夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

私が考える報われる信仰、そして人間の本来の寿命

2016年07月22日 21時03分48秒 | 日記
 既に一度は書いているが・・。創世記の冒頭に、『地は形なく闇、淵の面にあり神の霊、水の面を覆いたりき』とある。この文章から連想することは、今現在でも私は神の霊気の中に浮いている、と言う事である。人は皆、そういう状況の中に在る。然るに多くの人が不如意をかこつのは何故かと言えば【信仰】がないからである。では信仰とは何か?と言えば【神が定めた法則に対する信頼】である。

 人は重力の法則に信仰を持っている。その信仰を条件にして設計製造するから飛行機は飛ぶ・・プロペラが有るから飛ぶのではない。ところがイエス・キリストはその法則の埒外の存在である事を明確に認識していたので水の上を歩くことが出来た。我々も本来はそういう存在なのだが最早、物質である肉体が実は思い込みによる現象化の姿であるとの確信を、肉体を捨てない限り超越出来ない。

 我々が浮遊している霊界も実は法則の世界である。『私』なる想念が現象化するとの法則によって、鏡に映る肉体の自分とその生きる世界がある。これが誤解を招く、我々は現象化と言う法則によって神の霊の法則に則って生きる事が殆ど不可能になっている。

 それでも尚、衆生済度極楽往生を説かねばならない仏教は、只管打座と言ったり南無阿弥陀仏と唱える事によって救いを得ると方便として説いた。その真意は何か?・・・神の法則があなたに発動する為には考える事をやめよ、小賢しサを捨てよ、【自分】と言う意識を捨てよ、自分自身を放下せよ、と言うわけである。

 『何を着ようか何を食べようかと思い煩うのをやめなさい、天の父はあながたがこれらのものを必要としていることを知っておられるのです』・・私は近い過去に行き詰まった。この世の常識では到底生きる事が出来ない状況に居る事を悟った。結局たどり着いたのは『神に任せてみよう』だった。ある日、黒い子猫が報せを持って来た。

 かれこれ40年昔、会社に入った。高校や短大を出たばかりの輝く女子社員達も入って来た。わくわくした。今、当時を振り返って感慨ひとしおである。鬼籍に入った人も多い。・・・何と短い一生であったことか!これが神が本来考えたことだろうか?そこでハタと気が着く。創世記を見ればアダム以下人類の初めの人々は千年近く生きている。それも禁断の実を食べた故に宣言された土に還るとの法則によってである。

 もし禁断の実を食べなかったら・・そこには死に相当する事柄が無かった。ノアの洪水の後、人の寿命は急速に縮まった。そして思い当たる、『そうか、エデンの外』で生きなければならない人類は『額に汗して生きる』しかないのだ、そしたら寿命が短いのは或は神の哀れみかもしれない、いや、そうだ!生存の為に自分を売らなければならない世界、そこで長く苦しむ事はない、との。

 而してこの地上に一旦生を受けた記録は残されて、地上世界が人類の自治によって破綻し、神が介入し始めた時に再度呼び戻される、そうであれば赤子で死んだとしても神の愛の取り決めを真っ当に受け取る事になる。・・・神は誉むべきかな!エデンが回復する時人の寿命は無くなる・・・寿命と言う概念が失われる。同時に【時】の観念も忘れ去られる。在るのは永遠の一日。何故ならその世界では【額に汗して生存を模索する苦痛】は存在しないから。だから生きる事が苦痛ではなくなるのだ。

 これらの事は黙示録にちゃんと書いてある。その事があなたに実現するか否かは【神の法則】に自分自身を丸投げするか否かで決まる。
あなたはその丸投げをやれる程愚か者に成れるか?ばっかじゃなかろか!と言われながら巨大な箱舟を造ったノアのように成れるか?人からバカにされることを恐れないか?
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