なぜだろう。七夕が近いからだろうか…。
この数日、懐かしい人の夢を見る。
同一人物ではない。
目覚めて、追いかけるような夢である。
なぜ、この人の夢をみるのだろうか? といった思いで。
二日ほど空けて、二人の夢を見た。
私たちは手と手をつなぎ、「どこか」へ行こうとしていた。私の右手とその人の左手。ぴったりと合わさった感覚とあたたかさ。坂の道を下って、つきあたった道を左に折れて、小さな森。社だったのだろうか、日は翳っている。そこにはバス停があって、並んで立って、バスを待つ。バスがくると、どこからか大勢人がきて、つぎつぎにバスに乗っていく。でもそのバスは「そこ」へ行くのじゃなくて、私たちは乗らなかった。バスは出て行く。車持ってくるねとそこを立ち去る。その人を森に残して。坂の道を登っていく。だが部屋のあるべき場所にたどり着けない。ここだったかなと思うところは、たちはだかるような高い白壁で、その脇、十字路をまっすぐ進む、右手は畑…と思ったら、石が点々としていて、墓地に見えてくる。また十字路、左に曲がる。路地、生垣の奥、庭で洗濯している人がいる。知らない人だ。こんな光景時代劇で見たようなとか思いながら、部屋に帰ろうと進む。だけど部屋がわからない。まっすぐ進む。左に折れる。ますます道がわからなくなって、自分がどこに迷い込んでしまったのかも、わからなくなる。道端にお堂。扉は開いていて、如来かな、仏像がいる。テレビで見た敦煌の仏に似ているなと思いながら、そこも過ぎる。Aという昔のままの友人(男)に会う。ここはと訊くと、『……』(夢のなかではなっとくしたのだが、どこだかわからなくなってしまった)という。そうか、じゃ方向がちがったんだ。もう少しで着くと思う。少し道はにぎやか。商店街になっている。道はやがて唐突に広い階段に尽きる。その石の階段を登る。長い階段…。
目が覚めた。
外は深夜の雨。音でわかる。
しばし夢を追いかける。なぜ、彼女をバス停に残してきてしまったのだろうと思う。なんだか彼女がまだ小さな森のバス停に佇んでいるように思ったのは、目覚めてもまだ寝ぼけていたのだろう…。
☆
「夢で逢えたら」というのは、よく知らない。
私たちより、もう少し上の世代だ。
だからか、ということもないが、夢でもいいから逢いたいと思う人はなかなか夢には出てこない。
失われた人が出てくる場合が多いようである。
起きているとき、ふと何かのかげんで、誰かを思い出すということはある。
パレットに青い絵の具をしぼるときとか、花柄スカートの人をスパーで見かけたときとか、月を見たときとか、昔大好きだった歌をふいに聞いたときとか。
いつもではない。
ふとしたかげん、そのかげんが何故かはわからないけど、ふとしたかげんでである。
でも夢はよくわからない。ずっと忘れていて、思い出すこともなかった、もう四半世紀も前にほんのかすかに触れただけの人の夢を見たのは何故だろう。このたびの最初の夢は書いてない。四半世紀を経て、私も彼女も、今の年になっていた。調べようと思えば、あるいは何か手がかりがあるかもしれないけど、20年以上消息を知らない人である。それはとても不可解で、すこし考えてしまった。
そうして次の夜、また夢を見た。(というか、毎晩夢は見るのだけど…)あまりよく覚えていない。
そうして、次の夜、上に記した夢を見た。
なんだか、てのひらにまだぬくもりがのこっているようで、なんだか、せつない…。