過去の記録です
自分の覚え書き・メモです
楽しい話ではないので
どうぞ読み飛ばしてくださいませ
緩和ケア病棟に転院したと
伝えた速達にも反応がない姉
緩和ケアに入ったと知れば
流石に姉も動くだろうと信じ
毎日母のケアをしながら
4か月以上経過し
待てど暮らせど連絡はなく
「もう連絡しなくていいよ」
母からそう言われて
母の“今”在る命に集中することに

普通だと思っていた
母と姉の関係
実家と姉の関係
私が普通と思い込んでいただけかも
普通と思いたかっただけかも
そもそも
普通ってなんだろう
父が闘病していた時
母が主に父のケアをしていました
私もできるだけ帰省し
母を労ったり
入院先の父を見舞ったり
父の身の回りの世話をしました
病院の洗髪車を借りて
父の洗髪をするのが
私と父の楽しみでした
「あ~気持ちいいなぁ~~」
今も声が聞こえてきそうです

姉が父を見舞ったという話は
聞いたことがありません
私の知らないところで
見舞っていたのかもしれません
父が急逝したとき
真っ先に母から電話が
かかってきたのは私でした
頭が真っ白になる中
動転する母を落ち着かせ
どうすればよいか伝え
すぐ行くから
大丈夫だからと
翌日開催予定の大きな会議の
進行役だった私
上司に報告し
「すぐに帰ってあげて」
そう言ってくださる上司に頭を下げ
会議の段取りを記載したレジメ
配布資料、タイムスケジュール
もろもろを副担当の方に引き継ぎ
頭を下げて
自宅へ飛んで帰り
こどもたちを夫に頼み
先に新幹線で実家へ向かいました

両親が元気なころから
誕生日
母の日・父の日
敬老の日…
毎年記念日には
ささやかな贈り物を届けました
両親はいつも
とても喜んでくれました

姉からの贈り物はないと
母が寂しそうに言っていたことが
ありました

贈り物は義務ではないし
しない人がいてもおかしくないよね
そう思い
悲しむ必要はないと思いました
もしかしたら
姉が贈り物をしてくれたことを
忘れてしまったのかもしれません
父が亡くなった時
喪主の母へ
姉からのお香典はなかったと
何年も後で母から聞きました
母は香典等の記録をするとき
姉の欄の金額を0円とするのが
つらくて
私が包んだ香典と同額を
記録ノートに記載したと
誰も見ないノートだけれど
うそを書いてしまったと
とてもつらそうに話してくれました

香典のことは
今でもなぜなのかわかりません
流石に変だな、と思いました
姉が何も話さないので
何を考えているのかわからない
さっぱりわからないと
母が嘆いていました

父が亡くなった後
母が憔悴しきってしまい
我々夫婦は家族ぐるみで
実家そばに転居しました
私は大学の先輩の紹介で
仕事を得て転職し
夫は片道220kmの遠距離通勤を
してくれました
二人の収入の大部分が
通勤費・転居費・家賃等々に
消えました

こどもたちとともに母を囲み
笑いあい、元気づけ
ハードな生活を2年間
母に笑顔と体重が戻り
刺繍もできるようになったのを
見届けて
本拠地に戻りました
その2年の間にも
母を勇気づける姉の姿を
見ることはありませんでした
私の知らないところで
サポートしていたのかもしれません
いろいろ思い起こしてみると
介護が始まって疎遠になった
というよりも
もっとずっと前から
両親に対する姉の思いは
私とは違っていたのかもしれません
過去に散らばった姉の姿を
思い起こしつつ気づいたこと
それらをつなげて解釈することを
私自身拒んでいたのかもしれません
自分の中で“そんなわけない”と
否定していたのかもしれません
無意識のうちに

そんな自分に
私自身
気づかなかった
だけかもしれません

馬場存 a sad song 哀しい歌