人生行路の旅,出会いと別れのソナタ

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2009_アルゼンチン便り (42)

2009-03-29 | 2009_アルゼンチン便り
◆ パタゴニア南部への小旅行 [4,完] (四駆トレッキングに参加) ◆

 1月25日(日)は,実質的にこの小旅行の最後の日となった.このパタゴニア南部への小旅行では,氷河観光も満喫し,久しぶりに連れ合いともゆったりとした時間を過ごすことができた.そのスローテンポの時の流れを再確認するべく,この日の午前中は宿の近くを再び散策し,あの水鳥と子犬が戯れるミネス湖に行ったり,馬の親子が仲良くくつろぐ姿を写真に収めたりして過ごした.街の店で買い求めたサンドウィッチを宿まで持ち帰って,この日の昼食は部屋でのつつましい自炊となった.それでも,ビールだけは必需品であり,心地よい気分にもなって,しばらくはシエスタ(昼寝)に身を委ねたりした.

 午後からは,宿のオーナーに勧められて,近くの丘陵地帯を四輪駆動トラックに乗って散策する半日コースのトレッキングに参加した.結構大型のトラックで,20人以上はゆうに乗れる特別仕様の山岳トラックである.混成ツアーなので参加者の国籍も多様だったが,中でも10人ほどの韓国人団体観光客がひときわ目立っていた.日本人はわれわれ2人だけだったが,連れ合いは多少ハングルの基礎をやっていて,韓国人の中にも日本語のできる人がいたので,道中ちょっとしたハングルと日本語のチャンポン会話が飛び交っていた.この韓国人観光客は,どういう団体なのか不明だが,老若男女が適度に交じっていてかなり陽気な団体であった.はるかアルゼンチンの南の地で,このような出会いがあることは,想定していなかった.

 夕食は,これがこの小旅行の最後の晩餐かと,焼き肉の食べ放題というレストランに行ってみた.子羊の柔らかい肉から始まって,牛の各部位の焼き肉やソーセージなどが次から次へともたらされたが,結局われわれとしては量をこなすことはできなかった.どうしても生野菜やサラダのほうに箸が向いてしまって,かんじんの肉料理はちょっとずつ味見する程度で終わってしまったのではないだろうか.それでも,この安い料金(2人分で飲み物込み4500円程度)でこれだけの美味しい肉料理が楽しめるのは,アルゼンチンならではであろう.食事中の話題は,すでに連れ合いの帰国後のことに及んでいた.留守宅には,年老いた連れ合いの実母もいて,なにかとケアーがたいへんな状況にもあり,まだ1年間の任期があってこの地に残留する私としては多少複雑な想いが胸をよぎったようである.
宿の近くのミネス湖を再訪
【宿の近くのミネス湖を再訪】
水鳥たちと戯れる地元の子犬
【水鳥たちと戯れる地元の子犬】
散策中に見かけた馬の親子
【散策中に見かけた馬の親子】
昼食は宿で有り合わせの自炊
【昼食は宿で有り合わせの自炊】
高台から見下ろしたカラファテの街
【高台から見下ろしたカラファテの街】
四駆のトラックでトレッキングへ
【四駆のトラックでトレッキングへ】
韓国からの団体観光客と共に
【韓国からの団体観光客と共に】
風化した古い火山岩のオブジェ
【風化した古い火山岩のオブジェ】
岩石の山肌をぬう四駆トラック
【岩石の山肌をぬう四駆トラック】
四駆トラックも小休止
【四駆トラックも小休止】
湖を背景に写真撮影する観光客
【湖を背景に写真撮影する観光客】
トレッキング途中に設けられた休憩テント
【トレッキング途中に設けられた休憩テント】

(2009/03/29_追想記,アルゼンチン・コルドバ市の自宅にて,筆者)

2009_アルゼンチン便り (41)

2009-03-25 | 2009_アルゼンチン便り
◆ パタゴニア南部への小旅行 [3] (氷河観光-その2) ◆

 1月24日(土)は,氷河観光の第2弾として,ペリトモレノ(Perito Moreno)氷河を小高い展望台から見下ろし,途中で観光船に乗ってこの氷河に水上から接近するという終日ツアーに参加した.やはり朝方,集客のためのマイクロバスが宿まで迎えにきた.それから大型バスに乗り換えて,約1時間半ほど走ったところに展望台があった.ここも過日と同じ国立公園で,一般外国人観光客は入場料(約1800円)をとられるのだが,どういうわけか今回は2日前と違って私も有料扱いで,3分の1の料金にあたる約600円を払わされた.入園ゲートによって,扱いが違うのも不思議である.

 このペリトモレノ氷河は,しばしば崩落がみられることで有名らしく,その瞬間をサウンドとともに収録したビデオが日本のテレビなどでもよく放映されているという.しかし実際は,大規模な崩落現象はめったに起こるものではなく,今回訪れた際にも,時間をかけてじっと見つめていたら,あちこちの部分部分で小さな音とともに崩落らしき動きが微かに見られた程度であった.しかし,展望台から見下ろす氷河の全景は素晴らしかった.湖の中へせり出した氷河の先端から,その逆に奥のほうの遠くの山々にまで伸びる氷河の根本まで,パノラマのように広がった風景を一望できたからである.

 以下は,この日の観光で写した画像の一部である.
ペリトモレノ氷河(1)
【ペリトモレノ氷河(1)】
ペリトモレノ氷河(2)
【ペリトモレノ氷河(2)】
ペリトモレノ氷河(3)
【ペリトモレノ氷河(3)】
ペリトモレノ氷河(4)
【ペリトモレノ氷河(4)】
ペリトモレノ氷河(5)
【ペリトモレノ氷河(5)】
ペリトモレノ氷河(6)
【ペリトモレノ氷河(6)】
ペリトモレノ氷河(7)
【ペリトモレノ氷河(7)】
ペリトモレノ氷河(8)
【ペリトモレノ氷河(8)】
ペリトモレノ氷河(9)
【ペリトモレノ氷河(9)】
ペリトモレノ氷河(10)
【ペリトモレノ氷河(10)】
ペリトモレノ氷河(11)
【ペリトモレノ氷河(11)】
ペリトモレノ氷河(12)
【ペリトモレノ氷河(12)】
ペリトモレノ氷河(13)
【ペリトモレノ氷河(13)】
ペリトモレノ氷河(14)
【ペリトモレノ氷河(14)】
ペリトモレノ氷河(15)
【ペリトモレノ氷河(15)】

(2009/03/25_追想記,アルゼンチン・コルドバ市の自宅にて,筆者)

2009_アルゼンチン便り (40)

2009-03-21 | 2009_アルゼンチン便り
◆ パタゴニア南部への小旅行 [2](カラファテの街を散策) ◆

 連日の観光ツアーでは疲れもでようかと,この日(1月23日・金)は休養と街中の散策にあてることにした.宿からほど近いところに,歴史博物館があった.小ぢんまりとした館内には,この地方で発掘された古代からの遺物や,先住民たちの昔の生活を示す年表や写真パネル等が展示されていた.館長と思しきおじさんが丁寧に案内・説明もしてくれた.一巡した後はコーヒーとマテ茶をご馳走になり,街中の散策へと向かった.途中,一匹のネコに出会った.こちらでは,犬はどこでも目にするが,ネコに出会うのは稀なことである.しかもこのネコ,10年ほど前までわが家に居候をしていたネコによく似ていて,懐かしさが込み上げてきたのか,連れ合いはしきりに抱き上げたりあやしたりとしばし戯れていた.

 バスターミナルや郵便局などを訪れてみたが,小さな街なので,ものの30分ほどでセンター街の端から端まで歩いて回れることができた.ヨーロッパ方面からの観光客の姿が目立っていた.夜は,私と同じコルドバ州のビジャ・マリアという町に住み,やはりボランティア活動を行っている日本人男性が,偶然にも近くを旅行中とかで,宿まで訪ねてきてくれた.近郊の観光地でたまたま日本人の旅人に出くわし,その人から私の噂を聞いたらしく,突然ケイタイ電話がかかってきた.広いアルゼンチンでも,こうした偶然は起きるものだ.やはり観光地だからだろう.この人は京都出身とかで,物静かな飄々とした,いかにも京都人らしい人物である.以前に一度,コルドバ市の私の家にも訪ねて来られ,たしか1泊されたことがあった.宿の食堂で,ありあわせのワインを1本あけ,しばし語り合った.

 以下は,この日の散策で写した画像の一部である.
カラファテの歴史博物館(1)
【カラファテの歴史博物館(1)】
カラファテの歴史博物館(2)
【カラファテの歴史博物館(2)】
カラファテの歴史博物館(3)
【カラファテの歴史博物館(3)】
カラファテの歴史博物館(4)
【カラファテの歴史博物館(4)】
カラファテの歴史博物館(5)
【カラファテの歴史博物館(5)】
カラファテで出会ったネコ
【カラファテで出会ったネコ】
カラファテのバスターミナル
【カラファテのバスターミナル】
カラファテの郵便局
【カラファテの郵便局】
カラファテの街並み
【カラファテの街並み】

(2009/03/21_追想記,アルゼンチン・コルドバ市の自宅にて,筆者)

2009_アルゼンチン便り (39)

2009-03-14 | 2009_アルゼンチン便り
◆ パタゴニア南部への小旅行 [1](氷河観光-その1) ◆

 1月22日(木)には,この地方の観光ハイライトである「氷河観光」に出かけた.カラファテの街から西へ80kmほどバスで行って,そこからクルーズ船に乗船していくつかの氷河を巡るコースが中心となる.地元の観光会社が運営するこの観光コースには複数の選択肢があったが,まずは代表的な「トード・グラシアレス(Todo Graciares,氷河満喫)」 という終日コースに参加した.前日に宿を通じて申し込んでおくと,翌朝にはマイクロバスが順に宿舎まで集客に回ってくる.それから大型バスに乗り換えて,一路プンタ・バンデーラ(Punta Bandera)という船着場へと向かった.

 観光案内書によると,ここの氷河は南極,グリーンランドに次ぐ氷河面積があって,太平洋からの湿った風がアンデスの山々にぶつかって大量の雪を降らせ,これが氷河となってアルゼンチン側に流れてきてできたものらしい.この氷河の特徴は,冬の最低気温が比較的高いので,氷の溶解,再氷結が短いサイクルで繰り返されることから,動きが活発であることだという.氷河の先端部では,巨大な氷塊が轟音とともに湖へと崩落していく姿をみることができ,ほかではなかなか味わえない観光スポットとなっている.ただし,この迫力ある大崩落はめったに起きるものではなく,近頃では1988年2月以来起きていないという.

 この氷河群と湖,そして近くの山々は,絵のように美しい風景を有することから,1937年に「ロス・グラシアレス(Los Glaciares)国立公園」に指定され,1981年にはユネスコの世界遺産に登録された.公園の広さは4459平方km(山梨県とほぼ同じ広さ)あって,中には有名な氷河として「ペリト・モレノ(Perito Moreno)氷河」や「ウプサラ(Upsala)氷河」など,大小さまざまな47の氷河があるという.クルーズ船に乗るためにはこの公園に入らなければならないのだが,実は別途の入場料が必要となる.外国人は1800円ほどで自国民は半額以下ということだったが,私の場合,アルゼンチン外務省発行の居住証明書を提示したら,どういうわけか無料で通過することができた.

 クルーズ船は,100人はゆうに超す超満員で出港した.めずらしく今回は,日本人の団体観光客には出会わなかった.宿でたまたま知り合っていた一人旅の若い女性と一緒になったが,これだけの観光客に日本人がたった3人というのは稀なことである.この女性は東京のどこかの役所に勤める薬剤師さんとかで,1週間か10日くらいの休みをしばしばとっては,あちこちと世界を一人旅しているらしい.そのためか,英語がかなりできるようだった.その翌日にはもう帰国の途につくらしく,別れ際には,必要なくなったからと,彼女が携帯していた何種類かの薬を,説明書きのメモとともに私にくれた.後になってメル友になったが,今度はチリを旅したいということだ.ひょっとすると,また南米で会えるかもしれない.

 以下は,このクルーズ船での氷河観光時の写真集だが,同行した連れ合いのポートレートを中心に撮影していたので,風景を写した良い写真があまりない.残念だが,ポートレートの画像をここに掲載するのは,ちょっと控えておこう.船旅は,とにかくのんびりする.この日も,連れ合いともどもに,ゆったりと時間が流れていくひと時を,美しい景色の中で共有できたことは,たいへん良い思い出となった.コースを終了して宿にいったん帰った後,夕食は街に出てレストランに入り,子羊の焼き肉とマリスコス(魚貝類)の煮込み等を食べた.連れ合いは酒はいっさい嗜まないので気がひけたが,私だけはビールやワインの杯を傾けて,長い長い食事と会話のひと時が過ぎていった.

早朝の空にかかった虹(ホテルの窓から)
【早朝の空にかかった虹(ホテルの窓から)】
見えてきた氷河のカケラ
【見えてきた氷河のカケラ】
だんだんと流氷群に近づく
【だんだんと流氷群に近づく】
湖に浮かぶ流氷のかたまり
【湖に浮かぶ流氷のかたまり】
流氷群に近づく観光船
【流氷群に近づく観光船】
乗船した観光船の操舵室
【乗船した観光船の操舵室】
大きな氷壁に徐々に近づく
【大きな氷壁に徐々に近づく】
氷壁の間近まで接近する観光船
【氷壁の間近まで接近する観光船】
氷壁に最接近して写真撮影
【氷壁に最接近して写真撮影】
離れていく船から見た氷壁の遠景
【離れていく船から見た氷壁の遠景】
遠くの山々は万年雪に覆われている
【離れていく遠くの山々は万年雪に覆われている】
乗船した観光船から下船する
【乗船した観光船から下船する】

(2009/03/14_追想記,アルゼンチン・コルドバ市の自宅にて,筆者)

2009_アルゼンチン便り (38)

2009-03-08 | 2009_アルゼンチン便り
◆ アルゼンチンへ再渡航 / 一時帰国の後,家族同伴で! ◆

 昨年(2008)12月中旬から一時帰国して,約1か月間の日本滞在の後,1月15日にはふたたびアルゼンチンへと旅発った.今回は,私の赴任先である職場や生活拠点などの見学を兼ねて,初めて家族(といっても連れ合い1名だが)が片道だけ同伴した.ルートは,私が帰国時に使ったメキシコ経由だった.成田を夕刻に発ってから途中カナダのバンクーバーで給油着陸,メキシコシティには約15時間半ほどかかって到着した.ここで4時間余り待機の後,便を乗り継いでさらに10時間ほどをかけ,アルゼンチンのブエノス・アイレスには1月16日(現地時間)のお昼頃に到着,結局成田を発ってから30時間ほどかかったことになる.この長いフライトの疲れをいやすべく,その日はブエノス・アイレスのホテルに1泊した.

 翌1月17日(土)は早朝にホテルを出て,コルドバへ向かう長距離バスに乗車した.約700kmの距離を走る日中のバス旅も,かなり疲れることは予想されたが,一度はこの大地の景色を車窓から眺めておくことが同伴者にとっては意味もあろうかと,この移動方法を選んだ.ブエノス・アイレスのレティーロという中心地にあるバスセンターは,ごみごみしていてたいへん危険な場所でもある.バスを待ち合わせる構内には,スリやひったくりなど怪しげな人物も多数往来していると聞く.案の定,連れ合いも大型スーツケース等の荷物番をしている隙に,ちょっとした被害に遭遇したようだ.パスポート等の貴重品は無事だったことから,これもこの国への入国イニシエーションかと割り切って,一つの思い出とすることにした.

 コルドバへは,約11時間半のバス旅の後,夕刻も遅めに到着した.近くのスーパーでありあわせの食材を調達し,自宅で軽い夕食をとって,この日は持参した荷物の整理などをしながら久しぶりにゆっくりとした時間を過ごした.翌日(18日)が日曜日だったことも幸いした.適度な朝寝坊の後,静まり返った街中を散策したり,アパートの各部屋の片づけものなどをして,しばらく留守にしていた部屋の整頓や,ベランダの植木鉢の清掃などでは,この連れ合いの協力に負うところが大きい.目の付けどころがやはり私とは一味違い,観賞植物や鉢植えなどが見る見るうちにきれいに整頓されていった.

 1月19日(月)は,連れ合いを伴って私の赴任先である職場を表敬訪問した.約30名ほどの職員がいる職場だが,この期間は夏のバカンスをとっている者も多く,その日は半数程度の同僚が出勤していた.ささやかな手土産にと京都から持参した「金平糖」の小袋を配りながら,連れ合いを紹介してまわって,拙い私の通訳のもとにちょっとした交流会話も行った.世界規模の金融危機の影響から,目下日本ではたいへんな不況と失業の嵐が吹き荒れていることなど話してみたが,当地アルゼンチンの人々の反応は実にあっけらかんとしたものだった.「そうかも知れないが,私たちアルゼンチン人はその手の危機には十分に慣れっこになっているので平気です.」というのだ.会話は爆笑に変わったが,この楽天性こそが,良きにつけ悪しきにつけ,アルゼンチン(人)の特質なのだと,連れ合いも納得したようだった.

 その日の午後は,コルドバ近郊のアルタグラシアというところへバスで約1時間かけて向かった.以前の記事でも紹介済みだが,ここには「ゲバラ記念館」がある.連れ合いの話では,目下日本ではゲバラに関する書籍や映画などが結構紹介されていて,小さなブームとなっているらしい.この日しか訪れる日程がとれないこともあって,急ぎ足での訪問・見学となった.私にとっては2度目の訪問だったが,やはりバス停から降りた先の道は覚えていなかった.かなり歩き回って探し当てた頃には,連れ合いは相当疲れた様子だった.夜は私の手料理でささやかながら連れ合い歓迎の小宴会を催した.肉料理は苦手だと聞いていた連れ合いだが,この日は結構美味しいとか言って口に運んでいたようである.

 翌1月20日(火)夕刻からは,アルゼンチン南部のパタゴニア地方へ連れだって旅行に出ることとなっていた.かなりの遠隔地なので,この移動には空路を使うことにした.しかし,コルドバからの直行便はない.いったんブエノス・アイレスまで飛んで,そこで乗り換える必要があった.しかも,接続がうまく組めなかったために,ブエノス・アイレスに1泊する日程となっていた.またしばらくは自宅を留守にするので,この日の日中は掃除や洗濯,買物や旅支度などに追われていた.そして夕刻もかなり遅い便に搭乗したのだが,ブエノス・アイレスでは国内線の空港にほど近いところに宿をとっていた.深夜に着いて早朝にチェックアウト,朝食もあきらめなければならず,結構高めの宿泊代となった.
  
 こうして1月21日(水)の午前中には,パタゴニア地方のカラファテという町にたどり着いた.氷河観光で拠点となる小さな田舎町である.日本からの長旅の疲れもあり,慌ただしい大都市の環境を逃れて,ここでゆったりとした時間を過ごそうと,ある日系人の経営するホステルに5泊を予約していた.毎日が観光ツアーの連続では,私も連れ合いも身体がもたないし,それに久し振りに再会した連れ合いとのんびりとした会話の時間を持ちたかったからである.宿は,街の中心から少し歩いて,小さな橋を渡った静かなところにあった.その日の午後は,宿の近くにある湖のほとりなどを散策した.飛来するたくさんの水鳥を,何匹かの犬たちが追いかけまわして戯れている情景が,何んともいえない二人の癒しの時間と重なっていった.

ブエノスからコルドバへはバス移動
【ブエノスからコルドバへはバス移動】
コルドバ市のセントロを散策(1)
【コルドバ市のセントロを散策(1)】
コルドバ市のセントロを散策(2)
【コルドバ市のセントロを散策(2)】
コルドバの自宅で連れ合い歓迎の小宴会
【コルドバの自宅で連れ合い歓迎の小宴会】
カラファテに到着・町はずれの宿へ
【カラファテに到着・町はずれの宿へ】

(2009/03/08_追想記,アルゼンチン・コルドバ市の自宅にて,筆者)

2009-01_アルゼンチン再渡航(出発前のメモ書き)

2009-03-01 | 番外雑記 (近況など)
● 元職場の皆さんに感謝-有志新年会をありがとう!
 1月6日(火)は,私が一昨年(2007)秋まで勤めた元職場の有志の皆さんが,私のためにと新年会を開催してくれた.場所は日暮里駅近くのある呑み屋,十数名ほどの参加者があったが,久しぶりの再会に話題はあちこちに転々と飛び,職場の近況やアルゼンチンの政治・経済情勢など,酒も適度にまわってきて賑やかな談話が延々と続いていた.みんな元気な様子だった.ありがたいものである.退職してから1年以上が経つというのに,このように親しく会合できることがうれしい.幹事役をつとめてくれた元同僚の方々,ほんとうにありがとう!

● 関西地方をひとめぐり(親族,友人たちに会う)
 1月7日(水)~12日(月)は,関西地方に出かけた.大阪・神戸方面には,会っておきたい人々がたくさん居る.幼き頃,同居していて歳が比較的近く,兄弟のように慕っていた叔父ももう80歳を過ぎて大阪に暮らしている.私がアルゼンチンに赴任することを知って,急遽地球儀を買い込んだそうだ.この叔父を訪ねないわけにはいかない.そして神戸には,文字通りの幼馴染で,その後も仲の良すぎる兄妹のように育ったイトコが暮らしている.最近,何やら目まいのする病状に悩んでいるらしく,これがずっと私の案じ事となっていた.会ってみると,その日は思いのほか元気そうで,まずはホッとした.

 そして,大阪府も京都に近い高槻というところには,妹一家が暮らしている.長年にわたり実の両親と同居していたのだが,その両親も近年になって次々と他界し,子どもへの接し方などでは悩んだ時もあったようだ.私の海外赴任に際しては,兵庫県北部へのカニと温泉付きの盛大な送別旅行を企画し,招待してくれた.偶然だが,この妹の旦那の職業は,私が以前に勤めていた職場のそれと同業であった.そのためか,呑むと話が仕事がらみとなってついつい弾んでしまう.すでに還暦を過ぎた由だが,まだまだ元気に現役で働いている様子で,私同様に酒とタバコが健康のバロメーターであるらしい.

 関西に滞在中の1月9日(金)には,かつての小・中学校時代(兵庫県伊丹市)の同級生有志たちと1泊の温泉旅行に出かけた.このメンバーは半ば固定しており,いわゆる「ミニ同窓会」と称してこの10年以上にわたって折々に集い,また旅行などに出かけている.今回は,神戸市の北部にある「神戸フラワーパークホテル」というところに7名で向かった.神戸市の直営ということだが,すばらしく豪華なつくりである.ただ,冬という季節がら,施設はガラガラにすいていて寂しいほどであった.一夜明けた翌日の帰途には,小雪が舞っていた.ホテルの名が示す通り,また春か秋の花が満開のときにでも,同じメンバーで訪ねてみたいものだ.

● 出発直前の大わらわ(インターネット回線の不具合) 
 1月15日(木)には,ふたたびアルゼンチンに向けて出発する予定となっていた.今回は,一時的に家族を同伴するので,半月ほど自宅を留守にしなければならない.その後は家族のみ帰国し,以後の遠隔地間での連絡体制を確保するために,自宅のインターネット回線の安定維持は欠かせない要素である.ところが,この自宅のインターネット回線がどうも年末頃から不安定になっていた.あるプロバイダとの契約によるADSL回線を使用しているが,モデムのリンクがしばしば落ちてしまって,使いものにならない時もある.そこで,今回の一時帰国中になんとか解決しようとこれに取り組んだ.

 この障害の原因は,どう考えても外部,つまり収容局(旧電話局)から宅内にいたる外線が何らかの擾乱信号を受けていることにある,と私には思えた.それでNTTやプロバイダを通じて回線業者に調査を依頼してみたが,何も解決しなかった.結局プロバイダは,検証用にと貸出用の代替モデムを出国寸前になって送ってよこしたが,これも役に立たなかった.それとは別に,秋葉原を走り回って,他社のモデムやルータなども金を使って調達し,あれこれと接続の検証実験を行ってはみたが,やはり宅内配線の周囲には問題ないことが分かっただけだった.プロバイダや回線業者の的外れな対応にはいささか憤慨し,電話やメールでの厳しいやりとりもあったが,結局問題は解決しないままに時間切れとなり,接続は元に戻して出国する羽目となった.

 そんな次第で,関西から帰京後の2~3日間はこの作業に忙殺されていた.あらかじめ予定されていたいくつかのスケジュールも,関係者には申し訳なかったがキャンセルせざるを得なかった.そして,留守宅との今後の連絡体制には大きな不安をかかえつつ,15日の夕刻には予定通り成田から出国した.自宅を出るぎりぎりの時間まで,このインターネット回線の不具合と格闘を続け,一方的に送り届けてきた検証用のモデムを回線業者に厳しいコメントを付して返送し,あとのことは時間の経過に委ねることにしてこの作業を終えることにした.自宅システムの回線接続状況は,遠隔地からでもリモート監視を可能としていたからである.

 ちなみに,この障害は現時点(2月に入ってから)では,不思議なことに「自然復旧」している.プロバイダから,何らかの手立てを施したとの連絡は一切ない.たぶん,何もしていないだろう.実は,以前(約1年前)にも似たような障害があり,このときも類似の騒ぎの末に自然復旧したことがあった.そうした過去の経緯を踏まえて,今回はプロバイダとの折衝に臨んだが,対応に出てくる担当者はくるくると交代して話が連続しなかった.実に不親切極まりない(大手の)プロバイダだが,ここではとりあえずその社名は伏せておくことにしよう.ADSL接続の実態があくまでベストエフォートだということは重々承知しているが,このように何週間にも及ぶ致命的な不具合(障害情報にも言及されない)が発生する現象には,回線業者は(ただただ競争を追い求めるだけでなく)きめの細かい技術的対応を心掛けるべきである. 

【お断り】 今回の記事で扱っている期間は,デジカメ不携帯のため,画像の掲載ができませんでした.
(2009/03/01,アルゼンチン・コルドバ市の自宅にて,筆者)