ひまわり
2005-08-02 | 絵画
ぼたん、バラ、と描いてみたら、次はやっぱり≪ひまわり≫だろうということで、時期でもあるし、描いてみました。
ひまわり(22.7x15.8 2005年)
ひまわり、だからもっとあかるく、はつらつ元気な感じになれば良かったかもしれないけど、なんだか、ひまわり二本寄り添った図なのに、≪せつない≫感じの絵になったように感じられてならない。
なぜだろう?
--------------------------------------------------------
≪アルメニアじゃ、女の三十代を、夏のひまわり、っていうんだって≫
というセリフが、五木寛之氏の≪冬のひまわり≫という小説にでてくる。
最初の方の部分での、主人公の女性(三十代半ば)とその中学以来の友人との会話のなかでである。友人がそう言ったのに対して、主人公は、≪わたしはさしずめ、冬のひまわり、ね≫と返すのである。
そうして2・3の会話の後、友人は、≪嘘つき、と独りごとのように言った≫
≪え?≫
≪遠野麻子の嘘つき、って言ったの≫
と続く。
面白い恋愛小説である。≪ひまわり≫を描いていて、思い出した。
もちろん私が描いたのは、7月の終わりの太陽の下に咲いた≪ひまわり≫である。
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ひまわり(22.7x15.8 2005年)
ひまわり、だからもっとあかるく、はつらつ元気な感じになれば良かったかもしれないけど、なんだか、ひまわり二本寄り添った図なのに、≪せつない≫感じの絵になったように感じられてならない。
なぜだろう?
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≪アルメニアじゃ、女の三十代を、夏のひまわり、っていうんだって≫
というセリフが、五木寛之氏の≪冬のひまわり≫という小説にでてくる。
最初の方の部分での、主人公の女性(三十代半ば)とその中学以来の友人との会話のなかでである。友人がそう言ったのに対して、主人公は、≪わたしはさしずめ、冬のひまわり、ね≫と返すのである。
そうして2・3の会話の後、友人は、≪嘘つき、と独りごとのように言った≫
≪え?≫
≪遠野麻子の嘘つき、って言ったの≫
と続く。
面白い恋愛小説である。≪ひまわり≫を描いていて、思い出した。
もちろん私が描いたのは、7月の終わりの太陽の下に咲いた≪ひまわり≫である。
花と言えば、やっぱりバラかな(短絡的過?)ということで、バラを描いてみた。
前回の≪ぼたん≫と違い、悪い癖?(笑)がでて、構成的な絵になった。
バラ(22.7x15.8 2005年)
------------------------------------------------
・・・加藤登紀子さんの歌に、〔百万本のバラ〕というのがある。
貧しい絵描きが女優に恋をして、家やキャンバスを売り払って、百万本のバラを、【匿名で】送るという内容だったと覚えている。女優はどこかの金持ちが戯れに送ったのだろうと、貧しい絵描きが送ったことも知らず、やがて街を出て行く。
童話的な話であるから、そう突っ込まなくてとも思うが、百万本のバラって、いったい幾らするんだろう? と計算してみたことがある。
バラにもよるが、一本百円として、百万本で…えっ? なに? 一億円!!!なのである(びっくり!!)
50円だとしても、五千万円である。
どこが? 貧しい絵描きなんだよう…と本当に貧しい絵描きである私は怒りの感情よりもむしろ、あきれてしまった記憶がある。
・・・また、こんな考察も導き出される。女優は金持ちが戯れに送ったのだと思ったのであるが、もしも金持ちだったら、【匿名で】送ったとしても、なにか自分だと分かるヒントを加えるか、後で種明かしするだろう。戯れだとしても、ただ無駄にお金を使わない。かならず投資には意味がなくてはならないし、お金持ちは、けして投資効果がない事に投資はしない。
こういう一面莫迦な、破滅的なお金の使い方をするのは、貧しい絵描き? のような貧乏人である。貧乏人は貧乏なるが故に≪刹那的な生き方≫しか出来ないのである。刹那的な生き方にあっては、ひらめいてしまったアイデアを検証してから実行に移すということが苦手なのである。長い目で未来を見通す余裕がないのであるから、仕方ない…^^;
-------------------------------------------------
私が描いたのは一本のバラである。
最近、絵に、≪時間の凝縮感≫が良く表れてくれるようになったのではないかと、実は、ひそかに私は思っている。…私がそう思い込んでいるだけで、実はそんなものは幻なのかもしれないのだが…。
≪時間の凝縮感≫というのは、写真を学んでいた十代の終わり頃からずっと意識していることである。
感覚的だし抽象的だから、分かり難いのだが…。
写真は時間を止めるのは得意であるが、≪時間の凝縮感≫というと、なかなかに難しいと感ずる。
それに比して、絵は、塗りこめる≪時間≫がおのずとキャンバスの上に堆積していくのだから、≪時間の凝縮感≫は容易く表れるようにも思えるが、それがなかなか、そううまくはいかないのである。
このバラの絵もここで筆を置いた訳だが、少しは表れてくれているように感じるのは、自画自賛だろうか(笑)
この抽象的な≪時間の凝縮感≫をもしも言い換えるなら、≪永劫感≫と言ってもよいのかもしれない。…っていっても、やっぱり上手く言い表せない感覚上の問題である。
そうそう、この絵を描いているとき、けしてそうとは思えないのだが百万本のバラの歌の貧しい絵描きに思いをはせ、また、自分を顧みてか、ふいに美しい言葉が巡ってきた。それは、
≪心のなかの想いびと≫という言葉。 どうでしょうか、美しい言葉ではありませんか?
心のなかの想いびと
前回の≪ぼたん≫と違い、悪い癖?(笑)がでて、構成的な絵になった。
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バラ(22.7x15.8 2005年)
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・・・加藤登紀子さんの歌に、〔百万本のバラ〕というのがある。
貧しい絵描きが女優に恋をして、家やキャンバスを売り払って、百万本のバラを、【匿名で】送るという内容だったと覚えている。女優はどこかの金持ちが戯れに送ったのだろうと、貧しい絵描きが送ったことも知らず、やがて街を出て行く。
童話的な話であるから、そう突っ込まなくてとも思うが、百万本のバラって、いったい幾らするんだろう? と計算してみたことがある。
バラにもよるが、一本百円として、百万本で…えっ? なに? 一億円!!!なのである(びっくり!!)
50円だとしても、五千万円である。
どこが? 貧しい絵描きなんだよう…と本当に貧しい絵描きである私は怒りの感情よりもむしろ、あきれてしまった記憶がある。
・・・また、こんな考察も導き出される。女優は金持ちが戯れに送ったのだと思ったのであるが、もしも金持ちだったら、【匿名で】送ったとしても、なにか自分だと分かるヒントを加えるか、後で種明かしするだろう。戯れだとしても、ただ無駄にお金を使わない。かならず投資には意味がなくてはならないし、お金持ちは、けして投資効果がない事に投資はしない。
こういう一面莫迦な、破滅的なお金の使い方をするのは、貧しい絵描き? のような貧乏人である。貧乏人は貧乏なるが故に≪刹那的な生き方≫しか出来ないのである。刹那的な生き方にあっては、ひらめいてしまったアイデアを検証してから実行に移すということが苦手なのである。長い目で未来を見通す余裕がないのであるから、仕方ない…^^;
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私が描いたのは一本のバラである。
最近、絵に、≪時間の凝縮感≫が良く表れてくれるようになったのではないかと、実は、ひそかに私は思っている。…私がそう思い込んでいるだけで、実はそんなものは幻なのかもしれないのだが…。
≪時間の凝縮感≫というのは、写真を学んでいた十代の終わり頃からずっと意識していることである。
感覚的だし抽象的だから、分かり難いのだが…。
写真は時間を止めるのは得意であるが、≪時間の凝縮感≫というと、なかなかに難しいと感ずる。
それに比して、絵は、塗りこめる≪時間≫がおのずとキャンバスの上に堆積していくのだから、≪時間の凝縮感≫は容易く表れるようにも思えるが、それがなかなか、そううまくはいかないのである。
このバラの絵もここで筆を置いた訳だが、少しは表れてくれているように感じるのは、自画自賛だろうか(笑)
この抽象的な≪時間の凝縮感≫をもしも言い換えるなら、≪永劫感≫と言ってもよいのかもしれない。…っていっても、やっぱり上手く言い表せない感覚上の問題である。
そうそう、この絵を描いているとき、けしてそうとは思えないのだが百万本のバラの歌の貧しい絵描きに思いをはせ、また、自分を顧みてか、ふいに美しい言葉が巡ってきた。それは、
≪心のなかの想いびと≫という言葉。 どうでしょうか、美しい言葉ではありませんか?
心のなかの想いびと
ぼたん
2005-07-22 | 絵画
花の続きで、花づいている。という訳でもないが、6月のはじめ頃、庭の隅っこで咲いたばたんの写真を撮ってあった。
それを元に絵を描いてみた。
ぼたん(22.7x15.8 2005年)
少し盛りを過ぎていたのか、開き過ぎなのかな…花びらも、風に煽られたりしたのか、ちょっとくしゃっとした感じであるが、こんな感じの絵になりました。
色々な画題を試してみたりしておりますが、花とか静物はこれまで描いた事がなく、特にこんなアップの花は初めてである。…描いてみるとわりかし、楽しい。他に花の写真ないかなと、パソコンの中を探してみたけど、適したものはみつからなかった。
…さて、次は、何を描こうかな…と思案中である。
桜花咲く石段の絵(45.5x53.0 2005年)
過日、写真に撮ってあった桜の咲く風景である。
それがようよう絵になった。
桜にはなんだか妖艶なイメージがつきまとう。陰の記憶の気配がつきまとうとも言えるかもしれない。
ぱっと散る桜の潔さを、武士は愛でたという。
その連関から、桜にはいちめん≪死≫の象徴的な意味が付加され、さらに陰の情念というようなイメージに発展し、映画とか主に映像で、妖艶な感じに映じ出される結果を導かれるようになったのではないかと思う。
くしくも、この桜は私の菩提寺の桜である。
…梅の絵を、夜な感じにしたのだから、この桜も夜、もしくは、宵の感じにして、もっと妖艶な感じに出来れば良かったのかもしれないけど、ここで、筆を置いた。…と申しますか、≪陰≫をつくる≪光≫の感じを出したく思ったのです。
それを元に絵を描いてみた。
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ぼたん(22.7x15.8 2005年)
少し盛りを過ぎていたのか、開き過ぎなのかな…花びらも、風に煽られたりしたのか、ちょっとくしゃっとした感じであるが、こんな感じの絵になりました。
色々な画題を試してみたりしておりますが、花とか静物はこれまで描いた事がなく、特にこんなアップの花は初めてである。…描いてみるとわりかし、楽しい。他に花の写真ないかなと、パソコンの中を探してみたけど、適したものはみつからなかった。
…さて、次は、何を描こうかな…と思案中である。
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桜花咲く石段の絵(45.5x53.0 2005年)
過日、写真に撮ってあった桜の咲く風景である。
それがようよう絵になった。
桜にはなんだか妖艶なイメージがつきまとう。陰の記憶の気配がつきまとうとも言えるかもしれない。
ぱっと散る桜の潔さを、武士は愛でたという。
その連関から、桜にはいちめん≪死≫の象徴的な意味が付加され、さらに陰の情念というようなイメージに発展し、映画とか主に映像で、妖艶な感じに映じ出される結果を導かれるようになったのではないかと思う。
くしくも、この桜は私の菩提寺の桜である。
…梅の絵を、夜な感じにしたのだから、この桜も夜、もしくは、宵の感じにして、もっと妖艶な感じに出来れば良かったのかもしれないけど、ここで、筆を置いた。…と申しますか、≪陰≫をつくる≪光≫の感じを出したく思ったのです。
♪桜吹雪舞い落ちる
長い並木の隅っこで
待っている 君このこと
知っていたけど…
空覚えでたいへん恐縮なのですが、NSPの曲、私が高校生の頃、1970年代後半の歌である。先日、NSPの天野滋氏が亡くなられた。最近、テレビではあるがその姿を見て、ちょっと感傷に浸ったばかりであった。
桜吹雪…。
私の出た高校には校門の脇に≪しだれ桜≫があって、いつも私を待っている女の子がいました…と言いたいところであるが、残念ながらそういう奇特? なひとはいませんでした。…残念! 夢想斬り(笑) ところが、16歳のときどういう経緯でそうなったのか良く思い出せないのですが、当時、我が校のマドンナというべきひとの写真を撮っていた。…放課後、二人で城跡の公園に行き撮影したのである。たぶん、高校一年の晩夏か初秋…。(ヒュウヒュウ、青春?じゃん(アハハ笑) とまれ、その写真を20数年経って、2001年に絵に描いた。(描いてすぐに額に入れ、画室に飾って、これまでHPでも未発表の絵である。サイズは22.7x15.8と小さい)
可愛いと思う。同じ1961年生まれだが、彼女は3月3日生まれ(…って、誕生日覚えているんだ?)…で、私は11月生まれなので、学年は彼女が一級上である。
残念ながら、写真を撮ったのはそのときだけであるが、彼女が卒業するまで、ときどきタイミングがあうと一緒に帰ったり、学校のではなく市立図書館や本屋で遭遇して、話すことがあった。
図書館と言えば、中原中也を読むようになったのは彼女の影響である。彼女が中也を好きだったからだ。詩人遍歴でいえば、なぜか中学生のとき、ボードレールに出会い、光太郎を読み、ヴェルレーヌ、リルケ、等々…そうして、立原道造が大好きだった私が、中也を読んだのは彼女の影響である。そうして、中也からランボウ…。未発表で中也といえば、実は、中原中也の≪有名なあの写真≫を絵に描いている。厳密にいえば、一人の友人に見せているので、まったくの未発表ではないのだが…。絵に描くとき、やっぱり写真の鮮明さは大きく影響する。…よくよく見ても、中也の写真には分からない部分があって、絵に描くときには、思ったよりも難しかった。次がくだんの≪中原中也の絵≫である。
中原中也(33.4x24.3 2002年)
長い並木の隅っこで
待っている 君このこと
知っていたけど…
空覚えでたいへん恐縮なのですが、NSPの曲、私が高校生の頃、1970年代後半の歌である。先日、NSPの天野滋氏が亡くなられた。最近、テレビではあるがその姿を見て、ちょっと感傷に浸ったばかりであった。
桜吹雪…。
私の出た高校には校門の脇に≪しだれ桜≫があって、いつも私を待っている女の子がいました…と言いたいところであるが、残念ながらそういう奇特? なひとはいませんでした。…残念! 夢想斬り(笑) ところが、16歳のときどういう経緯でそうなったのか良く思い出せないのですが、当時、我が校のマドンナというべきひとの写真を撮っていた。…放課後、二人で城跡の公園に行き撮影したのである。たぶん、高校一年の晩夏か初秋…。(ヒュウヒュウ、青春?じゃん(アハハ笑) とまれ、その写真を20数年経って、2001年に絵に描いた。(描いてすぐに額に入れ、画室に飾って、これまでHPでも未発表の絵である。サイズは22.7x15.8と小さい)
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可愛いと思う。同じ1961年生まれだが、彼女は3月3日生まれ(…って、誕生日覚えているんだ?)…で、私は11月生まれなので、学年は彼女が一級上である。
残念ながら、写真を撮ったのはそのときだけであるが、彼女が卒業するまで、ときどきタイミングがあうと一緒に帰ったり、学校のではなく市立図書館や本屋で遭遇して、話すことがあった。
図書館と言えば、中原中也を読むようになったのは彼女の影響である。彼女が中也を好きだったからだ。詩人遍歴でいえば、なぜか中学生のとき、ボードレールに出会い、光太郎を読み、ヴェルレーヌ、リルケ、等々…そうして、立原道造が大好きだった私が、中也を読んだのは彼女の影響である。そうして、中也からランボウ…。未発表で中也といえば、実は、中原中也の≪有名なあの写真≫を絵に描いている。厳密にいえば、一人の友人に見せているので、まったくの未発表ではないのだが…。絵に描くとき、やっぱり写真の鮮明さは大きく影響する。…よくよく見ても、中也の写真には分からない部分があって、絵に描くときには、思ったよりも難しかった。次がくだんの≪中原中也の絵≫である。
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中原中也(33.4x24.3 2002年)
光
2005-07-07 | 絵画
ピラミッドから一転…次に来た絵は、明るい(?)絵になった。
光(22.7x15.8 2005年)
である。
ありがちであるかもかもしれないが、半月ほど前、雲間から差す光を見た。…カメラもない。紙も鉛筆もない。最近持ち歩かなくなってしまったので携帯も持っていなかった。…しばらく、自分の目で見続けた。
その印象が心に留まっていて、絵にした。小さな絵である。山と草原は便宜的に加えた。
こういう雲間から差す光をときどき見る。
《神が降臨する時のような光》と表現することもある。きっと光の差している所には神が降臨されているのかもしれない。
ただ、わたくしは見た事がない。天使すら舞われる姿を現してはくれない。
天女も…もちろんその姿を現してはくれない(笑…泣…笑^^;)
もとい…。
あるいはまた、こういう光は《天へ導く光》なのかもしれない。
こういう光に導かれて天に昇れるとしたら、それは《さいわい》なのかもしれない。
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光(22.7x15.8 2005年)
である。
ありがちであるかもかもしれないが、半月ほど前、雲間から差す光を見た。…カメラもない。紙も鉛筆もない。最近持ち歩かなくなってしまったので携帯も持っていなかった。…しばらく、自分の目で見続けた。
その印象が心に留まっていて、絵にした。小さな絵である。山と草原は便宜的に加えた。
こういう雲間から差す光をときどき見る。
《神が降臨する時のような光》と表現することもある。きっと光の差している所には神が降臨されているのかもしれない。
ただ、わたくしは見た事がない。天使すら舞われる姿を現してはくれない。
天女も…もちろんその姿を現してはくれない(笑…泣…笑^^;)
もとい…。
あるいはまた、こういう光は《天へ導く光》なのかもしれない。
こういう光に導かれて天に昇れるとしたら、それは《さいわい》なのかもしれない。
静かな絵になった。
ピラミッドと題することにした。
ピラミッド(33.4x24.3 2005年)
先の絵…浅間山塊…を描いてるとき、紙にラフにメモしてあったイメージ…といっても、単純な三角と四角、そうして小さな円だけの構成なのですが…を、描いた。
当初の計画では、もっとにぎやかな色を踊らせ、平面的なコンポジションにしようと、ぼんやりと思っていたのですが、描き進めるうちに、おのずとトーンがさだまり、静かな夜の感じになりました。
絵のテーマとか、あまり言葉に置き換える必要なんてないと思っていて、出来たものが出来たもの…絵画としての言語である…などとふだん、いちめん開き直ったようなことを思っていて、出来た絵を、そう、《絵画として顕われた言語》として聞いて欲しいなどと思っているから、無理に意味づけしようなんて思わない。
それでも、ときどき、テーマってなんだろう? というふうに思うこともある。
出てくるイメージに依るモチーフは雑多であったとしても、通底するテーマというようなものは、きっとわたくしの奥にあって(ほとんどすべてがライフワークと言える絵を描いているので、テーマはおのずと自己に沈潜し、願わくば芳醇に醗酵して欲しいと感じております)、たとえば今回、ちょっと《にぎやかなコンポジション》と思ったのがこうなったのも、そのせい…作用ではなかったのかと、そんな風にも思いました。
このたびこの絵は、気持ちにしっくりする絵になりました(^_^)
さっそく画室に飾ろうと思っております。
ピラミッドと題することにした。
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ピラミッド(33.4x24.3 2005年)
先の絵…浅間山塊…を描いてるとき、紙にラフにメモしてあったイメージ…といっても、単純な三角と四角、そうして小さな円だけの構成なのですが…を、描いた。
当初の計画では、もっとにぎやかな色を踊らせ、平面的なコンポジションにしようと、ぼんやりと思っていたのですが、描き進めるうちに、おのずとトーンがさだまり、静かな夜の感じになりました。
絵のテーマとか、あまり言葉に置き換える必要なんてないと思っていて、出来たものが出来たもの…絵画としての言語である…などとふだん、いちめん開き直ったようなことを思っていて、出来た絵を、そう、《絵画として顕われた言語》として聞いて欲しいなどと思っているから、無理に意味づけしようなんて思わない。
それでも、ときどき、テーマってなんだろう? というふうに思うこともある。
出てくるイメージに依るモチーフは雑多であったとしても、通底するテーマというようなものは、きっとわたくしの奥にあって(ほとんどすべてがライフワークと言える絵を描いているので、テーマはおのずと自己に沈潜し、願わくば芳醇に醗酵して欲しいと感じております)、たとえば今回、ちょっと《にぎやかなコンポジション》と思ったのがこうなったのも、そのせい…作用ではなかったのかと、そんな風にも思いました。
このたびこの絵は、気持ちにしっくりする絵になりました(^_^)
さっそく画室に飾ろうと思っております。
朝、カッコウの声が響いていた。
…それにしても、暑い日が続く。寝苦しい。
浅間山塊(50.0x60.6 2005年)
絵は、浅間山塊である。山塊とは、山脈とまでは呼べない、山の連なりの事を言う。
私の個人的な事由にもよるのだが、この絵は一ヶ月以上かかってしまった。
三年ほど前から東京に単身赴任している兄が、ちゃんとこっちにも独立して私のこの家よりずっと便利な所に一戸建ての家があるのに、家賃払うよりはと中古の部屋を買った。その部屋に飾る絵として、この絵は三枚目の頼まれである。前回、八ヶ岳の絵を描いたときは、完成にしようかなと思っていた頃、兄が来て、「これで良い」ということになって、そのまま持って帰ったので、写真を撮るのを忘れてしまった。で、今回は、撮った。
なかなか細かい注文があって、…写真を撮ってきて、それを元に描くのですが、その撮影ポイントも指定され、そうして、浅間山塊が端から端まで入るようとの注文である。…さらに、建物とかもある程度描いて欲しい…実際、私の風景には人工物はほとんど描かれないから。描いても道路や橋くらいで、人家などは草原になったり、湖になったりする。
浅間山幻影(89.4x145.5 2000年)
たとえば、という感じでこの絵《浅間山幻影》を引く。
これは、軽井沢から見た浅間山の絵であるが、こんな湖はどこにもなく、湖として描かれている場所は、実はゴルフ場や新幹線の駅や軽井沢の町があるべき場所なのである。…そういった意味では、これを純粋な《風景画》と呼ぶことは出来ないだろうけど、風景画としている。…ただ、困るのは、「この湖、どこにあるのか?」と訊かれることである。絵を描いたり写真を撮られる方に(この場所で描いたり写真を撮ろうと思われて)訊かれると、実際にはない風景なので、恐縮してしまう。
日常における現実性と虚構性…虚構性とは非日常性ともいえ、いちめん白日夢的な感覚の《ずれ》、認識のポケットのような(それを無意識の発露と捉えることも出来るかもしれない…)場所に、ある種乾いたといって良い表現のテーマもしくはモチーフを求める作品の創り方というのも、かなり昔から連綿と続いていて、私もそお末席をけがしているように思う。・・・現実が、共通認識としての《現実》なのか、自己の元に帰結される《現実》的感覚・認識と捉えるのか、で、世界の見え方が、ぐっと違ってくるのである。
・・・そうだ、このブログは、実は違うサイトで書いていた日記を、6月初旬に消去してしまったのですが、そのバックアップをコピペして、gooに引っ越してきました。実質的には、この日記が、gooでのはじめての日記になります。よろしくお願いいたします。
火焔樹(45.5x53.0 2005年)
なぜ、梅の絵、描こうと思ったのだろう?
その造形が面白くて、だったのだけど、
「だめだぁ~。投げよう…かなぁ~」
…と、思いつつも、なんとか、《私の絵》になったかな?・・・と云うことで、これで、完成といたしました。
《梅の木》と云うより、なんだか《火焔樹》のような感じになりました(^_^)
・・・って、ちゃっかり題が《火焔樹》になってたりして(笑)
先日の写真と見比べると、「こんなん、なちゃいました(笑)」という感じだろうか。
----------------------------------------------
・・・それについて、
なんだか…中也ぽっくて…中也が怒って、出てくる?…そうしたら、
「お会いしたかった」
って、言えるかな?…怖いな…。
(中原中也に関する感想を過去に書いてます。2004.11.01・・・中也をどうぞ・・・《サーカス》は引用してなかったけど^^;)
非現実的な意識がありまして、
非現実的な意識は、現実的な意識を指向しました。
現実的な意識がありまして、
現実的な意識は、非現実的な意識に憧れを持っておりました。
心のなかにも、茶色い戦争ありまして、
幾時代かの葛藤ありまして、
茶色い戦争、終わりなき戦争となりました。
----------------------------------------------
…って、そんな大袈裟じゃないか(汗~^^;)
のどかな春の日の梅の花が、わたくしという濾過装置を通過して、こうなった。…と云うことだけなのです。
初めから《夜》な感じをイメージしていたので、成るべくして成ったとも云えるかと思います。
宙-天の道(72.7x90.9 2005年)
このところ、小さな絵が続いていたが、久しぶりに大きな絵(と云っても30号…72.2x90.9だから、そんなには大きくないのですが…)である。慣れと云うのは恐ろしいもので、このサイズでもとても大きく感じた次第なのである。
《天の道》…もちろん、幻視にしても見たことはない。夢のなかでさえも、ないように思う。見た事がないからと云って描けない訳でもない。…この道をわたくしたちは昇っていこう…と云った詩句のような言葉を連想したりもする。…いったい、わたくしは、この道のどのあたりにいるのだろう? 昇っているのだろうか?…それとも、くだり続けて、森のなかから地の底へと降りているのだろうか? 願わくば、天の三角形の高い場所を昇っていて欲しい、と思う。
ところで、今朝は鳥の声で目覚めた。小鳥達は昨日も一昨日もさえずっていたのかもしれないが、気づかなかった。今朝は、ほんとうに賑やかなさえずりで私を起してくれた。私の家の近くの桜もようよう咲き出し、信州の遅い春も、春である。落葉松の芽吹きの美しい季節が来た。
無題なイメージ(22.0x27.3 2005年)
今朝、朝日は美しく出でて、晴れた日になると思ったけど、しばらくしたら、曇ってしまい、絵の写真を撮ろうと思っていたけど、光の状態が悪くなってしまったので、刃物を研いだ。包丁にはさみ。…そしたら、日が出てきた。写真を撮れた(^_^) そうそう、写真撮れずにいて更新出来ずにいるうちに、もう一枚、絵ができていました。
どこか-2(24.3x33.4 2005年)
…それにしても、暑い日が続く。寝苦しい。
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浅間山塊(50.0x60.6 2005年)
絵は、浅間山塊である。山塊とは、山脈とまでは呼べない、山の連なりの事を言う。
私の個人的な事由にもよるのだが、この絵は一ヶ月以上かかってしまった。
三年ほど前から東京に単身赴任している兄が、ちゃんとこっちにも独立して私のこの家よりずっと便利な所に一戸建ての家があるのに、家賃払うよりはと中古の部屋を買った。その部屋に飾る絵として、この絵は三枚目の頼まれである。前回、八ヶ岳の絵を描いたときは、完成にしようかなと思っていた頃、兄が来て、「これで良い」ということになって、そのまま持って帰ったので、写真を撮るのを忘れてしまった。で、今回は、撮った。
なかなか細かい注文があって、…写真を撮ってきて、それを元に描くのですが、その撮影ポイントも指定され、そうして、浅間山塊が端から端まで入るようとの注文である。…さらに、建物とかもある程度描いて欲しい…実際、私の風景には人工物はほとんど描かれないから。描いても道路や橋くらいで、人家などは草原になったり、湖になったりする。
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浅間山幻影(89.4x145.5 2000年)
たとえば、という感じでこの絵《浅間山幻影》を引く。
これは、軽井沢から見た浅間山の絵であるが、こんな湖はどこにもなく、湖として描かれている場所は、実はゴルフ場や新幹線の駅や軽井沢の町があるべき場所なのである。…そういった意味では、これを純粋な《風景画》と呼ぶことは出来ないだろうけど、風景画としている。…ただ、困るのは、「この湖、どこにあるのか?」と訊かれることである。絵を描いたり写真を撮られる方に(この場所で描いたり写真を撮ろうと思われて)訊かれると、実際にはない風景なので、恐縮してしまう。
日常における現実性と虚構性…虚構性とは非日常性ともいえ、いちめん白日夢的な感覚の《ずれ》、認識のポケットのような(それを無意識の発露と捉えることも出来るかもしれない…)場所に、ある種乾いたといって良い表現のテーマもしくはモチーフを求める作品の創り方というのも、かなり昔から連綿と続いていて、私もそお末席をけがしているように思う。・・・現実が、共通認識としての《現実》なのか、自己の元に帰結される《現実》的感覚・認識と捉えるのか、で、世界の見え方が、ぐっと違ってくるのである。
・・・そうだ、このブログは、実は違うサイトで書いていた日記を、6月初旬に消去してしまったのですが、そのバックアップをコピペして、gooに引っ越してきました。実質的には、この日記が、gooでのはじめての日記になります。よろしくお願いいたします。
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火焔樹(45.5x53.0 2005年)
なぜ、梅の絵、描こうと思ったのだろう?
その造形が面白くて、だったのだけど、
「だめだぁ~。投げよう…かなぁ~」
…と、思いつつも、なんとか、《私の絵》になったかな?・・・と云うことで、これで、完成といたしました。
《梅の木》と云うより、なんだか《火焔樹》のような感じになりました(^_^)
・・・って、ちゃっかり題が《火焔樹》になってたりして(笑)
先日の写真と見比べると、「こんなん、なちゃいました(笑)」という感じだろうか。
----------------------------------------------
・・・それについて、
なんだか…中也ぽっくて…中也が怒って、出てくる?…そうしたら、
「お会いしたかった」
って、言えるかな?…怖いな…。
(中原中也に関する感想を過去に書いてます。2004.11.01・・・中也をどうぞ・・・《サーカス》は引用してなかったけど^^;)
非現実的な意識がありまして、
非現実的な意識は、現実的な意識を指向しました。
現実的な意識がありまして、
現実的な意識は、非現実的な意識に憧れを持っておりました。
心のなかにも、茶色い戦争ありまして、
幾時代かの葛藤ありまして、
茶色い戦争、終わりなき戦争となりました。
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…って、そんな大袈裟じゃないか(汗~^^;)
のどかな春の日の梅の花が、わたくしという濾過装置を通過して、こうなった。…と云うことだけなのです。
初めから《夜》な感じをイメージしていたので、成るべくして成ったとも云えるかと思います。
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宙-天の道(72.7x90.9 2005年)
このところ、小さな絵が続いていたが、久しぶりに大きな絵(と云っても30号…72.2x90.9だから、そんなには大きくないのですが…)である。慣れと云うのは恐ろしいもので、このサイズでもとても大きく感じた次第なのである。
《天の道》…もちろん、幻視にしても見たことはない。夢のなかでさえも、ないように思う。見た事がないからと云って描けない訳でもない。…この道をわたくしたちは昇っていこう…と云った詩句のような言葉を連想したりもする。…いったい、わたくしは、この道のどのあたりにいるのだろう? 昇っているのだろうか?…それとも、くだり続けて、森のなかから地の底へと降りているのだろうか? 願わくば、天の三角形の高い場所を昇っていて欲しい、と思う。
ところで、今朝は鳥の声で目覚めた。小鳥達は昨日も一昨日もさえずっていたのかもしれないが、気づかなかった。今朝は、ほんとうに賑やかなさえずりで私を起してくれた。私の家の近くの桜もようよう咲き出し、信州の遅い春も、春である。落葉松の芽吹きの美しい季節が来た。
晴れた。良く、晴れた。
良く晴れると、天から降り注ぐ太陽の光も明るい。
で、自然光で写真にするのですが、写真に撮った。
クロス-黄金比(33.4x24.3 2005年)
たいてい、絵を描くとき何らかの意図がある。色彩について考察してみたり、構図をみたり、空間を意図してみたり…。今回このクロスは黄金比を多用してみた。
黄金比(2:3.236)はもっとも美しい比率とされている。幾何では正五角形の頂点を結んだ対角線に現れたりもする。…たしか、A+b=cおよびa:b=b:cを満たす比率であったはずだと思う。
そうして黄金比と並んで美しいとされる比率が、1:1である。
このクロスは、消失点を左右1:1、上下2:3.236の位置に設定してある。クロス自体も、左右、上下、同様の比率で、余白の上と下も黄金比にしてある。内枠内の縦長の長方形も黄金比にして、さらに、石積みの感じで描いた石もだいたい黄金比で、クロスを抜く都合で多少違う比率の石もあるけど、まぁ、シンコペーションみたいな効果になれば良いなと思う。
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さて、この写真はついでに、やっぱり先日書いた、お釜の火鉢です。
昔はこの釜でお米を炊いたと云いたいところですが、このオカマは3升(54リットル)の大きな釜で、お餅をつく時にもち米をふかしたりするのに使ったものだということで、お米を炊いたお釜は別に1升焚きのものを使っていたそうです。
その当時は土間にかまどがあったそうで、かすかに記憶に残っています。
そういえば子供の頃のご飯には必ず、おこげがありました。それがガスがまになり、電気がまになったのですね。…良いのか悪いのか…たぶん、良いことなのでしょう。スイッチを入れておいたら、お米が炊けるのだから。
そうそう、お湯も沸きます。
お茶と云う訳にはいきませんが、紅茶を煎れて飲みました(^_^)
良く晴れると、天から降り注ぐ太陽の光も明るい。
で、自然光で写真にするのですが、写真に撮った。

たいてい、絵を描くとき何らかの意図がある。色彩について考察してみたり、構図をみたり、空間を意図してみたり…。今回このクロスは黄金比を多用してみた。
黄金比(2:3.236)はもっとも美しい比率とされている。幾何では正五角形の頂点を結んだ対角線に現れたりもする。…たしか、A+b=cおよびa:b=b:cを満たす比率であったはずだと思う。
そうして黄金比と並んで美しいとされる比率が、1:1である。
このクロスは、消失点を左右1:1、上下2:3.236の位置に設定してある。クロス自体も、左右、上下、同様の比率で、余白の上と下も黄金比にしてある。内枠内の縦長の長方形も黄金比にして、さらに、石積みの感じで描いた石もだいたい黄金比で、クロスを抜く都合で多少違う比率の石もあるけど、まぁ、シンコペーションみたいな効果になれば良いなと思う。
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さて、この写真はついでに、やっぱり先日書いた、お釜の火鉢です。
昔はこの釜でお米を炊いたと云いたいところですが、このオカマは3升(54リットル)の大きな釜で、お餅をつく時にもち米をふかしたりするのに使ったものだということで、お米を炊いたお釜は別に1升焚きのものを使っていたそうです。
その当時は土間にかまどがあったそうで、かすかに記憶に残っています。
そういえば子供の頃のご飯には必ず、おこげがありました。それがガスがまになり、電気がまになったのですね。…良いのか悪いのか…たぶん、良いことなのでしょう。スイッチを入れておいたら、お米が炊けるのだから。
そうそう、お湯も沸きます。
お茶と云う訳にはいきませんが、紅茶を煎れて飲みました(^_^)
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無題なイメージ(22.0x27.3 2005年)
今朝、朝日は美しく出でて、晴れた日になると思ったけど、しばらくしたら、曇ってしまい、絵の写真を撮ろうと思っていたけど、光の状態が悪くなってしまったので、刃物を研いだ。包丁にはさみ。…そしたら、日が出てきた。写真を撮れた(^_^) そうそう、写真撮れずにいて更新出来ずにいるうちに、もう一枚、絵ができていました。
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どこか-2(24.3x33.4 2005年)
川の絵
2005-03-12 | 絵画
また、絵日記(^_^)
川のイメージの絵です。
川の絵(24.3x33.4 2005年)
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そう言えば、一週間? という歌があったっけ…。
《月曜日に市場に行って、針と糸を買ってきた。》…だっけか^^;
火曜日は…何したんだっけ?…忘却の彼方である。
であるが、「オイオイそれで一週間が終わちゃうの?」とか小学校の時でさえ思ったけど、逆にそう云う《のんびりした時間》の良さを感じるようになったのは、何時頃からだったろう。
ゆったりと流れる時間の静謐さ…は、かっこ良過ぎるかもしれないけど、平穏な時間。
そんな感じとまではいかないけど、ここ数日かけて支持体を作っています。
支持体とは、絵を描くとき、描かれるほうのもの(例えば、キャンバスとか紙とか、そういったものです)
ずいぶん前から、既成の支持体を使わず、自分で作って使っています。
で、こんな感じ?
月曜日に市場へ出かけ、板と布を買ってきた。
火曜日にニカワを浸し、板と布をカットして、
水曜日にニカワを溶かし、板に布をはりました。
木曜日は乾くの待って、空と風を感じてた。
金曜日に裏打ちをして、
土曜日にジェッソを塗りました。
♪チュラチュルル~(笑)
また、これで乾くのを待つのである。
《待つ》のも重要なのである。
太宰治の言葉に、
《待つ身がつらいかね、待たせる身がつらいかね》
というのがあるらしい。
両方、つらいのだろう。そして、さらに云えば、待つ、待たせる、の約束すらできないのは、もっとずっと、つらい、のだろう。
そういう機微も失われつつあるものの一つなのだろうか?…などと、ふと思う。…いな、また、《待つ》という言葉から、再び思い到りました。
最近、小さな絵ばかりである。
もう一年以上、充分に乾いた大きな支持体も用意されているのですが、そちらには、どうしてか向かわず、それで、小さな支持体を16枚ほど用意いたしました。
それにしても何故、ニカワって臭うのだろう。
探したら、もうずいぶん前に買ってあった、円錐形の小さなお香があったので、たいてみた。
臭いが、あまり気にならなくなった。
球-時間(15.8x22.7 2005年)
さらに? またしても、球です。
デッサンはおろか、メモもない状態で、コンパスで四つ(二つは陰の分です)円を描き、背景に大きな円を描いて、ひとわたり着彩。なんだか間抜けて落ちつかず、数字を描いて、針を描いて時計らしくなりました。それでもなんだか落ち着かず、文字盤部分に水平線を引いて、波を意識して、三角に見える雲らしきを描いてみました。
少年老い易く、学成り難し…?
光陰矢の如し。
ともかく、時間の流れるの、はやいです。新年になったと思ったら、二月になって、今日は、はや三月。
時間? え? 絵の時間? ああ、はい。三時五分前ですね。特に意味はありませんが、あと五分経ったら、三時です。三時になったら、お茶にしましょう。一休さん(笑)…って、ずっと、お茶にならないじゃないか(^_^)
というわけで、こういう絵ができました。
球-ブルーに依る考察(22.7x15.8 2005年)
…またしても、球、である。しかも、さらに小さい。
そして、ブルーである。…ブルーでこの小さな平面を考察(大袈裟? かな^^;)してみました。
ブルーは好きな色である。思う以上に表情の豊かな色なのである。
川のイメージの絵です。
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川の絵(24.3x33.4 2005年)
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そう言えば、一週間? という歌があったっけ…。
《月曜日に市場に行って、針と糸を買ってきた。》…だっけか^^;
火曜日は…何したんだっけ?…忘却の彼方である。
であるが、「オイオイそれで一週間が終わちゃうの?」とか小学校の時でさえ思ったけど、逆にそう云う《のんびりした時間》の良さを感じるようになったのは、何時頃からだったろう。
ゆったりと流れる時間の静謐さ…は、かっこ良過ぎるかもしれないけど、平穏な時間。
そんな感じとまではいかないけど、ここ数日かけて支持体を作っています。
支持体とは、絵を描くとき、描かれるほうのもの(例えば、キャンバスとか紙とか、そういったものです)
ずいぶん前から、既成の支持体を使わず、自分で作って使っています。
で、こんな感じ?
月曜日に市場へ出かけ、板と布を買ってきた。
火曜日にニカワを浸し、板と布をカットして、
水曜日にニカワを溶かし、板に布をはりました。
木曜日は乾くの待って、空と風を感じてた。
金曜日に裏打ちをして、
土曜日にジェッソを塗りました。
♪チュラチュルル~(笑)
また、これで乾くのを待つのである。
《待つ》のも重要なのである。
太宰治の言葉に、
《待つ身がつらいかね、待たせる身がつらいかね》
というのがあるらしい。
両方、つらいのだろう。そして、さらに云えば、待つ、待たせる、の約束すらできないのは、もっとずっと、つらい、のだろう。
そういう機微も失われつつあるものの一つなのだろうか?…などと、ふと思う。…いな、また、《待つ》という言葉から、再び思い到りました。
最近、小さな絵ばかりである。
もう一年以上、充分に乾いた大きな支持体も用意されているのですが、そちらには、どうしてか向かわず、それで、小さな支持体を16枚ほど用意いたしました。
それにしても何故、ニカワって臭うのだろう。
探したら、もうずいぶん前に買ってあった、円錐形の小さなお香があったので、たいてみた。
臭いが、あまり気にならなくなった。
球-時間
2005-03-01 | 絵画
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球-時間(15.8x22.7 2005年)
さらに? またしても、球です。
デッサンはおろか、メモもない状態で、コンパスで四つ(二つは陰の分です)円を描き、背景に大きな円を描いて、ひとわたり着彩。なんだか間抜けて落ちつかず、数字を描いて、針を描いて時計らしくなりました。それでもなんだか落ち着かず、文字盤部分に水平線を引いて、波を意識して、三角に見える雲らしきを描いてみました。
少年老い易く、学成り難し…?
光陰矢の如し。
ともかく、時間の流れるの、はやいです。新年になったと思ったら、二月になって、今日は、はや三月。
時間? え? 絵の時間? ああ、はい。三時五分前ですね。特に意味はありませんが、あと五分経ったら、三時です。三時になったら、お茶にしましょう。一休さん(笑)…って、ずっと、お茶にならないじゃないか(^_^)
というわけで、こういう絵ができました。
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球-ブルーに依る考察(22.7x15.8 2005年)
…またしても、球、である。しかも、さらに小さい。
そして、ブルーである。…ブルーでこの小さな平面を考察(大袈裟? かな^^;)してみました。
ブルーは好きな色である。思う以上に表情の豊かな色なのである。