皆様、クイズ?アンケートにお答えくださり有難う御座いました。
とはいえ、「覚えている」「覚えてない」と素直なお答えはゼロ。
みなさん、ひねくれたお答えで数えにくかったわ。
知っている人 6人
知らない人 3人
ブログのコアメンバーこれだけ?
それを知るのはちょっと寂しかったけど、まあ気を取り直していきましょう。
閲覧pvは増えてるからね。
正解は「紅塵荘」。この名前を知っていた人は、いるのかな?
なにやらK家さんは、知っていそうだね。羊の横に名前が彫ってありますね。
1)
子供時代は「りゅうさん」と呼んでいました。
写真は、玄関前の階段です。そこから奥を覗くとなにやら暗くて怖そうな雰囲気でした。
「劉外科病院」の本館でした。無粋な渡り廊下を渡ると南の新館に通じていました。
昨日の3枚目の写真は、渡り廊下とお隣のお寺が写っていたんです。
筒井台中学校の西、2ブロックほど行ったところ、逓信病院の北にありました。
そう、この建物は当時そのままなんですよ。思い出しましたでしょうか?
先日図書館で「神戸のハイカラ建築」(戸田 信也著)を見ていたら、たまたま見つけました。
懐かしい建物のいわれを知ってうれしくなりました。
それで是非、皆さんにお知らせしたかったのです。
しかし残念なことに、今年の春この建物は壊されてしまったのです。
そして解体される前に、建物の中を公開したらしいの。
見たかったなあ~~。以下はPCで探した内部の模様です。
残念、無念です~~。
2)
3)
4)
5)
6)
建てられたのは、昭和3年、大金持ちの池長 孟氏が、後妻に迎えた
淀川長治氏のお姉ちゃんと住むために、贅をこらして作ったお屋敷なんだって。内部はインド風、中国風、英国風、アラビヤ風とそれぞれ部屋毎に趣を変えてあったといいます。
その頃の神戸は景気がよくって、凄い成金がいたとは、淀川氏が自叙伝に書いています。
そして、野崎通りのこの建物から真下の神戸製鋼所の煙突からモクモクと煙が上がるのが
よくみえたので、紅い塵の建物「紅塵荘」と名付けたそうです。しゃれてるね。
この池長氏、とてつもなく大金持ちで、国宝級の南蛮美術の収集家という文化人でもあり、交友のあった谷崎潤一郎やら有名人がここのパーティーに来たというから凄いね。
もっとも、淀川長治氏のお姉ちゃんは、なんか陰気だと言って、この建物が気に入らず、まもなく出て行ったそうです。
戦後、相続税のために、外科医の劉氏に、建物をそのまま保存することを条件に売ったそうです。
池長 孟氏は、野崎通りに今もある南蛮美術館を私財を投じて作って神戸市に寄付した人でもあります。
育英高校も作ったそうよ。
こんな大金持ちで、文化人だというのに、神戸市民である我々が噂にも彼のことをちっとも知らなかったのが不思議です。
これも、戦後のどさくさのせいなのかしら?
今もある南蛮美術館は、バス通り沿いにあったので、知っていましたが、興味がなかったのよね~。
今度、一度尋ねたいと思いました。
こんな近くにお宝があったのに、チットモ知らずにいたことが残念無念です。
はいそれでは、お待たせしました。
皆様の思い出にある「劉さん」について、コメントをお願いいたします。
とはいえ、「覚えている」「覚えてない」と素直なお答えはゼロ。
みなさん、ひねくれたお答えで数えにくかったわ。
知っている人 6人
知らない人 3人
ブログのコアメンバーこれだけ?
それを知るのはちょっと寂しかったけど、まあ気を取り直していきましょう。
閲覧pvは増えてるからね。
正解は「紅塵荘」。この名前を知っていた人は、いるのかな?
なにやらK家さんは、知っていそうだね。羊の横に名前が彫ってありますね。
1)
子供時代は「りゅうさん」と呼んでいました。
写真は、玄関前の階段です。そこから奥を覗くとなにやら暗くて怖そうな雰囲気でした。
「劉外科病院」の本館でした。無粋な渡り廊下を渡ると南の新館に通じていました。
昨日の3枚目の写真は、渡り廊下とお隣のお寺が写っていたんです。
筒井台中学校の西、2ブロックほど行ったところ、逓信病院の北にありました。
そう、この建物は当時そのままなんですよ。思い出しましたでしょうか?
先日図書館で「神戸のハイカラ建築」(戸田 信也著)を見ていたら、たまたま見つけました。
懐かしい建物のいわれを知ってうれしくなりました。
それで是非、皆さんにお知らせしたかったのです。
しかし残念なことに、今年の春この建物は壊されてしまったのです。
そして解体される前に、建物の中を公開したらしいの。
見たかったなあ~~。以下はPCで探した内部の模様です。
残念、無念です~~。
2)
3)
4)
5)
6)
建てられたのは、昭和3年、大金持ちの池長 孟氏が、後妻に迎えた
淀川長治氏のお姉ちゃんと住むために、贅をこらして作ったお屋敷なんだって。内部はインド風、中国風、英国風、アラビヤ風とそれぞれ部屋毎に趣を変えてあったといいます。
その頃の神戸は景気がよくって、凄い成金がいたとは、淀川氏が自叙伝に書いています。
そして、野崎通りのこの建物から真下の神戸製鋼所の煙突からモクモクと煙が上がるのが
よくみえたので、紅い塵の建物「紅塵荘」と名付けたそうです。しゃれてるね。
この池長氏、とてつもなく大金持ちで、国宝級の南蛮美術の収集家という文化人でもあり、交友のあった谷崎潤一郎やら有名人がここのパーティーに来たというから凄いね。
もっとも、淀川長治氏のお姉ちゃんは、なんか陰気だと言って、この建物が気に入らず、まもなく出て行ったそうです。
戦後、相続税のために、外科医の劉氏に、建物をそのまま保存することを条件に売ったそうです。
池長 孟氏は、野崎通りに今もある南蛮美術館を私財を投じて作って神戸市に寄付した人でもあります。
育英高校も作ったそうよ。
こんな大金持ちで、文化人だというのに、神戸市民である我々が噂にも彼のことをちっとも知らなかったのが不思議です。
これも、戦後のどさくさのせいなのかしら?
今もある南蛮美術館は、バス通り沿いにあったので、知っていましたが、興味がなかったのよね~。
今度、一度尋ねたいと思いました。
こんな近くにお宝があったのに、チットモ知らずにいたことが残念無念です。
はいそれでは、お待たせしました。
皆様の思い出にある「劉さん」について、コメントをお願いいたします。
なにしろ「鍵っ子」だったからね。いったん、家に帰って、ランドセルを置き、小銭を持って、中学校西の駄菓子屋でおやつを買って、東は、動物園、西は葺合中学校のあたり、北は神仙寺通りまで、毎日探索していました。
ですから、「りゅうさん」の前はお馴染みでした。でも、てっきり、名前から中国風の建物だとばかり思っていました。
だから、今回日本人が建てたと知って、驚きでした。建物のなかは、誰かさんと違って、入ったことはありませんでした。
ですから、ぜひ、誰かさんに中の様子を教えて欲しいものです。
高校の時には、ねん挫して、暫く柔道整体院に通っていたのだけど、なかなか状態が良くならないので、劉さんに行って、レントゲンを撮ってみたら、折れてた。すでに、骨折部位はそれなりにつながる状態になっていたので、病院の出番はなくなっていた。
いいね!こう来なくっちゃ!!
劉外科、元の建物を残す条件で譲り受けたようですね。
神仙寺通 ~ 妙光院 ・・・
青谷(2系統)阪急六甲~三宮 ・・・ね
1.snskwoal・・・・小2
盲腸で入院、下半身麻酔での手術中、オペを看護婦さんが鏡で見せてくれた。気丈な子供でした。
2.lspfjfslsl・・・・小3
左ひざ骨折、まともに歩けるまで2ヶ月程、リハビリは骨折より痛かった。拷問!
3.pakfogmwq・・・小6
外科医不在の地方の産婦人科で額を10針程縫合。神戸に戻り劉病院で診てもらうと、医者の第一声が「下手糞な縫い方!」。患者の前で言いうでない、こりゃ!
4.p,fgojsjsk・・・・中2
足の裏、骨折。歩くと痛い、当たり前。
その他、この病院で数針縫いました。
PS それは、もう記事に書いとるちゅうねん!!>>おもしろい
で、なぜか、M本さんの通院にずっと付き添ったのが、この私。
「紅塵荘」と彫ってある裏側は、ちょっと不気味な地下室みたいな部屋がありました。
不気味だったけど、あのころ、探偵とかスパイに興味深々だった私にとっては、魅力ある場所でした。
でも、あの建物の歴史は、全く知りませんでした。
ここのブログは、本当に勉強になります。
ふさん、懐かしい写真をありがとう。
長男が「海外送金があったので某銀行の外為担当に電話してください。」とのメールがあったと連絡してきた。入金が伴う新手の詐欺かといろいろ考えたそうだが・・。女房が私に送るべきメールを息子に送ったようである。人騒がせ!
・マイナンバー、国勢調査に関わる詐欺には気を付けましょう。
・送信前に送付先メールアドレスの確認を!
・洪水のお見舞いで、2人の竹内さんからメール有。ホームアドレス使用で、竹内は3人知っているが、どの竹内か分からない。返事し今度その1人と会うことに。どの竹内が現れるかな?
今日は、泊まっているホテルでお仕事中。静かでいいね!