人生行路の旅,出会いと別れのソナタ

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1990_中南米の旅・回想記(3)

2006-02-26 | 1990_中南米・回想記
● ベネズエラ第二の都市マラカイボへ!
 マラカイボはカリブ海に面したマラカイボ湖のほとりにある.この国の富の源泉となった石油地帯スーリア州の州都である.この都市へはカラカスから空路(アベンサ航空VE0005便)で約1時間かけて移動した.7月22日早朝のことであった.

マラカイボの街並み

 同行した友人の記録によれば,機上から見えた市街は,細長い緑の半島に包まれた紺碧の入江に臨む美しいたたずまい,イタリアのベニスにそっくりだったという.事実,「ベネズエラ」とは「小ベニス」という意味で,初めてこの地を訪れたスペイン人が名づけたそうである.

 空港には,あらかじめ連絡してあったので,地元のエスペラント関係者が子供たちも含めて多数出迎えに来てくれていた.何と,花束も贈呈されたのである.2台の車に分乗して市内へと向かい,市内見物や交流会などとスケジュールは朝からたいへん過密となった.午後はテレビ局のインタビューが待っていた.たぶん日本人の来訪は珍しかったのだろう.それに地元のエスペラント関係者は,この機会にいろいろと宣伝効果をねらった演出をしたかったのかもしれない.途中,NGを含めて2度の収録の後,無事にこの取材も終了した.

 夜はパーティが待っていた.お別れパーティとのことである.場所は地元関係者の住むアパートの一室,総勢14,5名ほどが集まっていた.外は雨が降り出したが,室内のパーティはかなりの盛り上がりを見せた.挨拶あり,記念品の交換あり,歌ありと,しばしの間,エスペラント語とスペイン語が混ざり合って賑やかな一夜となった.この街にはたった1日の滞在だったが,なんと過密なスケジュールだったことか.次の日は,これまた早朝に,国境を越えてコロンビアのカルタヘナへ向かうことになっていた.

● たいへんだった国境越え,コロンビアへ!
 当初の計画では,マラカイボからカリブ海沿いにバスで陸路国境を越え,途中1泊してコロンビアのカルタヘナへたどり着く予定であった.ところが,マラカイボの地元の人々によると,陸路で国境を越える途はたいへん危険だという.ベネズエラとコロンビアの関係はあまり良くはない上に,地元の人たちでさえ,そのような途は選ばないというのだ.いったんカラカスに戻って,そこから空路コロンビアへ入国することを盛に勧められた.だが,あまり面白くない.来た途をそのまま戻るなどということは,想定外でもある.

 そこで私は,パーティに来ていた地元テレビ局のカメラマンにいろいろと尋ね,別のルートがないかどうかを探ってみた.一つ,あるという.それは,多少方向違いとはなるが,マラカイボから南西方向にあるサン・アントニオへ飛び,そこからタクシーで陸路国境を越えてコロンビアのククタへ出て,そこからまた空路でカルタヘナへ向かうというものであった.ただし,このカメラマン,自分もそのルートで実際に移動したことはなく保証はしかねる,というものだった.面白いかもしれない.所詮,旅はアベントゥーラ(アドベンチャー)である.それで行ってみよう.同行の2人もしぶしぶ同意したので,その行程を採用することにした.

ベネズエラとコロンビアの国境付近

 7月23日の早朝,地元マラカイボの医師の車で空港へ送ってもらい,チケット(アベンサ航空)も難なく購入できて,約30分のフライトの後,小さな国境の街サン・アントニオに着いた.緑の丘陵がすぐそばに迫る,静かな小さな飛行場だった.やっと朝食をとって,これが課題のタクシーをピックアップ,「インターナショナル・ブリッジ」を渡ってコロンビアに入った.

 無事に国境を越えられたと思っていた.しかし,やはりトラブルは起こった.ベネズエラ側のゲートを通過する際に,タクシーの運ちゃんが何かを言っていたが,よく聞き取れなかったこともあり,「バーモス,バーモス,アデランテ!(行こう,行こう,前へ!)」などと景気をつけ,そのまま突破してしまった.コロンビア側での入国審査の際,これが発覚してトラブルとなったのだ.つまり,ベネズエラの出国スタンプが押してないというのだ.もう一度戻って,押してもらってこいというのである.そんな時間はない,次のフライトの時刻も迫っている.

 実は時間的には余裕もあったのだが,少しここで会話の練習でもしてみようと開き直った.「そんな時間はない,タクシーの運転手にきいてくれ」と言い張った.強い主張をするときには,怒った顔でなく,微笑みながらしゃべるのが交渉ごとのコツである.相手の係官も根負けし,「しょうがねえな」との顔つきをしてニッコリ笑いながら入国スタンプを押してくれた.もちろん,こちらも「グラシアス!」の一語は欠かしてはいけないのである.こうして,コロンビア側のやはり小さな空港ククタからアビアンカ航空便に乗り,約40分のフライトの後,コロンビアのカリブ海に臨む港町カルタヘナに到着した.
アビアンカ航空のタグ

【次は,コロンビア編に続きます.】
(2006/02/26,回想執筆時,筆者)

1990_中南米の旅・回想記(2)

2006-02-22 | 1990_中南米・回想記
● 第75回世界エスペラント大会にカストロ首相が登場!

第75回世界エスペラント大会

 われわれのこの旅の動機付けともなった国際的イベント・第75回世界エスペラント大会は,7月14-21日の8日間の会期でキューバの首都ハバナにおいて開催された.世界各国から1617名の関係者が参加したと,記録は伝えている.大会のメイン・テーマは「エスペラント,発展,文化の多様性」というものだったが,採択された「大会決議」の要旨は次のようなものであった.

==「文化の多様性は人類の貴重な遺産であり,後世へ伝える責務がある.少数民族文化は尊重されなければならず,画一化する現代生活の中で多様性を守ることが必要だ.エスペラントはこの多様な諸言語,諸文化をつなぐ架け橋であり,ユネスコなど国際機関やエスペラント諸組織はこの趣旨に則して,エスペラントをますます活用すべきである.」==

 前述のごとく,われわれ3名の旅グループは飛行機便の関係でこのイベントの開会式には出席できなかったのだが,これにはキューバ首相のフィデル・カストロ氏が出席していた.満場の大拍手が沸いたという.また,氏は後日の「歓迎晩餐会」にも顔を見せ,参加者の言によれば,親しく交流の輪が広がっていたという.これにも,われわれ3名は日程の都合で参加できなかった.かつての時代,第2次世界大戦へ向かう頃には,エスペラントはヒットラーやスターリンによって激しく弾圧された歴史をもつが,戦後,とくにスターリン後の東欧諸国や中国では逆にエスペラントがひじょうに盛んとなっていた.そしてそのソ連・東欧諸国の社会主義政権が崩壊寸前を迎えていたときに,このイベントが社会主義キューバで開催されたことは意義深い.カストロの演説内容をじかに聞けなかったことは,私にとってはたいへん残念なことであった.

 イベントのプログラムの中には「大会大学」などというのもあって,世界各国の理工系,文科系の著名な学者たちが講演した.言語学や社会学,教育学などの方面が多かったが,中には日本人で香川大学の名誉教授・川村信一郎氏の「ビタミンCの生化学」という講演もあった.高齢にもかかわらず,よく通る声で,ゆっくりはっきりと要点を念入りに解説していかれた.日本人に壊血病が少ないのは日本茶のおかげというプレゼン内容には反響も大きく,「日本茶はどのように乾燥させるのか」とか,「天然のビタミンCと人工のビタミンCとの違いは」などという質問も多く出されていた.

 イベント開催中には休憩期間もあって,希望者を募っては,ワニの養殖場の見学やタバコ工場の見学にも行った.私はタバコ工場の見学に参加してみたが,もらった葉巻を口にくわえてみたものの,強烈なにがさと妙な舌触りのためかあまり馴染めなかった記憶がある.キューバといえば砂糖と煙草が二大産業だが,これに関連して同行友人は「クォ・ヴァディス・クーバ(キューバよ,どこへ)」というタイトルで次のような手記を残している.

==「キューバの直面する現実は厳しい.これまでハバナに事務所があったソ連国営航空アエロフロートが米国のフロリダに本拠を移したというニュースを新聞で読んだが,これはソ連がこの国を見離しかけている一つの現われだ.強力な後ろ楯を失って,砂糖と煙草のほかに取り立てていうべき産業ももたないこの国は,これからどうなるのだろうか.カストロ政権の1党独裁と中央集権と計画経済は永続きできるのだろうか.キューバよ,どこへ行く.」==

 あれから15年余りが経った.「ソ連・東欧」という言葉も死語となった.中国やベトナムは変貌し,社会主義の看板は保持するものの開放経済が進み,ユニークな集団指導制へと移行しつつある.そして,キューバのカストロ政権は健在である.いっとき,キューバ革命の息吹はカストロやゲバラの名とともに中南米を席捲したことがあったが,その後かの地は困難で不幸な時代も経験し,そしていま,静かで新しい希望の時代を迎えようとしている.南米の中央部では史上初の先住民系大統領が出現し,また最も保守的な土壌といわれてきた国で史上初の女性大統領も登場した.カストロは,老いたとはいえ,これら現下の中南米情勢を遠くから微笑みながら見守っているかにも見える.

 結局,われわれ3名の旅グループは,キューバには7月15日から19日まで5日間滞在した.閉会式を待つことなく,7月20日には次の訪問地ベネズエラへと向かったのである.キューバで見たのは,うわべだけの姿だったかもしれない.しかし,良い経験であった.欲を言えば,もっと時間をとって,土地の人々とも交流したかったし,海へも足を運んで泳いでみたかった.サルサのダンスも体験したかった.熱帯とラテン,そして黒人文化の入り混じった音楽や踊りにも堪能したかった.しかし,当時としては,ただ「キューバに行ってみる」というだけで一定の意義を感じる時代でもあったのである.

● サント・ドミンゴ経由でベネズエラの首都カラカスへ!
 キューバから南米に入った.ドミニカ共和国のサント・ドミンゴでトランジット,そのままベネズエラの首都カラカスに飛んだ.7月20日のことである.フライトはヴィアサ航空VA-975便であった.南米の入口に選んだ国だったが,ここから反時計周りにぐるっとこの大陸を一周し,最後には再び中米に戻って帰国の途につくという旅程だった.

 カラカスは海抜が960mほどあり,緯度のわりには爽快で,「世界で最も気候のよい都市の一つ」に数えられているらしい.市街には高層ビルも林立する一大近代都市だが,たしかに緑も豊富で,過ごしやすい感じがした.自然環境に関する限りは,たいへん好印象をもったと記憶している.
カラカスの街並み(1) カラカスの街並み(2)

 ベネズエラという国は,中南米ではめずらしく石油が出る国である.普通に考えるなら,裕福になっていい国だ.しかし,私が訪れた頃のこの国の経済状況は,たいへんに深刻なものだった.それまで続いていた石油ブームの恩恵から一時は繁栄を謳歌したものの,その後の原油価格の急落と,経済政策の失敗とかで,結果的に膨大な対外債務を抱えてしまい,経済はどん底状態にあるとのことだった.ラテンアメリカでいちばん「リッチな」はずのこの国で,「小さな村は地獄,大きな町は最大の地獄」だと地元の人たちは言っていた..
カラカスの街並み(3) カラカスの地下鉄駅

● ウルグアイ・ラウンドならぬ,「カラカス・ラウンド」!?
 この旅は,厳密な意味では,私の1人旅ではなかった.企画に賛同した3名(男2名,女1名)によるめずらしい組合せでの長旅だった.東京を出発してから10日余りが経っていたが,やはり複数の人間の四六時中の統一行動には難しい面も伴う.南米での第一夜の夕食時に,この3人の間で多少険しい議論が発生した.つまりは,お互いのリズムや感性の違いからくる不満とわがままのぶつかり合いであった.

 議論の傾向には,両極があった.せっかく3人で旅をしているのだから,ずっと3人が同一行動をとるべきだ,という傾向と,いやたまたま3人で旅をしているが,これは自立しためいめいの1人旅が重なって行動しているだけで,各々はそれぞれの自己責任に基づき旅程に合わせて振舞えばそれでいい,といったものであった.

 いろいろと議論の末,完全な一致を見たわけではなかったが,お互い,なるべく依存心は捨て,自立の上での助け合いは図りながら,思い思いに楽しもう,ということで決着した.当時,世の中では,貿易と関税にからんだウルグアイ・ラウンドという言葉が流行っていた.それをもじって,われわれは「カラカス・ラウンド(協定)」などといって,旅の終わりまでの金言とした.

【次は,マラカイボから国境越えしてコロンビアへ向かいます.】
(2006/02/22,回想執筆時,筆者)

1990_中南米の旅・回想記(1)

2006-02-12 | 1990_中南米・回想記
● ロス,メキシコ経由で一路キューバへ!
 1990年の夏,7月9日(月)にこの旅は始まった.13時55分発の大韓航空KE-002便は,約50分遅れで成田空港を飛び立った.一路,ロスアンゼルスへと向かう.日付変更線を東に越えるので,ロスには同日の朝8時ちょうどに着いた.天気は快晴,気温は22度くらいだったようだ.その日は,どういう日だったのだろうか.同行の友人は,機内で読んだ新聞記事から,次のような記録を残している.
 「・・・日米首脳会談でブッシュ大統領が日本に『コメの輸入自由化』を要請した.アルバニアでは出国を求める人々が外国大使館に5000人も駆け込んだ.ペルーのフジモリ大統領の就任式はこの月末に行われる予定・・・・」
ロス行き大韓航空の荷札
 ロスには,長時間のフライトによる疲れを癒し,続く長旅への英気を養うためにと,3泊を予定していた.1泊目の宿には,航空券を手配した旅行社の勧めもあって,それなりにハイグレードの有名ホテルがあてがわれていた.韓国人街の近く,プールもあってデラックスなものだった.しかし,なにぶんにも宿賃が高い.そこに3泊もするのはいかにももったいない,2泊目からは宿を変えようということで,同行3人の意見は一致した.あてがあるわけではなかった.ホテルで一休みの後,とりあえず見物も兼ねて,日本人街のあるリトル・トーキョーへ出かけた.ここは,ホテル,レストラン,みやげ物店などがみんな日系人の経営である.通りがかりの人に,適当な宿はないかとたずねると,親切に1軒のホテルを教えてくれた.そのホテルは間口が狭く,うす汚れたビルの中にあって,部屋も暗くて設備もあまり良くはなかった.しかし,とにかく安い.応対に出たおばさん風の人は沖縄出身とかで,なんとか日本語も通じる.まあ,いいっかということで,早速ここに2泊の予約を入れ,荷物ともども宿舎を移動した.
ロス1泊目のホテル外観 ロスアンゼルスの街並み

 ロスでの2日目は,市内見物にあてた.市庁舎の展望台は工事のため閉鎖中だったが,特別なはからいで入れてくれた.時代をしのばせる鐘楼つきのユニオン駅やオルベラ通りのスペイン市場,チャイナタウンなどを一巡して,夜はどこかで一行3名による「壮行会」をやろうということになった.リトル・トーキョーにある和風の数寄を凝らしたろばた焼きの店が会場となった.活魚料理もある,刺身の5点盛り,魚の塩焼きなど,値段は少々高いが,当分日本食にはありつけそうもない,お銚子やキリン・ビールの大瓶などを並べて,小宴もたけなわとなった.みんなよく喋る.話は,天下の大勢から国際語エスペラントの世界や日本での現状,同行旅人たちのそれぞれのバックボーンや思い出話しなどにも及んだ.最後の仕上げは「きつねうどん」,十分に和風の食感にも堪能して,いよいよメキシコからキューバへと続く旅の第一ステージに向けて,皆の心はかなり弾んでいた.

 ロスでの3日目,7月11日(水)はまだ待機期間であった.旅の足慣らしも兼ねて,男ども2名は列車を使って南下し,メキシコ国境に近いサンディエゴへの日帰りの旅に出た.アムトラックという厳つい感じのディーゼル機関車に引かれた10時50分ロス発の列車に乗り,サンディエゴには13時37分に着いた.この町に特別な目的があるわけではなかった.ただ,飛行機の長旅に多少うんざりしていたから,アメリカの鉄道に一度は乗ってみたかったのと,国境をメキシコ側へ越えると「ティファナ」という響きのいい地名の町につながるサン・イシドロ地区に足跡を残したかっただけである.実際にどこまで足を延ばしたかの詳細な記録が残っていないのは残念だが,列車の車内は外観のごつさとは違ってかなり快適であり,またサンディエゴでは海岸に面した町のあちこちで休息をとった時の写真が残っている.ちなみに,同行女性はこの日,ロスの市内を1人で散策して過ごした由であった.
アムトラック(前部) アムトラック(後部)
サンディエゴの路面電車 サンディエゴの海岸

 7月12日(木)は,メキシコへと向かう日である.午前中はホテルで旅支度など整え,昼近くに空港へと向かい,13時25分発のメキシコ航空MX-901便に乗り込んだ.メキシコ・シティまでは4時間余りのフライトだった.夕刻,空港に着くと,あらかじめ連絡してあった地元関係者2名の出迎えを受けた.1人は化学技師,食品管理の仕事をしているという年輩の男性,もう1人は幼稚園の教師出身で,いまは福祉関係の仕事に就いているという中年女性であった.お二人とも,われわれ同様,キューバでの国際イベントには参加するということだ.そんな縁もあって,メキシコではこのお二人に何かとお世話になった.とくに年輩男性には,キューバ行きの航空券の手配を手伝ってもらった.実は,キューバの首都ハバナへ向かう航空券は日本では発券してもらえず,現地手配となっていたのである.予定では,そのイベントの開会式の行われる初日,7月14日にハバナに入る計画であったが,残念ながらその日の便はとれず,1日遅れの翌日の便となった.したがって,われわれ3名は,カストロ首相も参列すると聞いて期待していたその開会式に間に合わなかったのである.

 7月13日(金),メキシコ滞在2日目は市内見物にあてた.空港に出迎えてくれてた女性が,案内役として付き合ってくれた.たいへん陽気で,よく喋る.また,冗談が巧みである.とても前日知り合ったとは思えないくらいに,気さくでざっくばらんな案内を受けることとなった.まず最初は国立芸術院宮殿,総大理石造りの大建築で,今世紀の初めから約30年かけて完成したといわれ,名実ともに「メキシコ随一の劇場」,そして素晴らしいのはその宮殿の内部を飾る一大壁画群である.リベラ,シケイロス,オロスコ,タマヨなどメキシコ現代絵画の巨匠たちが渾身の力を込めて制作した傑作が,豪勢な吹き抜けのテラスを1階から3階まで埋めていた.同行友人の記録は,次のようにその印象を記している.

==「数ある作品の中でも私の興味をひきつけたのは,人類の未来像をテーマにしたリベラの大作だ.これは一種の寓意画で,縦2~3m,横は7~8mもあろうかと思われる画面の中央に,科学の進歩,人知の発展を象徴するアポロ像のような人物を描く.その左側には,進化論のダーウィンを中央にして片側は抑圧される民衆の姿を描き,もう一方の側には快楽にふける上流階級の人々を示す.つまり,資本主義社会の実態だ.これに対し右側の半分は,「来るべき」社会主義社会だ.レーニンやマルクスを真中にして,赤旗のまわりに逞しい労働者・農民が集い,力強く前進している.つまり,これはいわば「人類の未来像」を表しているのだ.これを制作するとき,画家は自分の信念を真剣に吐露しようとしたのだろう.社会主義の凋落が叫ばれている現在,この絵の前に立って私の思いは複雑だった.」==
メキシコの壁画(一部)

 宿泊したホテル近くの大通りの向かい側には,有名なアラメダ公園があったが,そこの一角にはいくつものテントが張られていた.中には大勢の若者がいて,何やら要求を掲げて座り込みをやっている様子だ.聞くと,もう3ヶ月もこうやって座り込んでいるという.政府の不当な弾圧に対して,自由と人権擁護を要求しているとの由だ.インフレと低賃金の下で,庶民の生活は苦しい.要求貫徹までは一歩も引かないと強気の発言をしていた.そういえば,メキシコのインフレ状況はひどかった.入国直後,ドルからペソに換金する際,その桁の多さにわれわれもびっくりしていた.当時,1ドルが2884ペソ,1円が18.8ペソになる計算だった.空港からホテルまで15分ほどのタクシー代が15000ペソ,ホテルで部屋へ荷物を運んでくれるだけのボーイへのチップが1000ペソ,何万という「大金」が瞬く間に消えていく印象をもった.

 メキシコの面積は日本の5.3倍,人口は約8000万,石油,天然ガス,金,銀,鉛など豊かな鉱物資源にも恵まれているほか,綿やコーヒーなど農産物も輸出する.識字率92%とは中米諸国ではずば抜けていて,国民の教育水準も高い.なのに,いまだに途上国の段階にとどまっているのはどういうわけだろう.引き続き同行友人の記録は書く.「政治が悪いのか,経済政策が拙劣なのか,貧富の格差の大きい社会体制のせいか,『アメリカ帝国主義』の搾取によるのか...」と.ちょうどその年,1990年には,ノーベル文学賞がメキシコの長老詩人に授与されている.歴史上の人物では,先住民族のアステカ帝国を徹底的に破壊し,その文化の伝統を根絶したスペイン人のエルナン・コルテス(1485-1547)がいるが,人名辞典には,「新大陸征服者の代表」で,「虐政と搾取をもって原住民に対した」とあるそうだ.

 日本人では支倉常長(1571-1622)が有名だ.仙台藩士で,伊達政宗の命令を受け,メキシコを経由して渡欧,ローマ法王に謁見した歴史上の人物である.その常長が滞在したという「タイルの家」や,彼の一行が洗礼を受けたという「サンフランシスコ教会」がホテルの近くにあった.同行友人はこれを見に行ったようだが,古色蒼然とした昔の姿をとどめていたという.伊達政宗は,東北地方に独自の王国を築き,奥州司教区を設置して,ヨーロッパと直接通商を開こうとしたようだが,その大構想が実現することはなかった.

 もう一人挙げておこう.レオン・トロツキー(1879-1940)である.ロシア革命の立役者の一人で,赤軍の創設に功績があったが,その後「一国社会主義論」を唱えるスターリンと対立し,国外追放となった.その後あちこちと流転の末にメキシコ・シティ郊外に居住することとなり,著述に専念するなどして反スターリン活動を続けていたが,1940年にスターリン側が放ったとされる刺客に暗殺されたのである.1990年は,ちょうどその50周年ということで,コヨアカンの旧居を整備し,「トロツキー記念館」として公開していた.ここは,私がこの旅の終わりの頃,再びメキシコ・シティに立ち寄った際に時間をとって訪れている.このトロツキーが最後に住んだビエナ街の家にまつわる数々の逸話は,1989年当時このコヨアカンに住んでいた日本人バイオリニスト黒沼ユリ子さんの素晴らしい著書『メキシコの輝き-コヨアカンに暮らして』(1989年7月刊,岩波新書)の中にも,ディエゴ・リベラ,アンドレ・ブルトン,パブロ・ネルーダなど世界的に著名な人々とともに紹介されている.

 キューバに向かうフライトが1日延びたことで,7月14日(土)はさらにメキシコ・シティに滞在するはめとなったが,私は少し風邪気味の気配を感じ,終日ホテルの部屋で過ごした.結果的には,これが体力を回復させていた.そして,翌15日(日)13時35分発のメキシコ航空MX-317便で,元気にキューバの首都ハバナへ向かったのである.ハバナでは,前述のごとく,国際的なイベント「第75回世界エスペラント大会」が催されていた.めずらしい国での開催とあって,全世界の関係者が数多く集まることとなっていた.開会式には間に合わなかったが,われわれ3人も1日遅れでこのイベントに参加することとなった.その開会式にはキューバ革命の父で首相を務めるフィデル・カストロ氏が登場し,満場の大拍手のうちに幕を開けたということだが,残念ながらわれわれ3名はその姿を見ることができなかった.出席した人の話によると,壇上には多くの政府や党の高官たちや各国のエスペラント組織の代表者たちが居並ぶ中,とりわけキューバ駐在のアルバニア大使の出席が注目されていたという.

● キューバの不思議,キューバは「崩壊」しないと,確信!
 ハバナの空港に降り立ったときには多少の戸惑いがあった.入国後真っ先にやるべきことといえば換金だとの先入観もあり,銀行の窓口へ行ったが,どういうわけか換金してくれない.「必要ない」との一点張りであった.詳しい説明もせず,つっけんどんに言われるので,われわれはただただキョトンとするばかりであった.あとで分かったことだが,この国では旅行者はすべて米ドル払いということらしい.それにしても妙だ.「アメリカ帝国主義」の通貨が,ここ社会主義国で万能とは,いったいどういうことだと同行友人たちも憤慨する.結局われわれは,キューバ滞在中,現地の通貨を(記念にしたコインは別として)ついに一度も手にしなかったのである. 

 次にホテルを探し当てるのに若干苦労した.イベントを主催する現地の実行委員会には,すでに以前から予約してあるはずなのだが,何の案内も見当たらない.到着が1日遅れたことも影響したかもしれないが,とにかく空港には関係者の姿も見えず,実行委員会に電話を入れてみてもつながらない.しかたなく,タクシーを拾い,とにかく市内へと向かわせ,イベント案内書に書いてあった適当なホテル名を告げて乗り付けた.着いたホテルはかなり豪華なものだった.聞くと空き部屋はあるというので,とにかくチェックインしてしまった.あとで知ったが,そこは「ファースト・クラス」用のホテルで,われわれの申込んでいたのは「エコノミー・クラス」であったから,通常なら追加料金を取られかねないところである.ところが,すでに手にしていた共通バウチャーでOKとなった.1泊だけではない.5泊もするのである.ずいぶん得した気にもなったが,このあたりのルーズさは,はたして社会主義のおかげなのか,それともラテン感覚のおかげなのかは,どうもよくわからなかった.
ハバナの街並み 海を臨むハバナ

 キューバ(ハバナ)の街の第一印象は,予想したものとはぜんぜん違っていた.とにかく,めっちゃ明るいのである.バスに溢れるばかりに乗客が群がる貧しさはあるものの,人々の活気に満ちた明るさ,また路地路地で聞こえてくる音楽,そしてすぐに踊りだす民衆... ラジオから聞こえてくるリズム感に満ちたアナウンサーのトーク,BGMなどなど.ソ連・東欧の政治的崩壊は,この国キューバにとってはたいへんに深刻な打撃であったはずなのだが,その影をあまり感じさせない明るい雰囲気に,安心するやら,また不思議にも思えたりして,とにかくひじょうに強い印象を受けた.ラジオでは,毎日夕刻に,約30分程度のカストロ主張自らのトーク番組がある.あちらの村ではブタが1匹いなくなって住民が困っているとか,こちらの村ではこういう揉め事があるがこう対処してはどうか,などと優しくも力強いあの口調で語りかけるのである.カストロの人気は衰えていない.その人気の秘密は,かのベトナムのホー・チミン(ホーおじさん)のようだと,しみじみ感じた.この国は,きっと崩壊はしない,少なくともカストロが健在な限りは...などと,私は妙に確信してキューバでの数日間を過ごすこととなった.

【次は,キューバ滞在からベネズエラへの移動編に続きます.】
(2006/02/12,回想執筆時,筆者)

1990_中南米の旅・回想記(0)

2006-02-05 | 1990_中南米・回想記
1990_中南米の旅・回想記

● 序言,この回想記の執筆にあたって!
 この回想記の執筆・連載を開始しようと思い立ったのは昨年(2005)のことである.ちょうど15年前,1990年の夏に私は約3ヶ月にわたる中南米の旅に出た.一人旅ではなかった.先輩友人の男性と女性それぞれ1名ずつを旅仲間とする3人旅であった.しかし,われわれの旅は,どこかの旅行社のパッケージツアーに参加するという形態はとらず,あくまでも独自企画による各自の一人旅がたまたま多くの旅程で重畳する自立的な旅であった.事実,この長旅の過程では,部分的ながらも,この3人が三者三様の完全な一人旅となる局面もあった.

 この旅を終えた直後には,同行した先輩友人の手によって記録がまとめられ,一冊の本としてすでに上梓されている.その内容は,この旅に参加したわれわれ3名の当時の共通テーマに沿い,そして3名がおおむね一致して行動した旅程の大部分の記録となっている.この書籍は,1991年6月の発行だが,現在でも入手は可能であり,検索サイト等で「中南米編」というキーワードからリストアップされる中に見出すことができるかもしれない.ただ,ここでは「ブログ」という性格上,その書名等を明示的に特定することは避けておこう.その著書が扱った主要なテーマに関しては,必ずしもこのブログに連載されていく内容があまり関連性をもたないし,また回想記というスタイルからも,きわめて個人的な色彩をもつからである.

 したがって,以下に連載していく記事はあくまでも筆者個人の旅の回想記であり,その意味では,私にとっての一人旅であった側面に基本的な視点が置かれることだろう.ただし,この3ヶ月という旅程そのものの事実記録では,上記の著書と多く重なる部分もあるし,また著者の諒解のもとにその記述から参照・引用させていただく個所も多々ある.これにつき,あらかじめ快諾していただいた先輩友人に心から感謝の意を表したい.

● 1990年,それはどういう年であったのか?
 この旅の企画が持ち上がったのは,1989年のことであった.日本の元号が「昭和」から「平成」へと変わった年である.この年は,世界にとって,また私個人にとっても,実にたいへんな年であった.まず4月,中国では胡耀邦前総書記が死去したことに端を発する大規模な民主化要求運動が発生,これが6月の北京での天安門事件へと発展する.折から私は,上海から来日した女性の留学生(就学生)の保証人を引き受け,その女性のアルバイト先での指の怪我などの問題処理で走り回り,これが縁で当時北京や上海から来ていた多くの中国人学生とも付き合っていた.天安門事件は,いったい彼ら,彼女らの胸に,どのような衝撃を与えたであろうか.そんな想いに,私自身の眼も心も熱くなっていたのである.片言同士の日本語と中国語で,夜を徹して語り合ったこともあった.

 同じ6月には,ヨーロッパで大きな変化が生じていた.ポーランドの国会選挙で,あの「連帯」が圧勝したのである.私はかねがねポーランドには大きな関心を寄せていた.そしてこの年のわずか2年前,1987年には,他用もあってそのポーランドを訪れていた.ワルシャワには1週間ほど滞在したであろうか.その足で,崩壊寸前の社会主義・東ヨーロッパ諸国を駆け足で回って帰国していた.急に,そのときのワルシャワでの光景が思い出された.危険だから行かないほうがいいといわれていたにもかかわらず,旧市街の暗い飲み屋に立ち寄ったが,そのホールで自暴自棄としか見えない青年たちが熱い紅茶にウォッカをたっぷり入れて踊りまくり,そのあげくにバタバタと床に倒れこむ姿を目の当たりにしていた.あの青年たちは,いまどうしているだろうか.そんな想いが,また私の胸を熱くしていたのである.

 そして11月,あの「ベルリンの壁」が崩壊した.いや,打ち砕いたのである.その後,東西ドイツは急速に統合に向かうこととなる.さらに12月には,極めつけの事件がルーマニアで発生した.チャウシェスク政権が崩壊したのである.その末路の劇的な映像は,TVを通じて多くの人の目に焼きついているだろう.そのチャウシェスクという名前には,ある特別な記憶が私の中に残っていた.20年余り遡るだろうか,その頃,知人の某大学教授がルーマニアを旅したことがあった.当時,まだ若かったチャウシェスクは破竹の勢いであった.その教授によれば,数々の改革施策が参考になるということで,たびたびルポルタージュを現地から国際郵便で送ってきていた.私は,それを国内の関係者に配布するために「チャウシェスク便り」などと銘打ってシリーズ版に編集し,印刷する作業を引き受けていたのである.内容に関してはもはや忘却のかなただが,そのチャウシェスクという名を忘れることはできなかった.そしてその記憶が,あのルーマニアの政権崩壊の末期的映像とダブって,複雑な想いの底に私を投げ込んだ.

 こうして1990年が明けた.3月には,ソ連でゴルバチョフが大統領に就任した.ソ連共産党は解体寸前であった.東ヨーロッパに起こった政変,それがソ連本体をも揺すぶって,ソ連自体が崩壊しようとしている.6月にはコメコンが解散し,7月にはワルシャワ条約機構が解体された.ソ連・東欧ブロックには,大きな地殻変動が起こっていたのである.「冷戦体制」,「東西対立」という言葉が,あれよあれよという間に風化しつつあった.もちろん疑問も次々に湧いてきた.中国はいったいどうなるのか,そしてベトナムは,また北朝鮮は,そしてあのカストロのキューバはどうなってしまうのか,などなどである.

● キューバでイベント? そして中南米を回る? よし,行こう!
 こうした情勢下の1989~1990年にかけたある日,前述の先輩友人が一つの提案をした.この年(1990)の夏には,折から中米のキューバで一つの国際的イベントが開催されることになっていた.かつてポーランドのザメンホフという眼科医が提唱し,約100年にわたって地道な普及活動が行われてきたエスペラントという国際語があるが,その活動を統括する世界エスペラント協会(本部:オランダ)は毎年1回,いずれかの国で「世界エスペラント大会」なるイベントを開催している.それが折りしもその年,キューバにて開催される運びとなっていたのである.

 日本にも,この普及活動を司る団体はあるが,たまたまわれわれ3人もその活動にいささかかかわっていた.そんなミーティングのある夜,先輩友人が「オレはどうしてもキューバに行くぞ,そしてそのついでに2~3ヶ月くらい中南米を回るんだ!」と,酔った勢いも手伝って言い出した.「いっしょに行かないか」とも誘う.私は,一も二もなく賛成していた.「良いアイデアだ,ぜひ行きましょう!」と,酔いが深くなりすぎないうちに話をまとめていた.その後,何人かの人には声もかけたが,結局賛同者は3名となった.旅程の企画と手配には,もっぱら私があたることとなった.その2年ほど前,南米のペルーに一度行ったこともあったからだった.私自身,他の中南米諸国も,ぜひ機会があればゆっくり回ってみたいとの密かな想いも抱いていた.こうしてこの3名,その想いこそそれぞれに異なる面はあったが,とりあえず行きと帰り,そして公約数的な共通テーマでは行動を共にするスタイルで,以下に回想する長旅の企画が実現したのである.

 この旅は,1990年7月9日に成田を出発し,10月5日に帰国するという,正味で89日間にわたるものであった.成田空港からまずロスアンゼルスに飛び,メキシコを経由してキューバに入り,ドミニカ経由でベネズエラに渡り,そこから南米大陸を反時計周りに一巡し,最後のブラジルからは再びメキシコ経由で中米の何ヶ国かを回るという旅程であった.記録によれば,訪問国は全体で15ヶ国,訪問都市は39ヶ所にのぼった.ブログ読者の参考のため,以下には,この旅の行程を示した中南米の簡単な略図を示しておこう.なお,次号からの連載では,必ずしも周期を固定していない.筆(キータッチ)の流れと,時間的余裕にまかせた連載(更新)になることを,あらかじめおことわりしておこう.
1990_中南米の旅・回想記(略図)

(2006/02/05,この記事の連載開始にあたって,筆者)