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光の散歩道

日々 雑記 感想 そうして絵画など創作や写真日記

白は難しい・・・

2005-10-28 | 絵画
 このたびは、私としては珍しい感じの絵ができた。




  クロスー白 (33.4x24.3 2005年)



 前作の滝の絵を描いているとき、白ということに引っかかった。
 クロスとしてのコンポジションのカテゴリに分類したけれど、実はこの絵は球形コンポジションを連続して描いたときの絵にならずにいたメモをこのたび、≪白≫という事を思って見返しているときに白の考察にどうだろうと思って描き始めた。
 漆喰の壁にうがかれたくぼみに5つの球を浮かせようと思ったのだが、白くしていくうちにみんな白くなって、描く前に戻りそうなので、ここで一旦完成とした。


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 この絵とは、白ということ以外つながりはないのですが、なんとなく思い出したフレーズ、≪風景が白一色をはらみ≫…過日の拙作のフレーズであった。
 以下。


    幻


風景が白一色をはらみ
明るくなっていく

(意識は大地を掴めないまま)

少女が駆けて行く
ぐんぐん遠ざかる

がたがた道の遥か下
道標が倒れる
流れの音が やけに大きく
不安を含んで 聞こえて来

天が地と化す
石ころがひとつ 目に飛び込んで
脳髄を打撃する

少女が微笑んでいる
ひだまり
崖の上

(空をひた走る)

眩しさに目を焦がし
暗点が記される



 …分かるような分からないような、この頃、たぶん19くらいだったと思いますが、神経が尖っていたんだなぁ…という感じだけはわかるような気がする。



 ≪終末の色≫といったら、何色を連想するだろうか?
 闇を表わす黒。
 哀しみの青。
 どうせなら(笑)賑やかに黄色。
 枯れ枯れるこげちゃ。
 未練の血の燃える赤。

 私は白。それも強烈な目も明けていられないような白を連想する。
 それはたぶん白黒写真を現像して焼き付けてということを、当時は日常的にアパートの部屋でしていたということにも関係あるのかもしれない。
 赤い小さな作業用の電球の弱い光のなかに、現像液にひたした印画紙に画像が現れてくる。
 定着される。
 そのプロセスの逆をたどると、白は始まりの色である。
 ≪終末とは、始まりの始まり≫という感想が導かれてくる。


2005-10-23 | 絵画
 滝の絵がきた。
 月下の滝のイメージである。




  滝 (22.7x15.8 2005年)



 古いデッサンやメモを見ていて、滝を描こうと思った。
 メモでは一筋の滝であったが、広がり流れ落ちる滝の絵になった。

 水の流れる音、落ちる音が好きである。
 静寂に飽く事もなく鳴り続ける。
 水の音。

 この絵では、ふくろうの鳴き声が響いていても良い感じでもある。
 落ち続け、鳴り続ける。
 そうしてずっと、そうしてきたように、そうしていく。
 響き続ける水の音。


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 今朝、明け方、寒かった。
 布団のなかでも寒い感じが染みていたように感じた。
 起きて、しばらくして、山を見た。浅間山である。
 白かった。





 冬がひとあしひとあし近づいている。

球体は回る

2005-10-06 | 絵画
 正面も描いてと言われた訳じゃないけど(笑・言うわけないし…)スフィンクス正面も描いてみた。




  スフィンクス-2(22.7x15.8 2005年)



 シンメトリー性が高くなった。横向きの時には天を仰いでいたのが、カメラ目線にもなった。

 最近は停電ということが少なくなった。
 雷も今年は少ないように感じる。
 それでも夜、停電になると、大抵がお手上げになってしまう。
 明かりが消えたのは、懐中電灯なり蝋燭でおぎなえるが、テレビはダメである。
 もちろんパソコンも使えない。

 絵を描いていて、絵は太陽の光と夜は蝋燭の光と、電気がなくても見られるんだなぁ、と思った。
 本もそうである。読むことができる。

 もしも電気の無い所に行って、文化的な紹介をするとしたら、絵や音楽など、電気が発明される以前からある…一面、古い表現だとも思われているのが、力を発揮するんだなぁ、とも思った。絵も音楽も世界言語である。

 文明は文が明るいと書くのかぁ。
 電気は明るい。
 でももっとずっと明るいのは太陽である。
 太陽の光はさらに暖かい。…夏は閉口もするけど。
 恵みであると思う。
 地球は「母なる地球」で、慈愛でもって(たぶん)人類を発達させた。
 その人類はいま、電気がないと立ち行かない世の中に生きている。
 電気がずっと安定して供給されるためには、平和が必要である。
 母なる地球は、すでに人類に慈愛を与えたことを後悔してるかもしれないから。
 平和が良い。

 回る回る大きな球体の上にみんな生きているのだから。

スフィンクス

2005-09-30 | 絵画
 なんだかまた変な…もとい…≪面白い≫絵が出て来てしまった。
 ≪朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足≫の謎をかけたという?…スフィンクスである。
 ・・・≪?≫はエジプトのスフィンクスで、上半身が女性のスフィンクスはギリシャに由縁するというから(つい先日何かのテレビで見ました^^;)・・・




  スフィンクス(22.7x15.8 2005年)



 といっても、スフィンクス以外は、雲であり、球であり、海であり、結界ともいえる縁であり…自家薬籠中のモチィーフによる絵である。

 ぼんやりテレビを見てたら、モローが(ギュスターブ・モローの絵が)来ていて会期が終わりに近づいている事を知った(渋谷文化村ミュージアム)
 でも行けないなとか思いつつ、朝日グラフ美術特集のモローを開き見た。

 スフィンクスを描いてみようと思った。

 描き始めてから辞典をひいてみた。

 ≪スフィンクス・・・古代オリエントの神話上の怪物。ふつう体は獅子で、頭は人。
  エジプトでは、太陽神ラーとしての王(ファラオ)を象徴。
  ギリシャ神話では、女性化され翼をもつ≫(日本語大辞典・講談社)

 とある。
 ですからこれは、ギリシャ神話由縁のスフィンクスということになる。


 ・・・気がつけば…≪青い抱擁衝動≫の9月も≪みたされない唇≫の9月も、≪きれいに空に溶けたまま≫今日で終わり、明日からは10月…強がって、≪寒さがちょうど良い季節です≫…といってはみても、寒いのは寂しい、秋の宵…。

2005-09-27 | 絵画




  月(22.7x15.8 2005年)



 月である。ただ月なのである。
 満月を見るたび、ああ模様があるんだな、と思っていた。
 見上げた同じ月である。
 一度絵に描きたいと思っていながら、今回を待ったという感じである。
 兎が餅をついているように見えるだろうか?(笑)
 ちなみに西洋では「がまがえる」に見えるらしいと記憶している。
 それにしてもシンプルに≪月≫である。この前のひまわりが出口が定まらずに進まなかったせいか、さらっとした感じで月を描こうと思って、それでも何か「ひねり」を入れようかと思ったけど、月のみ描いてみました。
 (左下にサインを書いたら、落ち着きが悪いので、右下に「Tsuki」と書いてみました。そうして、アルファベットで書くなら、「MOON」の方が良かったかなとは後の感想…でも日本人だし(笑)それに何かの加減で「T」がかすれたりしたら、「suki」って読めたりして、なんて、ばかなこと思いました。はい、ばかです(笑)

 さて…。
 これまでも、月は背景に描いたりしてきたし(最近では、ろうそくによる構図-2…〈9月12日〉の背景に描かれています)、そうして過去の絵においても、たとえば「月祭」という絵は、かなり月というものを意識しています。




  月祭(80.3x100.0 2001年)



 レリーフをイメージして、そのイメージされたレリーフを絵に描いたという感じの絵です。そのレリーフはどこにあるのかと問えば、私の頭のなかのイメージの中です。
 とくに月祭りというのが何処かにあるという訳ではありません。
 三角形はピラミッドを意識しているし、三日月のついた弓形の棒を持っている姿も古代の壁画やレリーフに想を得てはいるのですが…。
 ピラミッドもまた≪生と死と再生≫の象徴のように捉えられたりします。
 月にもそういう一面があります。
 月は満ちていき、やがて欠けていきます。
 満月の対語は新月です。新月とは、欠けきった月が消えて、新たに姿を現すときのことであります。
 その形体の変化に、生と死と再生の象徴として考えられたりしたのだろう、と思います。
 あるいはまた陽に対する陰としてとらえられたり。
 また形体の変化から、移り気という良くない側面でみられたり。
 月にすればただ月なのであるから迷惑な話かもしれませんが、人間のイメージの広がりの結果でもあると思えば、深遠です。


 話はまったく変わりますが、今日面白い感じで雲が出ていたので写真に撮ってみました。




 これもまた、空に現れた雲のクロス。

 そうそう、月を描いたら、単純な連想で、「竹取物語」を少し読んでみました。
 岩波文庫の現代語訳していないやつなので、読みにくい…。
 それでも示唆に富んだ面白い感じも新たに感じたりしているので、がんばってみるつもりです。

いいかな? どうかなぁ?…ひまわり

2005-09-25 | 絵画
 ひまわりを描いた。ふたたび…いまひとたびの(笑)である。




  ひまわり(22.0x27.3 2005年)



 時間がかかった、というのは言い訳である。進まなかったというのが正直なところである。
 もともと、8月9日の≪てんでの方向むいてるひまわり≫を写真にしたときには、ひまわりもう一枚描こうと思っていたのですが、そのとき写真にした違うカットの方を今回、絵にしてみました(季節感ゼロですが^^;)…ほんとうは、前の≪ひまわり≫(8月2日)がお盆に来た妹に連れて行かれてしまったので(ぼたんとグラジオラスとひまわり見せたら、ひまわりが良いといったので)まぁ、ひまわりは次も描くつもりでいたので、ちょっとグラジオラスと言われなくて安心したかな(笑)
 しかしながら、興味が海にいったり、ろうそくにいったりで、9月になってしまった。

 明るく青空にひまわりという感じになればと思って描きはじめた訳ですが、最初から葉っぱは描かない構図にしました。そうして、昨日の夜までは、空、もっと明るかったです(笑)…で、いいかと思って写真にしようかと思ったけど、今朝?午前2:00頃起きたあと(えっ? 何時に寝たのかって? 訊いてない? でも…19:00頃もう眠くなって、それでも倉本聰さんの祇園囃子を見ようと思って目覚ましかけておいたけど、途中で眠ってました・笑)、で、丑三つ時に、がらっとトーンが変わって、さっきまで描いてました(^_^)

 矛盾する謂いとなるのですが、ひとつの希求として≪明るい抒情・かわいた抒情≫というような感覚もあって、そういう一見脳天気な明るさに染み渡るような抒情が表わされればと、がんばってみたのです。ですが、軽さというのか、地に足がつかないというか…ひらたく言うと、しっくりこなくて、結局こういう空?…背景になりました。それが自分だといってしまえば、それが今の私をあらわしているのでしょう…。
 前に谷山浩子さんの歌について書いたけど、そのどれか(いま思い出せませんm(__)m)に、セリフ?語り?の部分がある歌があって、≪地面のほんの一センチほど上をすべっていく≫というような感覚を表わした言葉があって、この絵を描いているとき、無理に≪明るい抒情≫というようなことを意識して、空回りしてる感じを感じているとき、その浮遊して地に足がつかない感覚…表現ではしっくりこない感覚として、思い出されて、着地すべき場所があるはずで、それがいまは≪こうではない…無理な明るさではないんじゃないか≫と思って、思いきってトーンをぐっと落としたという次第であります。
 で、いいかな? どうかなぁ? という心もとない表題となりました^^;

 肖像のように描く、という感じだったともいえるのかな?
 てんでの方向見てるひまわりたち…。
 右の大きなひまわりは凛とした感じ?
 左の小さなひまわりはなんだかそのまま飛んでいきそう?
 まんなかのひまわりはちょっとすまして?
 右下の陰になったひまわりは横顔を気障に見せてる?

 …ちょっとだけ、一瞬、目を描いたら? どうだろう? と思ったけど、そこまでは勇気がなかったですm(__)m(笑)

花のいろは…≪花と球≫

2005-09-15 | 絵画
 ふたたび、花を描いた。
 たぶん≪ケイトウ≫という花だろうと思うけど、買ったときに良く確認してなくて、あとから花屋で見てもすでになく、≪ケイトウ≫という花はありましたが、少し違ったので、自信がないので、≪花と球≫という題にしました(笑)
 なんて花なんだろう、この花?




  花と球(33.4x24.3 2005年)



 この花はスパーにテナントで入っている花屋が外の地面に並べていた特売品(処分品?)のなかの一輪であった。
 だから、すこぶる安かった(笑)…が、なんだか惹かれて買ってきたのは二十日ほど前であった。
 切花は少し経つと枯れてしまう。
 この花のように鉢に植えてあると、二十日経っても元気に咲いてくれている。
 根が土に根付いているからだ。

 絵に描く(写真に撮る)と、実体が消えても、無数に生起し消えていく命の一つの形として残る。
 前に描いた≪ぼたん≫も≪ひまわり≫も≪バラ≫も今は、実体としてはすべてもう無い。
 やがて、この鉢植えの花も枯れるときがくるだろう。
 それでも、こうして絵として残る。

 いつもはそんな風には思わないで、庭の花を切ったり、向日葵も切ってきたりしたけど、たまに感傷的な気持ちになると、切花ほどせつない印象はないけど、それでも鉢植えの花にも、鳥籠の鳥に対するような、せつなさを感じてしまう事がある。
 そういう花のせつなさが、かえって美しさを倍増しているように思うのは、やはり人間のエゴなのだろうか…。
 愛でなければならぬ、と思う。

 せつなき、花。

 花のいろは…

 ふと一つの歌を思い出した。たしか万葉集の小野小町の歌で、こうだったと思う。


 花のいろは うつりにけりな いたずらに 我が身世にふる 流れせしまに


 ≪世にふる流れせしまに≫・・・である。

ろうそくによる構図-2

2005-09-12 | 絵画
 またしても≪ろうそくによる構図≫です。
 しかも、今度は7本になった(笑)
 そうしてさらに構成的な絵になった。




  ろうそくによる構図-2(24.3x33.4 2005年)



 この絵を描いているとき、というか、だいぶ前から、たとえば映画を見たり小説を読んだりしていて、仮想された空間ということをぼんやりと思っていたのを、紙にメモしてあった。すなわち・・・


 仮想された空間におけるリアリティは現実世界のリアルさに影響はされるが、その仮想世界にあって整合性を保つならば必ずしも現実世界の規定に合致しなくとも良いのである。

 という一文である。それが正しいか正しくないかはわからないけど、そう思った。

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 月は満ち、やがて欠け、そうしてまた満ちる。
 繰り返され、繰り返す。
 そうして、ろうそくはもっとも身近な≪生≫な火である。
 手をかざすと、意外に熱い炎である。

ろうそくによる構図

2005-09-04 | 絵画
 ろうそくをモチーフにもう一枚描こうと思った。
 しかも今度はブルーによる考察である。




  ろうそくによる構図(22.7x15.8 2005年)



 ろうそくも一本から三本になった。
 ≪三≫という数字の聖性ということを思う。
 仏教では釈迦三尊仏など。キリスト教では三位一体、父と子と聖霊である。


 そういえばかなり昔で印象に残っているのは、認識か何かについて書かれた本で、原始人は、1、2、3と数を数え、さて、3の次は何かというと、≪たくさん≫であると読んだのを思い出した。
 すなわち、ものの数を数えるとき、1、2、3、ダァ~!(えっ?・チガウ?・・笑)・・いいえ、あっ、はい、失礼しましたm(__)m・・・
 もとい、すなわち、ものの数を数えるとき、≪1、2、3、たくさん≫というふうに、5個あっても10個あっても、3個より多いのは≪たくさん≫という認識だったらしい。
 いま思ったのですが、この≪たくさん≫という認識はちょっと深読みの余地を残してはいないだろうか?

「このお饅頭美味しいでしょう? もうひとついかがですか?」と訊かれて、
「いいえ、もう≪たくさん≫です」
 という使い方をされたり、
 かなり酷い仕打ちをされた時、
「もう、≪たくさん≫ どうして? いったいどうして、私がこんな目に遭わなくちゃならない?! ほんとに、もう、≪たくさん≫だよ!」
 という使われ方をされたりもする。

 で、頼りの日本語大辞典では、≪たくさん≫を、
 ・数量の多いさま。多く。あまた。
 ・これ以上はいらない、十分なさま。
 とある。

 原始人が数を数えるとき、≪1、2、3、たくさん≫としたのは、けして知的能力のせいではなく、何でも≪3個≫あればだいたい大丈夫、それ以上は求めないという、至極禁欲的な意識の表れではなかったのか、という考察は・・・さすがにうがち過ぎだろうか・・・

 ・・・にしても、ちょっと困った考察になる。
 三角関係である。漱石にもそれがテーマの小説があったし、ドラマや漫画…宣伝しまくってるタッチにしても、三角関係である。数えればキリがない。それをテーマ・モチーフとして、あまたの作品がえがかれてきた。
 ≪1、2、3、たくさん≫であるとすると、≪たくさん≫と思うのは、4人目の登場人物が出てきたとき、きっと本人を含めて≪三≫までは、≪たくさん≫とは思わないから、三角関係とか、配偶者が有る場合は不倫とかが起きてしまうのかもしれない。・・・原始の時代に戻って、数の認識を、≪1、2、たくさん≫と変えてもらってきたら、三角関係とか、不倫とか減るのだろうか?(笑)・・・というより、なんで? こんな考察になったんだろう?・・・・・




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 はい、背筋をのばして、深呼吸。

 さて、この度のこの絵は、しんと静まりかえった水鏡をイメージして、その水面に鏡像として蝋燭が映るように描こうと思って描きました。ブルーの範疇には入ると思うのですが、夜な感じに、ずうっと奥へ奥へと吸い込まれるような感じになればと思っていたら、濃紺の背景となりました。

ろうそくと球による構図

2005-08-30 | 絵画
 予告通り(笑) 蝋燭の絵がきた。




  ろうそくと球による構図(22.7x15.8 2005年)



 静かな夜である。
 静かな絵である。

 炎の色はもっと橙色で気持ちを落ち着かせ、そうしてほっとさせる不思議な色であるが、その色がうまく出ただろうかと思うと、すこし俯き加減になってしまいますが、しんとした気持ちを反映するような、しんとした絵にはなったのではないかと、私は(えっ? 自画自賛?・・汗・・・すみません) そのように感じて、出来たこの絵を見ていると、実際の蝋燭の炎よりもなんだか、気持ちが落ち着いてくるように感じてしまいます。(あきらかに、自画自賛?・・ですね・・・謝)
 でも、なんだか、思ったより、お気に入りの絵になりそうです(^_^)

 できうるならば、明かりを消したとき、この絵の蝋燭が部屋を照らしてくれれば良いのですが(笑)…有り得べくも無いことです^^;
 でも、雪舟でしたっけ? 縁側に涙で描いた鼠が息をし始め走り去っていったという逸話を持つ絵描きさんは?
 もっと精進したなら、絵の蝋燭も光を発するだろうか?(・・って、有り得べくもないって・・笑)
 それは、雪舟(だったと思います…あまり自信なし^^;)の天才による逸話なのだから!

(すみません、そうですね、Uchiboriのブログはどこまで真面目に書いているのか? どこから冗談になっているのか? ちょっと迷ってしまいますね^^;)


 蝋燭は身を溶かし、その炎で周りを明るくする。
 …それが蝋燭の定めと言ってしまえば簡単であるが、そこに象徴的な意味を見出す事も可能であろうと思う。
 そうして、球は、どこまでいっても、≪まんまる≫である。


 …ちなみに、蝋燭の明かりでお酒をすすり(・・いいえ、飲み)ましたが、≪いざ泣かん≫というように、上手い具合に≪泣く≫ことはできませんでした(笑)・・・あえていえば、独り酒は≪無≫です・・・(って、やっぱり気障虫が晩夏の夜に羽音をあげる?・・【笑っていただくところです】・・・笑・・ふぅ~)

森より流れくる川

2005-08-27 | 絵画
 海の絵2枚のあと、森に帰ったようである(笑)
 川が流れているからだけとは思えぬ、しっとりした森である。
 気持ちのしっとりとしてくる森である。




  森より流れくる川(33.4x24.3 2005年)



 川は森より流れ出でて、やがて長い旅の果て、海に還っていく。
 空気が水分を含んで、今しも降り出しそうな日、この川をこの場所から見た。

 このときの流れていた水は無事に海へと還っただろうか?
 途中で太陽に焦がされ蒸発して、再び雨となって降り注いだだろうか?
 あるいは水道水となって誰かの喉を潤しただろうか?

 たとえ海に還ったとしても同じように蒸発して雨になって、再び川として流れ、田畑を潤し農作物を養ったかもしれないし、喉の渇いた犬に飲まれたかもしれない。

 同じように流れ出でても、運命はさまざま…。



 ゆく河の流れはたえずして、しかももとの水にあらず…鴨長明

 …である。ちょっと違う? いや、かなり違う?・・・^^;


 そうそう! 今日もこの川にはきっと同じように森より流れ出でた水が、流れの音も絶やさず流れ続けているだろう。
 たえず新しい水が森より流れ出でてくる。
 無常である。
 色即是空、空即是色である?・・・≪色(しき)とは、仏教で物質的な存在すべてを謂う≫

 …さらに蛇足を記すならば、この絵は信州の高原、菅平の森から流れくる川の絵である。



 予告!
 えっ? なんで? という感じになるのかなぁ?
 次は蝋燭(…変換するからでてくるけど、絶対に書けないだろうなこの漢字…こうして漢字を考え出した人は本当にすごいと思います。そうそう、ろうそく)の絵ができそうです。
 あんまり気持ちがしっとりして、せつなくなってきて、森から我が家の夜に帰るみたいです。寂しき夜に蝋燭灯し、酒をすすりて、いざ泣かん(おいおい・笑)
 えっ? なんか謂いが変かなぁ…意識が旅しているということになるのだと思います。
 意識の旅は自由度が高いから(^_^)

たそがれどきの船

2005-08-18 | 絵画
 淡い色調のたそがれ、海に浮かんでいる船である。走ってはいない。
 ぽつんと海に浮かんでいる。




  たそがれどきの船(27.3x22.0 2005年)



 波の絵≪記憶の海≫のあと、また海の絵を描こうと思った。
 海といえば、船? ということで、この漁船の絵がきた。
 たとえばタイタニックのような豪華客船なんかも良いのかもしれないけど、たまたま、私に資料としてあったのは、数年前に西伊豆の漁港に浮かんでいたこの漁船だった。
 ときどき気になって、描こうと思いながら、気持ちに合致しなかったのだろう、描かれずにいたイメージがこのたび、こういう色調でこういう感じで絵になった。
 きっと、こういう風に描かれる日がくるのを、私がこういう風に描ける日を待っていたのだろう。

 こういう風って? どういう風? なの? と自問…。

 …描かれたのは、海に浮かんでいる船である。
 走ってはいない。
 ぽつんと海に浮かんでいる。
 波のままに流されていくのか、とどまるのか、ぽつんと海に浮かんでいる。
 淡い色調のたそがれである。
 静かに時を待っているのかもしれない…。
 あるいは、淋しくて、じっと浮かんだまま方途を見失なってしまったのかもしれない…。
 それとも、ひととき、うたた寝…美しい夢に酔っているのか…。
 ぽつんと海に浮かんでいる…。

 美しい夢?

 ねがわくば、美しい夢が良い。
 

記憶の海

2005-08-12 | 絵画
 このたびは海がきた。ブルーホールインブルーに続いてこの絵なの?…という感じではありますが、それでも、同じ根から出た違う花といった感じなのでしょう…。




  記憶の海(15.8x22.7 2005年)



 単純なもので、海の話が出たら、海を描きたくなった。
 できたのは、私には珍しく、淡いモノトーンな色調の絵となった。
 おりしも季節は夏である。夏の眩しい光の強烈な海…波を思わなかった訳ではない。
 ふと、≪海にいるのは あれは人魚ではないのです≫という詩句が描いているとき、まるで波間から浮かび上がるように浮かんできて、本を開かせた。
 すなわち、中原中也の「北の海」であった。

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   北の海

 海にいるのは、
 あれは人魚ではないのです。
 海にいるのは、
 あれは、浪ばかり。

 曇った北海の空の下、
 浪はところどころ歯をむいて、
 空を呪っているのです。
 いつはてるとも知れない呪。

 海にいるのは、
 あれは人魚ではないのです。
 海にいるのは、
 あれは、浪ばかり。

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 ブログは書くときに考える。(…えっ? そうです、考えて書いているんですよ^^;)そうして、お邪魔して読ませていただく時に、また考える。考えるとき発見があったりする。考えたことを、コメントする。そのコメントにレスをいただくと、また違った角度の発見をいただけたりする。感謝です(^^)

 …最後に見た海がこの海。もう三年ほども前になることを思い出した。
 この海は、しかし北海ではなく、新潟、上越の海である。
 晴れた日、日本海は元来深い色調である。太陽を背に、順光で見るからだ。太平洋を見るとき、逆行で見る事が多くて、眩しいのとはまた違った眩しさがある。
 それでも、今回こういう絵になったのは、少なからず中也のせいである。…残りは?…私のせいなんでしょうね、きっと。

 海に人魚(希望? 或いは奇跡?)は用意されていなかった。波ばかり、白い歯をむいて、曇った空を、いつはてるとも知れない呪を呪い続けているのである。それが、くりかえし、くりかえす…。

 そこまで、重く暗い絵にはしなかったけど、明るい夏の海でもなく、やっぱり題したように≪記憶の海≫といった風情になったのではと思うのですが、いかがでしょうか?
 記憶をくすぐる物淋しい初冬のような海風と潮騒を感じて、見てくださる方の心が平らかになっていただければ、さいわいです。

ブルーホールインブルー

2005-08-09 | 絵画




  ブルーホールインブルー(22.7x15.8 2005年)



 しばらく花を描いておりましたが、ネタが尽きて(というより、あんまり息をつめて描くのに耐えかねて?・・^^;)次に何を描こうかと、デッサンとか見ていたら、数年前のこのイメージ(線描のみ)が気になり、描いてみました。
 肩の力をぬいて、自由に(^_^)

 …けして花の絵に肩の力が入ってるとは思えないけど、根はつまります(笑)
 それにしても、グラジオラスの次にこういう絵が出てくると、自己同一性を疑われてしまうかもしれないし、≪何を描きたいんだ?≫という問題に突き当たってしまうかもしれない。

 結局は、絵面(えずら)は花でも山でもコンポジションでも、何でも良いのだと思う。
 村上春樹氏がどこかで、≪意識をストーリー化するのが小説家だ≫というような文章を書いていましたが、それを借りるなら、意識を絵に描くのが絵描きで、意識という掴み所のないものはまた様様に変化し、その変化に対して忠実であれば、おもむくままいろいろな絵面となって表れるのも、ごく自然なことではないかと思います。
 もっと正直にいえば^^;…迷いの中に迷い続けているままの、ときどきの意識の有り様が表れてくるのかと思います。

 それでも、絵面の違いはあっても、抽象的ですが私の絵としての≪トーンとしての同一性≫は保たれているんじゃないか、と感じております。…それがきっと、表面に表れる絵面よりも【もちろん絵面自体にも意味や象徴などが表れている(はずだ)し、それも意識の表出という点において重要ではあると思うのですが】…本質的な≪私≫としての表出でという点において、表出されるトーンは重要な意味を持っているように感じられます。

 と、なんだか、いろいろな絵面の絵が出てきてしまうことへの、言い訳じみた(なおかつ、ぐちゃぐちゃな)文章に、今日はなってしまいました^^;



 そうそう、この絵を始めるまえ、花を探して写真を撮ってきました。
 先日描いた≪ひまわり≫は家ので、もう一枚違う感じで描こうかと、また撮ってきたのですが・・・




 コメントいただき、ひまりは太陽を追いかけて、太陽に向かうとか、レスさせていただきましたが、あらめて、ひまわり見に行って、あれっ、家の、ひまわり、てんでの方向見てる・・・(絶句)
 そうか、≪私≫んちの、ひまわり、だからか・・・(犬は飼ってないけど、犬が飼い主に似る如くか?)・・・と、なっとく(フゥ~)
 それにしても、気を取り直して(笑)
「おいおい、向日葵なんだろ! せっかく、お日様でてるのに!」
 と、軽く突っ込んでみても、ひまわり我関せずという風に咲いている(フゥ~)

 ・・・ということも、ありました(笑)

何て花?…グラジオラス?

2005-08-06 | 絵画
 グラジオラスです。

 ≪咲いているのは みやこぐさ と
  指に摘んで 光にすかして教えてくれた――≫
                 …立原道造…[村はずれの歌]より
 ≪悲しみではなかった日のながれる雲の下に
  僕はあなたの口にする言葉をおぼえた
  それはひとつの花の名であった
  それは黄色の淡いあはい花だった≫
                 …立原道造…[ゆうすげびと]より

 情景が、美しい情景が目に浮かぶようである。

 よけいかもしれないけど…
≪悲しみではなかった日のながれる雲の下に≫
 美しい言葉とイメージと感性とに、うっとりしてしまう…。

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 それなのに私は恥ずかしく切ない。
 先日、私は庭に見知らぬ花を見て、その日の夜、
「あれは、なんて花?」と訊いた。
「グラジオラス」とそっけなく答えたのは、母である。
 同じように花の名前を教えられても、全然美しい情景なんかじゃない(笑・泣)
 さらに名前を知っていたのに、その花だと知らなかったことが恥ずかしい…。

 とまれ、≪ひまわり≫を描いたあと、花はとりあえず良いかな? と思ったけど、他に画題もみつからなかったので、そのグラジオラスを描いてみました。…グラジオラスって、地面に近い方から順番に、上へ上へとつぼみが花となって咲いていく花なのですね。上へ上へ!




  グラジオラス(22.7x15.8 2005年)