球-宙
2005-02-21 | 絵画
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球?宙(33.4x24.3 2005年)
またしても、小さな絵です。
イメージに分類されます。
そろそろ女性の絵も描きたいと思うのですが、資料がなくて^^;…。
ふうぅ~。と、グチってもしかたないので、さて、次はどんなイメージが来るのやら…。
三日月
2005-02-06 | 絵画

しばらく、八ヶ岳の絵を描いていましたが、とりあえず保留して、気分転換といってはなんですが、今日、午前中、先日の冬の夜空に見た三日月の印象が気にかかっていて、絵にしてみました。はがきサイズです。
けして月が孤独なのではありません。
見る者が孤独と感じたとき、月は孤独です。
見る者が、もしも神秘を感じたら、月は神秘です。
見る者が美を感じたら、月は美です。
主観の投影が主観者の状態を表し、実は、《月は月として、ただ在るのみなのです》
たんたんとして、在ります。
優しい気持ち
優しい気持ちは
美しい
すべて 美しく
感じさせる
見るもの あるもの
光輝いて 見える
優しい気持ちは
懐かしい
陽だまりの匂い
置き忘れていた
素直な 心
呼び覚ます
優しい気持ちは
すばらしい
みちて あふるる
愛を みちびく
さて、年を越してしまった絵を、今日完成とし、午前にアップしましたが、色が気に入らず、(…言い訳する訳じゃないけど、なんでこんなに、デジカメ写真色、特にブルーがでないのだろう? 修正していたら、全体的になんだか変だけど、まぁいいや^^;…。)←と書いておいたけど、やっぱり気に入らず、また、色修正してみました。なかなか色が…というのは、あまり変わり映えしないようですが、ブルーが少し実際の色に近づいたかな…。

球形コンポジション-3(31.8x40.9 2005年)
さて、この絵については、浮いた感じが思ったより出せなかったのは、反省です。
そうして、中西夏之さんの絵を知って、その透明感をなんとかと思ったのも、反省です。でません。色調も基本的には同じなのですが、もっと違う感じのトーンをねらったりして、しっくりこず、やっぱり、最終的には、《私の絵》になってしまうようです^^;。。。
優しい気持ちは
美しい
すべて 美しく
感じさせる
見るもの あるもの
光輝いて 見える
優しい気持ちは
懐かしい
陽だまりの匂い
置き忘れていた
素直な 心
呼び覚ます
優しい気持ちは
すばらしい
みちて あふるる
愛を みちびく
さて、年を越してしまった絵を、今日完成とし、午前にアップしましたが、色が気に入らず、(…言い訳する訳じゃないけど、なんでこんなに、デジカメ写真色、特にブルーがでないのだろう? 修正していたら、全体的になんだか変だけど、まぁいいや^^;…。)←と書いておいたけど、やっぱり気に入らず、また、色修正してみました。なかなか色が…というのは、あまり変わり映えしないようですが、ブルーが少し実際の色に近づいたかな…。

さて、この絵については、浮いた感じが思ったより出せなかったのは、反省です。
そうして、中西夏之さんの絵を知って、その透明感をなんとかと思ったのも、反省です。でません。色調も基本的には同じなのですが、もっと違う感じのトーンをねらったりして、しっくりこず、やっぱり、最終的には、《私の絵》になってしまうようです^^;。。。
冷たい雨である。
早起きが習慣になっていますが、朝の寒さに今シーズンはじめてファンヒーターを使いました^^;…設定温度を20度にして。
そして、霧の朝は雨になった。暗い一日であった。
ということで条件がよくなかったけど、球形コンポジション-2(24.3x33.4)が出来たので、写真にしてみた。

写真だとなかなかマチエール(絵肌)の感じが出ないので残念ではあるが、そう、また、球です。
聖書を読む。
5000人に食物を与える。…パンが5つと魚が二匹…
イエスは言われた。
「それをここに持ってきなさい」そして、イエスは群集に命じて草の上に座らせ、5つのパンと2匹の魚を取り、天を見上げて、それを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群集に配った。人々はみな、食べて満腹した。そしてパンくずの余りを取り集めると、12のかごいっぱにあった。食べた者は、女と子どもを除いて、男5000人ほどであった。
イエスさまの現した奇跡である。(女と子どもは食べたのだろうか?)
とまれ、5つのパンのパンくずが。かごに12杯あまったのである。奇跡としか言いようがない。
この奇跡に対する考察。天を見上げ祝福されたから総量が増えたのだろうか?…
こう考えたらおかしいだろうか?…イエスさまは持てる全て(パン5つと魚2匹)を出した。その心が伝播し、もちろんまったくパンの一欠けも持たない者も多かったかもしれないが、中には一つ二つ(あるいはそれ以上)パンを懐に忍ばせていた者もあっただろう。そういう人々もイエスさまにならいその全てを出し、群衆の共有物となり、人々を満たし、なお余りが最初より増えた。…そうして、持てるものが出し、全ての人が満腹した、と考えられないかなぁ? …そう考えても、もちろんそれは、奇跡である。…明日のため明後日のためと用意していた者が、その一時の食事のために、出したとしたら、それは、愛の発露である。共有され共鳴する愛ではないだろうか。
早起きが習慣になっていますが、朝の寒さに今シーズンはじめてファンヒーターを使いました^^;…設定温度を20度にして。
そして、霧の朝は雨になった。暗い一日であった。
ということで条件がよくなかったけど、球形コンポジション-2(24.3x33.4)が出来たので、写真にしてみた。

写真だとなかなかマチエール(絵肌)の感じが出ないので残念ではあるが、そう、また、球です。
聖書を読む。
5000人に食物を与える。…パンが5つと魚が二匹…
イエスは言われた。
「それをここに持ってきなさい」そして、イエスは群集に命じて草の上に座らせ、5つのパンと2匹の魚を取り、天を見上げて、それを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群集に配った。人々はみな、食べて満腹した。そしてパンくずの余りを取り集めると、12のかごいっぱにあった。食べた者は、女と子どもを除いて、男5000人ほどであった。
イエスさまの現した奇跡である。(女と子どもは食べたのだろうか?)
とまれ、5つのパンのパンくずが。かごに12杯あまったのである。奇跡としか言いようがない。
この奇跡に対する考察。天を見上げ祝福されたから総量が増えたのだろうか?…
こう考えたらおかしいだろうか?…イエスさまは持てる全て(パン5つと魚2匹)を出した。その心が伝播し、もちろんまったくパンの一欠けも持たない者も多かったかもしれないが、中には一つ二つ(あるいはそれ以上)パンを懐に忍ばせていた者もあっただろう。そういう人々もイエスさまにならいその全てを出し、群衆の共有物となり、人々を満たし、なお余りが最初より増えた。…そうして、持てるものが出し、全ての人が満腹した、と考えられないかなぁ? …そう考えても、もちろんそれは、奇跡である。…明日のため明後日のためと用意していた者が、その一時の食事のために、出したとしたら、それは、愛の発露である。共有され共鳴する愛ではないだろうか。
球を描きたくなることが、ある。
あまり良くない傾向の時にそれはきて、これまでも何枚か失敗…というか、作品の列に残ったものはなかった。
9月10日に描き始めて、16日に完成とした今回のは…なんとなく良いかな。と、思っています。

球形コンポジション(31.8x40.9 2004年)
あるいは、また…
空虚感さえ漂う《しんとした静謐な時間》の中に身を沈めて、何も思わず何も考えず、ひねもすポカンとしていたい時があります。願うべくは、明るい眩い光に濃い影が刻まれていて、暑くなく寒くなく、時折吹く風にふっと見上げた空が蒼空であり、そして純白な雲の一片が渡っていく…。
あまり良くない傾向の時にそれはきて、これまでも何枚か失敗…というか、作品の列に残ったものはなかった。
9月10日に描き始めて、16日に完成とした今回のは…なんとなく良いかな。と、思っています。

あるいは、また…
空虚感さえ漂う《しんとした静謐な時間》の中に身を沈めて、何も思わず何も考えず、ひねもすポカンとしていたい時があります。願うべくは、明るい眩い光に濃い影が刻まれていて、暑くなく寒くなく、時折吹く風にふっと見上げた空が蒼空であり、そして純白な雲の一片が渡っていく…。
山桜
2004-09-06 | 絵画
季節外れ? ですが、山桜(45.5x53.0-10号)の絵です。

なかなかに手が進まず、「私の絵」にもなかなかならなくて…(私が描けば、全て私の絵ではあるのですが、「私の絵」とわざわざ、かぎカッコでくくる「私の絵」ということです。…絵におけるアイディンティティー?…この「私の絵」というのが、なかなか曲者なのです)
描き始めた絵はいつか筆を置きます。その心情は、まちまちです。それが(勘違いであったとしても)歓喜に似た感じで終わりとすることもあれば(めったにないですが^^;)、???さらに???で、とりあえず筆を置くこともあります。もう筆を入れる気力が失せて、完成^^;ということも、ままあります。
「意識をストーリー化するのが小説家だ」というような事を村上春樹氏がどこかに書いてました。それにならえば、意識を絵にするのが画家です。それが、もっとも良い形で表出されたと感じられるとき、絵はいとおしくなります。
で、「私の絵」ですが、「様様なる意匠」を画面に展開したとしても、通底する何かがあり、それが、ある画家の絵のアイデンティティとなると思われます。「線の画家」であったり「色彩の画家」であったり…(これがスタイルとはまた違うように思われます。スタイルは同じ画家でも変遷しますが、通底するもの…それは成長したとしても、本来芯としてあり、連続性が保たれ《だから同一性が確保される》と思えるのです。)…感動をそのまま描く画家があり、また、それが意識の中で醗酵し、他の要因と絡み合って、醸成されつつあるのを、描く過程でさらに醗酵をすすませる画家もあると思うのです。(私は後者だと思います)
そうした何らかの刺激を、たいてい頭によって(構図とかイメージとかを)描き始めたりしますが、描き始めると頼りになるのは、「目と手」です。この「目」が先を見つけ「手」がそれを画面に定着していきます。そうしているうちに、おのずと、トーンが定まってきて、「私の絵」となっていくように思います。
この「山桜」は過ぎし4月29日に撮影した写真を元に描かれています。撮影時刻は、昼頃?…描き進むうちに、誰そ彼時な光になっていました^^;

なかなかに手が進まず、「私の絵」にもなかなかならなくて…(私が描けば、全て私の絵ではあるのですが、「私の絵」とわざわざ、かぎカッコでくくる「私の絵」ということです。…絵におけるアイディンティティー?…この「私の絵」というのが、なかなか曲者なのです)
描き始めた絵はいつか筆を置きます。その心情は、まちまちです。それが(勘違いであったとしても)歓喜に似た感じで終わりとすることもあれば(めったにないですが^^;)、???さらに???で、とりあえず筆を置くこともあります。もう筆を入れる気力が失せて、完成^^;ということも、ままあります。
「意識をストーリー化するのが小説家だ」というような事を村上春樹氏がどこかに書いてました。それにならえば、意識を絵にするのが画家です。それが、もっとも良い形で表出されたと感じられるとき、絵はいとおしくなります。
で、「私の絵」ですが、「様様なる意匠」を画面に展開したとしても、通底する何かがあり、それが、ある画家の絵のアイデンティティとなると思われます。「線の画家」であったり「色彩の画家」であったり…(これがスタイルとはまた違うように思われます。スタイルは同じ画家でも変遷しますが、通底するもの…それは成長したとしても、本来芯としてあり、連続性が保たれ《だから同一性が確保される》と思えるのです。)…感動をそのまま描く画家があり、また、それが意識の中で醗酵し、他の要因と絡み合って、醸成されつつあるのを、描く過程でさらに醗酵をすすませる画家もあると思うのです。(私は後者だと思います)
そうした何らかの刺激を、たいてい頭によって(構図とかイメージとかを)描き始めたりしますが、描き始めると頼りになるのは、「目と手」です。この「目」が先を見つけ「手」がそれを画面に定着していきます。そうしているうちに、おのずと、トーンが定まってきて、「私の絵」となっていくように思います。
この「山桜」は過ぎし4月29日に撮影した写真を元に描かれています。撮影時刻は、昼頃?…描き進むうちに、誰そ彼時な光になっていました^^;
大好きな絵の模写です。
ラファエロ-小椅子の聖母子-部分的模写(31.8x40.9 2001年)
基礎的な事が好きではありませんでした。
思い立って、ラファエロを模写してみたのは、2001年の4月、最初はこの絵ではなく、婦人の肖像でしたが、上手くいかず、諦め、次にこの「小椅子の聖母子」の顔部分のみをトリミングして模写しました。
☆最初の発見!
雑誌の写真から模写するのですが、図版によってまるっきり色調が違うことにおどろかされました。…最初に描き始めた時に使った図版は、もっとずっと肌の色がピンクで、優しい色調でしたが、途中、本屋でみつけた違う美術雑誌に掲載されていたのは、この模写のように基調が違いました。…図版としてこちらの方が鮮明で美しく見えたので、こちらの模写になりました。
☆発見-2-!
トリミングするにあたり、図版の説明にある、実際の絵のサイズと、用意してあったパネル(6号31.8x40.9)のサイズとを計算して、だいたい実物大で描かれているはずですが、ラファエロもマリアさまイエスさまをほぼ等身大で描いているという事がわかりました。(これ以降、絵のサイズにも制約されますが、私もなるべく人物は等身大になるように心がけて描くようになりました)
☆発見-3-!
たとえば分かりやすいのがマリアさまの頬の色ですが、赤くというかピンクに見えます。ですから、赤色絵の具を使って、感じた色をパレットで作って、頬に塗りました。げぇ!ぜんぜん違うのです!…そうしてみると、極微量のレッドオキサイド(私の使っているアクリル絵の具での名前、油ではテラローザ…赤みの強い土性系の茶色)で良かったのです。…実際の色と色面の中に置かれた時とでは色の見え方が違うという事を学びました。(これ以降、コンポジション系の絵以外ではほとんどカドミウム系の絵の具を使わなくなりました)
☆その他!
先日書いたように、「汚れなき悪戯」という映画から、最初のクロスが描かれることになって、聖書も読んで、というのが、この模写のちょうど、一年位前でした。「汚れなき悪戯」を見なかったら「クロス」の絵も描かず、このマリアさまイエスさまの絵も模写しなかったかもしれません。…思わぬ出会いが、連関しているのですね。
ちなみに、この後、模写はしていませんが、写真などを使って絵を描くとき、より多くその対象から情報を得ようとするようになりました。絵を見る場合もそうです。「見ようとしなければ、見えてこない」ということもあるから。…注意深くなったということかもしれません。たぶんそうです。
ラファエロ-小椅子の聖母子-部分的模写 -拾遺(2004-08-02)
今日もこの模写について書こうと思います。
描いていて思ったのは、変な感慨かもしれませんが、500年ほど前、ラファエロがこのマリアさまの目を描き、鼻を描き、口を描き、イエスさまを描き…その瞬間がたしかに、500年ほど前にあり、その500年後のこのとき、日本のそれも長野の田舎の私がなぞっている! なんかなんか、なんか不思議な感じしながら描きました。
どんな素晴らしい作品でも、成される前は無で、成される過程が必ずある。おこがましいかもしれませんが、その絵面をなぞりながら、ラファエロがこの絵を描いていた過程の時間をもなぞっているんだという感慨…その追体験とでもいうような時間を、500年を超えて、私は感じ、感じ入りました。
一時期、前衛アートで、成された作品より、その成される過程に重きを置くムーブメントが美術界に衝撃を与えましたが、それも必要と必然のムーブメントだったのかもしれません。
また、マリアさまが頭に布を巻いていますが、(そもそもキリスト教では頭を露出しないという考えがあるようですが…イスラムではもっと凄くて、あのすっぽり被る服装になるようですが)…ラファエロ当時の流行だったようです。
実際の時…それはラファエロの時代からでも1500年前、その当時の服装の感じではなく、ラファエロ当時の服装…とすると今マリアさまを描くなら、現在の流行の服装で描けばよいのかもしれません。
あと、マリアさまの服の肩の模様…十字に見えませんか?
これも不思議です。
イエスさまが十字架に架けられ、イエスさまがキリストに転化するのは、この絵の時よりずっとあと、イエスさまが色々な奇跡をお示しになられて、預言が現実になったとき、…だから不思議です。
幼子イエスさまのその行く末の栄光を、すでに、このときラファエロは、マリアさまの服の上に、神がお示しになられていた事を描いたんですね。
すごいです。

仁科の湖 (53.0x65.2 2004年)
「仁科の湖」です。
静かな湖が鏡面になり、わずかな風に細波がたつ。
『風たちぬ、いざ、生きめやも』
堀辰雄「風たちぬ」の冒頭に引用されている詩句です。
静かに穏やかに静まっているとき、わずかな風にすら、人は希望を見出すことができる。
昨日ではない。明日でもない。「今」このとき、勇気が湧く瞬間がある。
それは、たとえ、絶望的な状況にあったとしても、重い雲間から一筋光が差し込むように、ふっと現れることがある。
通り過ぎてしまえばそれだけ、の風景に、吸い込まれるように心奪われることもある。
美しくしく無くてもよい。その意味が描きだせないものだろうか…。絵が響き出して見える瞬間がある。その響きが私の意味となる、そんな気もする。

クロス01 (33.4x24.3 2000年)
この映画を見たのは2000年の4月の終わり頃、何故わかるかというと、私の絵にクロス(十字架)が何枚かあって、その最初の一枚を描くきっかけになったのが、この映画だったからです。
何かしてるときに不意にイメージが浮かぶことは良くありますが、この場合もそうでした。
不意に映し出された僧院の壁に差す光と影。その何でもないカットがふわっと気持ちに入ってきて、あわてて紙にメモして…映画の続き見ました。
光の壁にクロスを浮かべたのは、この映画でのキリストの奇跡が心に引っかかっていたからです。
マルセリーノの望みは「天国のお母さん」に会いたいというものでした。そしてキリストはその望みを叶え、マルセリーノは神の御許の国…母のいる天国へ…って? マルゼリーノ死んじゃったってことじゃない! …それが、奇跡?
まぁ、それはそれとして、コンポジションの変形として、クロス一枚目を描きました。
新約聖書をちゃんと? 読んだのはその頃です。
(この新約聖書についても思い出がありました。写真学校の頃、ジッドの「一粒の麦、もし死なずば」を読んでいるのを見た友人がくれたものです。…だけど、私は高校の時、堀辰雄が好きで《私の住んでる所から近い追分や軽井沢が舞台で良く出たりしてて…ってミーハー?》その延長でジッドを恋愛小説として読んでいたから、的外れだったけど、それから20年後に、いただいた新約聖書最初から最後までかなりしつこく読みました。加えていえば、何故か買ってあった創世記と出エジプト記、それとあらたに2.3の注釈本も)
だいたいが、イエス様が磔刑に処されたその姿を何故キリスト教はあんなに大切にするのか?(なかには、生々しくて残酷な像さえあるから…)調べたい、とは思わない程度の疑問として昔からありました。
クロス(十字架)の意味…それが、イエス様がキリスト(救い主)へと転化、昇華した瞬間だったのだと知り、その意味がキリスト教にとって非常に重要だと知りました。
イエス様は預言を体現され、キリストとなられたのです。
で、マルセリーノが神の御許、母のいる天国へ行かれたのが何故奇跡かというと、キリスト教の最大の目的とされるのが神の御許の天国に行く事とされているから…最後の審判などという脅迫的な記述も、天国へ行く事が最上の結果だから、律しなさい、隣人を愛しなさい…等の道徳的な教えを支える支柱となっているんですね。
ですから、マルセリーノがキリストに導かれて神の御許に召されたのは、やっぱり最上の奇跡と言うことになるのでしょう。
「狭き門」…力を尽くして狭き門より入れ。…少し意地悪? 天国の門、どうせなら巨大な門を造って(お金がかかる?(笑))全開にして、衆生すべからく招き入れてくれたら良いのに。神の御心はそんなに広くないの?
…天地創造という映画、最近見ましたが、旧約の神もなかなか意地悪です…
あっ! あんまりこんな事書くと罰があたるかな? よしとこぅ(笑)
「狭き門」アリサの一言。
『死が二人を別つと思って?』
………うぅ~ん…?………
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ラファエロ-小椅子の聖母子-部分的模写(31.8x40.9 2001年)
基礎的な事が好きではありませんでした。
思い立って、ラファエロを模写してみたのは、2001年の4月、最初はこの絵ではなく、婦人の肖像でしたが、上手くいかず、諦め、次にこの「小椅子の聖母子」の顔部分のみをトリミングして模写しました。
☆最初の発見!
雑誌の写真から模写するのですが、図版によってまるっきり色調が違うことにおどろかされました。…最初に描き始めた時に使った図版は、もっとずっと肌の色がピンクで、優しい色調でしたが、途中、本屋でみつけた違う美術雑誌に掲載されていたのは、この模写のように基調が違いました。…図版としてこちらの方が鮮明で美しく見えたので、こちらの模写になりました。
☆発見-2-!
トリミングするにあたり、図版の説明にある、実際の絵のサイズと、用意してあったパネル(6号31.8x40.9)のサイズとを計算して、だいたい実物大で描かれているはずですが、ラファエロもマリアさまイエスさまをほぼ等身大で描いているという事がわかりました。(これ以降、絵のサイズにも制約されますが、私もなるべく人物は等身大になるように心がけて描くようになりました)
☆発見-3-!
たとえば分かりやすいのがマリアさまの頬の色ですが、赤くというかピンクに見えます。ですから、赤色絵の具を使って、感じた色をパレットで作って、頬に塗りました。げぇ!ぜんぜん違うのです!…そうしてみると、極微量のレッドオキサイド(私の使っているアクリル絵の具での名前、油ではテラローザ…赤みの強い土性系の茶色)で良かったのです。…実際の色と色面の中に置かれた時とでは色の見え方が違うという事を学びました。(これ以降、コンポジション系の絵以外ではほとんどカドミウム系の絵の具を使わなくなりました)
☆その他!
先日書いたように、「汚れなき悪戯」という映画から、最初のクロスが描かれることになって、聖書も読んで、というのが、この模写のちょうど、一年位前でした。「汚れなき悪戯」を見なかったら「クロス」の絵も描かず、このマリアさまイエスさまの絵も模写しなかったかもしれません。…思わぬ出会いが、連関しているのですね。
ちなみに、この後、模写はしていませんが、写真などを使って絵を描くとき、より多くその対象から情報を得ようとするようになりました。絵を見る場合もそうです。「見ようとしなければ、見えてこない」ということもあるから。…注意深くなったということかもしれません。たぶんそうです。
ラファエロ-小椅子の聖母子-部分的模写 -拾遺(2004-08-02)
今日もこの模写について書こうと思います。
描いていて思ったのは、変な感慨かもしれませんが、500年ほど前、ラファエロがこのマリアさまの目を描き、鼻を描き、口を描き、イエスさまを描き…その瞬間がたしかに、500年ほど前にあり、その500年後のこのとき、日本のそれも長野の田舎の私がなぞっている! なんかなんか、なんか不思議な感じしながら描きました。
どんな素晴らしい作品でも、成される前は無で、成される過程が必ずある。おこがましいかもしれませんが、その絵面をなぞりながら、ラファエロがこの絵を描いていた過程の時間をもなぞっているんだという感慨…その追体験とでもいうような時間を、500年を超えて、私は感じ、感じ入りました。
一時期、前衛アートで、成された作品より、その成される過程に重きを置くムーブメントが美術界に衝撃を与えましたが、それも必要と必然のムーブメントだったのかもしれません。
また、マリアさまが頭に布を巻いていますが、(そもそもキリスト教では頭を露出しないという考えがあるようですが…イスラムではもっと凄くて、あのすっぽり被る服装になるようですが)…ラファエロ当時の流行だったようです。
実際の時…それはラファエロの時代からでも1500年前、その当時の服装の感じではなく、ラファエロ当時の服装…とすると今マリアさまを描くなら、現在の流行の服装で描けばよいのかもしれません。
あと、マリアさまの服の肩の模様…十字に見えませんか?
これも不思議です。
イエスさまが十字架に架けられ、イエスさまがキリストに転化するのは、この絵の時よりずっとあと、イエスさまが色々な奇跡をお示しになられて、預言が現実になったとき、…だから不思議です。
幼子イエスさまのその行く末の栄光を、すでに、このときラファエロは、マリアさまの服の上に、神がお示しになられていた事を描いたんですね。
すごいです。

「仁科の湖」です。
静かな湖が鏡面になり、わずかな風に細波がたつ。
『風たちぬ、いざ、生きめやも』
堀辰雄「風たちぬ」の冒頭に引用されている詩句です。
静かに穏やかに静まっているとき、わずかな風にすら、人は希望を見出すことができる。
昨日ではない。明日でもない。「今」このとき、勇気が湧く瞬間がある。
それは、たとえ、絶望的な状況にあったとしても、重い雲間から一筋光が差し込むように、ふっと現れることがある。
通り過ぎてしまえばそれだけ、の風景に、吸い込まれるように心奪われることもある。
美しくしく無くてもよい。その意味が描きだせないものだろうか…。絵が響き出して見える瞬間がある。その響きが私の意味となる、そんな気もする。

この映画を見たのは2000年の4月の終わり頃、何故わかるかというと、私の絵にクロス(十字架)が何枚かあって、その最初の一枚を描くきっかけになったのが、この映画だったからです。
何かしてるときに不意にイメージが浮かぶことは良くありますが、この場合もそうでした。
不意に映し出された僧院の壁に差す光と影。その何でもないカットがふわっと気持ちに入ってきて、あわてて紙にメモして…映画の続き見ました。
光の壁にクロスを浮かべたのは、この映画でのキリストの奇跡が心に引っかかっていたからです。
マルセリーノの望みは「天国のお母さん」に会いたいというものでした。そしてキリストはその望みを叶え、マルセリーノは神の御許の国…母のいる天国へ…って? マルゼリーノ死んじゃったってことじゃない! …それが、奇跡?
まぁ、それはそれとして、コンポジションの変形として、クロス一枚目を描きました。
新約聖書をちゃんと? 読んだのはその頃です。
(この新約聖書についても思い出がありました。写真学校の頃、ジッドの「一粒の麦、もし死なずば」を読んでいるのを見た友人がくれたものです。…だけど、私は高校の時、堀辰雄が好きで《私の住んでる所から近い追分や軽井沢が舞台で良く出たりしてて…ってミーハー?》その延長でジッドを恋愛小説として読んでいたから、的外れだったけど、それから20年後に、いただいた新約聖書最初から最後までかなりしつこく読みました。加えていえば、何故か買ってあった創世記と出エジプト記、それとあらたに2.3の注釈本も)
だいたいが、イエス様が磔刑に処されたその姿を何故キリスト教はあんなに大切にするのか?(なかには、生々しくて残酷な像さえあるから…)調べたい、とは思わない程度の疑問として昔からありました。
クロス(十字架)の意味…それが、イエス様がキリスト(救い主)へと転化、昇華した瞬間だったのだと知り、その意味がキリスト教にとって非常に重要だと知りました。
イエス様は預言を体現され、キリストとなられたのです。
で、マルセリーノが神の御許、母のいる天国へ行かれたのが何故奇跡かというと、キリスト教の最大の目的とされるのが神の御許の天国に行く事とされているから…最後の審判などという脅迫的な記述も、天国へ行く事が最上の結果だから、律しなさい、隣人を愛しなさい…等の道徳的な教えを支える支柱となっているんですね。
ですから、マルセリーノがキリストに導かれて神の御許に召されたのは、やっぱり最上の奇跡と言うことになるのでしょう。
「狭き門」…力を尽くして狭き門より入れ。…少し意地悪? 天国の門、どうせなら巨大な門を造って(お金がかかる?(笑))全開にして、衆生すべからく招き入れてくれたら良いのに。神の御心はそんなに広くないの?
…天地創造という映画、最近見ましたが、旧約の神もなかなか意地悪です…
あっ! あんまりこんな事書くと罰があたるかな? よしとこぅ(笑)
「狭き門」アリサの一言。
『死が二人を別つと思って?』
………うぅ~ん…?………