった.さらに,当時日本の置かれていた社会情勢から推してこの青年の出国を考えた場合,熱烈なカトリック信者であったか,もしくは戦乱の浪人「侍」であったともいえる.いずれにせよ同民族間で限りない闘争で明け暮れる日本に見切りをつけ,たまたまポルトガル人に嘆願し,新天地を求める好奇心と活路を求める意で大きな野望を抱き,ポルトガル船に乗り込み,大陸アルゼンチンに来た「最初の南米日本人移民」だった,と史実に基づいて断定してよかろう.==
== (中略)フランシスコ・ハポンは,裁判の結果自由の身となったが,その後の消息はわからない.当時の社会情勢からして,寺院に登録してある出生,死亡届の書類を調べるのが良策と思うが,これも難作業である.案外その血統が子孫に脈々と伝わり,アルゼンチン,または南米大陸で大発展しているものと期待する.(中略)1982年,ほとんど不可能と思いながら,歴史家のロべーラ教師に実情を話し協力していただき,コルドバ国立大学のビブリオテーカ・マジョール(大図書館)に(裁判問題資料が)潜んでいるのを引き出した.(中略)なお,奴隷売買契約証書並びに裁判起訴状等の原文と翻訳文は,日本の国会図書館に寄贈され保管されている.==
以上が,この著書で述べられている日本人のアルゼンチン移住(移民)の前史にあたる部分の抜粋・紹介である.日本の戦国時代の末期ごろに,このような出来事があったとしても不思議ではない気もするが,これほど具体的に史実が記録されているのは珍しいのではないか.また,それらの資料を発掘し,熱心に追跡調査・研究をされてきた日系アルゼンチン人の方々,ならびに協力されたアルゼンチン人関係者の方々に敬意を表さずにはいられない.
次回には,近年(明治以降)のアルゼンチンにおける日本人移住(移民)の歴史について,同じくこの著書の中から主だった逸話などを紹介していこう.
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【紹介した書籍の表紙】 |
(2008/07/06,アルゼンチン・コルドバ市の自宅にて,筆者)