ラヂオデパートと私

ロックバンド“ラヂオデパート”におけるギタリストとしての津原泰水、その幾何学的な幻視と空耳。

バブル夜話

2010-02-03 03:47:00 | マルジナリア
 寒いなあ。原付の鍵穴の中が氷結していて、暫く鍵が入らなかった。こんな経験は初めてだ。
 明後日に向けてのラヂオデパートの練習だった。新曲は失笑を買ったが、それはいつもの事。こんな程度でめげていてはバンドなど続けられない。もっともっと笑わせてやる。
 ギターは迷った挙句、リッケンバッカーの381(六絃)を持参した。十二絃に較べると泥臭いと云うか煌めきに乏しい音なのだが、弾き心地は悪くない。見た目も。先日ジャンが弾いた〈哀愁のヨーロッパ〉を冗談で始めたら、けっこう嵌る音色で、つい最後まで弾き切ってしまった。しかし本番で演る曲ではないしなあ。結論は当日の気分に委ねようかと思う。いきなり新しいギターだったりしてね。それは無いと思うが。

 拙著『ブラバン』を嫌う人を相変わらず見掛ける。「売れてんだろう。金儲けてんだろう」といった誤解に基づく嫌がらせは今後無視するとしても、どうやら若い世代に不評気味なようだとは、僕も大いに察している。そのうえで、それは単純な作法の問題でも、'80年代を知る/知らないという話でもなく、バブル経済前/後の日本人の自意識の差異と、どこか関連しているような気がしている。
 バブル前を語るならば、僕等は基本、文化的に貧しかった。文化は遠くから見出して、盗む物だった――手段が合法であれ違法であれ。
 バブルを経て、文化は誰にでも買える物となり、更にインターネットの大普及期間と前後して、それは与えられる物と化したような気がする。
 物凄く身も蓋も無い例え方をするならば、バブル前の文化はエロ本であり、バブル後のそれは教科書ではなかろうか。価値はともかく覗いてみたくて仕方のない物と、価値の程は分かっているけれど自分に役立つかどうかは眉唾な代物。

 なぜバブルで区切るのか。今やあの時代を知らない世代もこのブログを読んでいる訳だから、ことさら説明する。当時の「世界」に対して何故か経済的に圧倒的な優位に立ってしまった日本は、あの日、戦後初めて「特等席」に坐ったのだ。早い話が悪質な成金で、昨日まで「先生」だった欧米文化の頬を札びらで叩く連中まで現れた。しかもその状態が永久に続くと信じていた。
 日本人のほんの一部にしか過ぎないが、間違いなく狂っていた――マスコミを巻き込んで。
 さして売れる訳でもない少女小説を悪条件下で書き続けて風呂無しのアパートに住んでいた僕の所にさえ、投資しませんか、マンション買いませんか、という営業が引ききりなかった。どれもこれも凄絶な価格だったが、転売すればより儲かると必ず云われた。馬鹿か。ジュリアナ東京が'80年代? 馬鹿か。そんな場所に日本人の大半が巡礼したとでも云うのか。誰もが阿呆な恋愛ドラマを見て、そのテーマソングを聴いていたと云うのか。馬鹿か。当時の僕等はXTCをレコード盤で聴いていた。CDは高かったからね。成金が色々と捨てるから、粗大ごみの日の朝、家具を拾い歩くのが流行ったりもした。実話だ。みんな思い出せ。それが当時の、一方に於ける「普通」だったのだ。
 やがて表向きの「日本の景気」が下向き、二倍もある肩幅の背広が絶滅して、僕は心底ほっとした。これで日本は昔に戻ると期待した。しかし戻りはしなかった。白黒だった頃のテレビは、貧しく清く美しい人々をこそ日本人の鑑とし、報道番組からドラマやアニメまでその基準下で製作されていたが、今でも、そんなもの作ろうもんなら余程の註釈を付けないかぎり「差別」と揶揄されかねない。貧しさが「差」であり「別」である世界に、僕等は生きている。

 昔は佳かったとも、今が良いとも云う気はないので、どうか誤解しないでほしい。
 違う、と云いたいだけなのだ。ちょっとだけ昔、山口百恵のヒット曲は国民の大半が歌えた。一枚のレコードを如何に大勢で聴いていたかがうかがわれる。翻って、数字のうえではその何十倍何百倍も売れている今のヒット曲を、音楽を演っている僕や小山でさえ一曲も歌えない。
 乏しい稔りを奪い合うのが文化なのか、豊穣に倦ぐのが文化なのか。いま僕が語りたいのはそういう話である。
 1980年に十六歳だった僕は'60年代文化に憧れたが、 2010年の十六歳は'90年代に対してどうなのだろう? そんな夜話だ。

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