ラヂオデパートと私

ロックバンド“ラヂオデパート”におけるギタリストとしての津原泰水、その幾何学的な幻視と空耳。

ツイッターを懐疑する

2010-01-29 01:55:00 | マルジナリア
 ツイッターに対して、僕は懐疑的だ。と云うか、少なくとも作家は懐疑的でなければいけないと思っている。
 みずからのなんたるか(人柄や置かれている立場)を、低コストで瞬時に広められるツールがツイッターだとしたら、高コストなうえ基本的に一生を捧げねば物にならない(特に紙媒体の)小説は、遂に曖昧な態度を許されぬ、そうでなくては社会的に意味を成さない存在へと追いやられること必至だ。
 本当に小説への熱情があるんだか、それともタレントになりたかったんだか、という似非作家に至っては、かなり近未来のうちに絶滅するだろう。だって人が自分のアイドルを探すとき、ツイッターならほぼ無料なうえに双方向なのだ。なんで何千円もする「聖典」を買い、返事の来ない手紙(本人に対してとは限らない)を書き続けられようか。
 ユニクロでいいじゃん、充分お洒落じゃん(僕もそう思っている)が社会通念となったとき、宝石店には別な意味でのニーズがあろう。しかしユニクロの千円に対して二千円のフリースを売っていたメイカーは、全滅する。そういう話だ。

 かといって宝石店が、これまでの名声に胡座をかいていられる筈もない。「家計の衣食住のうち衣にかけるのは月五千円」が普通の時代が訪れれば(じっさい訪れている)、宝石なんぞ何十年ローンを提案したって売れるものではない。宝石の美は人に必要です、とでも叫んでみるか? 宝石の一つも持っていないなんて、と高飛車に出てみるか? 千円くらいの「パワーストーン」でも売ってみるか?

 僕がツイッター上になんとか書き続けている『百歳の少年』は、品質的には小説誌に預けたり短篇集に所収する物と、まったく変わらない。無理矢理ツイッターの制約下に押し込めているぶん技術を要し、原稿料も発生しなければ単行本化の目処も無いのだから、丸損もいいとこだ。
 今のところ何百人かがリアルタイムで、単にウェブ連載として読んでいる人を含めれば数千人が、次の一行を待ってくれている。僕の側からのフォローやコメントといった働きかけは一切しない。こうした形で苦吟した一行の価値への理解が広まれば、その集積たる一冊の価値も改めて理解される筈と、性善説的に考えている訳である。
 もう一点。今のツイッター利用層は、あくまで第一世代だ。以後の世代は疎外感をおぼえようし、今の狂騒に否定的にもなろう。
 その時、当時の流れとは無関係に「ただそこに在るだけの小説」は、寧ろ彼らへの道案内として機能するのではないか。そんな想いもある。

 僕の予想はあるていど当たり、あるていど外れるだろう。
「小説なんか書いてないで、誰某さんみたいに宣伝に使ってください」と編輯者から云われた時は愕然としたものだが、いま「出版業界なんてこんな程度です」と一般の方々に伝えられて、すこし溜飲が下がった。意地になってきたところも、たぶんある。ただし僕の意地は妖怪の怨念なみに堅固で、張っているあいだに二十年くらい平気で経ってしまうのだ。

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