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一年ぶり九州再訪でJR九州完乗 その5 - 昔日編

2019年11月11日 | 乗り鉄
JTB時刻表 1968年10月号の巻頭地図の一部

 例によって50年前、ヨンサントオの時刻表で今回の乗車区間を辿ってみることにします。

 まず、松浦鉄道ですが、国鉄松浦線なのは当然として、50年前には肥前吉井(現在の吉井)から東に分岐する世知原(せちばる)線、佐々から西に分岐する臼ノ浦線の2つの支線がありました。 世知原線が炭鉱への路線、臼ノ浦線は石炭積出港への路線という性格だったのですが、1968年当時には石炭輸送の役割も終わっており、世知原線が一日8往復、臼ノ浦線は僅か4往復の気動車列車の設定で、3年後の1971年に両線とも廃止されています。
 駅と列車本数を見ると、当時の松浦線は佐世保から伊万里まで27駅(両端駅含む)、伊万里から有田までは6駅、現在の松浦鉄道はそれぞれ47駅、11駅と大幅に増加し、列車本数も例えば区間列車を含む下り佐世保への到着列車本数は14本から42本と、第3セクター化されて格段に便利になったと言えそうです。 
 車両を見ると当時は気動車と客車の割合がざっと半々で、同時期の雑誌を見ると旅客列車はC11などの蒸気機関車によるけん引で、8620が引く貨物列車なども走っていたようです。 
 
 大村線については1989年に諏訪、1992年にハウステンボス駅が増設されています。 運転系統の基本が佐世保~長崎連絡というのは現在も変化がありませんが、列車本数をみると今は快速シーサイドライナーだけでも約14往復(一部区間運転)あり、ほぼ同数の普通や区間列車を加えると利便性は大きく向上しているようです。 
 長崎本線については1968年時点では肥前古賀を経由する新線が開業しておらず(同区間の開業は1972年)、本編で写真を紹介した長与を経由する線が唯一のルートでした。 従って寝台特急のはやぶさ(行き先東京)、さくら(東京)、あかつき(新大阪)、特急かもめ(京都)、急行いなさ(博多)、ちくご(旧佐賀線経由熊本)、出島(呉)、平戸(松浦、筑肥線経由博多)、西九州(別府)、雲仙(京都)などの多くの優等列車が大村湾に沿って走っていたことになります。
 大村線、長崎本線共に車両面では優等列車は既に気動車かディーゼル機関車のけん引だったようですが、一部の普通列車には蒸気機関車も使用されていたようで、前述の雑誌には大村湾を背景にした門デフ装備の美しいC57の写真も紹介されていました。

 最後に香椎線です。 現在の宇美はいわゆる盲腸線の終点ですが、1968年当時は吉塚と筑前勝田を結ぶ勝田線の中間駅でもありました。 一方で吉塚と筑豊本線を結ぶ篠栗線(福北ゆたか線)との交叉地点には駅が無く(現在は長者原で接続)、博多から香椎線沿線に向かうには前述の勝田線を使うか、鹿児島本線の香椎を経由するかの方法しかありませんでした。 
 また西戸崎~香椎の駅数には変化がありませんが、香椎と宇美の間には香椎神宮、舞松原、長者原、須恵中央の駅が新たに設けられており、列車本数も1968年当時は西戸崎~香椎(下り)が10本、香椎~宇美が12本ですが、現在は西戸崎~香椎(下り)が45本、香椎~宇美が45本と福岡近郊区間の一路線として大幅に増加しています。 
 車両面では1968年当時も全て気動車だったようですが、充電式の電車に変更になったのは本編の記事のとおりです。 開業当時の運炭鉄道も役割の変化に応じてすっかりその姿も変わりました。

 最後に今回乗車した松浦線、大村線、長崎本線の旧線を走る当時の急行平戸と、乗り継ぎ時間が過大にならないように多少留意して、現在のほぼ同じルートの時間比較をしてみました。 博多から姪浜までは今は福岡市地下鉄乗入になり、唐津付近のルート変更伊万里では道路を隔てた乗り換えなど、完全に同じルートはたどれないのですが、乗り継ぎ時間を除いてもヨンサントオ当時の方が随分スムーズに移動できたようです。 一方で長崎~博多のかもめなどは当時2時間40分程の所用が今は1時間50分程度に大幅に短縮していますので、現在の鉄道はかつての急行平戸の様な輸送需要には応えなくなった・・・ということのようですね。(下表の2重線区切りは乗り換えを示す)

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