人生行路の旅,出会いと別れのソナタ

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1990_中南米の旅・回想記(29)

2006-05-31 | 1990_中南米・回想記
● パラグアイ東端の町シウダー・デル・エステへ!
 9月1日(1990年)の早朝,8時30分発の大型バスでアスンションを発ち,パラグアイの東端,ブラジルとの国境の町シウダー・デル・エステに移動した.「胃袋」と「肝臓」のちょうど境目のところをまっすぐ東へと横切る恰好だ.予想したとおり,原野と牧場と時たま見かけるとうもろこし畑のほかには何もない.ただ茫漠とした「空き地」のみ,霧が深い.行程のちょうど真ん中ぐらいのところに,日系人の入植地があった.この一帯はさすがによく手入れされた畑が開け,大小の建物が点在してりっぱな集落をなしている.途中から2,30人ほどの韓国人の団体がバスに乗り込んできた.ここには,韓国系の人たちの入植地もあるらしい.

シウダー・デル・エステの街並み

 約3時間ほどのバス移動で,町に着いた.予想以上にかなり賑やかな町であった.大きなホテルが4つも5つも競い建ち,衣類,民芸品,電気器具などを売る小さな店が通りの両側をぎっしり埋めている.観光客がひじょうに多い.というのも,みんな,この町から少しブラジル領に入ったところにある「イグアスの滝」の観光が目当てなのだ.われわれも,もちろんその仲間だった.宿に落ち着き,久しぶりにシャワーと洗濯のあと,われわれは街へ出た.同行友人は,そろそろ日本食が恋しくなっているようだった.そして,次のような記録を残すこととなった.

==付近を散歩して,日本人経営のスナック「ニュートーキョー」を見つけた.マスターはこちらに10年在住とのこと,「滝」へ行くコースなど詳しく教えてくれた.ブラジルは物価が高く,パラグアイのインフレ率は30パーセントということだった.さて,お楽しみは日本料理店,ここには2軒あるうち「さくら」に寄った.日本人給仕の応対がたいへんよい.まだ日本へ行ったことはないそうだが,きちんとした日本語,礼儀正しい.日本酒が小徳利で350円,盃3杯ほどの分量だ.古いせいか,やや甘酸っぱい.それに,やきとり,寄鍋,揚げ出し豆腐など.==

シウダー・デル・エステの日本人街

==南米までやって来て,なんだって日本料理をと,不思議に思うかも知れない.じつは,私の味覚は100パーセント日本的なのだ.朝は御飯に味噌汁と漬物,昼は日本式のラーメン,夜は日本酒に刺身か焼き魚,それに湯豆腐,もずく,ほうれん草のおひたしなど.肉類や抽物はめったに口にしない.心は「国際的」だが,舌は「国粋的」だ.それで,長い旅の間に溜まるストレスの解消のためには,やはり時たま「故国の味」が必要だ.「さくら」の日本料理は,心の支え,明日への力となったのだ.==

【次は,天下の名勝イグアスの滝の見学編へと続きます.】
(2006/05/31,回想執筆時,筆者)

1990_中南米の旅・回想記(28)

2006-05-28 | 1990_中南米・回想記
● こじんまりとした町アスンシオンのたたずまい!

アスンシオンのたたずまい

 アスンシオンに着いた日の午後は,深夜バスによる長旅の疲れを癒すためもあって,軽い市内見物と翌々日の移動の手配にあてた.パラグアイのブラジル寄り東端シウダー・デル・エステを経由して,イグアスの滝を見学し,その足でブラジルのサン・パウロへ抜ける旅程が待っている.これもまた陸路(バスまたはタクシー)による移動となる予定だった.アスンシオンの市内を散策しながら,同行友人が話しかけてきた.再び,その記録から抜粋しておこう.

==「小じんまりとした,いい町だね」と話しかけると,○○氏(筆者のこと)もうなずいた.ブエノスアィレスやモンテビデオに比べると,パラグアイの首都アスンションは一段とひなびた感じで,くつろいだ雰囲気だ.もちろん,賑やかな目抜き通りもあるし,議事堂や大統領官邸やカテドラルはりっぱだ.いくつかある広場も近代都市にふさわしく,手入れが行き届いている.しかし,道行く人々は,たいてい茶褐色の肌をして取り澄ましたようすもなく,ところ狭Lと広がる露店と人込みは,人間臭い匂いをふんだんに発散させている.いわゆる「危険」は全く感じられない.これで,物価が安く,うまい酒と食べ物があったら,いつまでも滞在していいくらいだ.==

==パラグアイ河の岸辺に出ると,水は青く静かに,雲ひとつない空には陽光がみなぎる.遠く近く白塗りの汽船がいくつか,動くともなく浮かんでいる.すぐ対岸は,アルゼンチン領だ.つまり,この国の首都は,河ひとつへだてて隣の大国に接しているのだ.もし紛争でも起こったら,首都はたちまち落城してしまうではないかと,余計なことが心配になった.==

==この国は,牛肉もいいが,豚肉がまた美味だ.「チユレータ」という骨つきの焼き肉は,適度に脂がのっていて,ワインによく合う.○○氏はビフテキ,「カルロス四世」というたいした名前がついている.少しお相伴にあずかったが,やわらかく滋味がたっぷり.ところで,たまたま○○氏のビールのグラスに蝿が飛び込むというハプニングが起こった.さて,どうするか.どこかで読んだたとえ話では,こういうときにイギリス人はさりげなくもう一杯注文し,イタリア人か何かはビールを床にぶちまけて文句をつけ,中国人は蝿ごと飲み干してしまうとあった.多分に人種偏見がかった作り話だ.ところで,我が○○氏は,静かに蝿を取り除き,あとは何事もなかったかのように飲み続けた.いったい,これはどういう人種にあてはまるのかな.==

● 近郊のイパカライ湖へ蒸気機関車で!

パラグアイの現役蒸気機関車

 翌日は,終日自由行動の日となった.同行の女性友人は,後のブラジル東岸単独行程の情報収集のため市内に残ったが,男二人は近郊のイパカライ湖へ出かけることにした.この移動には,鉄道を利用した.鉄道といったも,たいへんに時代がかったものである.パラグアイの幹線路線の一部区間を走るのだが,なんと蒸気機関車,それも石炭ではなく薪を焚いて走る風情のある列車だった.この小遠足の模様も,友人は克明に記録を残している.

==駅は都心の近く,スペインふうの古めかしい造り,構内は人影もまばらだ.鉄道というと日本では,1時間何本出るのかが問題となるが,ここでも,南米のその他の国でも,1日に1,2本か,ときには1週間に1本という具合だ.線路が錆びついてこないかと気になるほどだ.正午少し前,発車となった.赤塗り,時代物の機関車だ.石炭ではなく,薪を焚いて走る.客車を2両連結,乗客は4分の1ほど.湖水のあるイパカライまでは37キロ,2時間あまりの道のり.ここは緯度でいうと,熱帯に入る.日が照りつけると真夏の暑さだ.==

==プラットホームを出てまもなく,線路の両側は凄まじいスラム街の出現となった.軌道からやや間隔を置いて立っている煉瓦塀,倉庫や工場,打ち捨てられた廃屋,やせこけた立木,……とにかく立っているものは何でも支えに使って,それにもたせかけるようにして掘立て小屋というのもはばかれるほど惨めな「家々」が,ひさしを交わし軒を連ねて並んでいる.塀に寄りかかっているのは,もちろん壁が三方しかない.屋根はトタンと板切れのツギハギ細工,羽目板は廃材をぶっつけただけで隙間だらけ,室内は真っ暗,窓なんていう気のきいたものはないところが多い.さらに,水道も電気も来ていない.おまけに下水設備もないから,汚水が家のまわりにあふれて庭まで湿地の状態だ.こんな光景が,なんと汽車に乗っているあいだ20分も続くのだ.==

==ただ,救いとなったのは,この一帯の住民の表情が明るく,屈託がないこと,中には「庭」先に汚れた木箱をテーブル代わりに持ち出して,飲み食いしながら汽車見物をきめこんでいる人々もいる.手を振ると笑顔で答える子供もいる.人間の幸福とはいったいなんなのかと,考えさせられたのだった.==

==これに対して,イパカライ湖の周辺は,高級リゾート地だ.豪奪な大邸宅が湖畔の絶景の場所をずらりと占有している.何百坪という敷地,化粧煉瓦や一部大理石造りの広壮な建築.プールもついている.専用の桟橋もある.手入れのよい庭は冬でも緑の芝生が覆う.ここは,別天地,幸運の女神に祝福された人々の住まうところか,それとも邪神につかれて権勢におごる人々の纂奪したところか.折しも昼下がり,湖水は強い日差しを反射してキラキラときらめく.対岸の山々は霞に包まれる.延々と続く掘立て小屋が蜃気楼となって遥か遠くに浮かび上がった.==

イパカライ湖の絶景

【次は,パラグアイ東端の街シウダー・デル・エステへの移動編へと続きます.】
(2006/05/28,回想執筆時,筆者)

1990_中南米の旅・回想記(27)

2006-05-24 | 1990_中南米・回想記
● 深夜の長距離バスでパラグアイへ!

パラグアイの観光絵葉書

 8月29日(1990年)に,われわれは次の訪問国パラグアイを目指した.この国では,とくに現地交流の予定などなかったのだが,私にとってはぜひとも訪れてみたい国の一つであった.ウルグアイのモンテビデオからの直通バスがあると聞いていたのだが,この切符の手配には相当手間取った.運行の曜日が変更されていたりして,そのためモンテビデオでは1泊の延泊となった.深夜の国境越えをしながら,20時間にもわたって走り続ける長距離バスの旅であった.そして,パラグアイの首都アスンシオンに到着したのだが,その道中の様子やパラグアイの印象等について,同行友人がかなり克明に記録しているので,以下ではそれを抜粋引用してみよう.

==モンテビデオからパラグアイの首都アスンションまでは,長距敵バスを利用した.午後の3時に出発して,翌日の正午頃到着した.ほぼ一昼夜の長旅だ.例によって,長時間の乗り物に弱い私は,ほとんど飲まず食わず,今度は鎮痛剤と間違えないように酔い止め薬をたっぷりのんで,途中の大部分は眠って過ごした.==

パラグアイへ向かうバス

==バスは,リオ・ウルグアイ,リオ・パラグアイなどの大河に沿ってつかず離れずに進む.途中は見渡す限り原野と荒地,ときたま放牧地があって,その向こうには坦々とした平原が広がっているだけ.人家も送電線も何もない 「純粋の」地平線など,日本ではめったに見られない光景だ.冬の終わり頃,寒くなったと思っていると,晩の8時に暖房が入った.夜中の1時,ブラジル領に入り,旅券審査で起こされた.朝,眼をさますと7時,日の出の直前.右手は大きな河がゆったりと蛇行している.ここが,目指すパラグアイとの国境だ.==

==じっは,私たちの旅行の企画過程でも,この国に入れるかどうかが,難問になっていた.というのは,南米諸国の中でパラグアイは,40年近くも以前にクーデターで成立した軍事政権がいまだに全土を支配して,厳しい政治統制を行っているからだ.とくに反共政策が徹底していて,共産圏を訪問した旅行者は入国許可がおりないと聞いていた.キューバでの国際イベントに参加した私たちが,国境で追い返される事態もあり得るだろう.こちらも,対策を講じた.キューバを出国するときに,係の役人に頼んで出国印をパスポートの最終ページに押してもらったのだ.それを裏表紙のカバー下にさしこみ,その上に航空券や要らなくなったホテルの領収書などを重ねて挟んだ.こうしておけば,まさかそのページまで引っ張り出してあらためることはないだろう.==

==もう一つは,キューバで手に入れた書籍,イベント関係文書,紙切れにいたるまで,すべてアルゼンチンから日本へ送ってしまった.そのうえ,軍事独裁政権のことだから,「インターナショナリズム」にもうるさいだろうと思って,キューバ以外のものでも関連する文書類で目立つものは,いっしょに送った.つまり,たんなる「観光客」になったのだ.検問所での旅券審査は,無事にすんだ.荷物の中身もろくに見ようとしなかった.やれやれ,余分な心配をしたものだ.その代わり,入国税をどっさり取られた.いきなり現地の通貨で払えというので,換金に大苦労した.まずは,めでたしというところか.==

==地図を見ると,パラグアイはちょうど胃袋と肝臓をつなぎあわせたような形だ.その肝臓にあたる北半分は舗装道路が一本しかない,荒野ばかりの広大な「空き地」.いっぼう胃袋に相当する南半分は,幹線道路網が発達し,農地や牧場など土地の利用率も比較的高く,いわば「過密地帯」だ.とは言っても,日本とはまるで比べ物にならない.なにしろ日本よりちょっと広い程度の国土に,わずか400万の人口しかいないのだ.単純に計算すれば,年寄りから赤ん坊まで国民のひとりひとりが,3万坪の土地持ちということになる.ガイドブックによれば,この国は「遺跡もなく,雄大な自然美もない」が,「素朴でのどかな桃源郷」という.私たちも,入国してみてそう感じた.とくにうまいものを食べたり,面白いものを見聞することもなかったのだが,町にも村にも漂うなんとなく落ち着いた,のんびりしたムードが,私には気に入った.しかし,その 「のどかさ」は果たして本来のものであろうか.長年にわたって支配する軍事政権は,現在やや緩和路線に転向してきたというが,かつては少数民族迫害,反政府勢力弾圧によって悪名が高い.==

パラグアイの位置と略図

==経済もうまくいってはいないようだ.換金したら,1ドルが1180グアラニーとなった.2年前は400だから約3倍,インフレは着実に進行している.ついでだが,通貨の単位の「グアラニー」は,先住民族の名をとったものだ.この国の人口構成の特色は,先住民族との混血の結果である「メスチソ」系が,95パーセントと圧倒的多数を占めていること,純粋のインディオや白人はごく少数に過ぎない.したがって,公用語は一応スペイン語となっているが,大多数の人々はグアラニー語も理解する.私たちのバスがパラグアイの領内に入ると,小さな町に停車するたびに,混血系の子供たちがいっせいに乗り込んで来て,飴や煎餅のようなもの,コカコーラなどを売りつけようとする.新聞の束を抱えているのもいる.少しでも売上をあげようと,幼い顔に必死の表情を見せている.「西欧的な」アルゼンチンやチリと違って,この国の街路には,物乞いや立ち売り人が多い.久し振りに戻った「南米」だ.ホテルの主人はたいそう親切だった.食事や見物について助言をし,市街図その他の観光資料をいろいろくれた.レストランの料理は,うまくて割りに安かった.==

【次は,アスンシオン滞在からイパカライ湖への小遠足に出かけます.】
(2006/05/24,回想執筆時,筆者)

1990_中南米の旅・回想記(26)

2006-05-21 | 1990_中南米・回想記
● 高速船でラプラタ川を...ウルグアイ・モンテビデオへ!

見送り風景(ブエノスにて)

 8月26日(1990年)の日曜日,ブエノスアイレスの港にはこの街で知り合った大勢の人たちが集まっていた.正午に出航する高速船で,ウルグアイのモンテビデオへ向かうわれわれを見送るためである.水中翼船で渡ったラプラタ川の河口は,「まるで大海のようであった」と同行友人の記録は書き残している.約3時間余りの船旅で,15時30分にモンテビデオに着いた.この街は,その河口の北岸にあって,ウルグアイの首都である.アルゼンチンの首都ブエノスアイレスと比べれば,その規模も外観も大いに違っていた.南米の「パリ」といわれたブエノスアイレスは,巨大な市域をもち,高層ビルや近代建築が並び立ち,街路は幅広く,かつては繁栄を極めた面影を残していたが,ここモンテビデオは,小ぢんまりとした,古風な建物が街並みの,地方都市のような印象を与える.

ブエノスアイレスの港風景

 モンテビデオの名は,1520年,この地にたどり着いたマゼランが 「われ,山を見たり(Monte Vide eu)」 といったことに由来するという.実際のウルグアイという国は,平均標高が100mほどしかない平坦な国なのだが... 都市の人口は,約130万ほど,その旧市街は,植民地時代の古い建物と石畳の道がひっそりとした趣をかもしだしている.ウルグアイは,国の面積が日本の半分ほど,総人口はわずかに300万という小国である.人種は白人系が9割で,チリやアルゼンチンに似た構成だが,近代工業はあまり発達せず,主要産品は農産物,経済は不振ということだ.それでも最近は中南米では最高水準の福祉国家となり,教育水準や文化面では他の中南米諸国に比べ格段に高いといわれている.この国には,不思議な落ち着きがあるのに気がつく.アルゼンチンとブラジルという二つの大国に挟まれて,地政学的にはいわば緩衝地帯にあるためか,政情は比較的に平穏で,かつては「南米のスイス」と呼ばれていた.

ラプラタ川を渡る船内風景

 モンテビデオには,当初1泊の予定だったが,次のパラグアイへの移動手配の関係から,結局2泊の宿をとった.最初の到着日は,ホテル探しと現地の関係者への連絡に手間取った.あらかじめ当地訪問を知らせてあった関係者へは,どうしても電話連絡がとれず,その代わりに,持参した名簿から拾っていきなり電話をかけた関係者とうまく連絡がとれて,この人がホテルまで出向いてくれた.氏は71歳,スペインのバルセロナ生まれとのことで,いろいろな身の上話をきかせてくれた.それだけではなく,翌日にはご自宅にも招待されたのである.以下には,氏(M氏と呼ぶ)がどういうわけでこの国に移り住むことになったかを語った内容などを,ふたたび友人の記録から引用してみよう.

==1936年,スペインに人民戦線政権が成立すると,これに反対するフランコ将軍一派が反乱を起こし,「スペイン内戦」が始まった.M氏の「故国」カタロニアは,ジョージ・オーウェルの「カタロニア讃歌」に描かれているように,人民戦線軍が最後まで頑強に抵抗したところだ.フランコが全土を掌握したあと,カタロニアは弾圧され,固有の言語を奪われ,私的な教育も一切禁止された.それとともに,同地のエスペラント運動も「死滅」した.ヒトラーもしかり,スターリンもしかり,各国人民の国際連帯は,独裁政権のもっとも忌み嫌うものなのだ.==

==早くからエスペラント(国際語)を学び,内戦後は物理学や数学の教師をしていたM氏は,教育現場への当局の規制が厳しくなるのに嫌気がさして,ついに1951年,祖国を捨ててウルグアイに移住した.別段,あてがあったわけではない.「南米では独裁者のいない唯一の国」というのが理由ということだ.==

==モンテビデオでのM氏の生活は,「無」から始まった.金も身寄りも仕事も家もない.おまけに,片足がやや不自由だ.自身ではあまり語らなかったが,その後の2,30年は,刻苦勉励,勤倹力行の年月であったことだろう.そして,今,M氏は,モンテビデオの高級住宅地区の豪勢な邸宅に住み,余生をエスペラントの研究と普及に捧げ,外国の同志たちを迎えることを楽しみにしている.ウルグアイ生まれの夫人も元教師,手作りのフルコースの郷土料理は,またとなく美味であった.二人とも酒や煙草に理解があって,灰皿を出したり,ウィスキーやワインをふるまってくれる.すっかり上機嫌になり,話がはずんだ.==

==「ウルグアイには,エスペラントの全国組織がまだできていなくてね.そうだな,国中では,やってる人が50人くらいはいるかな.ペロン独裁の頃のアルゼンチンでは,あまりおおっぴらにやれなかったそうだよ」.「この国はごらんのような現状だが,これもひとつには政治家の資質にもよると思うよ.一国の指導者には,信念と展望と決断と高潔な精神が必要だね」(「どこかの国にも,あてはまるんじゃないかな」とは,私の独り言.)「教育は,一生の仕事だと思っている.退職後の今も,近所に家を借りて,専門の物理やエスペラントなどを教えている.理想をいえば,朝から晩まで同じ生徒をじっくり相手にするのが,いちばんいいようだ.ウルグアイの教育水準は高いほうだよ」などなど.==

 モンテビデオに着いた日は結構蒸し暑かったが,2日目の朝は寒く,風は冷たかった.3人で外出し,旅行社を探してパラグアイ行きの長距離バスの手配を済ませた.翌日の午後3時発,深夜に国境越えをする長距離バスの切符がとれた.長距離のバス移動に弱い友人,はたして大丈夫だろうか.その後,郵便局に立ち寄った.不要となった書物や旅行資料などを航空便で日本へ送るためである.それから外食しようと思ったが,街にはスナック風の店ばかりで,ちゃんとしたレストランはあまり見当たらなかった.映画館では「クロサワ・アキラの夢」を上映していた.日本でも,評判になっていた作品だ.看板には,坊主刈りの少年と森を背景にしたわらぶきの農家が描かれていた.

モンテビデオの街並み

 市街を南へ下ると,海岸に出た.濃紺の海と清澄な空,ハイウエイに並行して立派な遊歩道が東西に延々と伸びている.西ドイツ大使館前の「ドイツ広場」には,ゲーテの胸像が南米の太陽の下で瞑想にふけっていた.この沖合いは,大戦中にドイツの戦艦「ビスマルク」が自沈したところだそうだ.2日目の夕食には,中華料理店の「上海飯店」に入った.従業員はすべて現地人だったが,日本語のメニューも備えてあった.スープ,ワンタン,椎茸とほうれん草の炒め物,海老と烏賊の炒め物,蒸し餃子,それにビールやウォッカ.翌日の強行軍に備えて奮発してみたが,味はよかったものの,値段も高かった.3人分あわせて6000円くらい,南米でこんなに大金を使っていては先がもたない.食後は,すぐに反省の観念にさいなまれたのも事実である.

モンテビデオの観光絵葉書

 この夕食時には,その長い会話の中で,われわれの旅の中間総括,また今後の旅程などに関する打合せも行った.その結果,同行の女性友人は,ブラジルへ入ってから旅程を単独変更して,ブラジル東北部の大西洋海岸地方を回ることとなった.女性の一人旅で当地を回るには,多少の心配もないではなかったが,当初からの強い希望でもあったことから,そのプランを暖かく受入れることにした.男2人は,予定通りにブラジルの内陸部を回り,その後中米を旅することになる.そして,帰途のメキシコにて合流するという案が,ここで具体化することになった.そうはいっても,まだパラグアイを経て,イグアスの滝を見学し,ブラジルのサンパウロからリオ・デ・ジャネイロへと到る道程では,まだ3人同行の旅が続く.われわれの旅は,この日で,日本を出発してからちょうど51日目を迎えていた.

【次は,深夜の長距離バスでパラグアイの首都アスンションへ移動します.】
(2006/05/21,回想執筆時,筆者)

1990_中南米の旅・回想記(25)

2006-05-17 | 1990_中南米・回想記
● さらば,ブエノス・・・「友情の集い」と「お別れ会」,私は「茶の湯」の講演を!
 8月25日(1990年)は土曜日であった.ブエノスアイレス滞在4日目,最後の日となった.朝食をすませて一服するひまもなく,例のM氏がホテルにやってきた.「ずいぶん早いですね」と声を掛けると,「なあに,これも楽しみでね.身体の調子もいいよ」という.それから,ひとしきり,アルゼンチンの歴史の話,今回はロス将軍の独裁時代のことだ.そのうち,さらに3~4人が加わって車で外出することとなった.私は,前夜の夜更かしがさすがにたたったのか,この日の日中はホテルで休養することにした.その間の様子を,友人の記録から抜粋して,紹介してみよう.

==まず,M氏の親戚という某夫人のアパートを訪ねた.都心部に立ち並ぶ時代がかった建物の4階,大きな部屋が5つも6つもある.東京だったら「億ション」だ.驚いたのは,どの部屋も廊下まで念入りに装飾を凝らしていること,それがただの飾りつけではなく,すべてクラシック様式にまとめてあるのだ.フランスの王朝時代を偲ばせる家具や調度,アラバストロ(雪花石膏)製のシャンデリア,銀の燭台や古い食器の数々,壁にかかるのはエル・グレコの小品だ.一言で言えば「優雅華麗」,小宮廷の趣だ.夫人はエスペラントの理解者とのこと,興に乗って民謡ふうの歌曲を歌ってくれた.別れを告げて階下へ,大理石の階段が少しへこんでいた.100年も前の建物だ.==

==車でさらに市内をめぐり,ロシア正教会や,今は見捨てられたままの開閉橋を見て,ボーカ地区へ着いた.「ボーカ」というのは「(河の)入口」ということで,このあたり昔は湿地帯,貧民窟だったようだが,今は「画家の天国」に変わっている.この一角には,小さな2階建の木造家屋が軒を連ねる.その真ん中が,さして広くもない空き地になっていて,植え込みの木が数本.空き地に面した家々の壁は色とりどりに彩色されて,たのしい雰囲気だ.土産物を売る露店が若干,中央には独立の父サン・マルティンを讃える記念碑がある.そして,目玉となっているのは,名もない小芸術家たちの群,空き地のいたるところにキャンバスをひろげ,にわか作りの陳列台に自作の絵画をぶら下げて売っている.主に港町を写した風景画だが,ヌードや漫画ふうのものもある.==

==まだ冬とはいえ,蒸し暑いほどだ.巨木が生い茂る公園の芝生,木陰に横になると爽快だ.この巨木はオンブーといって,じつは草の一種だそうだ.昔,大平原を股にかけて活躍した牧童たちが,この木に上り,枝に腰かけてマテ茶を飲んだという.誰かがやっと気づいたように言い出した,「ヒルメシはどうする」.時計は,もう午後2時をまわっている頃だった.==

==明日は別れという日の晩,「協会」主催の「友情の集い」があった.生活協同組合の大きなビルの4階ホールだ.そういえば,エスペラントの友人たちは「協同組合」のことをしきりに話す.3,40年以前,ペロン政権時代の労働者優遇政策の名残だ.ペロンのファシズムにならった「社会主義」は失敗したが,年輩のエスペラント関係者の中にはその頃をなつかしむ人たちもいた.当時は,少なくとも,「危機」はまだ進行していなかった.==

==「集い」は,7時過ぎに始まった.コンサートが主体だ.何というのか名前は聞きそこねたが,尺八に似た木製の吹奏楽器,大小5個あるのを男3人,女2人が合奏するのだ.かぼそい旋律だ.ときどき甲高い響きがまじる.素朴で小細工のきかない楽器だから,5人が調子を揃えるのは至難のわざだ.曲目はポピュラー・ミュージックばかり,最初に楽器の紹介,大は長さ1.5メートル,小はわずか20センチ,それぞれベース,テナー,コントラアルト,ソプラノを受け持つ.軽快なダンス曲のあとは,ギターやクラリネットが加わって,にぎやかになった.==

吹奏楽のコンサート

==人気のあったのは,ジャズの「スィート・ジョージ・ブラウン」,最後にブエノスアイレスの日常生活を表現するという「71年」,テンポが速く,明るく快活で,まるで街中をバスでゆられているような感じだ.終わると大拍手が続き,アンコールでもう一曲.エスペラントをとくに宣伝する趣旨ではなかったが,エスペラントの名において行われた会合,こういうものをやるだけの度量が日本のエスペラント界にも欲しい.==

 「協会」へ戻ってきて,夜の10時頃からは「お別れのパーティ」が開催された.ここからは私も元気を取り戻して参加した.出席者は30人余り,上等のワインにギョウザに似たサルテーニャなどが出て,つまみも豊富.一同すっかり陽気になって,ギターの演奏や民謡の披露もあった.われわれも何かお返しをしなければならない.こんなこともあろうかと,私は密かに「お茶の道具」を日本から持参してきていた.なんと,「茶の湯の心」について30分近くの講演をやってしまった.裏千家や表千家,そこにある形式美と内面の美をめぐって,「わび」や「さび」などにも触れつつ,茶器を紹介し,ホワイトボードに板書までしながらやさしく話したつもりである.けっこう好評であった.終わってから,希望者にはその茶器をプレゼントした.ちなみに,私は,かつて関西の某高校時代の3年間,茶道部に属してそれを習い覚えていたのである.

 「お別れ会」の最後には,記念品の贈呈を受けた.土地の人がよく使っている携帯用のマテ茶吸飲器の模型だった.さて,こちらも,ひとかたならぬお世話になったので,心ばかりの記念の品を2,3進呈し,さらにこれまでの飲食,交通費の実費と「協会」活動費の一端にあててくれるようにと,感謝の辞を添えて金一封を差し出した.ところが,長老格のC氏が中身を見て,封筒だけ受取り紙幣は鄭重に返されてしまった.善意は金で買えるものではない.同行友人は書く.「私は自分の不明を恥じると同時に,『危機』にあっても誇り高いアルゼンチンの仲間たちに敬服した」と.そして翌朝,こうした彼ら彼女ら大勢の関係者が港に見送るなか,われわれ3人は思い出多き首都ブエノスアイレスを後にしたのである.

お別れのグリーティングカード

【次は,高速船にてウルグアイのモンテビデオに移動します.】
(2006/05/17,回想執筆時,筆者)

1990_中南米の旅・回想記(24)

2006-05-14 | 1990_中南米・回想記
● 「生き字引」さながらのボランティア・ガイドが大活躍,昼も,夜も,そして深夜まで!
 ブエノスアイレスは巨大な都市である.連日のように見物に歩き回っても,見るところは尽きない.滞在3日目も,超過密なスケジュールに明け暮れた.案内役の中心は,前日に引き続いてタフな年輩の人だった.仮に名前をM氏と呼ぼう.M氏の疲れを知らないタフさにもびっくりしたが,それだけではない,この町のことなら何でも知っている,まるで「生き字引」のような人だった.

 3日目の朝も,M氏は早い時刻にホテルにやってきた.今日も一日中付き添うという.大統領府やオベリスク,直径何十メートルにもわたって根を張り枝を伸ばしているマグノリアの大樹の公園.地下鉄にも乗った.プラットホームの壁は,色彩も鮮やかなセラミックのモザイク絵画で埋められていた.この町の歴史を描いたものという.首都の歴史もそらんじていて,ここ数百年の出来事を細かに説明してくれた.19世紀の初期にイギリス軍が繰り返し襲撃してきたのを,土地っ子のスペイン系移民たちが撃退したという話など面白かった.あとでガイドブックを見たら,年号までピッタリ会っているのに感心した.

 M氏の説明は続く.そもそも「ブエノスアイレス」というのは,スペイン語で「良い空気」を意味する.それで,普通は,スペインの入植者たちがこのラプラタ河口の地に来たとき,大草原の匂いと大洋の潮の香りを吸い込んで,「なんといい空気なんだろう」と言ったのが始まりとされている.しかし,本当は,航海の守護神,聖母ブエン・アイレに由来しているとのことだ.

 ところで,このM氏の家族が,まことに「国際的」なのには驚いた.400キロも離れたマル・デル・プラータという町からわざわざ来てくれたのだが,自身はブエノスアイレス生まれ,土木工学関係の技師で,65歳というから今は引退の身.娘が5人いるうち1人は沖縄出身の男と結婚,したがって孫は日系だ.もう1人はエルサレム生まれのユダヤ人と結婚し,別の2人もそれぞれ所帯をもって,スペインとイタリアに住んでいるという.こういう家族は,欧米ではそれほど珍しくはないが.同族社会の日本と比べると,やはり国際語や国際交流への関心も高いことはうなずける.

 ついでながら,われわれを歓迎するためには,ここブエノスアイレスだけでなく,全国各地からエスペラント関係者が「上京」して来ていた.都市の名前を挙げれば,ロサリア,ネウケン,マル・デル・プラータ,コルドバ,ベナード・トゥエルト,フロレンシオ・バレラ,モロン,モレーノ,サントス・ルガーレス,ウィルデなどなどだ.何百キロもバスに揺られて来た人も多い.そのことを考えると,「日程が詰まりすぎる」とか,「食事が遅い」とか,「疲れた」とか,文句など言えた義理ではない.みんな身銭を切って手弁当でやってくれているのだから...

 市内見物も一段落した頃,郊外へ出かけようということになった.バスで一時間くらいのフロレンシア・バレラという町だ.その日の昼食は,「典型的なアルゼンチン料理」を出すというレストランに案内された.と言っても看板も何も出ていない,「通(つう)」だけが知っているようなクラブ・ハウスめいたところ.コンクリートの床にテーブルと椅子が置いてあるだけ.ここでも歓迎会が始まった.参列者は24人,代表格のK氏が歓迎の挨拶をした.意を尽くして流暢,明瞭,堂々たるスピーチだった.料理もさすがにうまかった.「チョリーソ・サングレ」といって,血の匂いがする腸詰めは独特の味,しかし何と言っても,最高はステーキ,量はたっぷり,うまくて安い.みんなで割り勘にしていたようだが,ここでもやはりわれわれには払わせなかった.

歓迎会の飾りつけ

 しばし歓談のあと,バスに乗って目指す町に着いたのが4時半頃,まず「サンタ・ルシア学園」を訪れた.ここは,カトリック系の私立中学兼高校だが,アルゼンチン在住の外国人子弟が多い.日本人の生徒も5~6人いた.理事長の案内で構内を一巡,諸施設完備,清潔,整然としている.石灯篭と泉水を配した日本庭園もあり,たくさんの孔雀が悠然と歩きまわっていた.それから,近くの文化センターへ.同行者の中には日本大使館勤務の人もいた.エスペラント語も.ぜひ学習したいとのことだった.

サンタルシア学園の体育館

 夕刻7時過ぎから,地元の人たちによる民族舞踊の公演があった.司会はエスペラント語とスペイン語,ちょっと素人っぽい演技だったが,みんな楽しそうに踊っていた.9時頃ホテルに戻ったが,ブエノスアイレスの夜はこれからが始まりということだ.隣のカフェテリアに有志6~7人が集い,肉や野菜をとうもろこし製の衣で包んだタコスをさかなにビール.話はいつまでも尽きない.10時半頃,迎えの車がやって来た.どうするのかと思っていたら,これから「タンゴの夕べ」に行こうという.さすがに友人教授は,朝からの過密スケジュールで疲れ果て,これには辞退したようだ.私と同行女性が,付き合った.

 「アルゼンチンへ来たら,本場のタンゴを!」と訪れた会場は結構広く,たくさんの人々が集っていた.アルゼンチン・タンゴといえば,バンドネオンである.この楽器の響きがなんともいえない.数名の楽師たちが次々に演奏し,ある人は歌い,残る人たちは踊っていた.ダンスホール兼カラオケといったところである.とかくするうちに,「日本の歌が聴きたい!」と声が上がった.われわれ2名の日本人に緊張が走る.手拍子を交えてはやし立てられたので,仕方なく私が演壇に向かった.しかし,タンゴなど歌えるわけがない.はたと困った瞬間の後,いかにも日本らしい歌でもアカペラでやってみるかという気になった.少し古い歌だが「白い花の咲く頃」を歌いだした.バンドネオン奏者には,適当に伴奏してくれと,頼んでおいた.何とか役目を果たせたようだった.それにしても,バンドネオンの伴奏でカラオケをやろうとは,想像だにしなかった.ホテルには未明の午前3時頃,やっと帰り着いた.

日本語セミナーのポスター

【次は,ブエノスアイレス最後の日,お別れパーティー編に続きます.】
(2006/05/14,回想執筆時,筆者)

1990_中南米の旅・回想記(23)

2006-05-10 | 1990_中南米・回想記
● 過密スケジュールに参ったブエノスアイレス滞在の4日間!
 空港に着いたとき,長老格の人から何やら厳しいお告げをいただいたことは,すでに記した.この人は,以前はブエノスアイレス・エスペラント協会の会長で,その時はアルゼンチン・エスペラント連盟の会長さんだったのだ.つまり,偉い人である.当時渡された,われわれの滞在中のエスコート・スケジュールを示すプリント資料が残っているので,以下に掲げておこう.エスペラント語とスペイン語の対訳形式で,それは記述されている.語学に興味のない人は,適当に眺めるだけで読みとばしてもよいが,これをよく見ると,その両言語の類似性や違いがわかって面白いかもしれない.

BA滞在日程表

 滞在2日目は,市内見物の日程である.午前も午後も,5~6人の地元関係者が手分けして同行してくれた.すべて手弁当,今風にいえばボランティア活動である.早朝,協会の事務所を訪れると,その日の朝の地元新聞を見せてくれた.なんと,そこには,当日夜の集会の案内が出ていて,「日本から来た○○教授,『今日の日本』との題で講演あり,○○時から」などと書いてある.「教授」とは,もちろん同行友人のことである.これはたいへんなことになったぞと,友人は市内見物の間中ずっと気にかかっていたようだ.それでも,次のような記録はしっかりと残してくれていた.

==いろいろ案内してくれた中で,コロン劇場と国立点字出版所が記憶に残った.前者は,案内書によると「パリのオペラ座,ミラノのスカラ座と並んで世界三大劇場のひとつ」だ.なるほど,まさにその通り,正面に立って全景を眺めたとき,その規模の大きさと大理石造りの豪奢な建築に,思わず息をのんだ.内部がまたすごい.メイン・ホールは,立ち見席も入れると4500人を収容できるという.そのうえ,小劇場やコンサート室がいくつもあり,博物館も併設している.それらをつなぐ回廊なども,すべて宮廷ふうの内装,壁も欄間も天井も華麗な絵画に飾られ,所々には王朝時代のヨーロッパの家具や東洋伝来の陶磁器などが置いてある.大舞台ではオペラのリハーサル中で,観客が平土間から天井桟敷まで埋めていた.劇場はその国の文化水準のシンボル,ここは首都の市民の誇りだ.==

ブエノスアイレスの街並み

==点字出版所にも連れていってくれた.スペインふうの中庭のある建物の2階を全部使って,盲人のための点訳サービスや点字書籍の刊行,貸出などを行っている.所長も含めて従業員の大部分は全盲者だ.晴眼者でなければどうしてもできないこと以外は,すべて引き受けるとのことで,各室に分かれたそれぞれの担当部門で,タイプや校正の仕事を少しも危なげなく進めていた.ここには,エスペラント部門もあった.別室では点字の楽譜を,荷作り,発送していた.「日本では,ハイテクを利用した高性能の点字機があると聞きましたが,日本の盲人福祉はどうですか」とたずねられて,私は返事に詰まった.あまり自慢はできないからだ.この施設は,社会福祉省の管轄ということだ.「危機」のアルゼンチンさえ,身障者を「切捨て」たりはしない.経済大国日本の現状は,これでいいのだろうか.ブエノスアイレスの市街の目抜き通りは,均整のとれた古風な,がっしりした建物が多く,総じて都市の美観が配慮されているようだ.とある街角に記念碑が立っていた.先年の「マルビナス (フォークランド)紛争」で,イギリスとの戦闘に倒れた兵士たちへの追悼の碑であった.==

==さて,その晩はいよいよ「講演」をしなければならない.協会に戻ると,集まった人々は40人くらい,集会室はいっぱいだ.3人の紹介のあと,私が代表してしゃべった.「今日の日本」といっても,スペイン語通訳つきの30分だから,くわしい話はできない.そこで,日本のエスペラント事情や外国語教育の実情のほかに,みんな興味があるらしい日本の経済発展に重点を置いた.敗戦の荒廃の中からどのようにして現在の繁栄に到達したか,その要因について私なりに理解していることをかいらまんで説明した.==

エスペラント協会の事務所

==いろいろと質問が出た.(中略) 「日本語は漢字を多く使用するので難解だと聞いているが,初等教育ではどのようにしているのか.国字改革の成果はどうか.文盲率は何パーセントか」.「日本の女性の地位と実態について知りたい」.「労資関係はどうなっているか.終身雇用のメリットは」.「日本のふつうの労働者の平均収入はどのくらいか」.(中略) 総じて,日本についての関心が非常に高いように見受けた.それもそのはず,これまで立ち寄った南米の町々には,例外なく日本企業の大きな看板が目についていた.最南端のプンタ・アレーナスでもそうだった.世界の隅々まで進出しているという印象だ.テレビにも日本紹介の番組がしばしば登場する.「アメリカ帝国主義の経済侵略」は中南米で悪名高いが,日本もその二の舞を演じないようにしなければと思った.==

【次は,ブエノスアイレス滞在の中盤編に続きます.】
(2006/05/10,回想執筆時,筆者)

2006_北欧4カ国・旅だより(12-3,最終回-3)

2006-05-09 | 2006_北欧4ヶ国の旅
● 補遺・追加スナップ写真集 【シリアライン/フィンランド】
乗船歓迎パフォーマンス乗船歓迎パフォーマンス
船上から見るストックホルム船上から見るストックホルム
船上から見る日没船上から見る日没
船内の歓楽街船内の歓楽街
シリアライン船上風景シリアライン船上風景
シベリウス公園(1)シベリウス公園(1)
シベリウス公園(2)シベリウス公園(2)
ヘルシンキのたたずまいヘルシンキのたたずまい
ヘルシンキの街並みヘルシンキの街並み
テンペリアウキオ教会テンペリアウキオ教会
ヘルシンキの料理屋ヘルシンキの料理屋
ヘルシンキ中央駅ヘルシンキ中央駅
ヘルシンキ駅構内ヘルシンキ駅構内
シリアライン全景シリアライン全景
ヘルシンキの空港ヘルシンキの空港
帰途に就く飛行機帰途に就く飛行機
帰途の飛行機の機内帰途の飛行機の機内

【北欧4カ国・旅だよりはこれにて完結しました.ご愛読,ありがとうございました.】
(2006/05/09,帰国後の東京にて,筆者)

2006_北欧4カ国・旅だより(12-2,最終回-2)

2006-05-09 | 2006_北欧4ヶ国の旅
● 補遺・追加スナップ写真集 【フィヨルド観光/ノルウェー】
フィヨルド観光船フィヨルド観光船
フロムの港風景フロムの港風景
フィヨルド観光へフィヨルド観光へ
フィヨルドに飛ぶかもめフィヨルドに飛ぶかもめ
フロムの街並みフロムの街並み
雄大なフィヨルド雄大なフィヨルド
流れ落ちる滝(1)流れ落ちる滝(1)
流れ落ちる滝(2)流れ落ちる滝(2)
終着グドバンゲン終着グドバンゲン
スタルハイムの景色(1)スタルハイムの景色(1)
スタルハイムの景色(2)スタルハイムの景色(2)
はためくノルウェー国旗はためくノルウェー国旗

● 補遺・追加スナップ写真集 【首都オスロへ/ノルウェー】
スタルハイムの宿舎スタルハイムの宿舎
スタルハイムの風景スタルハイムの風景
オスロへ向かうバスオスロへ向かうバス
古い教会と墓地古い教会と墓地
バスの車窓から(1)バスの車窓から(1)
バスの車窓から(2)バスの車窓から(2)
バスを降りて一服バスを降りて一服
バスの車窓から(3)バスの車窓から(3)
オスロに到着して一服オスロに到着して一服
ヴァイキング船博物館ヴァイキング船博物館
ヴァイキング時代の標本ヴァイキング時代の標本
ヴァイキング船の標本ヴァイキング船の標本
フログネル公園(1)フログネル公園(1)
フログネル公園(2)フログネル公園(2)
フログネル公園(3)フログネル公園(3)
フログネル公園(4)フログネル公園(4)

● 補遺・追加スナップ写真集 【ストックホルムへ/スウェーデン】
ストックホルム行きの飛行機ストックホルム行きの飛行機
ストックホルムの空港ストックホルムの空港
ストックホルムの賑わいストックホルムの賑わい
ストックホルム市庁舎(1)ストックホルム市庁舎(1)
ストックホルム市庁舎(2)ストックホルム市庁舎(2)
ストックホルムのデモストックホルムのデモ
ストックホルムのたたずまいストックホルムのたたずまい
ストックホルムの風景ストックホルムの風景
ストックホルムの王宮ストックホルムの王宮
ノーベル博物館前での集会ノーベル博物館前での集会
ストックホルムの港風景ストックホルムの港風景

【次は,最終回-3:シリアライン/フィンランド編に続きます.】
(2006/05/09,帰国後の東京にて,筆者)

2006_北欧4カ国・旅だより(12-1,最終回-1)

2006-05-09 | 2006_北欧4ヶ国の旅
● 補遺・追加スナップ写真集 【コペンヘーゲン/デンマーク】
コペンハーゲン行きゲート
(成田空港にて)
コペンハーゲン行きゲート(成田空港にて)
快適なSK便の機内快適なSK便の機内
コペンハーゲン空港コペンハーゲン空港
コペンハーゲンのセブンイレブンコペンハーゲンのセブンイレブン
デンマークの鉄道デンマークの鉄道
コペン鉄道駅の構内コペン鉄道駅の構内
アンデルセンの銅像アンデルセンの銅像
チボリ公園の入口チボリ公園の入口
コペンハーゲンの中心街コペンハーゲンの中心街
宮殿衛兵の行進宮殿衛兵の行進
ヴァイキングの錨か?ヴァイキングの錨か?

● 補遺・追加スナップ写真集 【ベルゲン/ノルウェー】
ベルゲン空港の玄関ベルゲン空港の玄関
ベルゲンの街並みベルゲンの街並み
ベルゲンの世界遺産ベルゲンの世界遺産
ベルゲンの市街ベルゲンの市街
ベルゲンの港風景ベルゲンの港風景
ベルゲンの中心部ベルゲンの中心部
ベルゲンの風景(1)ベルゲンの風景(1)
ベルゲンの風景(2)ベルゲンの風景(2)
ベルゲンの風景(3)ベルゲンの風景(3)

● 補遺・追加スナップ写真集 【フィヨルドへ/ノルウェー】
Voss 駅のインフォメーションVoss 駅のインフォメーション
Voss 駅の位置表示Voss 駅の位置表示
ベルゲン鉄道の列車ベルゲン鉄道の列車
ベルゲン鉄道の車内ベルゲン鉄道の車内
ベルゲン鉄道の車窓ベルゲン鉄道の車窓
フロム鉄道の機関車フロム鉄道の機関車
フロム鉄道の車内フロム鉄道の車内
フロム鉄道の車窓(1)フロム鉄道の車窓(1)
フロム鉄道の車窓(2)フロム鉄道の車窓(2)
フロム鉄道の車窓(3)フロム鉄道の車窓(3)
フロム鉄道の車窓(4)フロム鉄道の車窓(4)
フロム鉄道の車窓(5)フロム鉄道の車窓(5)
フロム鉄道の車窓(6)フロム鉄道の車窓(6)
フロム鉄道の車窓(7)フロム鉄道の車窓(7)
フロム鉄道の車窓(8)フロム鉄道の車窓(8)
フロム鉄道の終着駅(1)フロム鉄道の終着駅(1)
フロム鉄道の終着駅(2)フロム鉄道の終着駅(2)

【次は,最終回-2:フィヨルド観光/ノルウェー編に続きます.】
(2006/05/09,帰国後の東京にて,筆者)

2006_北欧4カ国・旅だより(11)

2006-05-09 | 2006_北欧4ヶ国の旅
● 北欧各国,駆け足旅の印象記と考察 (フィンランド編)
フィンランドの位置と略図 フィンランドに入って,まず困り果てるのは,「ことば」である.もちろん,そこではフィンランド語が話されているのだが,この言語は他のヨーロッパ諸国で多く使われているインド・ヨーロッパ系の諸言語と系統をまったく異にする.それは,ウラル語族・フィン・ウゴル語派・バルト・フィン諸語に属しているという.いわば,アジア系の言語である.似た言語では,海を隔てたお隣の国,バルト3国のいちばん北に位置するエストニアで話されているエストニア語があり,この両言語は通訳なしでもだいたいの意思疎通は可能だといわれている.文字はラテン文字を使い,綴りと発音はよく一致していて,ローマ字どおりに読めばたしかに読めはする.だが,意味がさっぱりわからない.ここフィンランドを訪れると,急に単語の意味の類推さえ不可能となる.アジア系の日本人でありながら,このアジア系の言語にまるで疎遠なことに,いささかの苛立ちさえ感じるのだ.ちなみに,中央ヨーロッパの国ハンガリーでも同様である.この国では,やはりアジア系の言語であるハンガリー語(マジャール語)が話されていて,フィンランドと同様の経験をすることになる.

 しかし,実際にはあまり困ることはない.フィンランドの言語教育は,実に賢明である.学校教育では,フィンランド語,スウェーデン語,英語の「3ヶ国語教育」が行われていて,ほぼ全国民がトリリンガルだといわれている.つまり,国内では主にフィンランド語を,スカンジナビア諸国とはスウェーデン語を,他の国際社
会とは英語を駆使して,たいへん積極的な国際的活動を行っているのだ.外国語教育というと英語教育だけに汲々としている日本人にとっては多少の驚きだが,外国人にとっては,ひらがなにカタカナ,漢字にローマ字と4種類の文字を併用する日本語の表記,そしてその教育のほうがはるかな驚きなのである.そんなわけで,フィンランドへ行ったら基礎的な英語を用いて会話をすれば,わかりやすくてやさしい英語の答えが返ってくる.ある意味では,アメリカやイギリス以上に,日本人の英語が通じる国でもある.そしてこの,ムーミンやサンタクロース,サウナやキシリトール,音楽のシベリウスや携帯電話のノキア,ソフトウェアの Linux などで知られる国,フィンランドとはどういう国だろうか.以下に,ひととおりの復習をしてみることにしよう.

★ フィンランドの基礎データ
 正式国名は「フィンランド共和国 (英語名:Republic of Finland,フィンランド語名:Suomen Tasavalta,スウェーデン語名:Republiken Finland)」という.ちょうど日本国(英語名:Japan)のことを,日本語では通称「ニッポン」というように,フィンランドのことをフィンランド語では通称「Suomi (スオミ)」という.スオミの語源は,湖・池を意味するスオ (Suo)からきていると言われている.面積は約34万平方キロで,日本(同38万平方キロ)よりやや小さい.人口は約524万人(2004年度),首都はヘルシンキ(人口約56万人),政体は共和制で,現在の元首はタルヤ・ハロネン大統領(2000/03就任,2006/03再任,女性)である.民族構成はフィン人が93%,スウェーデン人が6%,サーミ人が0.1%,ロマ人が0.1%,言語はフィンランド語が93.4%,スウェーデン語が5.9%で,この2つの言語が公用語だが,サーミ人はサーミ語を使用し,1970年代にその地位は向上した.なお,後に触れるように,フィンランドは長年ロシアの支配下にもあったが,ロシア語は約1世紀にわたり支配社会の上層部にのみ影響を与えただけで,庶民に浸透することはなかったようだ.宗教は福音ルーテル教(国教)が89%,東方正教会が1%,無宗教が9%である.

★ フィンランド略史
 フィンランドで最初の人類の痕跡が見出されるのは,紀元前700年頃とされるが,彼らはウラル山脈のほうからやってきて,フィンランド湾を渡って現在のフィンランドに上陸し,各地に散っていったといわれている.しかし,現在のフィンランド人はその直接の子孫ではなく,紀元1世紀頃にフィンランド湾の南岸から移住してきた民族とするのが定説らしい.移動中に農耕を開始し,バルト・スラブ族と接触することで社会制度や生活様式を学んだ.その中で主力のスオミ族は,現在のエストニアの地からいくつかの集団を組んで船で北上し,フィンランドの南西部に上陸した.そこから先住民のサーメ人を追い出しながら北と東へ広がったが,この部族はハメ人と呼ばれている.またその頃,カレリア人がラドガ湖の周囲に定住していたが,やがて両者が重なった部分にサボ人が出現した.ここに,ハメ,カレリア,サボの3大部族が形成された.こうして,堅実なハメ人,音楽好きなカレリア人,陽気なサボ人といった部族的気風が育ってきたといわれている.原始部族時代のフィンランドは,すでにスウェーデンとロシアという東西2大勢力の衝突の場となっていた.

 12世紀,スウェーデン王エリーク9世(1160没)は十字軍の名の下にフィンランドに攻め入ると,これら3大部族を次々と支配下に置いた.この頃,フィンランドにはカトリック信仰の基が築かれた.一方,南東からはノブゴロド共和国が勢力を伸ばしてきて,1323年に両国の間にパヒキナサーリ条約が結ばれて国境線が確定されたが,これによりカレリア(現ロシア領)は東西に2分されてしまった.スウェーデン王グスタフ1世(在位:1523-60)は,宗教改革を断行してルター派を受入れ,フィンランドにおける勢力を北方へ伸ばすとともに領内をルター派に改宗させていった.このとき「新約聖書」のフィンランド語訳も行われたという.グスタフ2世の治下で強力となったスウェーデンは,武力によってロシアを封じ込め,1617年ストルボバの和議により東カレリアとイングリア(現在のサンクトペテルブルグ地方)を手に入れ,エストニアを併合してさらにポーランドを押さえた.しかし,カール1世の時代になるとピョートル1世率いるロシア軍と戦い,1709年に大敗を喫した.スウェーデン人が兵を引き上げたので,フィンランド人の必死の抵抗もむなしく,ロシア軍はフィンランドを侵略し,1721年のニースタードの和議で,スウェーデンは17世紀に獲得したすべてのフィンランドの土地を失った.

 19世紀に入り,1808年,ロシア皇帝アレクサンドル1世はフィンランドに出兵した.このとき,フィンランドは善戦したものの,スウェーデンは援兵を出さなかったので,フィンランド全土がロシアに占領されてしまった.1809年,ロシア皇帝を君主とする自治公国としてロシアに併合されるが,スウェーデン時代からの諸制度は保存されたおかげで国としての輪郭ができ,フィンランド人としての自覚が高まっていった.民族叙事詩「カレワラ」集成などの文化運動も,また強制されていたスウェーデン語からの離脱の動きも次第に高まっていった.19世紀末からは,汎スラブ主義の高揚からサンクトペテルブルグ防衛の必要上,フィンランドの自治権を奪おうとするロシア化政策が強行されたが,それに伴い,逆にフィンランド人に民族的な自覚が燃え上がり,独立の気運が高まっていった.

 1904年,ついにロシア総督が殺される事件が発生し,ロシア皇帝の勢力が後退すると,1906年にそれまでの身分制議会が一挙に普通選挙による一院制の国会に変革された.そして,1917年のロシア革命により帝政ロシアが崩壊すると,それに乗じて同年12月,フィンランドはついに念願の独立を達成した.独立と同時に1918年,都市の資産階級と豪農を代表するブルジョワ政府勢力の白衛軍と,労働者・小作農を中核とする社民党革命勢力の赤衛軍との間で内戦が勃発し,ここでは前者が勝利して,1919年にフィンランド共和国憲法が制定された.しかし,独立後の政情は不安定で,1921年にスウェーデンと領土問題(オーランド諸島)で争い,さらに1939-1940のソ連との戦争(冬戦争:第1次ソビエト・フィンランド戦争)で国土の10分の1(南東部)を失った.

 第2次大戦では,1941年,ナチスドイツの対ソ戦争が始まると,巻き込まれたフィンランドはドイツ軍に協力し,ソ連と戦うこととなった(第2次ソビエト・フィンランド戦争).しかし,1944年にソ連と休戦協定を結んで戦線を離脱すると,ドイツ軍はラップランド(フィンランド北部)を徹底的に破壊した.一方ソ連からは,カレリア地方などの割譲,さらに国民所得の1割に及ぶ2億ドルもの巨額な賠償を課せられた.つまり,敗戦国としてたいへんみじめな終戦を迎えたのである.戦後,不可能といわれた苛酷な賠償金の支払いを,その予定期間の半分強の6年間で完了させ,その後政治的にも外交的にも安定し,1952年にはヘルシンキでオリンピックが開催された.さらに,1955年には国連と北欧評議会に加盟,経済,社会面でも急速な発展をとげ,世界で最も生活水準の高い先進民主主義国,福祉国家のひとつとなっている.そして,1995年にはEU加盟,1999年には欧州通貨同盟に加盟して,現在通貨に「ユーロ」が使われている唯一の北欧の国となっている.

★ フィンランドの今
 国家元首である大統領は,内閣と共同して行政執政権を行使し,任期は6年とされている.国民の直接選挙によって選ばれるが,直近の投票は,2006年1月に行われた.どの候補者も過半数に満たなかったため,上位2名で決戦投票の結果,前回フィンランド初の女性大統領となったタルヤ・ハネロン大統領が再選を果たした.彼女は,当地では「ムーミン・ママ」とのあだ名をもち,未婚の母の道を歩んできて大統領就任の際には同棲中だったという,お国柄ならではの人物である.これまでにヘルシンキ市議,国会議員(社民党),社会保険相,法相,外相などを歴任してきたツワモノだ.フィンランドは,独立以来,半大統領制ともいわれる大統領と首相の2元政治であったが,1990年以降になって議員内閣制への移行を目的とした憲法改正が数度行われた.公式見解としては,議会制民主主義国家であり,議会が国権の最高機関とされている.

 議会は一院制でエドゥスクンタ (Eduskunta)と呼ばれる.200議席を15の選挙区に分け,比例代表制選挙で選出する.任期は4年だが,途中で解散される場合もある.直近の投票では,2003年3月に行われ,議席数の上位から次のような構成となっている.中央党(55議席),社民党(53),国民連合党(40),左翼同盟(19),緑の党(14),スウェーデン人民党(8),キリスト教民主同盟(7),その他(4).行政府の長である首相は,副首相や閣僚と共に内閣を構成し,各大臣は議会に対して責任をもつ.首相は,総選挙直後に各党代表の交渉結果に従って大統領が首相候補者を指名し,議会で過半数の賛成を得た後,大統領による任命を経て就任する.現在の首相は中央党から,また外相は社民党から出ている.

 1980年代以降,フィンランドは,農業と林業中心の経済体制から,ハイテク産業を基幹とする工業先進国へと著しい変化を遂げた.とくに,携帯電話のノキア (NOKIA)やコンピュータのOSソフトであるリナックス (Linux)が有名である.その結果,ヨーロッパ内でも有数の経済大国となり,世界経済フォーラムが毎年発表する国際経済競争力の順位では,2001年から2004年まで4年連続首位に輝き続け,世界の注目を集めている.情報社会と福祉国家というフィンランド・モデルは,たいへんに興味深い研究対象としてばかりでなく,諸外国の規範となる可能性を秘めているのである.

 最後に,フィンランドに特徴的な事柄を Wikipedia からの参照によって挙げれば,男女同権思想があるという.生産性の低い土地に住んでいたためであろうか,歴史の彼方に隠れた農業時代から女性も男性と同じくらい働き同じくらいに発言権を持っていたという.フィンランドで普通選挙法が導入されたとき,ヨーロッパ初の女性参政権も当然のように付属していたのはフィンランドならではといえよう.今でも女性の社会進出は世界最高レベルであるが,アファーマティヴ・アクション制やクォーター制のようなフェミニズムプログラム無しでそれを達成していることを考えれば驚異に値する.

<参考文献> 『地球の歩き方(北欧編)』,その他各種『世界史年表』等,検索サイト多数.
<参考LINK>
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』/フィンランド
フィンランド共和国基礎資料/日本国外務省
フィンランド国内経済と日・フィンランド経済関係/日本国外務省
最近のフィンランド情勢と日本・フィンランドの関係/日本国外務省
フィンランド大使館・東京(日本語ページ)
フィンランド政府観光局公式サイト(日本語ページ)
フィンランド観光関連LINK集

【次回は,最終回 :補遺・追加スナップ写真集へと続きます.】
(2006/05/09,帰国後の東京にて,筆者)

2006_北欧4カ国・旅だより(10)

2006-05-09 | 2006_北欧4ヶ国の旅
● 北欧各国,駆け足旅の印象記と考察 (スウェーデン編)
 スウェーデンという国から,どんなキーワードが連想されるだろうか.「ノーベル賞」,「高度な福祉国家」,「中立国」,「オンブズマン」,「ボルボ」や「エリクソン」といった国際的な大手企業名,あるいは最近では日本の小泉首相が訪問した国,などなどであろう.これらの大部分は当たっているのだが,一つだけ違っている,いや最近違ってきたものがある.それは「中立国」というキーワードである.もともとスウェーデンは,国際社会が認知した「永世中立国」ではなかった.ただ,政策として「非同盟・中立」を標榜してきただけである.この政策は,2002年に放棄されたということだ.

 ちなみに,世界には永世中立国として認められた(国連総会で承認された)国が4つある.スイス,オーストリア,リヒテンシュタイン,トルクメニスタンである.このうち,リヒテンシュタイン公国は実質上はスイスの保護下にあるので,3つと捉える向きもある.いずれにせよ,スウェーデンはこうした範疇には属していなかったのだが,第1次と第2次の2度の世界大戦中を政策として非同盟・中立国で過ごし,大きな被害を受けなかったこともあって,1870年から1970年の100年間では世界一の経済成長を成し遂げた国とされている.これがまた,高福祉国家を実現できた要因の一つでもあった.

 近年,スウェーデンでは,冷戦の終結やEU内での共通安保・外交政策などとの関係を背景として,非同盟・中立政策をめぐる議論が行われ,現在では,「中立は軍事非同盟政策の現われとしてのオプション」との説明がなされている由である.
スウェーデンの位置と略図
 そして,2002年2月には与党の社民党,野党の穏健党(保守党の一種),キリスト教民主党,中央党が,テロ対策と欧州の戦争にスウェーデンが積極的な役割を果たすことを目的とした「新ドクトリン」を採択したということだ.また,国防面では,冷戦時代には中立政策維持のため相応の防衛力が必要とされ,「全体防衛」と称する強力な体制が整備されていたが,冷戦終焉後の今日では,国防予算および徴兵人員の削減が図られているとのことである.

★ スウェーデンの基礎データ
 ここで,スウェーデンの基礎データを復習しておこう.正式国名は「スウェーデン王国 (Konungariket Sverige)」(英語名: Kingdom of Sweden)という.面積は約45万平方キロ(日本の約1.2倍)で,人口は約901万人,首都はストックホルム(人口77万人),政体はカール16世グスタフ国王(1973年即位)の下の立憲君主制,民族はスウェーデン人が98%,他にサーメ人やフィンランド人など,宗教はプロテスタント(福音ルーテル派),言語はスウェーデン語と小数言語のサーメ語やフィンランド語だが,デンマーク人に言わせるとスウェーデン語とノルウェー語の違いはあまりわからないということだ.現地ガイドの説明によれば,フィンランドを除く北欧諸国の人々は,それぞれに自国の国語をもつが,通訳なしでも話の内容はほぼ通じ合えるということだ.近年では,いずれの国でも,第2言語としての英語がかなり広範に普及しているという.

★ スウェーデン略史
 スウェーデンの地に人類が定住し始めたのは,氷河が後退してから間もなく,紀元前1万~8000年頃と推定されている.人類が活発な活動を開始したのは紀元前7500年頃とされ,新石器時代(前3000~前1500年頃)に農耕文化が伝わり,西南ヨーロッパからは巨石文化が伝播した.青銅器時代(前1500~前500年頃)になると,イングランドやヨーロッパ大陸との交流が一段と密接になった.紀元後,5~6世紀になると多くの部族国家が形成され始め,そのなかでスベェア族はとくに繁栄して東西ヨーロッパとの交易をもち,現在のラトビア付近で植民活動を続け,交易路を拡大させた.

 9世紀からは,いわゆるヴァイキング時代が始まる.この「ヴァイキング」という言葉は「入江(Vik)を往来する」との意味からきているらしいが,北欧人の海外進出,つまり封建制度の促進,商業路の拡大などでヨーロッパ史上多大な影響を及ぼした時代であった.ルートは2つあって,主にイングランド,フランスに向かう西ルートと,ロシア,ビザンチン帝国,アラブ世界に遠征する東ルートに大別されるが,スウェーデン人はこの両ルートに従事して略奪,建国,商業活動に加わったようである.11世紀以降は,スラブ人の勃興およびヨーロッパの貿易情勢の変化などにより,次第にこのような活動は衰退していった.

 11世紀の初期には,キリスト教が徐々に定着し始める中で部族統合が進み,有力な王たちが出現して身分制度も固まったが,14世紀の中ごろから貴族と国王の抗争が相次ぎ,国王に反対する貴族がデンマーク・ノルウェーに支援を求めたことから内乱となり,ときのスウェーデン王は退位させられて事実上デンマークの支配下に置かれることとなった.16世紀の初頭,貴族グスタフ・ヴァーサの指揮する反デンマーク闘争が農民の支援を得て力をつけ,ついに1523年に祖国を解放し,グスタフは王に就き(グスタフ1世,在位1523-1560),新教(ルター派)の採用,軍隊の整備,経済復興,国王の世襲制の確立など精力的に国力の回復に努め,国の基礎を築いた.

 17世紀には,グスタフ2世(在位1611-1632)によるバルト海沿岸支配(バルト帝国)などの著しい進出の時代もあったが,18世紀に入るとロシア,デンマーク,ポーランドなどとの戦争が勃発し(北方戦争),ロシア遠征の失敗でときの国王カール12世(在位1697-1718)も戦死し,バルト海東・南岸の領土は大幅に失われて,スウェーデンのバルト海支配は終わりを告げた.この戦争の末期頃,憲法改正により王権は著しく弱められ,議会の権限が強化された.スウェーデン史では,それ以後の約半世紀を「自由の時代」と呼んでいる.

 19世紀に入ると,1805年,スウェーデンはナポレオン戦争に参戦するが,敗北を重ねて領土を失い,フィンランドをロシアに割譲することとなって国民の不満は増大した.グスタフ4世(在位1792-1809)は貴族によるクーデター,立憲革命によって廃位させられた.クーデターの結果生まれた臨時政府は,新憲法を制定し,グスタフ4世の叔父カール侯爵をカール13世(在位1809-1818)として国王にして新生スウェーデンを誕生させ,1814年にはノルウェーを同君連合の形で併合する.ノルウェー王としての名前は,カール2世(在位1814-1818)であった.この間,対外的な協調政策とともに,自由主義的な改革が粘り強く進められ,内閣制度の改革(1840),地方自治制(1862),二院制議会の成立(1866)などが実現した.

 20世紀に入り,1905年,ノルウェーが同君連合の解消を宣言,国民投票を通じて無血の独立を果たした.これ以降,スウェーデンは国内問題に専念することとなって,1908年に男子普通選挙法を制定し,1918年に婦人参政権を確立した.第1次大戦(1914-1918)が勃発すると,スウェーデンはいち早く中立を宣言し,戦時中は輸出入が極度に落ち込んで国民は耐乏生活を強いられたが,国土が戦火に荒らされることはなかった.そして1920年に,失業問題の解決のため,ときのグスタフ5世(在位1907-1950)は初めて社会民主党に政権と担当させると,この党は都市労働者の支持を得て次第に勢力を伸ばしていった.1932年の下院選挙では,社会民主党は大躍進を遂げて政権の座を獲得し,以降1976年まで,時には単独,時には連立でスウェーデンを率いてきた.

 第2次世界大戦(1939-1945)では,隣国への公式援助を一切拒否する一方,フィンランド,ノルウェーに移動するドイツ兵の国内通過を許したり,対独レジスタンスを多数国内に受け入れるなど,きわめて柔軟な中立政策をとった.戦後は,社民党政権下で経済復興や福祉政策が強力に推進され,1946年に国連加盟,1950年には世界に冠たる福祉国家に成長した.その後,1976年には,高率の税負担への国民の不満から,一時保守連合の政権も誕生したが,この政権は経済回復を果たせぬまま,1982年にはふたたび社民党が与党に返り咲き,1995年にはEU(ヨーロッパ連合)に加盟した.

★ スウェーデンの今
 1990年代の初めには,スウェーデンでも金融業界の不良債権問題が浮上し,政府は通貨クローナの切り下げを行わざるを得なかった.その結果,輸入品の価格は上がり,政府の財政赤字は4年間で2倍に増えた.OECDの調べによると,1970年代にはスウェーデンの国民1人あたりのGDP (国民総生産)は世界第3位だったということだが,それがこの頃は第7位で,あまり豊かでないと思われていたイタリアより下になってしまった.このような情勢を受けて,長年与党を続けてきた高福祉システム生みの親といわれる社民党は,1991年の選挙で穏健党(中道右派・保守党)に敗れた.

 スウェーデンは,近年あたかも「世界標準」であるかのごとく語られる,「小さな政府」をキーワードとするアメリカ型の国家運営へとシフトするかに見えたのだが,実はそうならなかった.1998年9月に行われた選挙で,再び社民党が第一党の座に返り咲いたのである.ただし,単独政権とはならなかった.得票率が,前回選挙(1994)のときと比べて,45%から37%へと大きく後退したからである.減った票はどこへ行ったのか? 面白いことに,その多くの票は高福祉国家の継続維持を掲げた左翼党(旧共産党)へと流れたのである.しかも,「減税」や「改革」を掲げて闘った右よりの穏健党(保守党)は,ほとんど支持を伸ばすことができなかった.

 ちなみに,その次に行われた2002年の選挙でも,似たような結果となった.前回とほぼ同じ勢力分布となり,第一党の社民党が,左翼党と環境党からの閣外協力を取り付けて,小数連立政権を樹立した.しかも,野党第一党は前出の穏健党だが,この党は前回のときよりも支持率が大幅に後退したという.他の保守系野党では,自由党,キリスト教民主党,中央党の3党があるが,いずれも勢力は振るわない.首相は,1996年以来社民党党首ヨーラン・パーション氏が務め,22人の閣僚中10人が女性というお国柄である.さらには,2003年に行われた国民投票で,明らかに大多数のスウェーデン人が,欧州経済通貨統合への加盟に関して「ノー」と投票した.スウェーデンでは,いまでも「ユーロ」は通用しないのである.

 現在のスウェーデンは,たしかにいっときほどには経済も好調ではないが,この面白い政治状況やスウェーデン人の判断には,かなり考えさせられるところがある.これに関して,次のように指摘する日本の識者もいるようだ.「日本では,多くの人々にとって,税金は昔の農民の年貢とさして変らないもので,『お上』に一方的に取り立てられ,何に使われているかよくわからないというイメージだろう.だが,スウェーデンでは,人々はもっと自覚的だ.政府の情報公開制度が高いため,自分が払っている税金が自分の生活向上に使われている,という意識をもっている.そのため,税金が上がってもいい,ということになる.」と.なるほど,スウェーデンに行ってみると,そのことは実感できる面もある.

 また,次のようにも識者は指摘する.「以前からスウェーデン(やその他の欧州諸国)で検討されている,失業者を減らす方法は,みんなが労働時間を短縮し,その分多くの人々が働けるようにする,というものだ.こうした考えは『自由競争』(言い方を変えれば同僚同士の足の引っ張り合い)を第一に考えるアメリカ型の労働市場システムとは対極にある.」と.なるほど,スウェーデンに限らず,北欧諸国では一般に,失業率は低く,人々の自由時間もたっぷりあるようだ.しかも,人々は勤勉であって,労働意欲の減退などはない,とのことである.

 スウェーデンの人々が,今日の新自由主義といわれるアメリカ型システム,その「自由市場」や「IMF方式」,「小さな政府」といった流れに抗し,また,欧州統合の急ピッチな計画に慎重な対応を示すのは,けっして自分たちの国だけが福祉国家を維持すればいいといった一国主義的なスタンスからではない.最近,「自由市場」や「IMF方式」に反旗を翻し始めたアジアやロシアの状況などもよく見ている面がある.IMFの経済政策の結果,格差が拡大して人々がどんどん貧しくなっていったロシアやインドネシア,韓国等の状況なども,このテーマと無関係ではないのである.
 
★ 日本の小泉首相は,何を学んだか?
 今回の北欧の旅では,日本の小泉首相のスウェーデン訪問とちょっとしたニアミスがあった.小泉首相は,5月3日にアフリカの旅からスウェーデンのストックホルムに駆けつけ,5月4日の1日をそこに滞在した由である.われわれのツアーが訪れる2日前のことであった.現地の日本人ガイドに,どうでしたかと質問してみたが,たしかに1泊はされたものの,24時間にも満たない滞在とかで,あまりニュースにもならなかったとのことだった.首相官邸のHPによれば,首相はストックホルムの保育園を視察し,育児支援の取組みの紹介を受け,ヨーラン・パーション首相との首脳会談を行い,午後はグスタフ国王に拝謁した後,そのまま政府専用機で帰途につき,5日早朝には帰国したらしい.なんとも慌しい遠路のご訪問である.

 首脳会談では,国連総会の議長国であるスウェーデンと共に国連改革を行う必要性について議論を交わし,またスウェーデンが北朝鮮と外交関係を有していることから,拉致問題の重要性を訴え,その解決にスウェーデンとして協力してほしい旨を訴えた由である.拉致問題の解決は重要だが,ここでスウェーデンが北朝鮮とも外交関係を有しているという事実を,どう受け止めるかも重要である.そういう意味では,日本が仲良くしているモンゴルも,北朝鮮および韓国と対等な外交関係を有している.アジアにおける日朝の関係はたしかに微妙だが,はたしてスウェーデンの首相は,この小泉首相の「お願い」をどう受けとめたであろうか.北朝鮮との関係ばかりでなく,いま,小泉首相の外交姿勢がアジアの中でたいへん危ない要素をはらんでいることは,きっとスウェーデンの人々も認識しているに違いない.

<参考文献> 『地球の歩き方(北欧編)』,その他各種『世界史年表』等,検索サイト多数.
<参考LINK>
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』/スウェーデン
スウェーデン王国基礎資料/日本国外務省
スウェーデン国内経済と日・スウェーデン経済関係/日本国外務省
最近のスウェーデン情勢と日本・スウェーデンの関係/日本国外務省
スウェーデン国公式サイト(日本語ページ)
スウェーデン観光関連LINK集
日本国首相官邸HP/小泉総理の動き-アフリカ・欧州訪問 (スウェーデン)

【次回は,各国別 : フィンランド編へと続きます.】
(2006/05/09,帰国後の東京にて,筆者)

2006_北欧4カ国・旅だより(9)

2006-05-09 | 2006_北欧4ヶ国の旅
● 北欧各国,駆け足旅の印象記と考察 (ノルウェー編)

ノルウェーの位置と略図

 ノルウェーという国名には,「北への道」という意味があるそうだ.なるほど,英語表記の国名 Norway の綴り字からもうなずける.ノルウェー語では Norge (ノルゲ),正式名称は Kongeriket Norge (ノルウェー王国)という.スカンジナビア半島の西部に位置する縦に細長い国で,西は大西洋に面し,東はロシア,フィンランド,スウェーデンの3国に接している.緯度は高く,北のほうは北極圏で,人もあまり住めない厳しい気候,せいぜい漁業などの営みで細々と暮らす貧しい国かと,以前は思っていた.とんでもない間違いであった.現在では,北欧諸国の中で最も景気のいい,つまり経済が好調な,高度の福祉国家,かつ先進工業国なのである.以下に,少しその経緯を復習しながら検証してみよう.なお,史実等に関する以下の記述は,その多くをノルウェー公式サイト(ノルウェー外務省所管)の日本語ページに負っている.

 まずは基礎データの確認だが,面積は38万5,155平方キロと日本とほぼ同じ,総人口(2006年1月1日現在)は464万219人,首都は人口52万のオスロ,他に第二の都市として人口約24万のベルゲン,第三の都市として人口約15万のトロンンハイムなどが有名だ.政体はハラール5世(1991年即位)の下の立憲君主制,宗教はプロテスタント(福音ルーテル派),民族はノルウェー人とサーメ人(北部に住む先住民),言語はやはり北部ゲルマン系のノルド諸語に分類されるノルウェー語と北部サーメ人のサーメ語.ノルウェー語を聞いていると,ドイツ訛りの英語,あるいは英語訛りのドイツ語に聞こえてくる.デンマーク語やスウェーデン語との違いは,初めて聞く者にはまったくわからない.

★ 氷河期から近代までのノルウェー
 ノルウェーに初めて人が住みついたのは,今から約1万年前のことといわれている.はじめ狩猟や漁業で生活していた人々は,やがて家畜を飼い,土地を耕して作物を作るようになった.初めて農地が作られたのは紀元前500年ごろ,この時代は武器や装飾品,道具を作るのに青銅が使われていたので「青銅器時代」と呼ばれる.それに続く「鉄器時代」は西暦1000年くらいまで続き,しだいに他の民族との交易もさかんになり,道具も進歩してきた.西暦800年ごろから1000年ごろまでは「ヴァイキング時代」と呼ばれ,ノルウェー史の中でもとくに活気にあふれた時代だ.ヴァイキングは長い航海もでき,スピードも出る独特のヴァイキング船を使って海外へ出かけ,海からの奇襲で物資を獲得することが多かったので,海外では恐ろしい略奪者というイメージが強い.

 ルーン文字という昔の文字ができたのもヴァイキングの時代.また,レイフ・エリクソンというグリーンランドのヴァイキングは,コロンブスより500年も前に,北アメリカに到達した最初のヨーロッパ人とされている.ノルウェーが統一国家となったのは1030年ごろと考えられている.そして13世紀にはアイスランド,グリーンランド,フェロー諸島(大西洋上の島々),オークニー諸島(イギリス,スコットランドの北端)まで支配していた.1350年ごろ,多くの国々を襲った伝染病,黒死病によって,ノルウェーの人口は半分以下になってしまったといわれている.

 1381年から1814年まで,ノルウェーはデンマークと連合を結び,デンマークの属領のようにみなされていた.しかしその間もノルウェー人としての民族意識を失わなかったので,1814年にデンマークとの連合が解消すると,すぐに独自の憲法を制定することができた.憲法記念日の5月17日は,ノルウェーの最も大切な祝日となっている.しかしこの年,ノルウェーは再び,今度はスウェーデンと連合を結ぶことになった.この連合は1905年に平和的に解消され,ノルウェーはデンマークのカール王子を国王に迎えた.彼はホーコン7世と名乗り,ノルウェーにとって525年ぶりの固有の国王となった.このときの経緯を,ノルウェー史は次のように伝えている.

★ 1905年以降のノルウェー
 ノルウェーの将来の政治体制をどのようなものにすべきか,という問題では議論が白熱した.国民投票の結果,大多数が共和国よりも君主制を支持していることが分かり,1905年11月18日,ストーティング(国会)はデンマークのカール王子をノルウェーの国王として選任した.カール王子はイギリス国王エドワード7世の娘であるマウド(Maud)王女と結婚し,息子が一人いた.新しい王族一家は,11月25日にノルウェーに到着し,カール王子はホーコン7世を名乗り,ストーティングでノルウェー憲法を遵守することを宣誓した.

 スウェーデンとの連合が解消されたとき,ノルウェーは経済成長期にあった.GDPは平均して年率4%ずつ上昇し,総じて55%上昇した.人口は急増し,雇用状況も改善した.これは産業革命第2期の結果であり,ノルウェーはこの時期,安価な水力発電と外国資本の投資を利用することができた.電気化学および電気冶金工業が発達し,新しい製品が市場に登場した.ノルスク・ハイドロのような大手企業が設立され,多くの新しい工業地域が出現した.この経済的な躍進は第1次世界大戦の勃発まで続いた.

 スウェーデンとの連合を解消する前から,ノルウェーでは労働運動が始まっていた.初の労働組合は1872年に結成され,労働党が1887年に誕生した.普通選挙権は1898年に男性に,1913年には女性にも与えられた.労働党は1903年の選挙で4議席を獲得した.1912年には有権者の26%が労働党に投票し,23人の代表がストーティングに選出された.これにより労働党は国会で自由党に次ぐ第2の勢力となった.産業化の初期にはノルウェーの社会構造に大きな変化はなかった.1910年になっても,労働力の42%が農業と林業に従事していた.しかし,1920年には37%に減少し,今日では3.7%にまで下がっている.

 連合解消の後,ノルウェーは外務省を発足させ,各国に大使館・領事館を設置する必要が生じた.しかし,これをまかなう財源は極めて限られていた.そこで,クリスティアン・ミケルセン (Christian Michelsen) 率いる政府は,1905年,外交政策のガイドラインを作成し,この中で,ノルウェーが戦争に巻き込まれる可能性のある同盟への加入は避けるべきだ,と強調した.この中立政策は,国民の広範な支持を受けた.しかし,同時にノルウェーは国際的な調停を促進する活動には積極的にかかわっていくことになる.

 第1次世界大戦中,ノルウェーは中立の立場を維持したが,ノルウェー商船隊は潜水艦の攻撃や機雷により甚大な被害を受け,約2000人の船員が命を失った.しかし,財政面では戦後賠償によりかなり潤った.このおかげで,ノルウェーは他国に所有されていたノルウェーの大企業 (Borregaard,スヴァールバルのスピッツベルゲン炭田など)を再び買収することができた.1920年,戦後の調停により,ノルウェーはスヴァールバル諸島における主権を維持することとなった.自由党は,1918年の総選挙の結果,過半数割れした.その後1945年まで,どの政党もストーティングで過半数を得ることができなかった.1928年に,労働党がはじめて政権を樹立したが,この政権はわずか19日間しか続かず,社会主義に反対する多数派によって打倒されてしまった.

 1920年代に始まった世界恐慌は,ノルウェーにも影響を及ぼした.政府の通貨政策が問題をさらに悪化させた.貿易・海運業は多額の損失を蒙り,多くの銀行が倒産した.ノルウェー・クローネ(NOK)の価値は下がり始め,外貨の欠乏は深刻な状況となった.国庫への歳入は減り,地方自治体の多くが打撃を受けた.1920年の戦後調停のおかげで維持されてきた高収益は,革命思想の影響を受けた当時の労働者の激しい争議のために縮小した.失業問題は第2次世界大戦が始まるまで深刻だった.しかし,1932年に新たな好景気が始まり,ノルウェーの収支バランスが劇的に改善された.1935年から1939年の間,国の歳入は14億ノルウェー・クローネ上昇した.これは当時のノルウェーにとっては相当な金額にあたる.

 1920年に,ノルウェーはそれまでの国際的な孤立政策に終止符をうち,国際連盟に加入した.戦争中に始まった北欧の協力関係は国際連盟において継続し,北欧諸国は軍事的な制裁には加担せず,平和維持のための活動を支援することを約束し合った.第2次世界大戦が勃発した時,ストーティング議長のカール・ヨアキム・ハンブロ (Carl Joachim Hambro) は国際連盟議長を務めていた.

 1930年代の終わりごろには,戦争の脅威が目前に迫ったため,国防がノルウェーの政治上の最重要課題となった.社会主義者は以前から国防への予算措置に強く反対していたが,この考えは自由主義者たちからも部分的に支持された.1936年,労働党は国会で農民党の支持を得て,再び政権の座に着き,ヨハン・ニーゴールスヴォル (Johan Nygårdsvold) が首相に任命された.国防費は増額されたが,ノルウェー軍を実質的に強化するには,ときすでに遅すぎた.1939年に第2次世界大戦が始まったとき,ノルウェーは再び中立を宣言したのである.

★ ノルウェーと第2次世界大戦
 ノルウェーは第2次世界大戦に際して中立を宣言したが,それはほとんど意味がなかった.1940年4月9日,ドイツ軍はノルウェーを攻撃し,2ヵ月間の激しい戦いの後,イギリスとフランスの軍事的な支援にも関わらず,ノルウェーは降伏を余儀なくされた.ノルウェー王室,政府,それに国防省と政府の幹部数名が国を去り,撤退する同盟軍と共にイギリスへ向かった.戦時中,ノルウェー政府はロンドンで亡命政権を組織し任務にあたることとなった.ノルウェーは,1945年にドイツが降伏するまで占領されていた.ドイツが降伏したとき,ノルウェーには40万人を下らない数のドイツ部隊が駐留していたが,当時のノルウェーの人口は400万人程度だった.ノルウェーを占領することにより,ドイツはノルウェー経済を搾取し,他の多くの占領地に比べ小規模だったとはいえ,ナチスによる処刑と大量殺戮の恐怖政治が敷かれた.

 1945年5月8日,レジスタンスによるノルウェー部隊がナチス軍陣地を奪還し始めた.イギリスとスウェーデンから侵攻して来た連合軍とノルウェー軍が,これに徐々に加わった.連合軍は順調に占領地域を奪還していった.亡命していたノルウェー政府もイギリスから戻り,ホーコン国王が6月7日,イギリスの軍艦に乗ってオスロ港に入った.ドイツの強制収容所にいたノルウェー人も自由の身となった.終戦時に外国にいたノルウェー人は9万2千人で,そのうち4万6000人がスウェーデンに滞在していた.ドイツ占領軍は別として,ノルウェーには14万1000人の外国人が滞在していたが,そのほとんどが戦争捕虜であり,そのうち8万4000人はロシア人だった.

★ 第2次大戦後のノルウェー
 ナチスからの解放の後,戦禍からの復興が最優先課題だということは誰の目にも明らかだった.1945年の選挙で労働党は議会で過半数の議席を獲得し,アイナル・ゲルハルドセン (Einar Gerhardsen) が率いる政府が組閣された.政府の目標は5年以内にノルウェーを復興させ,重工業を中心に工業化の速度を上げることだった.政治家が策定した計画より早いペースで経済は回復した.戦後わずか1年後の1946年に,工業生産,GDPとも戦前の1938年の実績を上回った.1948年から49年まで,ノルウェーの実質資本は戦前のレベルをはるかに超えた.この後,安定成長と発展の時代に入ることになる.

 第2次世界大戦直後の数年間,ノルウェーは地味で目立たない外交政策を取り続けた.大国間の対立とブロック形成に巻き込まれないように,そこから十分な距離を置くことが狙いだった.初代の国連事務総長にノルウェーのトリグヴェ・リー (Trygve Lie) が就任したが,ノルウェーは国連が十分な安全保障を確保してくれることを願っていたのである.東西の緊張が徐々に高まるにつれ,ノルウェー外交も新しい方向に向かい始めた.ノルウェーは戦後復興対策として設立されたマーシャルプランに参加し,1948年から1951年にかけて,マーシャル基金から25億ノルウェー・クローネを受け取った.

 1948年,チェコスロバキアが共産主義者の手に落ち,ソビエトがフィンランドとの協定と同様の防衛同盟を提案すると,ノルウェーは強く反発した.その後一時,北欧防衛同盟を結成しようという動きがあったが失敗に終わり,ノルウェーはデンマークと共に1949年にNATOに加入した.その後,ノルウェーで世論調査が何回か実施されたが,その都度NATOへの加盟が圧倒的に支持されていることが確認されてきた.

 戦後,ノルウェー経済は着実な発展を見せた.国家を築くために莫大な財源が投入され,平等な社会建設が行なわれた.1960年代は,石油時代の全盛期となった.北海での試掘により豊富な油脈が発見され,大規模な原油・ガス生産が始まった.その後,ノルウェー海とバレンツ海でも油脈が発見された.現在,ノルウェー中央部沖のノルウェー海で,大規模な原油の採掘が行なわれている.現在,ノルウェーは世界第3位の石油・ガス輸出国となっている.石油・エネルギー産業は,ノルウェー経済を支えるとともに,貿易国へのエネルギーの安定供給に寄与している.

★ ノルウェーの産業・ビジネス
 今日のノルウェーは,高度な福祉国家で,先進工業国としての発展を続けている.主要な産業は,まずエネルギー関連,次いで水産業,そして最近ではバイオ,ハイテク,新素材(ナノテク),IT 関連である.ここで再び,ノルウェー外務省のサイトから,その主な内容を紹介しておこう.

== 石油とガス ==
エネルギー輸出 ノルウェーは世界第7位の石油産出国であり,原油輸出国としては世界第3位である.またノルウェーは,西ヨーロッパで最も重要な天然ガス産出国でもある.そのため,石油関連事業はノルウェーの輸出品リストのトップにきている.2003年,原油と天然ガスの輸出は,ノルウェーの製品・サービスの総輸出額の40%以上を占めていた.さらに,世界最大規模の海洋油田施設の建設・操業によって,大規模な海洋油田技術産業が誕生した.
ノウハウの普及 海上での建設件数と生産量で見ると,ノルウェー企業は世界最大の事業者に数えられる.国全体の事業構成を見ると,油田の経済性を根本から変えた革新的技術に力を注いでいることがわかる.その一例として,海中から海岸に至る油田開発構想やコンピュータ制御の抗井仕上げがある.包括的に業務を請け負う多数の技術の会社は,ニッチ製品やサービスを提供するだけでなく,フィージビリティ・スタディから,固定式・浮遊式・海中生産システムの設計,設置,保全まで,油田開発プロジェクトの全行程を日常的に請け負っている.
革新的オフショア技術の実験室 北海は長年,世界有数の海洋油田地域の一つに数えられ,様々な形で技術を開発・試験する実験室としての役割を果たしている.スタートオイル社やハイドロ社のような企業の新技術開発能力はよく知られている.ノルウェー企業が最初に採用した先端技術の一例として,水平ボーリング,3次元地震学や浮遊・海中技術などがある.将来的には,環境に優しい石油回収技術の改良がますます重視されることにより,ノルウェーの石油・ガス産業は高い競争力を維持していくことだろう.

== 水産物 ==
 ノルウェーは,世界の3大水産物輸出国の一つである.ノルウェーの水産物には,ノルウェー海やバレンツ海で獲れる天然の魚介類の他,ノルウェー沿岸に作られた何百という養殖場で飼育される魚がある.味と栄養価で高い評価を受けているノルウェー産の水産物は,鮮魚,冷凍品,加工品の形で約150ヵ国の消費者に向けて輸出されている.

 ノルウェー沿岸は世界でも有数の優れた漁場であり,200種以上の魚貝類が生息している.今日最もよく知られているのはスクレイと呼ばれる産卵期のタラだ.この魚はノルウェーの北部沿岸の冷たい海で捕獲され,世界中のシェフに好評を博している.その他の人気がある魚貝類には,ニシン,サバ,様々な種類の白身魚,エビ,カニなどがある.近代的な漁船の使用と厳しい規制が,過度の漁獲を防ぎ,ノルウェー漁業の持続性を保っている.

 水産物は,消化にいいタンパク質,ビタミン類,ミネラル類,必須脂肪酸の宝庫だ.ノルウェー産水産物は,鮮魚,冷凍の切り身,燻製,乾燥・塩漬けにしたタラ(クリップフィッシュ),フィッシュバーガー,そしてフライ製品,缶詰,マリネ製品のような加工製品など,あらゆる形で購入することができる.また,品質を重視する日本の寿司市場で,ノルウェー・サーモンの人気が高まっている.

== 情報通信技術 (ICT) ==
情報通信技術 (ICT)は,今やノルウェーの最も新しい主力産業である.この産業を構成しているのは,電気通信,ICTハードウェアおよびソフトウェア,産業電子工学,コンサルティング・サービス分野における様々な革新的ハイテク企業だ.

 ノルウェーは国民1人当たりの ICT 利用度が世界で最も高い国の一つであり,陸上地球局,光ファイバー・ネットワーク,デジタル伝送路で構成されるシステムが十分に発達したインフラを備えている.ノルウェーの通信ネットワークの容量は急速に拡大しており,電気通信分野からは,ますます多くの国際競争力を持つ企業やかなり大規模な研究コミュニティが生まれている.製品としては,衛星通信システム,全地球測位システム (GPS),携帯電話システム,ネットワーク管理システム,伝送システム,光ファイバー技術などがある.

 革新的なノルウェーのハードウェア設計者は,テレビ会議システム,マルチメディア・プロジェクター,デジタル無線送信器,テープを利用したデータ蓄積・ソリューション(問題解決システム),販売時点情報管理方式 (POS) のクレジットカード端末,電源装置のような数々の特殊な製品を開発してきた.

 ノルウェーのソフトウェア革命は,石油産業,海運業,漁業といった伝統産業の発展によって一気に加速した.これらの産業には高技術でコスト節約型のソリューションに対するニーズがあり,またこのようなソリューションを開発してコストを負担する能力があったために,革新的なソフトウェアと統合システムの開発に弾みがついた.ICT 産業からは,データ,顧客関係,経営,財務の管理システムを含むソフトウェアおよびモジュール・ソリューション(独立型解決システム)を実際にすべての商業・公共部門に提供する会社が多数生まれた.またノルウェーの企業は,遠隔医療や遠隔学習の分野でも,先駆者としてその開発に力を入れている.

 インターネットの利用はノルウェー全土に広がっており,さらに急速に拡大している.ノルウェー企業は,多機能の企業ウェブおよびイントラネット・サイト,超高速ウェブ・ブラウザー,オンライン・ゲームや電子商取引ソリューションの開発など,インターネット技術で最先端を走っているのだ.



 今回の「ノルウェー編」の記述はかなり長文となったが,それだけ筆者の想いが熱いことを意味している.どの国にも,成功していればその要因があり,また失敗していればその原因がある.敗戦後の日本が,あの驚異的な高度成長期を経て経済大国に登りつめたとき,世界の人々は,いったい何が日本に「成功」をもたらしたのかと,しきりに日本人旅行者に問うたりしたものだ.そして今,「現在の日本は?」と旅先で聞かれれば,ただ「苦悶しているよ」と答えるしかないのが現実である.

 このたび私はノルウェーに,ほんの3泊4日ではあったが旅してみて,今のノルウェーの「成功」を確実に感じとったのだが,その要因を資料等も紐解きながら吟味してみたかった.北欧諸国の中でもノルウェーは,とみに最近,絶好調といわれている.資源開発に恵まれたこともあろうが,それだけではない.長い時間をかけて積み上げてきた政治の風土もある.静かだが,人々の落ち着いた自信と活気がそこにある.これからの日本を考える上でも,きっと学ぶべき点が多い国ではないかと思われる.そんな想いから,ここに,ノルウェー外務省のサイト記事など多く参照させてもらいつつ,その国を「成功」に導いた人々の知恵と力を紹介してみた.
 
<参考文献> 『地球の歩き方(北欧編)』,その他『世界史年表』等,検索サイト多数.
<参考LINK>
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』/ノルウェー
ノルウェー王国基礎資料/日本国外務省
ノルウェー経済と日・ノルウェー経済関係/日本国外務省
最近のノルウェー情勢と日本・ノルウェーの関係/日本国外務省
ノールウェー公式サイト(ノルウェー外務省/日本語ページ)
ノルウェー観光関連LINK集

【次回は,各国別 : スウェーデン編へと続きます.】
(2006/05/09,帰国後の東京にて,筆者)

2006_北欧4カ国・旅だより(8)

2006-05-09 | 2006_北欧4ヶ国の旅
● 北欧各国,駆け足旅の印象記と考察 (デンマーク編)

デンマーク(本土)の位置と略図

 デンマークといえば,昔々の学校時代に,「酪農の盛んな国」として習ったことを思い出す.アンデルセンの童話でも有名な国だ.牛乳やチーズを連想する牧歌的な国としてのイメージがあったが,近年のデンマークはかなり趣きを異にしていて,今回の旅でもそれがひしひしと感じられた.まずは,福祉大国,そして家具とデザイン,さらには IT 大国となっているのだ.とりあえず,基礎データから復習してみよう.

 デンマーク本土は,略図からもわかるように,ヨーロッパ大陸と陸続き(ドイツ北部)のユトランド半島と500近い周辺の島々からなっている.面積は約4万3000平方キロ,九州とほぼ同じだが,本土以外の自治領(グリーンランドとフェロー諸島)を加えれば約222万平方キロと,日本の約6倍の国土を持っている.人口は約540万(2004年)で,首都はシェラン島の東端にあるコペンハーゲン,首都圏の人口は109万人,他に第二の都市としてユトランド半島東部のオーフス(人口29万),フュン島の中央に位置するアンデルセンゆかりの地オーデンセ(人口18万)などが有名である.政体はマルグレーテ2世女王(1972年即位)の下の立憲君主制,宗教はプロテスタント(福音ルーテル派)が90%以上,民族はデンマーク人,言語は北部ゲルマン系のノルド諸語に分類されるデンマーク語で,簡単にいうと英語とドイツ語の中間のようなものだ.

 私は,子どもの頃,このデンマークがドイツ北部のたんなる半島なのに,なぜ別の国デンマークなのかと不思議に思っていた.それは,ちょうどヨーロッパの子どもたちが,朝鮮半島が中国大陸から突き出た単なる半島なのに,なぜ韓国や朝鮮なのかと不思議に思うかもしれないことに似ている.ところが,その後学年が進んで世界地理や世界史を学ぶにしたがい,これがどうしてどうして,なんとも固有な古い歴史をもつ,独特な国であることが徐々にわかってきた.国名「デンマーク」の原義は「デーン人の境界地帯」に由来するという説があるそうだが,ヨーロッパ大陸に対する位置関係が,歴史上宿命的に大きな意味をもった国だといわれている.

 デンマークの古代史では,紀元前3000年頃に新石器時代が始まったとされているが,有史時代が始まるのは紀元後800年頃のヴァイキング時代である.『フランク王国年代記』には,808年の記述の中に,デンマーク人の王ゴトフレドの名が登場していて,ヴァイキングを使った各地への進出がうかがわれ,また諸王家の活発な栄枯衰退を軸に,それに続く時代を歴史に刻んできた.811年には,フランク王国(現在のドイツの地)との間に,アイザー川を国境とする条約を結んでいる.デンマークがキリスト教化されたのは970年頃,その後のデンマークは南部よりも北部に関心を示し,王位の兼務などを通じてノルウェー,スウェーデンと組み,3国による「カルマル連合」をデンマーク優位の中で構成した.これにより,スウェーデンは1523年まで,ノルウェーは1814年まで,いずれもデンマークの支配下に置かれていたのである.

 絶対王政の時代から近世にかけて,ユトランド半島南部ではドイツ化が進み,シュレースヴィヒ=ホルシュタインの二つの公国ではデンマーク人とドイツ人の混在による紛争が絶えず,1848年にコペンハーゲンに無血革命が起こって絶対王政が崩壊すると,デンマークとプロイセンが出兵して戦争(スリースウィ戦争)となった.2度の戦いを経て,1864年にデンマークは敗北し,これによりデンマークは二つの小公国を失って史上最小の版図となった.この戦争後,デンマークは協同組合活動などを通じて穀物生産農業から酪農への転換に成功し,さらに産業革命による首都の都市化により近代国家への道を歩みだす.

 都市化に伴って,労働者階級が政治勢力として登場し,1872年には「社会民主党」が成立,左派系が下院の過半数を制したことを背景に,1901年には左派系内閣が成立した.その間に,社会立法による福祉国家への基礎が築かれて,「国防ニヒリズム」ともいわれる平和主義が内政・外交の基調となり,1915年の憲法改定では,上・下院の差別撤廃,女性参政権,比例代表制が制定されている.第1次大戦でのドイツ敗北後,ドイツ領に編入されていた上記の二つの公国は解体され,1920年には北部シュレースヴィヒが住民投票によりデンマークに復帰して,現在の国土が形成された.

 第2次大戦中,デンマークはドイツに占領されたが,国境線は維持された.戦後の1949年にNATO(北大西洋条約機構)に加盟し,1953年の憲法改正では上院を廃止して一院制とし,女性王位継承権を認めることとなって1972年のマルグレーテ2世女王が誕生,1973年にはEC(後のEU・ヨーロッパ共同体)に加盟している.東西冷戦期には,スカンジナビア諸国に独特な「ノルディックバランス」というスタンスをとることで,巧みにその時期を乗り越えたといわれている.そして今日,デンマークは,農産物加工,造船,機械工業を基礎とした近代的工業国に発展,国民一人当たりのGNPが世界でもトップレベルに位置し,先進的な社会保障制度をもつ福祉国家として知られるようになっている.

 「社会保障制度」というと,日本では,すぐに「年金」と「介護」ぐらいにスポットライトが当てられがちだが,デンマークでは(一般に北欧諸国に共通して)スケールがはるかに違っている.まずは,教育費が無料である.幼稚園から大学院まで,授業料は一切払わずに進学できるのだ.病院も無料(もちろん入院費も)である.介護も無料,ホームヘルパーなどの制度や設備が充実していて,高齢になって身体に多少の不自由が生じても,住み慣れた自宅で安心して生きていける.そのからくりはというと,もちろん高負担,つまり日本では考えられないほどの高い税金である.単純にいえば,所得税が約50%,付加価値税(消費税)が25%である.今回の旅で接した現地ガイドも口をそろえて言っていたが,北欧では100%共稼ぎが当たり前で,1人は生活のために,もう1人は税金のために働いていることになるそうだ.ギブとテイクがバランスしていれば,このように高い税金でも,国民は働くし,勤労意欲の減退も生じないという.日本での,社会保障や福祉に関する議論の薄っぺらさをつくづく感じさせられたものである.もっと,ダイナミックな議論が,なぜ起きないのだろうか...

 最後に,ITにまつわる話題を一つ紹介しておこう.最近になって世界的に普及し始めたパソコンで無料IP電話ができるSkype(スカイプ)をご存知の方も多いだろう.パソコンにソフトウェア(無料)をインストールし,ユーザー登録するだけで,パソコンに接続したヘッドセットからどこへでも安く電話がかけられる優れものだ.Skype同士ならどこへ何時間かけても無料である.一般電話とでも,たとえばデンマークへの国際通話なら約2.3円/分と格安でかけられる.日本では2004年にLivedoorと提携し,『Livedoorスカイプ』の名称のもとにサービスを提供するなど,徐々に普及の動きをみせている.デンマークではすでに20人に1人の人が利用(2005年8月現在)しているメジャーなサービスということだ.このSkypeの創業者が,実は北欧の人だった.スウェーデン人 Niklas Zennström (ニクラス・ゼンストロム)39歳と,デンマーク人 Janus Friis (ヤーヌス・フリース)29歳だということは,あまり知られていない.実は,私もこのSkypeの愛用者である.北京に住む友人(日本人)とはしばしばこれで会話をするし(これがまったく無料なのだ),過日中米のグアテマラから日本の職場の一般電話と30分程度の通話をしたが,かかった費用は70円程度であった.ちなみに,デンマークの携帯電話の事情では,ネットワークが 3G もしくは GPRS で,私はドコモの海外対応機を持参したが i モードを含めて何の問題もなく,快適に運用可能であった.

<参考文献> 『地球の歩き方(北欧編)』,その他『世界史年表』,検索サイト多数.
<参考LINK>
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』/デンマーク
デンマーク王国基礎資料/日本国外務省
デンマーク経済と日・デンマーク経済関係/日本国外務省
最近のデンマーク情勢と日本・デンマークの関係/日本国外務省
在日デンマーク大使館公式HP/English
デンマーク観光関連LINK集
Skype公式HP/日本語ページ

【次回は,各国別 : ノルウェー編へと続きます.】
(2006/05/09,帰国後の東京にて,筆者)

2006_北欧4カ国・旅だより(7)

2006-05-09 | 2006_北欧4ヶ国の旅
● 垣間見た北欧の社会,その国々の姿に感動! 旅のおわりに...

女性ドライバーの大型バス

 5月8日(月),帰国の途につく朝は,比較的ゆったりかげんのスケジュールだった.ヘルシンキのホテルを午前10時ころ出発,市の中心から北へ約20kmのヘルシンキ・ヴァンター国際空港へと大型バスで向かった.ウィークデーに入り,道は多少込んでいて,信号も多かったので,50分ほどかかった.少し驚いたのは,この大型バスの運転手が,ひじょうに風格のある初老の女性だったことだ.市内の混雑する信号路,郊外へ出てからの快適な自動車道路,いずれもたいへん丁寧,かつ巧みな運転でわれわれを運んでくれた.12:50発の予定が1時間ほど遅れたスカンジナビア航空SK-717便で,乗継点コペンハーゲンに向かったが,この機内でもう一つ驚いたことがあった.なんと,機長が今度はうら若い女性だったのだ.コペンで機外へ出る際に,コックピットで副操縦士と並んで挨拶している場面をデジカメで撮らせてもらったが,あまりにもよく撮れてしまったので,残念ながらこのブログに掲載するのは控えておこう.

 日本でも,近頃は,路線バスやダンプカーなどの運転手に女性の姿を見かけることも多くなったが,観光バスのたぐい,旅客機のパイロットなどに女性が就いているのは,まだ見かけたことがない.そう感じること自体が「偏見なのだ」といわれればどうしようもないが,これは見方ではなく,事実の問題である.後にも触れるテーマだが,北欧諸国ではどこでも,日本とは比べ物にならないくらいに,女性の社会進出が進んでいる.訪れた現地の日本人ガイド(これもすべて女性だったが...)が等しく口にしていたことだが,当地では,日本でまだ根強く存在するいわゆる「専業主婦」という概念は存在しない,とのことであった.家事の分担も,育児休暇も,すべて男女が共同して担い,また取得して,子育てから社会生活全般にいたるまでジェンダーフリーで過ごすのが常識となっている.政治や産業の世界でも,事情は同じであるようだ.

 コペンで飛行機を乗り継いだ.15:45発,同じくスカンジナビア航空SK-983便,成田行きで帰国の途についた.時差の関係から,日本には翌5月9日(火)の09:35に成田着,東京の自宅にはお昼ころに帰りついた.曇り空で肌寒い.きっと日本は暑い(少なくとも北欧よりは)と思ってセーターを脱いでいたのだが,予想ははずれた.北欧に過ごした1週間は,現地の人たちも驚く好天気に恵まれ,温暖な日々だったので,東京がこれほど寒いとは思ってもみなかったのである.帰りの機中では,ウトウトとしながらも,いろいろなことを思い出していた.話には聞いていたとはいえ,これらの国々の雰囲気に直に触れることで感じたこと,学んだことは実に多かった.たんに良い体験だったということではなく,今の日本に,またこれからの日本に生きる者として,たくさんのヒントを得たという点で,たいへん有意義な旅だったと思う.

 この「旅だより」を締めくくるに当たり,以下では,これら北欧の国々の概要を読者の皆さんとともに復習し,それに私自身が抱いた印象の断片を添え,さらに私見を交えた考察などを記してみることにしよう.

 まずは,これら4ヶ国(実際には北欧諸国といえばアイスランドを加えた5ヶ国をいうが,今回は訪れなかったので,ここでは省くことにする)に共通する点として,いずれの国々も,ひじょうに単純化して分かりやすく性格づけるなら,「社会主義的な資本主義」を実践している国々だと表現できる.日本もときどき,アメリカなどからはそのように言われることもあるようだが,とてもその比ではない.高福祉・高負担,格差のひじょうに少ない社会,公的部門の役割が大きい機能的な社会,つまり「大きな政府」の国々である.日本では今日,「大きな政府」は諸悪の根源であるかのような議論が多いが,北欧を旅してみて,それはちょっと,いやかなり違っているのでは,との印象を強くもった.「大きな政府」で失敗したのは,すでに崩壊した旧ソ連・東欧などの国々であり,北欧諸国はまったく事情が違っているからである.崩壊した国々も,「大きな政府」だったから崩壊したのではない.趣旨が違うのでこれ以上触れないが,崩壊の原因はもっと別のところにあって,結果として「大きな政府」も失敗したのであった.

 「大きな政府」といえば,中国やベトナムを想起する人も多いかと思うが,これらは,上記と同様の表現をするなら,「資本主義的な社会主義」を実践しつつある国々である.「崩壊」はしていない.いや,「成長」しつつある国々である.が,いずれも,北欧諸国とは,位相も段階も異なった「大きな政府」の国々である.要するに,「大きな政府」にもいろいろとあって,しばしば日本で議論されているように,「小さな政府こそが目指すべき道」といった画一的な論調に惑わされてはいけないのである.アメリカでさえ,ある意味では「大きな政府」である.政治の一部門である軍事面だけを見ても,そのことは如実に示されている.日本は,従来から,比較的「大きな政府」の道を歩んできたともいえる.それによる「成功」も実際にあった.最近になって,その比較的「大きな政府」の非効率が問題にされ,「大きな政府」自体に原因を求める風潮があるが,それは違うのではないか.問題は,その「大きな政府」(実際は「小さな政府」であっても)の中身ではないか,との視点が大切なのだと,今回の北欧の旅を通じてしみじみ考えた.

【次回は,各国別 : デンマーク編へと続きます.】

(2006/05/09,帰国後の東京にて,筆者)