土の上にも三年

農への道

思い込むことの陰

2013-08-19 03:00:41 | どうでも日記(雑記系)
当初の表題では陰と陽になっていたけど、主に陰の方に焦点を当てたい。

思い込むことが大事だと、俺は思っていたし今でも思っている面はある。でも思い込むことの陽が大事なのであって、思い込むことの全てが大事ではないのだろうと考えるようになってきた。

簡単に陽の部分を書くと、人が前に進む原動力だ。思い込みというのは、本人にとっては思い込みではない場合が多いように思う。朝起きて仕事や学校に行くことは、本人にとっては思い込みかどうか考えることすらない。

いや、そうじゃないよ、という人もいるだろうけど、日常というものをよくよく考えてみると、惰性を差し引いても、なぜそうしているのかわからないケースに思い当たるのではないかと思う。ごく自然な形で人が行動を起こせるのは、無意識よりももっと手前の前意識あたりで強烈な自己暗示があるからではないだろうか。

簡単に書く宣言をしたし、陰を中心に書くとも書いたので陽の面はここで終わり。


逆というか裏というか、陰の部分とは上記と違った面だ。つまり多くの場合に使われる意味の・思い込みだ。「あなたは思い込みで仕事に行っている」と言われることはまず無い(笑)。思い込みという言葉は、どちらかというとネガティブワードだろう。

多くの場合に使われる意味の思い込みになぜ焦点を当てるのか。どちらかというと陽の部分の方が思考する楽しみはある。でも陰の部分をなるべくしっかりと把握しておかないと、陽の部分を陰にこじつけて、だから思い込みをすることに疑いは無い、という結論になりかねないからだ。

また、陰の思い込みというものは想像力とは対極にあるものだろう。想像力を欠いた知者ほどやっかいな存在はない。

そう思う、という理由はそれだけで否定しようの無いものであることは書いた。また否定するものでもないだろう。しかし、それが思い込みであることを認識しなければ、他者の「そう思うから」を否定する「そう思うから」になってしまう。

ここに知恵や知識が覆い被さると悲惨なわけだ。否定されないことを良いことに、思想統一的な組織論にたどり着く。思い込みのネガティブな面は一方向だ。点を捨てるまでは良いとしても、最終的な立体が点と重なりすぎてしまい、手放すことが出来なくなる。


ちょっと整理する。点を捨て、線で拾い面を作り、立体を構築したら最後に全部を捨てる。これは人間の思い込みのなせる悪しき・そして愛すべき歴史の流れである。最後に全部を捨てられるか、それとも後発である点からスタートした流れに駆逐されるかの違いはあるものの、歴史が繰り返される理由でもある。俺はそう思う。

時代のうねりというのは常に波状的で、大きな盛り上がりが時代の求めであるとすると、その時代の警戒感は次の時代の潜在的な大きな盛り上がりになっている。立体が構築されると次の面が次世代の立体になっている。その面が立体になったころには、線だったつながりが面になっている。諸行無常である。

だからね、その時代の盛り上がりは否定されるべきものではないと思うものの、前時代の盛り上がりと今の時代の盛り上がりの関係は意識しないといけないと思うんだよね。原発の歴史を知ろうよ、と書いたのはそういうこと。

自分たちの時代で前時代を駆逐しえたことを棚に上げ、なぜ自分たちの盛り上がりを神格化出来るだろう。その時代の盛り上がりを神格化してしまえば、次の時代の盛り上がりを全て否定してしまうことに気付けないだろうか。

これは、言うなれば自分たちで自分たちを否定していることに気付けていない状況だと言える。


震災直後の俺の記事はそういうことを述べている。といっても、その時にこうして言葉にできたわけじゃないのだけど。

だから俺は、原発には反対だけれど反原発の人とは手を取り合えない、と断じた。それを上から目線だと言われた。でも、反原発自体ではなく反原発を唱える人の思考の多くが、とてつもない上から目線であることは俺の中では確信に近い。

どれだけ今の時代が求めているものがあろうとも、俺の子供かその子供かは分からないけど次世代の盛り上がりに対して、なんの確認もしていない状態で自分たちの思考を神格化することはどうしても許し難い。繊細な確認作業が大事であることは、原発盲信にも反原発盲信にも言いたいことだ。


結局のところ、点と立体の中間にしか人間の健全性が見いだせないという結論になってしまう。最後に全部捨てられる覚悟があるのなら、中間地点で鼓舞するために自分たちの考え方を神格化するのもいいだろう。でも多くの場合、そのまま立体が構築されると捨てることが出来なくなる。

俺の考えでは、「これこれこういう事故があって、自分たちはそれがイヤだと思ったから改善しようと考えた。でももし次世代以降の考え方が違うのなら、たとえそれが原発推進であろうとも受け入れるよ。」というのが謙虚な態度だ。

なぜなら、再生可能エネが推進されている現在があるからだ。受け入れた、という態度か、駆逐された、という態度であるかの違いはあれどもね。


科学という視点から考えてみる。科学批判というものは、科学盲信批判であることが多い。本質的な意味における科学というものは、物事に100%は無い、という前提の上に成立している。

科学の盲信的な面だけを拡大解釈して、人間は原発というものを使いこなせるレベルには至っていない、という結論の出てくるケースがある。でもそれは利権批判であるべきで、科学批判ではないと思う。もし科学を批判するなら、人は車を完璧に制御出来ないから車は無くした方がいい、という結論にryってこれはまぁいいや。正直、くだらない(笑)


思い込みのネガティブな面は、意識化出来る思い込みだ(意識化出来ない思い込みは人の原動力)。思い込み以外、ようは意識化出来ない部分こそ意識化する必要がある。人は生きるために生きている。この意識化していない部分を意識化して、意識化出来る部分はむしろ意識化から意識下へと追いやらなければならない。ただ目を伏せる、ということではなく、意識的に意識下へと追いやる、ということ。

そのためにも、自分が何を意識化していて、何を意識化出来ていないかを、よくよく考えないとならない。そして、生きるために生きている、ということを意識化出来たら、今度はそれを意識下へと追いやらないといけないわけだ。

人間は常に間違う。面倒なことに、しかしそれに見合うだけの脳を持った。せっかく特有の頭脳を持ったのだから、代償として苦しみ悩み続けることも仕方ないだろう。少なくとも、思考した結果で思考を止めてしまうよりはずっとまし。

思い込みというやつは、思考した結果を捨てることさえさせなくなる。人の思考も、もしかしたら、点を捨て、線で拾い面を作り、立体を構築したら最後に全て捨てる、必要があるのかもしれない。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿