筒窓会・神戸市立筒井台中学校・昭和44年卒業生+宮本小学校、上筒井小学校41年卒業生集まれぇ~ブログ

筒井台中学校を44年卒業、宮本or上筒井小学校41年卒業された方のブログ。フォトチャンネルで、知り合い顏発見!即連絡ね。

お待たせしました。正解発表です。

2015年09月16日 12時33分00秒 | 同窓会
皆様、クイズ?アンケートにお答えくださり有難う御座いました。
とはいえ、「覚えている」「覚えてない」と素直なお答えはゼロ。
みなさん、ひねくれたお答えで数えにくかったわ。
知っている人 6人
知らない人  3人
ブログのコアメンバーこれだけ?
それを知るのはちょっと寂しかったけど、まあ気を取り直していきましょう。
閲覧pvは増えてるからね。

正解は「紅塵荘」。この名前を知っていた人は、いるのかな?
なにやらK家さんは、知っていそうだね。羊の横に名前が彫ってありますね。
1)


子供時代は「りゅうさん」と呼んでいました。
写真は、玄関前の階段です。そこから奥を覗くとなにやら暗くて怖そうな雰囲気でした。
「劉外科病院」の本館でした。無粋な渡り廊下を渡ると南の新館に通じていました。
昨日の3枚目の写真は、渡り廊下とお隣のお寺が写っていたんです。
筒井台中学校の西、2ブロックほど行ったところ、逓信病院の北にありました。
そう、この建物は当時そのままなんですよ。思い出しましたでしょうか?

先日図書館で「神戸のハイカラ建築」(戸田 信也著)を見ていたら、たまたま見つけました。
懐かしい建物のいわれを知ってうれしくなりました。
それで是非、皆さんにお知らせしたかったのです。

しかし残念なことに、今年の春この建物は壊されてしまったのです。
そして解体される前に、建物の中を公開したらしいの。
見たかったなあ~~。以下はPCで探した内部の模様です。
残念、無念です~~。

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建てられたのは、昭和3年、大金持ちの池長 孟氏が、後妻に迎えた
淀川長治氏のお姉ちゃんと住むために、贅をこらして作ったお屋敷なんだって。内部はインド風、中国風、英国風、アラビヤ風とそれぞれ部屋毎に趣を変えてあったといいます。
その頃の神戸は景気がよくって、凄い成金がいたとは、淀川氏が自叙伝に書いています。
そして、野崎通りのこの建物から真下の神戸製鋼所の煙突からモクモクと煙が上がるのが
よくみえたので、紅い塵の建物「紅塵荘」と名付けたそうです。しゃれてるね。
この池長氏、とてつもなく大金持ちで、国宝級の南蛮美術の収集家という文化人でもあり、交友のあった谷崎潤一郎やら有名人がここのパーティーに来たというから凄いね。
もっとも、淀川長治氏のお姉ちゃんは、なんか陰気だと言って、この建物が気に入らず、まもなく出て行ったそうです。
戦後、相続税のために、外科医の劉氏に、建物をそのまま保存することを条件に売ったそうです。

池長 孟氏は、野崎通りに今もある南蛮美術館を私財を投じて作って神戸市に寄付した人でもあります。
育英高校も作ったそうよ。
こんな大金持ちで、文化人だというのに、神戸市民である我々が噂にも彼のことをちっとも知らなかったのが不思議です。
これも、戦後のどさくさのせいなのかしら?
今もある南蛮美術館は、バス通り沿いにあったので、知っていましたが、興味がなかったのよね~。
今度、一度尋ねたいと思いました。

こんな近くにお宝があったのに、チットモ知らずにいたことが残念無念です。
はいそれでは、お待たせしました。
皆様の思い出にある「劉さん」について、コメントをお願いいたします。
コメント (23)
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