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光の散歩道

日々 雑記 感想 そうして絵画など創作や写真日記

在りし日の海-2

2006-03-07 | 絵画
 青い空の絵ということで、次には海の絵がきました。



  在りし日の海-2 (22.0x27.3 2006年)


 最初にこの海と船たちに出会ったとき、こういう風に少し高い所から俯瞰するように眺められました。このとき≪ここ≫にいた私はやがて砂浜へと降りて行き、≪在りし日の海≫の絵(トップに掲出中)の場所に立ち、水際にも行き、≪打ち上げられたブイ≫の場所にも立って、その間中波は絶えることなく寄せては返し、返しては寄せていました。そうして今、こうして自室にいてキーボードを叩いている訳だけど、今こうしているときでも、この同じ時、遠い空の下では、あるいは、船は漁に出たりして違う並びになったかもしれないし、ブイはまた流されて行ってしまったかもしれないけど、きっとどこかに確かに在って、そうしてこの水際には同じように波が寄せては返し、返しては寄せているだろう。(ちょっと実存主義的に感傷的に・笑)…出会いはそう多くは用意されているものじゃないから大切にしなければ…そうして時間と距離を隔てたとしても、過日のこういう出会いの時の場面が新しい絵として、こうしてまた姿を変えて、私の現実としてこうして≪在る≫こともできるのだから。

浅間山-春待ち

2006-03-03 | 絵画
 青い空には白い山が良く似合う…といったかいわずか(笑)…前作が思わず苦しい絵になってしまって、青い空の絵をさらにと思い、海の絵か浅間山かと思い浮かんで、まずは浅間山の絵を描いてみました。



  浅間山-春待ち (24.3x33.4 2006年)


 この方向からの浅間山は何枚か描いているけど、こんなに近くから(家の近くから)のは中学か小学校以来です。左の土手の上には唐松や雑木の林が描かれていて、その先を隠していますが、その隠れている先の雪の山麓の続きに我が家はあります。右側の土手のやはり林に隠れているあたりには昔々小学校がありました。今は統合されて違う場所に移ってしまって跡形もありませんが(記念碑があったかな?)私が通ったのはその木造の古い小学校でした。風の又三郎にでてくるような…です。このへんの野山で子供の頃は遊んだりもしていました。山の中腹の白い雪形はなんだろう? とか思いませんか? 農林省の牧場です。牧場の下のラインの延長線から上は国有地でしかも国立公園です。浅間山は周知の通り活動中の火山で入山規制がされているため登ることはできません。この絵のなかで私が登ったことがあるのは、左側のつんと突き出た感じのこの辺ではギッパと呼ばれる山だけです。もとはというか大昔の火口の跡でもある山です。…いずれ冷たい雪も溶けるでしょう。かじかんだ気持ちなんかも溶けて、冬ゆえに近づきつつある春待ち遠しといったところです。

山と川と崖のある風景

2006-02-23 | 絵画
「雨上がり」の次に、やっぱり青い空の絵を描きたいと思って、以下の画題を選んだ。さらりと描けるかと思ったけど、なかなかに手強く難しい絵になってしまった。



  山と川と崖のある風景 (31.8x40.9 2006年)


 しかも季節は夏! 上空に雲が渡っているのだろう、手前は影になっている。それにしても題が示すように(描きたいのは山なの? 川なの? 崖なの? …結局そのどれでもあり、どれでもないといった感じなのである。青い空が描きたかったというのがやっぱり正直なところ答えというにふさわしいようです)、故に、照準の定まらなさが気にかかるし、いろいろ感じる事はあるけどそれは反省材料として、ひとまずこれで完成と成して、本日の更新といたしました。

雨上がり

2006-02-13 | 絵画
 青空が好きである。おおくは私のトーンと色に即した色で空が描かれる。しかして今回は青い空にならなかった。なぜならば、雨上がりの水田の光景だからである。



  雨上がり (22.0x27.3 2006年)


 通り過ぎるように、あまりながくはないひとときの雨が上がり、眼前の世界はまだ濡れている。霧も晴れずにいるのに、それでいて世界をつつみこむように広がる光。光には暮れてくる匂いも混じりだしているように感じられたりする。あくまでも静寂。静かに呼吸をくりかえしていると、しっとり気持ちが透明に落ちついてくる。
 …そういう絵になればと思って描いてみました。季節感ないですけど(…笑…。)

クロス-空

2006-02-03 | 絵画
 クロスシリーズに新しい仲間がふえた。
 たいへんにシンプルなイメージ。




  クロス-空 (15.8x22.7 2006年)



 「祈るような気持ちでバッテンを描いた」
 と言われたのは、二十歳の頃出会った版画家池田良二氏の言葉であった。
 なんだかときどきその言葉が思い出される。

 もちろんバッテンに似てるかもしれないけど、これはクロスである。
 「祈るような気持ち」というより「祈りたい気持ちで」といったところであろうか。

アデリーペンギン(実はコウテイペンギンでしたm(__)m)

2006-01-30 | 絵画
 交感です。
 唐突な感はいなめないが(いつものことですか?・笑)ペンギンの絵ができた。
 南極に住むという、アデリーペンギン(誤りでコウテイペンギンでした)である。




  交感 (22.0x27.3 2006年)



 南極の映像がテレビで放映されていて、向かい合った二羽のペンギンが天を仰いでるのが映し出された。思うまもなく、二羽は向かい合ったまま、うなだれたポーズになった。ふっと触れる。ミレーの晩鐘だっけかが思い起こされた。ちょっと反則っぽいけど大丈夫だろうと思って絵になるかなと慌ててメモする。まもなく、天を仰ぐというほどでもなく、二羽は同時に顔をあげた。
 たとえば、交感とか約束とかそういった抽象的な題にしようかとも思ったけど、素直にこの絵は≪アデリーペンギン≫と題することにした。(誤りだったので【交感】と改題いたしました)

 …それにしても、極寒の地で、セーター一枚着るでもなく、そこで営々と生命のいとなみが繋がっているのだと思うと、はるかな気持ちになる。
 そんなはるかさが少しでも絵に表れてくれていたら、さいわいだと感じます。

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 と書きましたが、指摘をいただいて調べてみたら、アデリーペンギンというのは私の勘違いで(南極の映像を見てるときペンギンの営巣地の場面で≪アデリーペンギン≫というテロップがでたので、そのあとに出てきたこのペンギンもアデリーペンギンと思い込んで、他の画像を見ても、観察力がないせいか、違いに気づけませんでした)で、このペンギンはコウテイペンギンだったようです。すみませんでした。また、ご指摘くださり、ありがとうございました。(2006年2月9日)


浅間山-千曲川

2006-01-24 | 絵画
 久しぶりに雪の浅間山の絵を描いた。
 手前を流れているのは千曲川である。




  浅間山-千曲川 (45.5x53.0 2006年)



 冷え込む寒い日が続いている。
 朝、絵筆を洗う水が凍っていたりする。
 昨日は私どもの所も久しぶりに雪が降って、今年になって初めて庭の雪かきもした。
 目の前の光景も雪景色になった。
 世界が真白になって、雲に拡散された白い光が静けさをまさせ、遠い景色になった。

 それにしても、この冷え込む朝、そして最高気温も氷点下である真冬日がこうも続くと、さすがに閉口である。

スフィンクス-エジプト起源

2006-01-13 | 絵画
 過日、トップ絵にあるスフィンクス…、ギュスターブ・モローの絵に刺激されて、ギリシャ神話に起源するという、翼をもったスフィンクスを描いた。
 このたびは、エジプトに起源するスフィンクスのイメージである。




  スフィンクス-エジプト起源 (9.4x13.4 2006年)



 ≪スフィンクス・・・古代オリエントの神話上の怪物。ふつう体は獅子で、頭は人。
  エジプトでは、太陽神ラーとしての王(ファラオ)を象徴。
  ギリシャ神話では、女性化され翼をもつ≫(日本語大辞典・講談社)

 というのの、エジプト起源のである。

 …サイズがかなり小さい。そんな大きなイメージにならないだろうし、さらっと描こうと思って、ほぼ、はがきサイズの紙に描いてみました。よく使うサイズ(15.8x22.7・サムホールというサイズ)にしといた方が良かったかなとも思うけど、新年二枚目の絵は、この絵になりました。

在りし日の海

2005-12-30 | 絵画
 在りし日の海です。
 海の絵が続きました。



在りし日の海(31.8x40.9 2005年)



 …と、詩的な題になりました。(…って、パクリ?^^;)

 そういえば、この絵に取り掛かってから、BGMがショパンのポロネーズからモーツァルトに戻りました。例の≪疾走する悲しみ≫の入っているCDです。


打ち上げられたブイ

2005-12-20 | 絵画
 久しぶりの絵の更新です。しかも2枚です。
 先月、海に行ってきました。
 最初は空一面雲が出ていましたが、やがて晴れてきて、モチーフとして恰好のこのブイをみつけました。




  打ち上げられたブイ (24.3x33.4 2005年)



 先のブログにも書いたようにこの絵は≪彼のいた場所≫のあと、11月の下旬にとりかったのですが、途中、混乱することがあって、技法上のことでもありますが、暗い紫に染まって、その紫がしっくり感じられるという状態になってしまって、途中で頓挫してしまいました。
 もともと構図の違うもう一枚も描くつもりでいたので、次の絵を途中からとりかかり、次の絵の方が先にできたのですが、とりかったのはあとだったので、≪-2≫といたしました。




  打ち上げられたブイ-2 (15.8x22.7 2005年)



 これらの絵を描いているとき、NHKの名曲アルバムでショパンが流れて、CDあったはずだと探して、オールリピートで聴いていましたが、あとには、≪ポロネーズ英雄≫がなんだかしっくりして、その曲のみリピートし続けて描きました。

He was here...2

2005-11-23 | 絵画
 前回のブログで、≪・・・懲りずに、つづく(予定です^^;)≫とあったように、つづきです。
 土手の上に彼をみとめ、彼の写真を撮らせていただいた私は、つづいて土手を登り、もっと近くから彼に接近いたしました。




  彼のいた場所 (22.0x27.3 2005年)



 視界には河が広がり、彼は私を見て、そうして、照れたのか興味がなかったのか、視線をそらしてちょっと遠い目をしました。

 彼は何を見ていたのだろう?
 

He was here

2005-11-20 | 絵画
 彼(彼女?…実は不明^^;です)に出会ったのはいつだっただろう?
 もうずいぶんと昔であることは確かです。




  He was here (15.8x22.7 2005年)



 御茶ノ水の駅から行き先が「荒川土手」というバスがでていました。
 荒川土手といっても何処かはわかりませんし、たぶんそれが何処であろうとかまわなかったのだと思います。
 その日、土手に行こうと思った。川を見に行こうと思ったのだと思います。
 そうして彼(としておきます^^;)に出会った。
 彼は土手の上にいた。
 ひとりでいた。
 目があった。
 写真に撮った。
 怒らなかったように思うので、承諾してくれたのだと思います。

 過日の記憶です。

 …というか過日の記録で、もしかしたら写真のままの方(絵にしない方)が良いのかも知れないのかなぁと思ったりもしました。が、絵にしたいという思いが今のわたくしにあるいじょう絵にしてみました。こうなりましたということです。

 で、もとの写真はというと、この写真自体悪くないと思うので、今回は元ネタも掲載しようかと考えました。





 写真の方が良いかな(笑)


      ・・・懲りずに、つづく(予定です^^;)

窓・・・誕生日

2005-11-10 | 絵画
 窓から光が差し込んでいる。
 光の記憶はなつかしさを喚起してくる。
 ふっと時間のなかで自分がどこにいるのか解らなくなるような記憶のくすぶりともいえるかもしれない。




  窓 (22.7x15.8 2005年)



 時間の流れのなかで、自分はどこにいるのだろう?
 そう思ったとき、誕生日はひとつの目安になる。
 一年一年とサイクルする時間の特定の日である。

 本日は誕生日であった。
 年齢についていえば、特別な感慨はもういまは感じなくなってしまってきている。
 確かな時間の流れというものがあって、その経過で年をとる。
 たとえば二十歳の頃、自分が44歳になるなんて想像もしてなかったし、考えてもみなかった。
 だけど時間は流れ、人は年をとる。それは現前とした事実で、いま私は44年目を生き始めたということである。

 ここまできたら歩き続けていくしかない。

 今日はとても天気が良くて空も高く青くて、昼出かけたとき、遠くアルプスが雪をいただいているのが白く望めて、そういうことさえもなんだか、うれしい一日でありました。

闇の光

2005-11-06 | 絵画
 前作が真白になってしまって、白のイメージからどこへいくのだろうと思っておりましたら、またしても数年前に描いてあったメモから、この絵ができました。(このところ振り返ってばかりみたいですが…描けなかったイメージが絵として描けるようになったんだと楽天的に考えましょう^^;)
 水の上に立つイメージは今回表れたイメージで、水の上に立つというのだから女神のイメージも描いているとき表れては消えたりしていました。
 白のイメージの連続からいえば、純白な服にしようと思っていましたが、色彩が戻りました。
 初期イメージがあっても、描く過程での絵との対話が、結局は描きあがる絵を決定ずけるのですね。




  闇の光 (22.7x15.8 2005年)



 闇は実際にもあり、また、象徴的な意味あいをもったりするようにも思います。
 夜、闇が深ければ深いほど、星星は明るく輝き、はるかな宇宙を感じさせてくれることによって、しんとしたその時間のなかに在ることの遥かさに、浄化作用を与えてくれたりします。
 同じように象徴としての心の闇が深ければ、そこにともる一筋の希望もひときわ明るく輝き、その希なる望みは大切なかけがえのない支えとなり、勇気のような力をよみがえらせてくれるように思います。
 人はそんなに強くなんてなれないから、支えを得られるということは、大袈裟かもしれないが、あえていえば僥倖であるといえるかと思います。希望の光がその深い闇を照らしたとき、その闇がどういうものであったのか、おぼろげながらも見えたりすれば、糸口も見出せるのかもしれません。人はそいうことに改めて感謝することで、また自ずから闇にともった希望を強く感じることができるのではないでしょうか。

 光をかざして欲しい。光をかざして在りたい。とこの絵を描きながら感じておりました。