八十八ヶ所の巡拝を終えた者が改めて別格霊場二十ヶ寺を巡り併せて百八ヶ寺として人間の百八煩悩を滅するとする考えから、四国別格20霊場にも多くの巡礼者が巡っている様だ。我々夫婦もキャンピングカーに依る四国八十八ヶ所霊場巡りも結願し、次の四国八十八ヶ所霊場巡りを決心する前にキャンピングカーでの四国別格20霊場を巡礼しておこうと発起したモノだった。88ヶ寺とは違い徳島6ヶ寺、高知1ヶ寺、愛媛9ヶ寺、香川4ヶ寺と僅か20ヶ寺なのでサクサク進んでしまう。今回の四国別格20霊場巡りでは、平成30年7月西日本豪雨災害の為に、事前に確認した四国別格20霊場公式Web上では既に通行止が解除されていると勘違いして山中に分け入った四国別格二十霊場 第七番 出石寺への大洲からのルートで最大のピンチを迎えた他は、2×5サイズキャブコンなら通行が難しい場所は無かった様だ。国産キャブコンサイズのキャンピングカーでのお遍路入門には四国別格20霊場から始めた方が敷居が低いのカモ知れない・・・と思った。
キャンピングカーでお遍路を気取るとはチャンチャラ可笑しいと思われるカモ知れない。そもそも四国八十八ヶ所霊場巡りを始めたのは空海だとされ、右衛門三郎が空海を追って四国を巡ったのが始まりだなどと云われている。恐らく空海以前にも古代末期から中世初頭における聖(ひじり)といわれる民間宗教者の活動として、日本全国の人里離れた山地や洞窟での修行や海岸沿い(辺地)を歩く修行をする者が相当数居たのだと思われる。所謂「山師」(コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 山師の用語解説に依ると『山仕とも書き,山主,山元ともいう。 16世紀から現れ,江戸時代に広く存在した鉱山業者。金子,大工,手工,樋大工,鍛冶などの鉱山労働者を率いて主として採鉱部門にあたったが,選鉱,製錬を兼営する者もある。中期以降は,請山として鉱山の全経営を請負う者が多い。転じて投機家,詐欺師をもいう。と書かれている)、この場合民間の鉱山業者としての山師は古代末期から全国に偏在していて、世を忍ぶ姿として聖を装っていたのだと思われる。だから、四国お遍路の原型は、四国聖であり、そして博学な空海も恐らく山師と同じ目的も秘めて四国を巡ったのだろうと想像している。
11世紀と言えば平安時代中期から後期の初めだが、その頃弘法大師信仰が盛んとなった。空海が讃岐出身だったことや、若き日に四国全域で修行した事実から、信仰の中では四国は重要な位置を占め、現在の札所でもある太龍寺、金剛頂寺、曼荼羅寺、善通寺などは、この頃、大師信仰の霊場として地位を固めていったとされている。その後、中世になって山伏等に代表される聖の一党によって四国辺地修行が行われる様になり、山伏と同様の旅の宗教者である時衆聖や六十六部聖などが「四国大辺地」修行として弘法大師信仰に肖って巡回巡礼を修行として取り入れる様になり、それが四国八十八ヶ所霊場巡りとして形になったのは江戸時代の先達組織(現在の旅行代理店の様な存在)に依る第2次弘法大師ブームなのだろう。その四国八十八ヶ所霊場巡りの原型とされているのが高野聖の真念が執筆した『四国辺路道指南』だと云われている。これは、経路の明確化を意図して作られ、八十八の番号と札所が一対一で対応させられ詳細な情報が記されている17世紀に於ける四国八十八ヶ所霊場巡りのガイドブックだ。この後、2世紀に亘って四国八十八ヶ所霊場巡り最高のガイドブックであり続けたのだそうだ。それ以外にも、高野山の学僧が札所の見取り図や由来などを纏めた『四国偏礼霊場記』や霊験記である『四国偏礼功徳記』が相次いで売られる様になった。又、『四国辺路道指南』に基づいた道標が建立される等、遍路の行程に即した環境整備がお遍路さんや愛好僧らの喜捨に依って整備されていった事も特筆すべきだ。その後、『四国偏礼絵図』の様な絵図主体のガイドブックの出版が続き、遍路に民衆に誘ったのだろう。江戸時代の旅行ブームの中で地域ぐるみの特色が強く多くの資金を託されて華美と成りがちな富士講や伊勢講等と異なり四国八十八ヶ所霊場巡りは質素な個人単位や女性や病人や困窮者が多かったとされる。その後、明治時代の神仏分離政策で神仏習合色が濃厚な札所が多かった四国八十八ヶ所霊場巡りは大打撃を受け、又、急速な近代化西洋化の中で病人や困窮民が多数含まれる遍路者への忌避感も強まったのだと思われる。その中でも四国八十八ヶ所霊場巡りは絶える事なく細々と続いていたが、近代化により鉄道開通や道路整備が進んだ事で新たなお遍路のスタイルが登場した。大幅な時間短縮が果たされる事で、知識人や著名人や裕福な都市部の人間の遍路が増えたのだと思う。又、経済の低迷や社会不安の中、「癒し」や自分探しとしての四国八十八ヶ所霊場巡りが注目されていると思う。
当時の人々は徒歩であったから今日のお遍路も徒歩でのみ行うべきだと思う方も多いのだろうが、もし空海の時代にバスや電車や自家用車が有ったとしたら、空海は頑なに徒歩に拘っただろうか?と思うのだ。だが、2巡目を巡るのはキャンピングカーには頼らないツモリで居るので、2巡目のスタートは決心が固まる相当未来の事になるのだろうと思っている。最終的には、歩き遍路で四国八十八ヶ所霊場巡りを致したいと思ってはいる。足腰が付いていく若い内に四国八十八ヶ所霊場巡りを始めないと駄目だと亡祖父に云われた事をキッカケに始めたお遍路だったが、一応の結願を得る事が出来た次第。
毎度のパターンで土日祝割引が始まる土曜午前0時を跨ぐ形で瀬戸中央道料金所を通過する予定で、金曜日の深夜自宅を出発した。午前0時半に高瀬PAに滑り込み、仮眠させて頂いた。
第十六番 巨鼇山地蔵院 萩原寺
萩原寺HP
第十七番 神野寺
第十八番 屏風浦 海岸寺
屏風浦 海岸寺 HP
第十九番 香西寺
時間切れとなってしまったので、お馴染みの仏生山温泉に行き入浴。
その後、道の駅しおのえで仮眠をさせて頂いた。
第二十番 大瀧寺
最近の流儀では、最初に訪れた霊場に戻って円環を完成させるのが主流らしい。
ここで四国別格20霊場 結願である。
津田の松原SAで暫し昼寝をして・・・
岡山県の稲荷山健康センターと同じく漢方勵明薬湯のある四国健康村で入浴と夕食を頂いた。
今回は満タンでは出発しなかったので燃料が軽油91L入ってしまった。(スタンドの方の話では、タンクの底が見えていたのだそうだ)
今回は、四国でうどんが食べられなかったので岡山うどん(横田うどん)で豪華な鍋焼きうどんを頂いて帰宅した。
キャンピングカーでお遍路を気取るとはチャンチャラ可笑しいと思われるカモ知れない。そもそも四国八十八ヶ所霊場巡りを始めたのは空海だとされ、右衛門三郎が空海を追って四国を巡ったのが始まりだなどと云われている。恐らく空海以前にも古代末期から中世初頭における聖(ひじり)といわれる民間宗教者の活動として、日本全国の人里離れた山地や洞窟での修行や海岸沿い(辺地)を歩く修行をする者が相当数居たのだと思われる。所謂「山師」(コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 山師の用語解説に依ると『山仕とも書き,山主,山元ともいう。 16世紀から現れ,江戸時代に広く存在した鉱山業者。金子,大工,手工,樋大工,鍛冶などの鉱山労働者を率いて主として採鉱部門にあたったが,選鉱,製錬を兼営する者もある。中期以降は,請山として鉱山の全経営を請負う者が多い。転じて投機家,詐欺師をもいう。と書かれている)、この場合民間の鉱山業者としての山師は古代末期から全国に偏在していて、世を忍ぶ姿として聖を装っていたのだと思われる。だから、四国お遍路の原型は、四国聖であり、そして博学な空海も恐らく山師と同じ目的も秘めて四国を巡ったのだろうと想像している。
11世紀と言えば平安時代中期から後期の初めだが、その頃弘法大師信仰が盛んとなった。空海が讃岐出身だったことや、若き日に四国全域で修行した事実から、信仰の中では四国は重要な位置を占め、現在の札所でもある太龍寺、金剛頂寺、曼荼羅寺、善通寺などは、この頃、大師信仰の霊場として地位を固めていったとされている。その後、中世になって山伏等に代表される聖の一党によって四国辺地修行が行われる様になり、山伏と同様の旅の宗教者である時衆聖や六十六部聖などが「四国大辺地」修行として弘法大師信仰に肖って巡回巡礼を修行として取り入れる様になり、それが四国八十八ヶ所霊場巡りとして形になったのは江戸時代の先達組織(現在の旅行代理店の様な存在)に依る第2次弘法大師ブームなのだろう。その四国八十八ヶ所霊場巡りの原型とされているのが高野聖の真念が執筆した『四国辺路道指南』だと云われている。これは、経路の明確化を意図して作られ、八十八の番号と札所が一対一で対応させられ詳細な情報が記されている17世紀に於ける四国八十八ヶ所霊場巡りのガイドブックだ。この後、2世紀に亘って四国八十八ヶ所霊場巡り最高のガイドブックであり続けたのだそうだ。それ以外にも、高野山の学僧が札所の見取り図や由来などを纏めた『四国偏礼霊場記』や霊験記である『四国偏礼功徳記』が相次いで売られる様になった。又、『四国辺路道指南』に基づいた道標が建立される等、遍路の行程に即した環境整備がお遍路さんや愛好僧らの喜捨に依って整備されていった事も特筆すべきだ。その後、『四国偏礼絵図』の様な絵図主体のガイドブックの出版が続き、遍路に民衆に誘ったのだろう。江戸時代の旅行ブームの中で地域ぐるみの特色が強く多くの資金を託されて華美と成りがちな富士講や伊勢講等と異なり四国八十八ヶ所霊場巡りは質素な個人単位や女性や病人や困窮者が多かったとされる。その後、明治時代の神仏分離政策で神仏習合色が濃厚な札所が多かった四国八十八ヶ所霊場巡りは大打撃を受け、又、急速な近代化西洋化の中で病人や困窮民が多数含まれる遍路者への忌避感も強まったのだと思われる。その中でも四国八十八ヶ所霊場巡りは絶える事なく細々と続いていたが、近代化により鉄道開通や道路整備が進んだ事で新たなお遍路のスタイルが登場した。大幅な時間短縮が果たされる事で、知識人や著名人や裕福な都市部の人間の遍路が増えたのだと思う。又、経済の低迷や社会不安の中、「癒し」や自分探しとしての四国八十八ヶ所霊場巡りが注目されていると思う。
当時の人々は徒歩であったから今日のお遍路も徒歩でのみ行うべきだと思う方も多いのだろうが、もし空海の時代にバスや電車や自家用車が有ったとしたら、空海は頑なに徒歩に拘っただろうか?と思うのだ。だが、2巡目を巡るのはキャンピングカーには頼らないツモリで居るので、2巡目のスタートは決心が固まる相当未来の事になるのだろうと思っている。最終的には、歩き遍路で四国八十八ヶ所霊場巡りを致したいと思ってはいる。足腰が付いていく若い内に四国八十八ヶ所霊場巡りを始めないと駄目だと亡祖父に云われた事をキッカケに始めたお遍路だったが、一応の結願を得る事が出来た次第。
毎度のパターンで土日祝割引が始まる土曜午前0時を跨ぐ形で瀬戸中央道料金所を通過する予定で、金曜日の深夜自宅を出発した。午前0時半に高瀬PAに滑り込み、仮眠させて頂いた。
第十六番 巨鼇山地蔵院 萩原寺
萩原寺HP
第十七番 神野寺
第十八番 屏風浦 海岸寺
屏風浦 海岸寺 HP
第十九番 香西寺
時間切れとなってしまったので、お馴染みの仏生山温泉に行き入浴。
その後、道の駅しおのえで仮眠をさせて頂いた。
第二十番 大瀧寺
最近の流儀では、最初に訪れた霊場に戻って円環を完成させるのが主流らしい。
ここで四国別格20霊場 結願である。
津田の松原SAで暫し昼寝をして・・・
岡山県の稲荷山健康センターと同じく漢方勵明薬湯のある四国健康村で入浴と夕食を頂いた。
今回は満タンでは出発しなかったので燃料が軽油91L入ってしまった。(スタンドの方の話では、タンクの底が見えていたのだそうだ)
今回は、四国でうどんが食べられなかったので岡山うどん(横田うどん)で豪華な鍋焼きうどんを頂いて帰宅した。
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