人生行路の旅,出会いと別れのソナタ

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2008_アルゼンチン便り (7)

2008-04-28 | 2008_アルゼンチン便り
◆ 職場は徒歩で通える距離-メタボ対策も兼ねて! ◆

 新居に引越した翌日(4月16日)には,早速にも職場に初出勤(?)した.もっとも,前の週の土曜日には,どういうわけか赴任先の担当者がしっかりと私の生年月日などを覚えていて,「誕生日パーティー」なるものを有志数人で行ってくれた.直接の配属先部署の面々以外にも,2~3人の若い同僚たちが集まってくれた.最初が肝心とばかりに,私は努めて陽気に,そして快活に喋りまくった.当地のスペイン語では,まだヒアリングは馴れないが,喋るほうは何とか通じるようだった.一人の若い女性職員に「カッコいい」などと言われて,少し上機嫌に話しも弾んだようである.

 私の職場となる事務所までは,アパートから徒歩で約20分前後かかる.往きは少し上り坂ぎみなので,早足で歩けば15分程度,ゆっくり歩いても25分程度で着く.帰りはその逆で,なだらかな下り坂だ.ゆっくり加減に歩いても20分程度で帰り着く.雨の日などどうするのだろうと,着任前に担当者に問い合わせていたのだが,「バスは待つのがやっかいだから,タクシーを拾えばいい」とのことだった.当地に来てみて,およそ雨はめったに降らないし,タクシー料金もたいへん安いことがわかった.事務所ビルは,ゲートで警官が常時警備をする知事公邸への通路内にあった.いずれにせよ,歩くことは健康にとって大事なことである.そんなわけで,この何日かは,アパートの室内を含め毎日かなり歩いているようだ.すでにメタボ対策の効果が現われている.ズボンのベルトの穴が,1つか2つは確実に締まってきているからだ.

 出勤初日は,いちおう常識的に,背広・ネクタイ姿で赴いたが,これは正解だった.約30名ほどいる職場の同僚たちに順に紹介されて,挨拶回りを行ったからだ.私は,分りやすいようにと胸に名札を付けてみたが,どうも当地の人達の習慣では馴染まないらしい.握手や,場合によっては抱擁を含む挨拶がてらに,それぞれ名前を名乗るのだが,いずれもカトリック系の聞きなれない名前ばかりで,とても一度には覚えきれそうにない.相手側は私一人を覚えればいいわけだから,すぐに覚えてくれたようだった.そして,簡単な打合せの後,この日のスケジュールは終わったのだが,帰りに私は,毎日背広・ネクタイで出勤するのはどうも自分には馴染まないが,と言ってみた.服装は自由だという.式典や公式スケジュールがある時以外は,必ずしも背広・ネクタイは必須ではないとのことだ.ホッとした次第である.

 私が配属となる直接の部局は,いちおう「国際協力部」というところであった.職員構成は,責任者クラスの中年女性に若い男女1名ずつの計3名である.主として英語とスペイン語を中心とした,幅広い国際的な産業情報を扱っているようだ.当地の職場内では,あまり職制を意識した上下関係はみられないようで,みんなファースト・ネームで友達のように呼び合っている.たぶんそういうことだろうと思って,私もとびきり短い愛称のようなものを用意して,それを自己紹介にも用いてみた.けっこう親しんでもらえたようである.いちいち「セニョール ○○」などと呼ばれては,すっかり興ざめしてしまうからだ.

 出勤二日目には,早速にも,郊外への出張があった.といっても単独ではなく,前述した部局の3名と共に車を45分ほど走らせて,市の北部にある某大学のキャンパスに赴いた.折から「国際協力フェア」というのが開かれていて,その中のセミナーの一つに参加するために向かった.内容は,EUがらみの国際協力活動についてものだったが,PowerPointを使ったプレゼンをたいへん魅力的に行っていたのは,ベネズエラ出身という素敵な女性だった.この行事には,一つのアトラクションとして抽選会があって,私もそれに参加した.何と,これが当選したのである.湯呑セットや色鉛筆などの粗品程度のものだったから,何等賞なのかははっきりしないが,職場から参加した4人のうちで当たったのは私一人であった.きっと際先がいいのかも知れない,と思った.

 職場では,目下一日一日が発見の連続である.勤務時間のこと,昼食のこと,休憩時間のこと,退庁時間のこと,仕事の仕方など,書けばきりがないほど日本のそれらとは異なった実態に触れている.これらは,また回を改めて少しずつ紹介することにしよう.以下には,とりあえず,職場の周辺のスナップ写真を添えて,まずは外面からの概要をお伝えすることとする.
職場となる事務所ビルの外観(1)
【職場となる事務所ビルの外観(1)】
職場となる事務所ビルの外観(2)
【職場となる事務所ビルの外観(2)】
珍しい幹の形をもった並木
【珍しい幹の形をもった並木】
州知事公邸と見られる入口ゲート
【州知事公邸と見られる入口ゲート】
事務所付近のビルと並木道
【事務所付近のビルと並木道】

(2008/04/27,アルゼンチン・コルドバ市の自宅にて,筆者)

2008_アルゼンチン便り (6)

2008-04-21 | 2008_アルゼンチン便り
◆ 入居アパートが決まる-ベランダからのパノラマが絶景! ◆

 あれから数日が経過した.現地の世話人(日系二世の方)から,入居候補の物件アパート(こちらでは Departamento という)を3件ほど案内された.出国前から,当地にこれまで住んでおられ,ちょうど私と入れ違いに帰国する予定の日本人の方と連絡がとれていて,そのうちの1件は,よければ私が後釜に入居してはとのお誘いを受けていたものであった.部屋の写真などもメール添付で送ってもらったり,周辺の環境などでもある程度の予備情報をいただいていた.基本的に私の入居要件を満たしているようなので,いちおう自分の目で直接物件を見た上で,問題なければ家主側との契約交渉に入るつもりでいた.

 この第一候補の物件を最初に見せてもらったが,若干の問題もあった.こちらでは,われわれが入居するようなアパートは家具つきの賃貸が一般的なのだが,どうも冷蔵庫と洗濯機の稼働が心配された.それに,提示された家賃が私にとってはいささか高かった.広さは十分である,というよりも広すぎるくらいである.場所は市のセンター街のど真ん中であり,20階建ての18階(日本式にいうと19階にあたる)にその部屋はあるので,ベランダからの見晴らしは絶景である.室内もきれいに整頓されていて,台所用品などもいちおうは揃っている.家主の代理人(実は息子)に一通り案内されて,この青年の早口でまくしたてるスペイン語にいささか辟易したが,同行してくれた現地世話人の助けで何とか説明は了解できた.

 この種の折衝では,即断は禁物である.青年には,おもむろに案内への礼を言い,数日後に再び連絡を入れると告げて,とりあえずはいったん引き揚げた.現地世話人は,他にぜひとも見せたい物件があると言って,さらに日を分けて2件ほど案内された.セントロから少し離れたところにあった物件の家主はたいへん親切そうなセニョーラで,建物は新築,調度品もみな新調した様子である.一生懸命の説明も受けたが,残念ながら,1件はベランダが狭くて窓から見える景色はビル建設中の工事現場だけであり,他の1件はデュープレックスと言って中2階構造となっており,その階段も曲がりくねって見るからに危険を感じさせるものだった.せっかくお勧めいただいた現地世話人には悪かったが,環境要件は私にとって第一条件なので,インターネット回線もこれから工事にかかるというそれらの物件は,丁重にお断りすることにした.

 さて,そうこうしているうちに日も経過していった.世話人は,他にもいろいろあるので,いったん安いホテルに移転して,ゆっくりと探してはなどという.私としては,それは面倒だし,またあまり意味がないように思えた.ここで一計を案じてみる考えが閃いた.つまり,第一候補だった物件の例の青年にかけあって,まずは値下げ交渉を行い,あらためて細部を下見したいと申し出て,調度品等のすべてがOKと確認できた上で契約交渉に入りたいと提案してみることにした.そして,もしも家具類に何らかの不具合があった場合には,その修理または交換を求め,とりあえずの期間は仮契約ということで,日割り計算で支払うので,即時に入居させてほしいというものである.現地世話人は,その方針はかなり困難を伴うだろうと難色を示したが,とにかく当たってみることとなった.

 こうして日を改め,現地世話人にも同行いただいて,やおら青年の職場事務所を訪れた.席に着くやいなや,私は拙いスペイン語でまずは値下げ交渉を切り出した.いろいろと理由も述べたように思う.しかし,このところの当国のインフレ事情にも,それなりの理解はもっている旨の泣き所にも触れておいた.先方の提示額と私の提案額はかなり離れていたのだが,ここで世話人の助けを借り(実はあらかじめ打合せ済みだったが),あたかも日本式折衝の流儀さながら,中を取った中間額を落とし所とした.青年は,即座に家主(つまり彼の親父)に電話を入れて相談していたようだったが,案外あっさりとこの交渉は成功した.次は,仮契約のこと,つまり当面は日割り計算で即時の入居を認めてもらう件である.敷金もコミッションも未払いのまま入居してしまうことにどう反応するかが見ものだったが,この交渉も難なくまとまった.

 結局,当座4月分約半月間の日割り計算家賃を支払うだけで入居できる条件が整った.あとは,冷蔵庫と洗濯機の修理,そしてFAX機の配備を条件に,それが完了した時点で5月1日を目途に本契約の書類さばきを進めることとなった.このように,案外スムースに入居交渉が進んだのは,もちろん以前に入居されていた日本人の方の信用も手伝っていたのだろう.そして,この折衝に助力いただいた日系二世の現地世話人(この方は最終的に契約の保証人も引き受けてくれた)に負うところ,また実に大であった.コルドバでのホテル仮住まいは約1週間続いたが,晴れて4月15日(火)の早朝には,このアパートの新居に引っ越しをすることができた.新居での生活の様子など,またあらためて徐々に紹介していくこととするが,とりあえず撮影した幾葉かのデジカメ画像を以下に添えておくことにしよう.
サン・マルティン広場から見えるアパート
【サン・マルティン広場から見えるアパート】
アパート屋上(部屋の真上)の無線中継アンテナ
【アパート屋上(部屋の真上)の無線中継アンテナ】
ベランダから眼下に見えるカテドラル
【ベランダから眼下に見えるカテドラル】
パノラミックなベランダからの景色
【パノラミックなベランダからの景色】
ベランダにある植木鉢のオブジェ
【ベランダにある植木鉢のオブジェ】
ベランダ反対側の談話コーナー
【ベランダ反対側の談話コーナー】
室内のくつろぎコーナー(Direct-TV付)
【室内のくつろぎコーナー(Direct-TV付)】
室内のシエスタ・コーナー(?)
【室内のシエスタ・コーナー(?)】
室内のダイニング・コーナー
【室内のダイニング・コーナー】
キッチン・コーナー風景(1)
【キッチン・コーナー風景(1)】
キッチン・コーナー風景(2)
【キッチン・コーナー風景(2)】
キッチン・コーナー風景(3)
【キッチン・コーナー風景(3)】
派手な寝室の壁飾り(1)
【派手な寝室の壁飾り(1)】
派手な寝室の壁飾り(2)
【派手な寝室の壁飾り(2)】
洗面・トイレ・浴室内の風景(1)
【洗面・トイレ・浴室内の風景(1)】
洗面・トイレ・浴室内の風景(2)
【洗面・トイレ・浴室内の風景(2)】
ダイニングで作業中(1)
【ダイニングで作業中(1)】
ダイニングで作業中(2)
【ダイニングで作業中(2)】
スーパーで最初のまとめ買い
【スーパーで最初のまとめ買い】
いよいよ自炊の開始(1)
【いよいよ自炊の開始(1)】
いよいよ自炊の開始(2)
【いよいよ自炊の開始(2)】

(2008/04/20,アルゼンチン・コルドバ市,入居したてのアパートにて,筆者)

2008_アルゼンチン便り (5)

2008-04-14 | 2008_アルゼンチン便り
◆ コルドバ市へ移動-ブエノスアイレスから西北に約700km,第二の都市へ ◆

 4月8日(火),首都ブエノスアイレスでの現地研修を終えた関係者一行は,それぞれの任地に赴くこととなった.アルゼンチン第二の都市・コルドバ市へ向かうのは私一人であった.国内線の空路で2時間半余りの旅程である.携行荷物ではしっかりと超過料金を払わされ,その日のお昼頃には現地に到着した.住居が決まるまでは,再びホテルへの仮住まいである.ブエノスアイレスに比べると,静かな落ち着いた都市であった.とりあえず手配されていたホテルにチェックインの後,午後からは赴任先の職場へ挨拶に出向いた.

 この街のこと,あるいは職場のことなどは,追々とゆっくり紹介していくことにしよう.まずは,この街で真っ先にしなければならないのは,部屋探しである.約2年間をこの街に過ごし,派遣先の職場を中心にボランティア活動を行うことになっている.その根拠地となる住居(兼事務所)は,慎重に選ばなければならない.これには,たぶん数日間(以上)を要することであろう.ホテルでもらった市内地図を頼りに,目下のところは連日少しずつ市内を散策して過ごしている.

 この週末(4月12,13日)からは急に気候が変わり,秋めいた寒さを感じるようになってきた.テレビでは,「もう秋ですね!(¡ Estamos en otoño !)」とテロップを流している.気温は,少し前の20℃前後から10℃近くまで下がっているらしい.毛糸のセーターを着て,その上にジャンパーをはおって,日差しの弱くなった街中を歩いてみた.ホテルからセントロに向かう道すがら写した写真の数葉を,以下に掲載しておこう.もちろん,これらは街のほんの一部である.アルゼンチンのおへそ,その国土の内陸中央部に位置するコルドバ市は,140万都市ということだが,人口の約12%が学生で,若い活気にあふれているようだ.
コルドバでの仮住まいのホテル
【コルドバでの仮住まいのホテル】
コルドバのホテルの室内
【コルドバのホテルの室内】
居住候補のアパートの玄関
【居住候補のアパートの玄関】
コルドバのセントロの道路標識
【コルドバのセントロの道路標識】
コルドバ-ブエノス間の週2便の列車案内
【コルドバ-ブエノス間の週2便の列車案内】
市内のショッピングセンター
【市内のショッピングセンター】
コルドバ市の街並み(1)
【コルドバ市の街並み(1)】
コルドバ市の街並み(2)
【コルドバ市の街並み(2)】
コルドバ市の街並み(3)
【コルドバ市の街並み(3)】
マルビナス戦の記念碑
【マルビナス戦の記念碑】
コルドバ市の市役所全景
【コルドバ市の市役所全景】
サッカーに興じる休日の親子
【サッカーに興じる休日の親子】
コルドバ市の裁判所
【コルドバ市の裁判所】

(2008/04/13,アルゼンチン・コルドバ市のホテルにて,筆者)

2008_アルゼンチン便り (4)

2008-04-14 | 2008_アルゼンチン便り
◆ ブエノスアイレスの夜は更ける-タンゴ・ストライキ・日系人・卓球 ◆

 日本ではちょうど年度末にあたる3月31日(月)から,われわれは当地での通常の活動を開始した.午前中は現地研修の一環として,この国に固有のスペイン語表現や生活習慣,それに交通手段や通信方法など,日常生活に必要となる様々な知識の断片を頭に詰め込んだ.午後は,主として業務活動上の諸手続きに関する説明を,当地の業務事務所から受けた.アルゼンチン国外務省や日本国大使館,それにJETRO(日本貿易振興機構)のブエノスアイレス事務所などへも表敬訪問を行った.また,当国には日系移民が約3万人(二世,三世を含む)ほど在住する由だが,その7割前後が沖縄出身者ということで,何名かの有志を募って「沖縄会館」という素晴らしいビル(施設)を訪れてみた.

 たまたま今回,私と同期でこの国に派遣となったメンバーの中に,往年の日本(世界)卓球界で名を馳せたN氏がいて,彼は両親が沖縄出身とのこと,その姓も沖縄固有のユニークな呼び名だが,当国の沖縄県人会ではごくありふれた姓であるらしい.その彼は,もちろん今回も「卓球指導」とのテーマでボランティア活動に来たのだが,子供の頃に多少卓球を嗜んだ私としてはすぐに彼と親しくなって,彼の卓球指導の風景をこの目で見たくなり,連れ立って「沖縄会館」を訪れたのである.ちょうどその日,週2回の卓球練習が,日系人を中心として当会館で行われることとなっていて,偶然ながらも良い機会であった.こういうこともあろうかと,私はひそかに卓球のラケットも持参していて,ほんのわずかの打球ながら早速にもお手合わせをいただいた.

 ブエノスアイレスでは,すべての楽しいことが夜,それも深夜から始まるようである.この卓球練習も,なんと夜の9時からの開始であった.すでに地下鉄もなくなり,12時を回った頃われわれが帰ろうとすると,それが意外と困難なことに気付かされた.数台の卓球台を並べて練習が続く傍らに,やおら別の長机が設置され,宴会場が設営されたのだ.ビールがどんどん運ばれてきて,それにピザがふんだんに持ち込まれる.やはり帰るわけにはいかなくなって,すっかりご馳走になる羽目となった.もっとも,この日の冷えたビールとピザの組み合わせは,後日私の消化器系には少し厳しい結果をもたらしたのも事実である.ホテルに帰り着いたのは,やはり午前2時ころであったろうか...

 昼間の出来事にも,少し言及しておかねばならない.実はわれわれがここアルゼンチンに到着した頃,この国は一つの困難を抱えていた.お国柄といえばそれまでだが,いつも活発なストライキと街頭デモがこの国のスタイルである.今回は,大豆など一次産品の生産者たちが,「輸出税」の引き上げに抵抗して「農業スト」を決行していたのである.幹線道路をすべて大型トラックで封鎖し,ピケットを張って農牧畜産品の輸送を止めていた.発端は,このところの穀物類の国際的な値上げで生産者たちはかなり潤っているのだが,これに対し政府は「輸出税」をアップすることで歳入を確保しようとした.当然にも抵抗が生じたのである.20日間以上にもわたったこのストは,繰り返し「対話」を呼びかけるクリスティーナ大統領の演説でいったん収拾されたが,問題は先送りされただけらしい.幹線道路はピケットライン,都市部の街頭では逆にクリスティーナを支持する鳴物入りのデモの喧噪,果たしてこの先どうなるのだろうか,この国の活発な社会の姿に興味を深めた次第である.

 以下に掲載する写真は,多少順序が前後しているが,路上でのタンゴショー風景,農業ストに関連して演説するクリスティーナ大統領のテレビ画像,日本からの払い下げ地下鉄車両(旧丸ノ内線),深夜のタンゴ喫茶,そして沖縄会館でのサンシン講習風景と卓球練習の模様など,ブエノスアイレスに過ごした夜のスナップのギャラリーである.次の週の日曜日(4月6日)は,前述のビールとピザがたたっていささかダウンし,体温も 38.5 度に達して終日ベッドの人となっていた.翌火曜日には,首都ブエノスアイレスでの現地研修を終え,任地のコルドバへと移動しなければならない.少なくとも2~3日は,ビールやワイン,それにあぶらものなどは控えるようにしてみよう.
路上でのタンゴショー
【路上でのタンゴショー】
演説するクリスティーナ(大統領)
【演説するクリスティーナ(大統領)】
日本からのお下がり-地下鉄車両(1)
【日本からのお下がり-地下鉄車両(1)】
日本からのお下がり-地下鉄車両(2)
【日本からのお下がり-地下鉄車両(2)】
日本からのお下がり-地下鉄車両(3)
【日本からのお下がり-地下鉄車両(3)】
沖縄会館でのタンゴ教習風景
【沖縄会館でのタンゴ教習風景】
深夜のタンゴ喫茶(1)
【深夜のタンゴ喫茶(1)】
深夜のタンゴ喫茶(2)
【深夜のタンゴ喫茶(2)】
深夜のタンゴ喫茶(3)
【深夜のタンゴ喫茶(3)】
人気の消えた深夜の街路
【人気の消えた深夜の街路】
沖縄会館でのサンシン講習風景(1)
【沖縄会館でのサンシン講習風景(1)】
沖縄会館でのサンシン講習風景(2)
【沖縄会館でのサンシン講習風景(2)】
深夜の卓球指導風景(1)
【深夜の卓球指導風景(1)】
深夜の卓球指導風景(2)
【深夜の卓球指導風景(2)】

(2008/04/06,アルゼンチン・ブエノスアイレスのホテルにて,筆者)
※ 回線確保困難のため,掲載日時が大幅に遅れています.(2008/04/13,アルゼンチン・コルドバにて,筆者)

2008_アルゼンチン便り (3)

2008-04-13 | 2008_アルゼンチン便り
◆ 週末にブエノスアイレス市内を散策 ◆

 3月29日(土)のブエノスアイレスは,よく晴れ渡った朝を迎え,初の週末を市内散策に過ごした.案内は,当地の日系組織である「セントロ日系」の顧問,第8代目会長という肩書の若い女性がつとめてくれた.日本語も少しはできるようだが,ほとんどはスペイン語での説明であった.仮住まいをしているホテルの周辺から徒歩で出発し,途中地下鉄にも乗ったが,このA線という路線はブエノスアイレスで最も古いものらしく,車内はまるで博物館のようであった.観光案内の書物で有名な「カミニート」という港に面した一角も訪れた.ここは,まさに観光客対象のスポットで,船の塗装で余ったとされるペンキを塗りたくった鮮やかな色彩の家々が建ち並び,ところどころではプロの踊り子がタンゴのリズムにのせて踊るパフォーマンスも見せていた.この日の散策で撮影したスナップを,以下に一挙掲載しておこう.
ブエノスアイレス散策 (1)
【ブエノスアイレス散策 (1)】
ブエノスアイレス散策 (2)
【ブエノスアイレス散策 (2)】
ブエノスアイレス散策 (3)
【ブエノスアイレス散策 (3)】
ブエノスアイレス散策 (4)
【ブエノスアイレス散策 (4)】
ブエノスアイレス散策 (5)
【ブエノスアイレス散策 (5)】
ブエノスアイレス散策 (6)
【ブエノスアイレス散策 (6)】
ブエノスアイレス散策 (7)
【ブエノスアイレス散策 (7)】
ブエノスアイレス散策 (8)
【ブエノスアイレス散策 (8)】
ブエノスアイレス散策 (9)
【ブエノスアイレス散策 (9)】
ブエノスアイレス散策 (10)
【ブエノスアイレス散策 (10)】
ブエノスアイレス散策 (11)
【ブエノスアイレス散策 (11)】
ブエノスアイレス散策 (12)
【ブエノスアイレス散策 (12)】
ブエノスアイレス散策 (13)
【ブエノスアイレス散策 (13)】
ブエノスアイレス散策 (14)
【ブエノスアイレス散策 (14)】
ブエノスアイレス散策 (15)
【ブエノスアイレス散策 (15)】
ブエノスアイレス散策 (16)
【ブエノスアイレス散策 (16)】

 この週末の夜は,類似のテーマで当地に活躍する日本人ボランティアの若い女性と出会えた.すでに日本にいる時から偶然の縁があり,以前よりメルトモになっていた間柄だった.ブエノスに着いてすぐにメールおよびケイタイで連絡がとれ,この日は私の希望で韓国料理を食べに行くこととなった.こちらの夕食は遅いのが習慣である.夜の8時ころから地下鉄に20分ほど乗り,カルビ焼き(といっても日本の朝鮮料理のそれとは一味違っていたが)にキムチでワインを空け,すっかりおしゃべりに花を咲かせてさらにビールとピザの2次会へ,ホテルには午前2時近くに帰り着いたが,彼女はそれからまた別なミーティングがあるといって,タクシーでいずこかへ消えていった.きっと朝帰りだっただろう.酒もタバコもOKの,実に快活な女性であった. 
(2008/03/30,アルゼンチン・ブエノスアイレスのホテルにて,筆者)
※ 回線確保困難のため,掲載日時が大幅に遅れています.(2008/04/12,アルゼンチン・コルドバにて,筆者)

2008_アルゼンチン便り (2)

2008-04-12 | 2008_アルゼンチン便り
◆ ブエノスアイレスでの初日の風景 ◆

 午後に降り立ったブエノスアイレスは曇り空で,夕刻近くになって見渡した街の景色はあまり美しいものではなかった.前回に触れた関係機関の業務事務所は,今はすたれた鉄道の中央駅とラプラタ川に面した港に近いところにある高層ビルの21階にあったが,そこの窓から一望した風景は少しすさんでいて,色彩にも欠けていた.このビルの各オフィスに入るには,1階(こちらでは0階)の入り口で非接触カードによる入退管理に必要な手続きを経なければならない.毎回使い捨てのこのカードを発行してもらうには,その都度パスポートの提示と初回の顔写真の撮影が必須である.場合によっては長い列ができるので,かなりの時間を要することもある.この国の非効率さを,早速にも体験することとなった.
ブエノスアイレスの中央駅(Retiro)
【ブエノスアイレスの中央駅(Retiro)】
ラプラタ川に面したブエノスの港
【ラプラタ川に面したブエノスの港】
アルゼンチンの名物料理・アサード
【アルゼンチンの名物料理・アサード】
一時滞在ホテルの室内(1)
【一時滞在ホテルの室内(1)】
一時滞在ホテルの室内(2)
【一時滞在ホテルの室内(2)】

(2008/03/27,アルゼンチン・ブエノスアイレスのホテルにて,筆者)
※ 回線確保困難のため,掲載日時が大幅に遅れています.(2008/04/12,アルゼンチン・コルドバにて,筆者)

2008_アルゼンチン便り (1)

2008-04-02 | 2008_アルゼンチン便り
◆ 渡航の旅路-約30時間のフライト・・・ ◆

 地球のほぼ反対側に位置するアルゼンチンへ向かうには,現在のところ直行便は就航していないので,途中から乗継便を利用することになる.今回の場合,成田空港からJAL便でニューヨーク経由のサンパウロ行きに乗り,そこでアルゼンチン航空に乗り換えてブエノスアイレスに向かう旅程が用意されていた.出発の日は3月26日(水),よく晴れた東京はすでに桜が満開に近かった.夕刻の便なので,午後1時頃に自宅を出て,近くの公園でこの桜を写真におさめて成田空港へと向かった.
ほぼ満開の桜-団地近くの公園にて
【ほぼ満開の桜-団地近くの公園にて】

 空港へは15:30頃着いたが,今回は託送荷物が多いので,あらかじめ宅配業者に頼んで空港まで配送してもらっていて,まずはそれを受け取らねばならない.大型スーツケース1個に宅配用の特大段ボール箱1個,それに中型のキャリー1個の合計3個だが,そのうち前二者はそれぞれ32kgの制限ぎりぎりまで詰め込んでいて,成田からブエノスアイレスまでスルーで託送する関係から,とくに段ボール箱は厳重に荷造りする必要もあった.梱包のイメージは,以下の写真でご覧のとおりである.
託送手荷物の梱包イメージ
【託送手荷物の梱包イメージ】

 フライトは約30分遅れの19:10の予定であったが,実際には19:43に離陸した.ニューヨークまでのフライト時間は,11時間50分ほどとのアナウンスがある.ウトウトしながらこの長い時間を機内で過ごし,ニューヨークには現地時刻の18:30頃に着いた.米国ではこの時期,夏時間を採用しているとかで,日本との時差は-13時間である.ここで一部の乗客を降ろし,給油の後に再びサンパウロに向かうのだが,すべての乗客はいったん機外に出されて,米国への入国手続きをしなければならない.トランジットでこのようなプロセスが必要なのは,たぶん米国だけだろう.ひじょうに煩わしい段階を踏む仕掛けとなっている.

 機体の準備も整い,再び搭乗する際の出国(米国からの)手続きとなったが,この時のセキュリティ・コントロールはたいへん厳しいものだった.機内持ち込み手荷物に持参していたノート型パソコンは,3台ともすべて裸にされて透視機械に通したり,蓋まで開けられてしげしげと吟味されてしまった.不思議なことに,以前の米国入出国の経験ではライター類はすべて没収されたのだが,今回はどういうわけか5~6個潜めていたライターはすべてノーチェックで通過した.コントロールのルールが厳しいわりには,首尾一貫性に欠ける一面を見たような気がしたが,これは誤解だったのだろうか.

 こうしてニューヨークを飛び立ったのが21:00頃で,サンパウロまでのフライトは約8時間50分とのことだった.深夜便である.サンパウロには翌朝(27日)の07:05に到着したが,すでにここまでで,待ち時間を入れれば25時間近くもかかったことになる.サンパウロでは,乗り換えのため機外には出たものの,入国扱いにはならず,まさしくトランジットの待機となったが,この待ち時間がひじょうに長く感じられた.4時間近くの後,アルゼンチン航空のブエノスアイレス行きは11:00頃にやっと離陸,約3時間のフライト中に機内昼食があって,目的地にはほぼ定刻の13:50に着くことができた.なんと,成田を出てからここまで通算32時間ほどかかったことになるが,到着してみると,それほど長い時間が経過したような気はしなかった.これは,きっと気のせいに違いない.

 ブエノスアイレスには,関係者11名がそろって到着したのだが,これらの顔ぶれがすべて確認できたのはやっと託送荷物を出して手配の車に積み込む瞬間であった.まずはとりあえずの滞在ホテルに向かうこととなった.ブエノスアイレスの中心街にある,かなり実用的なエコノミークラスのホテルにチェックインの後,夕刻から現地の業務事務所に赴いて若干の着任手続き等があり,夜にはここまでの旅の疲れを吹き飛ばそうと,有志9名で当地の名物料理である「アサード」(焼き肉)を試食した.赤ワインがよく合うアルゼンチン料理であった.
とりあえず落ち着いたホテルの外観
【とりあえず落ち着いたホテルの外観】

(2008/03/27,アルゼンチン・ブエノスアイレスのホテルにて,筆者)