萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第62話 夜秋act.4―side story「陽はまた昇る」

2013-03-09 04:40:39 | 陽はまた昇るside story
真情虚実、夜話の現、



第62話 夜秋act.4―side story「陽はまた昇る」

がらり、

燃え崩れの音が鳴り、霧の闇に消えてゆく。
焚火たつ炎は紗幕を明るませ、火影に陰翳ゆらせて空間を籠める。
ただ静かな白闇が囲んだ山の夜、英二は小瓶に口づけブランデーに微笑んだ。

「山の酒って旨いですよね。山でブランデーは初めてだけど、悪くない、」

率直な感想と斜隣りに笑って、ひとつ焚き木をくべてみる。
ぱちり爆ぜる音に樹皮から火花きらめき、炎の糧に呑まれて光を生む。
濃やかな霧の壁は未だ晴れない、この天然なす密室で低い声が言葉を戻した。

「いま大切な人って言ったけど、どういう大切なんだ?」

きっと訊かれる、そう想ったとおりに原は訊いてくれる。
この答えに覚悟は定まった、英二はそのままの答えと綺麗に笑った。

「恋人だよ、」

率直な答えの向こう、原が小さく息呑んだ。
やっぱり最初の反応は「驚愕」だった、そんな予想どおりにブランデーを舐める。
あまく辛く香らす酒は燻煙に交わす風味が佳い、山の絶佳に唇しめらせ英二は炎を眺めた。

ぱちっ、ぱん…

樹皮はぜる音は乾いて響き、金色の砂子が光弾ける。
朱色に黄金にゆらぐ炎の底は青紫に澄んで、透明な熱に衣服が干す。
いま盆明けの残暑時、それでも霧まかれた山中の冷感は涼やかに夜を吹く。
森閑の霧は幻のよう山を染めあげる、その空気と炎へ瞳細めたとき原が尋ねた。

「おまえ、ホモなのか?」
「バイセクシャルだよ、女ともセックス出来る、」

タメ口に微笑んで浅黒い貌に笑いかける。
その視線に途惑うよう顰んで原はストレートに訊いた。

「男ともヤるのか?」

そんなこと当然だ、周太は男なのだから?
この事実に率直なまま笑って応えた。

「当たり前だろ、」

想う誇りに笑って英二は山のブランデーと口づけた。
あまく熱い酒に唇しめらせ笑んでしまう、こんな今の貌は傲慢に見えるかもしれない。
それでも今「当たり前」と衒いなく言えて誇らしい、そう瞳笑ませた向うから困惑と微量の好奇が問いかけた。

「男とヤって気持ちいいのか?」

また直球で短い質問に笑いたくなる。
つい悪戯っ気が起きてしまう、それに素の反応を知っておきたい。
その考えまとめて英二は酒の小瓶に蓋すると、胸ポケットに入れて艶然と微笑んだ。

「試してみます?」

言葉だけ敬語に戻して、けれど視線は無遠慮に品定めながら立ち上がる。
見おろす視界で精悍な瞳が瞠かれていく、その眼差し捕えたまま真隣りへ腰下すと原に肩寄せた。
ゆっくり顔を近づけ微笑んで、けれどその前に掌突きだされ「謝絶」のジェスチャーが声になった。

「待て、実演は要らん。話を聴きたいだけだ、」

―実演いらんって面白いな?

つい心裡ひとり言に笑いたくなる。
けれど今少し遊びたくなって英二は華やかに微笑んだ。

「説明するよりも、一度ヤる方が解かりやすいです、」
「いや、ヤらなくて良い、」

言いながら原はすこし退いて、凛々しい眉が顰められる。
ちょっとここは困らせた方が都合良い、その判断に英二は誘惑あざやかに笑った。

「心配しなくて良いですよ?俺、床上手ですから、」
「要らん、」

断固として拒絶したい、そんな眼差しに原はまた少し退く。
その目は困惑とまどって途方に暮れかける、そこを突きたくて意地悪ごと艶笑んだ。

「初心なんですね、原さんって。童貞は女にしたいって主義ですか?」
「俺は彼女がいるっ、」

即答に一本調子が揺らいだ、この反応ごと英二は原の腕を掴んだ。
瞬間、精悍な目瞠らかれて逞しい腕に強ばり奔った。

「…っ、」

息呑んだ瞳に拒絶と動揺が竦む、掴んだ掌から惑う原の心理が伝わる。
その全て絡めとるよう微笑に捕捉して、意地悪い誘惑に英二は華やいだ。

「知ってますか、男同士の方が快楽って濃いんですよ?原さんも男なら据膳は食いたいのが本音ですよね、だから訊いたんだろ?」

最後だけタメ口の断定調、そんな傲慢で挑発に誘いかける。
原の寡黙に鎮めたプライドを引っ叩きたい、そして本音の価値観を惹き出したい。
その目的に微笑んだ誘惑の向こう眉顰めたまま、けれど精悍な瞳は真直ぐ英二を見つめ、きっぱり本音を言った。

「エロいことは興味がある、でも彼女としかしたくない。マジで惚れた以外は嫌なんだ、すまん、」

この言葉を引き出したかった。
原を信用した正解に近づける、その可能性に英二は笑った。

「良かった、俺と同じです、」

原の腕を掴んだ掌を開き、英二は元の場所に座りなおした。
またブランデーの蓋を外して口付ける、ふっと香った酒に微笑んだとき低い声が訊いた。

「なんだ、今のは冗談か?」
「後半はそうです、恋人が男なのは本当だよ、」

敬語もタメ言葉も交えて、英二は綺麗に微笑んだ。

「俺は真剣に惚れています、本気だからセックスもしたいです。男とか女とかは関係ない、周太だから抱きたいんだ、」

本音を言葉に変えて唯ひとつの想いを披露できる、それが誇らしく嬉しい。
これを原は理解できる?そう笑いかけた先で精悍な瞳は笑ってくれた。

「俺と同じだな、」

短い返答、けれど同感が温かい。
この理解へ微笑んで焚き木をくべる、その手元を照らす炎熱まばゆい。
山霧めぐらす静謐に白い夜は深くなる、ただ炎はぜる炭音に低い声が微笑んだ。

「同性愛のヤツに会ったのは、あんたが初めてだけど。あんたがって、正直なとこ意外だよ、」
「俺が男と恋愛するのは、意外ですか?」

どうして意外だと思うのか聴いてみたい。
そう目でも問いかけた先、精悍な瞳すこし笑んで応えてくれた。

「卒配から山岳救助隊に配属されるヤツは、よっぽど山のキャリアと記録があるヤツか、本人の志願もあって上のウケも良いヤツだろ?
あんたは山の経験ゼロなのに配属されて国村さんのパートナーになった、さぞ適性も抜群で上に好かれる、完璧な優等生だろうって思ったよ、」

完璧な優等生、そんな表現と現実の差が傷んでしまう。
このギャップに困りながら微笑んだ向こう、日焼顔はすこし笑って本音を告げた。

「実際に会ったら噂通りイケメンで真面目でソツが無い。朝も自主トレしてんのに夜遅くまで勉強して、悔しいけどクライミングも上手い。
嫌みなくらい器用で優等生の完璧野郎だなって苦手だった。そんな優等生の癖にバイで酒好きでさ、あんたって意外と、自由で不器用だよな、」

苦手だった、そう正直に告白した瞳が笑ってくれる。
笑って真直ぐ英二を見つめて、率直なまま原は口を開いた。

「俺って口が重たいだろ?だから人に好かれる自信とか無い、山のことも自信なんか無い、本当はビビりだから臆病な分だけ練習もする。
そういう俺だから、あんたが完璧な優等生じゃない方が気が楽で良いよ。馬鹿で不器用で弱みもあって、それでもあがくヤツの方が話せる、」

完璧な奴より、あがいてる男の方が話しが出来る。

そんなふうに原は10日ほど前にも言ってくれた、あれから少しずつ会話が増えている。
今も言ってくれたよう「あがく」方が原は好きなはずだ、だからこそ納得出来ない事実に英二は笑いかけた。

「俺もあがくヤツの方が話せます、原さんと同じです。だから解らないんです、どうして遠征訓練を辞退したんですか?」

マッターホルン北壁、アイガー北壁。
三大北壁のうち2つでの遠征訓練を、原は異動決定後に辞退した。
その事実は原を知るほど不可解になる、この真摯な男が挑戦権を放棄した理由は何だ?

―あがくのが好きだなんて言えるくらい謙虚で努力を惜しまない、なのになぜ放棄なんか出来た?

この2週間ずっと、毎朝の自主トレーニングにも原は弱音を吐かない。
仕事前の制限時間内に登山道を駈けて未知のルートを学ぶ、それは簡単じゃないと自分こそ知っている。
それでも原は愚痴も言わずに続けてきた、さっきも焚火の技術に原の努力と研鑽が見える。
だから尚更に理由がわからなくて問いたい、この疑問に日焼顔は困ったよう笑った。

「臆病なんだって言ったろ?二度も言わせんな恥ずかしい、」

困り顔は一本調子で笑って、ブランデーに口つける。
ひとくち飲みこんで息吐くと、原は唇の端を上げてシニカルに微笑んだ。

「後任だと前任者と比較される、あんたと比較されるのが怖かった。優等生と遠征訓練で比較されたら、ダメだしの公開処刑だろ?」

後任者と前任者は比較される、それは職場の現実に避けられない。
この不可避が怖かったと原は言う、その真意に英二は問いかけた。

「青梅署への異動が嫌なのではなく、俺の後任として異動することが嫌だった。そういうことですか?」
「そうだ、」

シニカルな微笑のまま短く答えてくれる。
また酒をひとくち飲みこんで、精悍な瞳が真直ぐ英二に微笑んだ。

「あんた本人が嫌いなわけじゃない、優等生と比較されてダメだし喰らうのが嫌なんだ、だから完璧じゃない方が気楽なんだよ、」

これは本音の答えだ、そう原の眼差しが笑っている。
本人からの解答にすこし納得しながら英二は笑いかけた。

「バイセクシャルで恋人は男って俺のほうが、今の世間じゃダメだし喰らいますよ?」
「そうだな、」

短い相槌に頷いた日焼顔は、カミングアウト前よりずっと寛いで笑う。
そんな笑顔に信用を見つめながら、聴いてみたいことに英二は微笑んだ。

「俺がバイセクシャルだってこと、気持ち悪いとか思う?」
「いや、気持ち悪くは無い、」

さらっと答えてくれた貌は、寛いだまま少し笑っている。
そのまま英二を真直ぐながめると、原は率直に言ってくれた。

「ただ正直なとこ、あんたが風呂で男の裸見たとき、エロい目なのか気になる、」

またストレートな回答だ?
こんな応えは普段の寡黙に合わず面白い、つい笑いながら英二は答えた。

「俺がエロい目になるハードルって高いですよ?俺より綺麗な体じゃないと欲情しませんから、」

いくらか傲慢な答え、けれど本音どおりに偽りない。
こんな自分だから恋愛も容易く本気になれなくて、そのぶん出逢えば離せない。
だから今も周太を想いながら同時に光一への真実も消えない、この本音に笑った向こう日焼顔が笑いだした。

「ふはっ、あんた自分好きの自信屋なんだ、あははっ、」
「俺は自分好きだよ、割とね、」

しれっと答えながら英二は瓶に口づけ、酒をふくんだ。
ふれた唇にブランデーの熱と芳香ひろがらす、そんな感覚がキスと似ている。
そこに悪戯と確認を思いついて瓶に蓋すると、しなやかに英二は立ちあがって微笑んだ。

「原さん、俺はバイセクシャルな自分も好きだよ。でも、それを勝手に噂や詮索されるのは嫌いです、だから口封じさせて下さい、」
「口封じ?」

それは何だ?そんなふう精悍な眼差しが訊いてくる。
この目なら信用できるはず、そう願いながら原の前に立つと笑いかけた。

「相手に秘密を護らせる、いちばん良い方法って知ってますか?」

問いかけながら左手を原の肩に置く、その手は払われない。
警戒も特にしていない、そんな目のまま原は何気なく答えた。

「知らん、」
「じゃあ教えましょうか?」

瞳を細めながら見おろして、絡めとるよう原に笑いかける。
そのまま浅黒い顎へ右手を伸ばし柔らかく掴んで、英二は嫣然と告げた。

「秘密を護らせたい相手を、同じ秘密にひきずりこむ事です、」

秘密、相手、ひきずりこむ。

この単語に示す行動と目的は解かるだろう?
そう笑いかけた先で精悍な瞳ひとつ瞬き、すぐ大きな手が遮った。

「待て、俺なら心配いらん。余計な事など言わない、」

余計な事など、原は欠片も言わないだろう。
只でさえ言葉が少ないために誤解を受けやすい、この寡黙は黙秘も巧い。
そう解っていながら釘刺しと証文を取りたくて、貌だけ英二は少しの冷淡と微笑んだ。

「どうでしょうね?俺がバイだなんて面白い話題だろ、つい喋りたくなるか都合よく利用するか、だろ?」

自分がバイセクシャルであるリスク、それを自分で何度も考えてきた。
そして知られた時の対応もケースごとに決めてある、その通りに英二は期間限定のザイルパートナーへ台詞を告げた。

「さっき言ったよな、俺が完璧な優等生じゃない方が気楽だって。だったら俺の評判も評価も壊したいのが本音じゃないのか?
俺はバイセクシャルだってことをマイナスとは思わない、でも評判なんて周りの人間が決めることだ、俺の意志も信念も理由も関係ない。
男とも寝るって知ったら差別するヤツも当然いるな、誤解も作れる。俺の評価を崩すならこんなに良いネタはない、だったら喋りたい筈だ、」

バイセクシャルであっても支障ない職業、立場、能力も世の中にはある。
けれど警察官で幹部候補を嘱望される自分は、スキャンダルと言われる方が常識だろう。
それが解っているから同期でもカミングアウトの相手は限定した、それすら信用と利用の2つに分れる。
だから青梅署内でも明確に知っているのは4人しかいない、そんな自分の現実を未来の部下へ叩きつけた。

「あなたも警視庁山岳会の人間だ、だったら俺の立場も上の意向も知っているはずだ。だから俺のこと嫌いで苦手なんだろ?
男だったら出世が面白くないヤツはいない、それなのに山の経験も無い5年後輩が自分より評価されたらムカつかないはずがない。
俺を蹴落としたくて当然だ、警察組織の縦社会も評価も、出世の仕組みも解ってますよね。だったらバイだって噂を流したい筈だ、そうだろ?」

噂を流して蹴落とす、そんなことを原は考えてなどいない。
それくらい本当は解かっている、けれど未来の原に対しても今、ここで牽制したい。

―人間は状況が変れば変わるんだ、原さんも俺も、未来まで信頼なんて出来ない 

来年、再来年、5年後10年後その先ずっと。
自分と原は同じ山ヤの警察官である以上、ずっと関わりは消えない。
たとえどちらか退職しても繋がりは消えないだろう、そして状況次第で「利用」を選びたくなる可能性がある。
そのとき自分は決して赦さない、だから今ここで予告しておきたい、この意志に英二は精悍な瞳へと静かに微笑んだ。

「俺は利用されることも邪魔されることも大嫌いです、明日も10年後もその先も赦せません、だから勝手な噂をされるのも嫌いなんです。
原さんのことを俺は嫌いになりたくないです、だから利用される可能性を今ここで潰します。お互い好みじゃないけど、覚悟して下さい、」

穏やかな眼差しで見つめて微笑んで、ゆっくり顔を近づける。
キスだけでも不器用な男には口封じになるだろう、この事実を証文にしたらいい。
そんな覚悟ともう1つ可能性への期待に近寄せて、瞳に視線を結んで深い意志と心理を探りだす。
もう15cmの至近距離、それでも逃げずに原は真直ぐ視線受けとめて、断言した。

「無駄口と嘘は嫌いだ、秘密の暴露もな、」

きっぱり言い切って真直ぐ見つめ返す、その真摯は曇りない。
間近く見つめ合ったまま精悍な瞳はすこし笑って、率直に言ってくれた。

「他人を利用するほど器用じゃないし、無神経でもない。そういう俺だって解ってるから、あんたも本当のこと話したんだろ?
信じられないなら嘘を吐いたはずだ、『しゅうた』は友達だって誤魔化せば良い。あんたなら嘘も巧いんだろ、でも俺を信じて話した、」

ひとつずつ明確に低い声が言い、強靭な瞳が英二を見つめる。
その言葉も視線も期待通りに「信頼」が読める、それでも英二は凄艶に微笑んだ。

「今の原さんは信じます、でも10年後はどうだか、」
「変れるほど器用じゃない、」

短い答えに困ったよう精悍な瞳が笑う、その眼差しは英二を信じて逃げない。
逸らさない視線のままに英二を見つめて、迷いない瞳と声がはっきり言ってくれた。

「俺を信用するヤツを裏切ることは、いちばん大嫌いだ、」

―もう、信じても良さそうだな、

判断するまま穏やかに微笑んで、英二は両掌を原から外した。
踵返して元の倒木に腰下すと焚き木を2本取りあげて、炎くべながら気配を読む。
ゆるやかに流れる霧、燻る炭化の香と炎の熱、その向こうで微かな安堵と緊張は残っている。
それでも逃げることなく佇んだ男を振り向いて、英二は10秒前の恐喝相手へ綺麗に笑いかけた。

「原さんは、どうして山岳救助隊になろうって思ったんですか?」
「…は、」

ため息のような声が聞えて、視線が霧を透ってくる。
いくらか途惑う気配に笑いかけた先、日焼顔は呆れ半分に笑った。

「あんた、いろんな貌があるな?」
「刺激的で良いだろ?」

さらり答えて笑いかけた視界に霧がゆっくり流れてゆく。
あわい紗を透かした精悍な瞳は可笑しそうに英二を見、低い声が笑った。

「刺激的すぎる、悪魔と天使ってヤツ?」
「それ、他のヤツにも言われるよ、」

光一にも同じことを言われたな?
その記憶に笑った英二に、原もすこし笑って口を開いてくれた。

「高校の山岳部の顧問が、元は県警の山岳救助隊員だった。それで俺にも奨めてくれた、」

原が自身のことを英二に話したのは初めてだ。
これなら本当に「心配なら要らん」のかもしれない、そう願い英二は綺麗に笑った。







(to be continued)

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第62話 夜秋act.3―side story「陽はまた昇る」

2013-03-08 23:47:23 | 陽はまた昇るside story
対話、真実と嘘と秘するもの 



第62話 夜秋act.3―side story「陽はまた昇る」

午後22時43分、止んだ雨は水蒸気となって覆いだす。
立ち籠めゆく霧こまやかに視界を塞ぎ、昏い白闇に山は姿を変えてゆく。
もうヘッドライトの照域は1mを切った、予想どおりの天候変化に英二は立ち止まった。

「原さん、霧が晴れるまで止まりましょう、」
「ああ、」

頷いて原はトランジスターメガホンを切り、尾根の整地を始めた。
よく馴れた手並みを眺めながら英二は、後藤へ無線を繋いだ。

「宮田です、水根山下の分岐から榧ノ木へ戻る中間点にて、視界1mを切りました。ここで休止します、」
「お疲れさん、こっちも座ったとこだよ。山井や岩崎たちもだ、どこも霧に巻かれてなあ。いつ頃に晴れると思うかい?」

後藤の声に英二は空を仰ぎ、瞳を細めた。
ヘッドライトは水蒸気に遮られ梢に届かない、風はゆるまり霧の流れも遅く徐々に気温は下がっていく。
まだ暫く時は掛かりそうだ、その判断に無線機の向こうへと困りながら答えた。

「午前1時を過ぎれば晴れ始めると思います、ただ気温の低下が心配です、」

冷たい霧と気温低下、この天候に後藤の体調が気遣われる。
肺の病に湿度と低温は優しくない、その心配に後藤は笑ってくれた。

「やっぱり2時間は懸るか、このままビバークの方が良さそうだなあ。俺たちは焚火でも始めるよ、遭難者に光が見えるかもしれんしな、」

いかなる山でも公式には焚火の肯定がされない、けれど緊急的に野営するビバークでは許される。
濃霧に巻かれた今は緊急時だ、この焚火に2つの効果をみて英二は微笑んだ。

「俺たちも焚火します、熊避けにも必要なので。後藤さん、よく体を乾かして冷えないようにして下さいね、」
「ああ、そうするよ。吉村にも言われてるからなあ、お?山井たちから連絡らしいぞ、」

無線機の向こうで話し声が起ち、呆れたような声が笑っている。
もしかすると遭難者発見だろうか?期待と耳傾けると後藤が教えてくれた。

「いま山井たちが遭難者の位置確認したぞ、鷹ノ巣南面の林を歩き回っていたらしい。呼びかけの最中からさっきまでな、」

呼びかけの最中も歩きまわっていた?
その予想外な解答に思わず訊き直した。

「救助要請した後も、ご本人たちで歩いて、場所を移動していたってことですか?」
「そうなんだよ、ペンライトを頼りに動いてたらしいよ。道理でなかなか見つからんはずだよなあ?」

呆れながらも安堵した声が無線機の向こう笑っている。
下手に歩きまわられたら追いかけっこと同じだ、困りながらも英二は笑ってしまった。

「3時間以上ずっと俺たち、追いかけっこの鬼をしていたんですね?」
「全くそのとおりだよ、行動不能って呼びだされた筈なんだがなあ?国村が居たら大変だったぞ、なあ?」

明るい声が笑うよう、光一が居たら確実に怒っている。
その役目も自分が手本にすべきかもしれない、そんな想いに英二は微笑んだ。

「そんなに動けるなら自力で下山しろって怒鳴るでしょうね?たぶん暗闇が不安で、縋る気持ちから動き回ったのだと理解は出来ます。
けれど装備も不十分な初心者が夜歩きまわることは危険です、熊の生息地でもありますし。国村ほどではなくても注意は必要と思います、」

夜の山は野生獣たちが往還し、下手な出遭いかたをすれば事故になる。
その危惧も光一を尚更に怒らせるだろう、そう思案した向こうで後藤も頷いてくれた。

「ああ、きちんと言わなきゃいけないよ。しかしまさかなあ、勝手に動き回られてるとは思わんかったよ?雨の時はじっとしてたらしいがね、」
「それくらい元気があるなら良かったですけど、夏でも雨や霧の疲労凍死は怖いです。その方達も、無事にビバーク出来そうですか?」
「霧で見えないらしいが山井たちが近くにいるからな、まず大丈夫だろうよ。おまえさんこそ今夜、良い機会になるんじゃないかい?」

業務連絡の締めに上司らしい気遣いが笑ってくれる。
もう異動前から後藤は、原と英二が上手くやっていけるのか心配と期待をしてくれた。
その言葉に笑って英二は東の尾根へ顔を向けて、敬愛する上司へと返事した。

「はい、折角なのでそうさせて頂きます。教わりたいこともありますし、」
「そうするといい、山で焚火囲むのは良いもんだ。じゃあ朝にまたな、」
「はい、また行動開始の時にご連絡します、」

笑いあって無線を切ると尾根は車座に均されて、焚き木が器用に組まれてある。
その傍ら屈みこんだ原の手元から朱色の光は起きて、すぐに小さな火は炎に育つ。
濃霧に重たい空気のなか雨濡れた山でも素早い点火ができる、その技能が原にはある。
インターハイの山岳部入賞者らしい手並みに感心しながら、英二は報告と予定に微笑んだ。

「原さん、遭難者の居場所が確認出来たそうです。鷹ノ巣山南面の林で山井さん達が傍にいます、全員でビバークして明朝に撤収です、」
「了解、」

報告に顔を上げ頷くと原はザックを下し、乾いた倒木に腰を据えた。
焚火に目配りしながらテルモスの水を飲む、そんな様子はさすが慣れている。
その斜向かいに英二も座って、ザックから包みを出すと原に渡した。

「握飯です、3つとも梅干しですが、」
「あ、どうも、」

ちょっと驚いたよう瞬いて、けれど素直に受けとってくれる。
グローブを外し包みを開きながら低い声は訊いてきた。

「これ、どうしたんだ?」
「寮の食堂から差入です、着替えに戻った時に頂きました。藤岡と大野さんにも渡してあります、」

笑いかけ説明しながら合掌すると、英二はひとつ頬張った。
いつもながら旨い塩加減に微笑んだ向かい、精悍な瞳が笑んだ。

「あんたって好かれるな、」

これは褒め言葉だ、そう目で笑って原は握飯をかじった。
その口許が「旨い」と笑ってくれる、こんな寡黙なりの表現が原は男っぽくていい。
今まで自分の周囲に居なかったタイプだな、そんな観察と握飯を呑みこむと低い声が尋ねた。

「無線で追いかけっこって言ってたな、遭難者は歩き回っていたのか?」
「はい、ペンライトを頼りに歩けたそうです、」

正直に事実を告げて笑いかける、その先で凛々しい眉が顰められた。
いくらか難しい貌のまま握飯ひとくち齧って、飲みこむと原は呆れたよう微笑んだ。

「困ったもんだな、だから国村さんは怒鳴り屋なのか、」

後藤との会話に「そんなに動けるなら自力で下山しろって怒鳴るでしょうね?」と自分は答えた。
そこから原は察して納得したらしい、この同僚の理解に英二は笑いかけた。

「はい、国村は山が好きな分だけ厳しいんです、」

厳しく美しい山っ子、そんな自分のパートナーが懐かしくなる。
今頃、第七機動隊の寮で周太と救急法を勉強中だろうか?そう想い馳せる焚火の前で原が笑った。

「そういうの良いな、」

短い言葉、けれど同じ山ヤの共感が笑っている。
愛嬌の笑顔ほころばせ、朱色きらめく炎を見ながら原は口を開いた。

「国村さんのクライミング、前に合同訓練で見たんだ。きれいなフォームで凄い速かった、マジで見惚れたよ、」

いつもの一本調子は率直な憧憬がにじんで明るい。
同じ山ヤとして才能を敬愛する、その素直な朴訥へと英二は微笑んだ。

「国村は本当にすごいって俺も思います、アイガーもマッターホルンも綺麗に登っていました、」
「そうだろうな、」

相槌と握飯を口にして笑う、その笑顔がすこし苦い。
いま北壁を話題にした所為だろうか?考えながら英二は握飯を呑みこんだ。
食べ終えてテルモスの水を飲み、いつものオレンジの飴を口に入れると香の記憶が笑った。

―…俺の好きにして良いって英二、言ったよね?ね、痛い?

先週末に逢ったとき周太は優しく笑って、英二の頬を抓ってくれた。
あんなことは誰にもされた事が無い、あの初めては痛くてひどく幸せだった。

―また逢ったときに周太、つねって笑ってくれるかな?

抓られた左頬そっと掌ふれて、つい考えた事に笑ってしまう。
恋人に抓られて喜ぶ自分は、幾らかマゾっ気があるのだろうか?
けれど、もし他の誰かに同じことをされたら自分は必ず怒るだろう。

―だから俺、限定マゾってことだ?

心裡に結論つぶやいて、可笑しくて独り笑ってしまう。
こんな馬鹿を考えることも幸せで嬉しい、けれど自分の弱さに失う所だった。
そうなれば自分は生きられないと思う、けれどアイガーの夜を後悔していない、本当は光一への想いも消せない。
こういう自分の身勝手さに呆れたまま一週間が経つ、それでも今、口のなか転がすオレンジの香に伴侶の記憶は温かい。

―…ありがとう、逢いに来てくれて嬉しかった

嬉しかった、そう言われて心がふるえた。
もう逢いたくないと拒絶される、そう覚悟してあのとき逢いに行った。
それでも本当は離したくなくて、再会の瞬間に謝罪して懺悔してしまった。
あの瞳を見た瞬間に跪いて縋りたかった、攫っても閉じこめても離せないと想った。
こんな自分勝手すぎる恋愛と感情を周太は解っている、それでも拒絶しないで微笑んでくれる。

―そういう周太だから安らげるんだ、俺は…そこが光一への気持ちと全然違う、

この違いに気付けたのは、あの夜があったから。
そう想うけれど傷つけたことも失ったことも、周太と光一ふたりに対してある。
こんな愚かな自分に呆れながら、それでも全てを呑んで微笑むと英二は小さい瓶2つ出した。

「原さん、」

呼びかけて振向いた先輩に、ぽんと1つ軽く投げる。
すぐ受けとった手の中を見た原の貌は、焚火の灯を前に笑った。

「ブランデーかよ、持ち歩いてんのか?」

ゆれる炎に小瓶の銘柄を笑って、意外そうな眼差しを向けてくれる。
その目に笑いかけて英二は、瓶の蓋を手元に開きながら正直に答えた。

「気付け用にですけどね、少量なら効果がありますから、」

アルコールは俗に言われる体温上昇の効果は一過性な為に期待出来ない。
けれど脳内のドーパミン増加から精神を高揚させるため、気付け薬には遣える。
その目的で常備はしてあるけれど、実際に山で開栓することは今が初めてだ。それも愉快で英二は小瓶を掲げ微笑んだ。

「ゆっくり飲んで下さいね、山は回りが早いので、」
「ああ、」

かすかに笑って原も小瓶に口付け、ほっと息吐いた。
英二も少し舐めるよう口にして、ふっと甘い熱が舌に広がっていく。
久しぶりの味と香に微笑んだ斜め隣から、低い声がすこし笑った。

「あんた、意外なところが多いな、」

意外だ、そう原が言う時はいつも笑ってくれる。
この辺りから色々と聴いてみたくて、綺麗に笑って問いかけた。

「俺のどんなところを、意外だって思うんですか?」
「まず、酒だな、」

手の小瓶を焚火に翳し、精悍な瞳が笑う。
山の炎ゆれる貌が原は似合っている、そんな感想と微笑んだ先で低い声は続けた。

「寮の屋上で酒は飲むし、今も飲んでる、単なる優等生タイプじゃなくて意外だよ。あと、あんたって意外にドジるだろ?」

優等生タイプじゃなくて意外、意外にドジる。
これは吉村医師も指摘してくれた事だ、可笑しく楽しくて英二は笑った。

「よく噎せたりすることですか?」
「それもある、」

ひとこと言って、日焼顔が軽く首傾げこんだ。
焚火を透かすよう精悍な目が真直ぐ見つめてくる、その眼差しは微かに途惑う。
この一週間ほど原が時おりする表情を今も見て、聴いてみたいまま綺麗に笑いかけた。

「原さん、先週の土曜から俺に言いたいことがありませんか?」
「え、」

かすかな驚きこぼして、精悍な目がすこし大きくなる。
やっぱり土曜に何か原因があった、確信に微笑んで英二は問いかけた。

「先週の土曜日に秀介の勉強をみた後からです、原さん、俺に対して線引きしてますよね?何か俺が失礼な事をしたのなら教えて下さい、」
「いや、失礼な事は無い、」

はっきり否定して少し笑ってくれる、けれど困った空気は変わらない。
ゆっくり流れていく厚い霧に火影ゆらぐ、その陰翳に原はため息ひとつで口を開いた。

「あのときデートしてきたんだろって俺は訊いた、あんたは肯定したよ。でも2年坊主は『しゅうた』とあんたが会ってたって言ったんだ。
それから考えこんでるよ、『しゅうた』って女の名前があるのか、犬とか動物なのか、やっぱり人間の男なのか。いわゆる詮索ってヤツだよ、」

そんなこと1週間も考え込んでいたんだ?

しかも寡黙な原が長く一息に喋った、それくらい懸案事項なのだろうな?
そう思った途端に可笑しくて笑ってしまう、けれど笑いごとでは済まない。
この「詮索」への解答は自身と周囲の今後を決定する「答え」になる、決して安易に出来ない。

―選択肢は二つだ、嘘か真実か?

真実を選ぶなら、周太がデートの相手で恋人だとカミングアウトする。
それは同性愛の偏見に直面するリスクが高い、その痛みを周太にも負わせるかもしれない。
英二の立場、職務、階級に関わる全員、光一をはじめ後藤副隊長に吉村医師、父まで連座させる可能性がある。
もし嘘を選ぶなら周太は大切な友達だと言えばいい、それで体面は保てるだろう。
けれど原は本心から納得は出来ない、それくらい思慮もある男だと2週間で解かっている。
なにより、男同士の恋愛は日陰者なのだと自ら認めて貶めることになる、それは自分自身が赦せない。

偏見のリスクに今の自分が、その責任全てを負う事が出来るのか?
同性愛は偏見の対象だと自認して「嘘」に誇り捨てる選択が出来るのか?

この選択を今、ここで自分だけでしなくてはいけない。
いま周太に赦しを乞えない、光一の許可も得られない、美幸にも後藤にも吉村にも誰にも相談できない。
それでも自分は今ここで独り「正解」を見極めるしかない、そんな想いに英二は隊服の胸元を右掌にそっと掴んだ。

―馨さん、今、全てを懸けて馬鹿をやっても、赦してくれますか?

レインスーツと隊服と化繊のTシャツ、3枚の布越しに堅く確かな輪郭をなぞり心に俤を想う。
この合鍵で書斎机の抽斗は13年を超えて開き、馨の日記帳と今の運命が自分に贈られた。
紺青色の表紙に秘めた苦悩と幸福の過去たち、あの全てに導かれ今この自分は此処にある。
だから誰より馨に赦しを祈りたい、そう微笑んで英二は右掌を披き質問へ綺麗に笑った。

「周太は俺の大切な人だよ、瞳と笑顔が綺麗な男なんだ、」

真直ぐな想い、そのままに笑った唇にブランデーほろ苦く、けれどオレンジの香は温かい。






(to be continued)

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雪花春来、寒の緋桜

2013-03-08 01:35:32 | お知らせ他
春、到来 



こんばんわ、朝一短編「雪花の鏡5」加筆校正が終りました。
御岳剣道会のシーンからスタート、光一が剣道を始めるエピソードです。
眠いです、すみません、本篇の連載は今日のどこかになります。

写真は寒緋桜、近所の公園にて撮影しました。
いわゆる染井吉野より花は半分ほどの大きさ、チューリップのよう釣鐘状で下向きです。
色も濃い紅桃色で桜のスタンダードなイメージと異なります、でも桜なんですよね。

今も書きながら途中ふっと記憶がありません。笑
取り急ぎ、



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第62話 夜秋act.2―side story「陽はまた昇る」

2013-03-06 23:02:54 | 陽はまた昇るside story
経過と実質、解かれるもの 



第62話 夜秋act.2―side story「陽はまた昇る」

ほろ苦くあまい香がふっと届いて、英二は微笑んだ。
向かい合うパソコン画面に診察室はルームライトに映り、声が3つ白衣の背に愉しい。
デスクランプの下に資料の印刷していく音とプリントチェックする傍ら、つい会話が聞こえる。

「でね、先生?そのハイカーのおばちゃん、30分も喋っていったんですよ、」
「30分ですか、それだけゆっくりされたなら元気になったでしょう?」
「そりゃもう元気いっぱいで帰りました、でも30分も喋るって凄くないですか?ねえ、原さん、」
「俺なら2分だな、」
「あははっ、カップ麺より保たないんだ、原さん?」

カップ麺より保たない、そんな藤岡の表現が面白い。
それを気楽に言われるようになった原の、馴染み始めた空気に安堵できる。

―原さん、このまま馴染んでくれると良いな。特に藤岡とは、

気楽に話せる相手が同じ寮に居ることは、この仕事では正直ありがたい。
そんなふう藤岡と原が認め合えたら真逆のタイプ同士、たぶん良いコンビになるだろう。
あっけらかんと明るい話し上手だけど忍耐の持久力が強い藤岡、言葉少ない寡黙でも意外な愛嬌がある原。
そんな二人の会話を2週間の朝晩に見てきた感想は「漫才」だ?そう思いながら仕事する背後で会話が聞えてくる。

「カップ麺って言えば原さん、昼の自主トレで食ってたカップ麺って焼きそばでしょ?」
「ああ、」
「あははっ、やっぱりそうなんだあ、あっはっは、」

カップ焼きそばの何が可笑しいんだろう?
そんな疑問を意識の隅っこに資料を捲る、その背に解答が笑った。

「湯きりしないでカップ焼きそば食ったでしょ、原さん?そのままソースの粉入れちゃって、大野さんと変だよなあって言ってたんすよ、」

―なにその食べ方?

心ひとり言につい顔あげてパソコン画面を見てしまう。
その背後から低い声がいつもの一本調子で、普通に答えた。

「つゆ焼きそばってあるし、山の水分は貴重だ、」

その通りだけど味が薄いだろう、っていうか汁あり麺を選べばいいし?

そう突っこみ入れたくなる、なにより「なにも変ではない」という原のトーンが面白い。
つい笑いそうになる口許を拳で押えて、それでも頭脳はチェックに集中する意識へ藤岡が大笑いした。

「あっはっはっ!確かに水分貴重ですけどね、だったら普通のラーメンの食べれば良いっすよね?」
「あれも旨いんだ、」
「味、薄くないですか?麺だけで調度いいソース量なのに、あははっ」
「あれで俺はいい、」
「でも原さん、最初の一口目で『うっ?』ってなりましたよね、」
「気のせいだろ、」

大笑いと一本調子の応酬に笑いたくなる、きっと今、吉村医師も笑っているだろう。
つい顔だけ笑いながらも視線は資料を確認して、ファイル保存すると電源を落とした。
パソコンデスクを片づけてディスクと書類を携えると、英二は吉村医師に笑いかけた。

「先生、お待たせしました。書類はいつもの箱でよろしいですか?」
「はい、お願いします。予定より速かったですね、お菓子もう1ついかがですか?」
「ありがとうございます、」

穏やかな笑顔を向けて奨めてくれる、こんないつも通りが嬉しい。
嬉しく頷きながら書類たちをしまって、白衣のポケットで携帯電話が動いた。

―来た、

予感と電話を開きながら見た窓は、最後の残照がもう淡い。
この時間になれば山中は全くの闇、そんな刻限の覚悟と通話を繋いだ。

「はい、宮田です、」
「週休にすまん、道迷いだ。鷹巣山で三十代男性ほか1名、」

岩崎の声に英二は胸ポケットから手帳を出し、ペンを持った。



いまは真夏で陽が長い、それでも19時半の谷は昏い。
ミニパトカーを降りて見上げる空も雲が張りだし、風は湿っている。
この観天望気に英二は素早くザックを開きながら、原へと提案した。

「原さん、集中的な雨が降ると思います。念のためレインスーツのパンツだけでも履きませんか?」
「そうだな、」

原も素直に頷いて、同じように装備を整えてくれる。
すぐ終えてザックを背負い、ヘッドランプを点灯すると英二は後藤副隊長へ無線を繋いだ。

「宮田です、今から原さんとノボリ尾根に入ります、」
「吉村の手伝い日にすまんなあ。でもそのルートは宮田が強いからな、頼むよ?この時間と空だ、無理せずビバークしてくれよ、」

伸びやかな後藤の声はいつも通り健康的で、病など嘘だと思いたくなる。
けれど吉村医師に任された通りに英二は提言と微笑んだ。

「了解です、後藤さんも無理は絶対にしないでください、」
「お、吉村に聴いたんだな?」

すぐに察して無線の向こう笑ってくれる。
この明るさは救いだ、その感謝に階段を昇りながら英二は頷いた。

「はい、異変はすぐ言ってくださいね?対応があるので、」
「ははっ、そっちも頼りにしてるよ、すまんなあ。さあ、今回も全員無事に帰還だ、いいな?」

大らかな笑い声と言葉が今、ただ温かい。
この最高の山ヤが頼りにしてくれる、その信頼と誇りに英二は微笑んだ。

「はい、行ってきます。」
「おう、俺も水根から登ってるよ、帰りは交番に寄ってくれな、」

伝達事項に意思疎通を笑いあって無線を切った。
すぐ原を振り向くと、登りきった階段の先を示し微笑んだ。

「ここがノボリ尾根の入口です、今は使われていませんが榧ノ木山頂にまだ道標があります、」
「ふん、地図の無いヤツが迷うな、」

ヘッドライトに精悍な目を細め、かすかに笑ってくれる。
皮肉屋にも見える笑い方だけれど瞳は昏くない、そう今は解かるようになった。
原の本質はさっぱりとして話しやすい、ただ口重たいところが誤解されがちでいる。

―だから異動のことも原さん、周りに色んな誤解をされてるんだ。きっと遠征訓練のことも、

今回の異動を原は「不服」だと周囲に思われていた、けれど本当は違うと青梅署では理解され始めている。
たぶん海外遠征訓練の辞退にも原なりの理由があるだろう、それを聴いてみたい。
けれど、ここ数日の原は英二に対して時おり途惑うような素振をする。
それも吉村医師に相談してみたいと思いながら、しそびれた。

―自分で聴いてみるしかないな、ここは山だし、

山で焚火を囲んだら、原の重たい口も開かれやすいだろう。
そんな話の切り出し方を考えながらも五感を山に空に向け、昏い道を踏みしめ登っていく。
登山靴の下はザレ場の急登で踏み跡も無い、ここを夜間に進むのは通った経験者でなければ難しい。
後藤が自分をこのルートに配備したいのは当然だ?そう微笑んだ後ろ話しかけてきた。

「よくルートが解かるな、まだ一年で、」

低いけれど夜陰にも透る声はぶっきらぼうでも、どこか温かい。
幾らか一本調子なトーンは原らしくて何か良い、前方を向いたまま英二は微笑んだ。

「俺の指導係は厳しいんです、お蔭で一年でもなんとかなってます、」
「ふん、国村さんか、」

頷く気配に背後のヘッドライトもゆれて深い木立に光ゆれる。
辿っていく尾根は痩せて狭い、ここを夜間に歩くのはライト無しでは危険だ。
けれど今回の遭難者も照明器具を持っていない、その事実に軽くため息吐いた後ろ原が訊いた。

「ライトが無い登山者、奥多摩は多いんだろ?」
「はい、三品のうち皆さん持っているのは水くらいです、」

水筒、雨具、照明器具、この3つは軽ハイキングでも必携とされ山の三品とも言う。
けれど奥多摩のハイカーは水以外を持たないケースが多い、それが遭難に繋がってしまう。
この現実は警視庁の山岳レンジャーである以上は当然知っている、その通りに原も言ってきた。

「地図も無い、ライトも雨具も無い。もう登る前から遭難してるな、」

これを遭難と言うならさ、登る前から遭難しているよ。

そう去年の秋も同じ台詞を聴いた、それが初めてこの廃道を登った時だった。
あの後も強盗事件の時に辿っている、どちらも光一が先頭でリードして登った。
そして今は自分が先頭を登っていく、そんな時間経過と経験値に過去はもう、遠い。
それでも確かに存在していた過去の自分を思い、着実に登山靴を運びながら英二は笑った。

「一年半前の俺も、登る前からのクチでした、」

一年半前の自分は世界を何も知らなかった。
高級住宅街と便利な都市部だけが自分の世界だった、笑顔ひとつで全てが誤魔化せると思っていた。
ただ人間的都合しか知らない、それが昔の自分でいる。この事実に笑った背中を可笑しそうな声がノックした。

「ふっ、顔だけならそんな感じだな、」
「やっぱり俺、顔が問題ですか?」

こんな山中でも顔を言われるんだな?
この馴れてしまった指摘に今は、衒いなく笑えてしまう。
そんな自分になれた事も可笑しくて笑って、けれど後ろは率直に言ってくれた。

「いや、今の面構えは悪くない。この辺からトラメガやるか?」

褒め言葉と業務連絡を交えてくれる。
そんな原らしい態度が何か嬉しくて、微笑んで英二は頷いた。

「はい、呼びかけお願いします、」
「おう、」

頷き、歩きながら原はトランジスターメガホンをセットしてくれる。
その慣れた手つきを見ながら無線を繋ぎ、岩崎へと連絡した。

「宮田です、これからノボリ尾根にて呼びかけを始めます、」
「了解、30秒間隔で頼む。その合間に榧ノ木尾根もやるよ、」
「解かりました、それで副隊長に報告しますね、」
「頼んだよ、」

無線を切って、すぐにまた後藤副隊長に繋ぐ。
榧ノ木尾根との伝達事項を報告する傍ら、原と岩崎の呼びかけは始まった。
15秒ごと雨降谷を挟んだ声は谺していく、その共鳴に求める応答を探しながら無線も会話する。

「副隊長、遭難者からの反応はありますか?」
「おう、いま携帯が繋がったよ。どちらも大きく聞こえるそうだ、」
「じゃあ雨降谷か、榧ノ木山から水根山の間でしょうか?応答は聞えないので、風向きから山頂方向だと思います、」
「その辺の可能性が高いな?あとは入奥沢かもしらん、浅間尾根の山井たちにやらせてみよう。原と岩崎は一旦停止だ、」
「はい、岩崎さんへの連絡を原さんにお願いします、」

話す無線の向こう、他の話し声が2つ聞こえてくる。
それを聴きながら英二もジェスチャーで停止を告げ、原はトラメガを切って無線を繋いだ。
今度は左手の尾根から呼び声が響きだす、この同じタイミングに後藤が教えてくれた。

「宮田、この呼びかけも聞こえるらしいぞ、どう考えるかい?」
「水根沢林道と榧ノ木尾根が交差する、あの辺りで尾根に近い仕事道ではないでしょうか、」

後藤の問いに脳内に登山図を眺め答えて、原に山頂方面を指し示す。
その応答に無線の向こう、楽しげに後藤が笑ってくれた。

「良い判断だ、それで頼むよ?ちょいと風が湿ってきたな、雨に警戒しろよ?」
「はい、ありがとうございます。では水根山に向かいます、」

無線を切って見上げた空は、星の数が減っている。
これだとスコールのよう突然降りだすかもしれない、この観天望気に英二は振向いた。

「原さん、じきに降るかもしれません、その後たぶん霧が出ます、」
「おう、急ごう、」

短い返答にヘッドライトの下、精悍な目が少し笑ってくれる。
英二の観天望気を信じた、そんな目に微笑んで歩きだす道は木の香が先刻より濃い。
嗅覚にも湿度の変化を計りながら登る耳元、虫の羽音が掠めて草いきれ蒸れあがる。
滲みだす汗にも大気の重さを感じながら速めていく足に、背後の足音も離れず遅れない。

―雨の前に、場所だけでも特定したいけど、

遭難者の居場所だけでも今夜中に確認したい。
この暗さでは疲労した初心者の下山は難しいだろう、それでも場所がわかれば声掛けが出来る。
近くに救助隊がいる、そう解るだけで精神的に救われて頑張れるはず。そんな想いにも念のため無線を繋いだ。

「宮田です、遭難者の方は雨を避けられる場所にいますか?あと5分ほどで降りだしそうです、」

夏でも雨から低体温症を惹き起すことがある。
おそらく遭難者は彷徨で心身とも消耗した、そこに雨うたれたら弱い。
その心配に問いかけた向こう、頼もしい声が応えてくれた。

「ビニールシートをかぶれって言ってあるよ。よく木が繁った場所らしいから平気だろう、お蔭で展望が効かんから位置確認できんがな、」
「よかった、ありがとうございます、」

やっぱり後藤は気を配ってくれてある。
いつもながらの信頼に笑った向こう、明るいトーンが言ってくれた。

「こっちこそだよ、俺も雨降りの心構えが出来たよ。後は霧かもしれん、足許に注意で無理するなよ?」
「はい、気を付けます、」

感謝しながら通話を終えて無線をしまい、ウエストからレインスーツの上着を解いて着こんだ。
その後ろで着終えた原は空を仰ぎ、ヘッドライト照らした梢から雫が横切った。

「雨だ、」

午後20時半、降りだす山の雨かわして緩やかな尾根に着いた。





(to be continued)

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冬花早春、光の一瞬

2013-03-06 13:15:56 | お知らせ他
蕾固く、けれど時は 



こんにちは、昼休憩に失礼します。
あわいブルーの空が春らしい真昼の神奈川、麗かで良いです。
花粉やら飛来物資がアレなこの頃ですが、こちらを見て下さる西日本の方いらっしゃいますか?

いま短編連載「雪花の鏡4」加筆校正が終わりました。
冬夜に温かな風呂場で笑いあう、幼い光一の幸せなワンシーンです。

こういうトコ書いていると本篇の光一とオーバーラップして切ない時があります。
齢稚い子供という蕾の季節を、満開の花のような存在と過ごした幸福の記憶。
その全てが懐かしく忘れ得ぬ想いに光一は、蕾のまま大人になりました。
それでも本篇の光一は男として人間として、孤高にも花ひらく時です。

今日は夜、第62話「夜秋」続編を予定しています。
避けられない現実に向きあう宮田の、選択の物語です。

取り急ぎ、



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春浅夜秋、めぐらす物語

2013-03-05 22:03:37 | お知らせ他
夜の秋、晩夏に冬を想い



こんばんわ、陽光が春めいてきた神奈川です、

いま第62話「夜秋1」加筆校正が終わりました。
第61話から約一週間の金曜日、青梅署診察室からスタートです。
このあと短編UPを予定しています。

写真は凍結した秩父湖です。
夕刻の薄暮に蒼い湖面は雪に覆われて、山蔭の黒と空の青に呼応します。
自然の色彩感覚ってすごいな、といつもながら思ってしまう。

取り急ぎ、
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第62話 夜秋act.1―side story「陽はまた昇る」

2013-03-05 20:41:04 | 陽はまた昇るside story
生命、その辿るべき物語に 



第62話 夜秋act.1―side story「陽はまた昇る」

The Clouds that gather round the setting sun
Do take a sober colouring from an eye That hath kept watch o’er man’s mortality;
Another race hath been,and other palms are won.
Thanks to the human heart by which we live. Thanks to its tenderness,its joys,and fears,
To me the meanest flower that blows can give Thoughts that do often lie too deep for tears.

沈みゆく陽をかこむ雲達に、
謹厳な色彩を読みとる瞳は、人の死すべき運命を見つめた瞳
時の歩みを経、もうひとつの掌に勝ちとれた
生きるにおける人の想いへの感謝 やさしき温もり、歓び、そして恐怖への感謝
慎ましやかに綻ぶ花すらも、私には涙より深く心響かせる


青梅署警察医の診察室、窓の黄昏に一節の詩が浮ぶ。
山ヤの警察官になってから幾度、この部屋で検案所で山で口遊んだろう?
去年の10月から10ヶ月間を見つめ続けた山の現場、そこで何人もの心と尊厳に出会った。
そのときに何時も自分を学ばせてくれた人への感謝は、今も手元の一杯に少しでも返したい。
そんな願いに湯を注いでいく芳香は、ゆるやかに白衣の腕から白い天井をめぐり昇ってゆく。

「佳い香ですね、昼のと違うかな?」

穏やかな声に振り向くと、菓子箱を持った白衣姿が微笑んでくれる。
秋からこの夏まで季節一巡に見てきた笑顔が嬉しい、この恩師へと英二は綺麗に笑った。

「はい、新しいのを開けました。前のは昼の分で最後だったんです、」
「そうでしたか、前のも佳い香でしたけどこれも良いですね。どこで買ってきたんですか?」

話しながらいつもの小皿に菓子を出す、こんな吉村医師の笑顔は自分の日常になっている。
けれど2週間後には今を懐かしむ、そんな想い微笑みながら英二は答えた。

「青山の店です。墓参りの時に湯原の母と食事したんですけど、そこで見つけて。先生のお好みに合うと良いんですけど、」
「きっと好みです、香が好きですから。さっきの資料はチェック、どのくらいですか?」
「5分の4まで終わっています、あと30分あれば出来る予定です、」

なにげない会話と淹れるコーヒーから、一週間ほど前の時間が香ってくる。
あの日の美幸はいつに増して笑顔が透けるよう綺麗で、また不安が起きてしまう。

―もう盆は終わったんだ、でもお母さんは元気だ、大丈夫。周太も無事なんだ、

心に言い聞かせながらカップ二つをサイドテーブルに置き、いつもの椅子に腰下す。
こんなふう美幸を心配したくなるのは、後藤のカルテと咳が気になる所為かもしれない?
どちらも漠然の不安たちに、つい白衣の腕を組んだ英二に穏やかな微笑が訊いてくれた。

「なにか心配事のある顔ですね、どうしました?」
「あ、すみません、」

仮にも上司の前で腕組んでしまった、その失礼に英二は腕を解いた。
普段どおりに膝で軽く手を組んで座りなおす、そんな様子に吉村医師は笑ってくれた。

「そんな畏まらなくて良いですよ?ここは警察署で職場でもありますが、寛いでもらうスペースだとも私は思っています。
寛げなかったら心と体を癒す目的は果せませんからね?それが私の医者としての仕事でもあるし、一人の人間として願うことです、」

穏やかな笑顔の言葉は、どこまでも篤実が温かい。
あらためて尊敬と信頼に素直なまま、英二は微笑んだ。

「ありがとうございます、いつもお気遣いさせてすみません、」
「それも私が好きでしてる事ですよ?おせっかい序でです、嫌じゃなかったら宮田くんの心配事を聴かせてください、」

マグカップに口付けながら訊いてくれる、その穏やかな眼差しにほっとする。
この一週間も忙しくて吉村医師とゆっくり話せなかった、その間に考えたことへ英二は口を開いた。

「墓参りの時、湯原の母がいつもより綺麗に笑うよう見えたんです、それが不安になります。母は最近、休みも取っていないようで、
見た目は相変わらず若くて元気ですし、食事もしっかり摂ってくれます。でも疲れが溜まっているかもしれないって、気になっていて。
あの日は盆の前で湯原の父たちを迎えに行きました、そういうことも意識にあるから余計に母のことも気に懸るのかもしれませんが、」

周太の父、馨は妻の美幸を今も愛している。
もう亡くなって14年を過ぎる、それでも家の書斎に馨の残り香は温かい。
そして美幸も変わらず書斎机に花を生ける、そんな夫婦の深い想いは惹きあうようで、不安になる。

―お母さんは本当は追いかけたかったんだ、馨さんが亡くなった時。でも周太の為に馨さんの為に生きてる、

周太は馨の宝物、それが馨の日記帳から解る。
その想いは美幸も同じ、そして夫への想いがあるから尚更に大切にしたい。
そうした二人の想いを2カ月前、英二の懺悔を聴いた美幸は話してくれた。

―…どうか生きて幸せになって下さい、絶対に生きて子供を生んで、幸せに育ててほしい… 
  あのとき約束をくれたから、だから私はあのひとが亡くなっても生きて周太を育ててきたの

周太を身籠り馨と結婚した頃、美幸は心中を選ぼうとした。
ようやく得た幸福も恋愛も離したくない、馨の悩みを救いたい、そう願い彼女は睡眠薬を買った。
それでも馨が願ったことは「子供の誕生と幸せな笑顔」だった、だから彼女は今も生きて笑っている。
そんな美幸の生き方は美しい、けれど息子の無事と幸せを確信してしまったら美幸はどうするだろう?
そう考えてしまった一週間の想いに、そっとマグカップを両手にくるみながら吉村は言ってくれた。

「そんなふうに心配なのはね、家族として想えてる証拠かもしれません。私も盆が来るたび、よく御岳の両親を同じように心配しました、」

盆が来るたびに、吉村の両親を心配する。
その言葉に一週間前、雅樹の墓前で聴いた言葉が想われて英二は尋ねた。

「雅樹さんが亡くなられてから、ですか?」
「そうです。私の両親はね、雅樹をとても愛していましたから、」

寂しげでも温かい笑顔の言葉は、懐かしさと愛惜に充ちている。
この言葉だけで雅樹が吉村家にはどういう存在なのか解ってしまう、そして憧憬がまた篤くなる。
本当に雅樹のよう自分も生きてみたい、その想い素直なまま英二は微笑んだ。

「俺も雅樹さんみたいに家族を大切にしたいです、俺には高望みかもしれませんけど、」
「君なら出来るよ、大丈夫、」

明るんだ笑顔で頷いてくれる、その温もりが嬉しい。
ひとくちコーヒーを啜りこんで息つくと、吉村医師は真直ぐ英二の瞳を見つめ言ってくれた。

「でもね、これだけは雅樹の真似をしないで下さい。宮田くん、君は遭難死などしたら駄目だ。ちゃんと齢を重ねて長く人生を全うしなさい、」

万感の想い、その全てが言葉に温かい。
温かくて、心を真直ぐ響かせ瞳に熱を起こしてしまう。
こういう言葉を贈ってくれる人が実の親だったら、そんな願いごと英二は綺麗に笑った。

「はい、俺は遭難死は絶対にしません。だって先生、色んな人と俺は約束してるんです。ちゃんと爺さんになるまで生きます、」

最初に約束した相手は、美幸だった。
周太の天寿を全うさせて欲しい、周太より一秒でも長く生きて見守ってほしい。
そう彼女は約束を願ってくれた、同じよう周太本人にも自分から約束している。
そして光一とも生涯のアンザイレンパートナーとして、共に生きる約束をした。

―光一のこと、雅樹さんの代わり全ては出来ないってもう解ってる。それでも約束なんだ、

アイガーの夜は一瞬のアルペングリューエンと同じだった、そう納得している。
もう恋愛に抱きあうことは無い、それでも、いちばん大切にしたい約束は永遠に変らない。
この全てを吉村医師には何も語れない、けれど想いの真実は伝えたくて声に変えた。

「こんなこと言ったら烏滸がましいですけれど、先生、俺ね?雅樹さんの一部分が俺の中でも生きてくれてるって、信じてるんです。
俺は本当は根暗です、でも北鎌尾根から帰ってきてから心の一ヶ所が明るいんです。そして光一のこと、よく考えるようになりました。
北壁でもハーケンやカラビナを冷たく感じませんでした。毎日の訓練でも感じる時があります、だから俺は、遭難死はきっとしません、」

Do take a sober colouring from an eye 
That hath kept watch o’er man’s mortality;
Another race hath been,and other palms are won.
Thanks to the human heart by which we live.

この詩にこもる意義は、雅樹の死と生を透し深まっていく。
こんなふうに生きることを、人の心を想うことを自分は忘れたくない。
もし忘れたら最も忌嫌する存在と自分は同じになってしまう、だからこそ「雅樹」を想いたい。
これは自分の意志で夢で覚悟だ、そう想うまま笑いかけた真中で吉村医師は幸せに笑ってくれた。

「君にそう言ってもらうと本当に嬉しいです、なんだか雅樹の弟みたいに想えて、つい頼りたくなりますよ?今日も手伝って頂いて、」
「そういうの照れますね?でも嬉しいです、俺が出来ることなら言って頼ってください、」

こういうのは素直に嬉しくて、そして「弟」という言葉に懐かしい記憶が瞳を披く。
もう17年前になる冬の日、あのとき触れあった人は兄のようで思い出すたび慕わしい。

―…努力することも人を援けることも出来る強い優しい男は、かっこいいよ?そういうの僕は憧れるんだ
  努力はね、自分は出来るんだって信じられる強い気持ちが必要だろ?そうやって逃げないで頑張れる人って立派だって思う

そんな言葉と綺麗な笑顔を贈ってくれた、あのとき貰った絆創膏ケースは今も胸ポケットにある。
もう顔も朧にしか思い出せないけれど感謝は変らない、あの優しい人は今頃どうしているだろう?
そんな想いとコーヒーを啜りこんで、マグカップをテーブルに置くと吉村医師が笑いかけてくれた。

「後藤さんとの富士登山は、日にちが決ったんですか?」
「はい、28の夜に発って29早朝からの予定です。閉山後の方が良いだろうからって、この日になりました、」

夏の富士は混雑する、けれど閉山後ならば一般ハイカーは登らない。
その方が自分たちにとって訓練にもしやすいだろう、そう後藤と考えて日取りを決めてある。
まだ見たことのない夏富士を想いめぐらせて、その前で吉村もカップをテーブルに置き静かに言った。

「宮田くん、話しておきたいことがあります。後藤さんのことです、」

これだけで話の内容が解ってしまう。
美幸のこと同様に気懸りな現実に、英二は覚悟と微笑んだ。

「Verbot der Zigarette、のことですか?」
「やっぱり気づかれていたんですね、」

ロマンスグレーは切長い目を笑ませて、すこし安堵したよう微笑んでくれる。
きっと英二に切りだすことを少し悩んでくれていた、その配慮に笑いかけた向こう医師は口を開いた。

「肺気腫が疑われます。後藤さんは長く喫煙者で50代です、発症例として珍しくはありません、」

肺気腫は肺胞の組織を破壊されて起きる肺機能の低下で、主に煙草や大気中に含まれる汚染物質が原因となる。
また肺に強い負担を掛ける管楽器奏者にも見られることから一種の職業病とも言われ、山ヤにとってもダメージが大きい。
この病名にカルテの単語から覚悟した現実が傷む、小さな溜息を呑みこんで既存の知識から英二は尋ねた。

「確かに最近、副隊長はトレーニングの後に咳こむことが多いです。肺気腫は呼吸の吐き出しが上手くいかなくなる、その発症でしょうか?」
「そうだと思います。空気を吸う方は出来ると思いますが、息継ぎや深呼吸が増えていませんか?」
「はい、越沢でも登りきった後は休憩時間が長くなったと思います、」
「そうでしょうね、酸素の吸収量は低下しているはずですから、」

答えてくれるトーンは落着いている、けれど哀惜が優しい。
山岳救助隊副隊長の後藤と吉村医師は同じ青梅署の同僚であり、それ以前からの旧友でもある。
なにより山ヤ仲間として優れたクライマーを惜しむ、その気持ちを噛みしめるよう医師は述べ始めた。

「肺気腫は肺胞の破壊で肺組織の柔軟性が失われます、そのために吐き出すことが難しくて肺は呼気に膨らんだ状態から戻れません。
そうなると胸部が迫出して横隔膜や心臓を圧迫して、悪化すると体つきも樽状に変化します。でも後藤さんの体型は殆ど変化していません。
まだ痰も出ていないようです、気管支炎の併発も現段階では見られません。この段階で維持が出来るならレスキューは続けられると思います、」

まだ今なら間に合う、けれどそれは「山岳レスキューは」と限定している。
この言葉が示す現実は吉村医師の表情でも解かってしまう、その理解に英二は尋ねた。

「肺気腫の治療は現状維持と症状の改善で、元通りの回復は出来ませんよね、壊れた肺胞組織の再生方法は未だありませんから。
もう酸素吸収量も以前通りには戻らない、当然VO2maxも低下します。もう高難度のクライミングは、後藤さんは出来ないのでしょうか?」

日本最高の山ヤの警察官、国内ファイナリストクライマー、アルパインクライミングの猛者。
どれも後藤への賞賛を示す言葉たち、けれど侵された病魔に全ては覆されていく。
そうカルテの単語から覚悟していた、それでも医師に確認する瞬間は、辛い。

―でも受けとめろ、泣くな、

自分に言い聞かせて1つの呼吸に覚悟を肚落す。
いま吉村医師が話してくれるのは、後藤を支える信頼が自分にあると認めるからだろう。
そう解るから今は泣きたくない、泣くなら独りの時にすればいい。この想い微笑んだ正面から、吉村医師は告げた。

「はい、おそらく冬富士も登れないでしょう。夏の滝谷が限界だと思って下さい、」
「わかりました、」

微笑んで言葉を受けとめ、ただ呑みこむ。
事実を呑んでしまえば肚も決まる、この覚悟に微笑んで英二は可能性を問い始めた。

「内科治療と外科治療がありますよね、どちらの方が登山への可能性は残りますか?」
「内科は気管支拡張剤や去痰剤の投与になりますが、肺機能の維持が目的で根治治療は望めません。外科は根治が狙えます、」
「手術で根治した場合、VO2maxは戻せなくても他で登山の力を補うことは出来ますか?手術のダメージにもよると思いますが、」
「ある程度を補うなら、SpO2の能力次第で可能性もあるでしょう。もし手術なら最小限のダメージに抑える方法を遣います、」

方法を遣う、そう告げた声は穏やかな覚悟に温かい。
このトーンに英二は信頼のまま尋ねた。

「先生、もし後藤さんが手術を選んだら、執刀医は先生が務めて下さるんですか?」
「はい、そのつもりです。ですからこれを、」

答えながら微笑んで白衣姿は椅子を回し、机の隅からファイルを取った。
そのまま英二に手渡すと、長い指でページを開いて医師は微笑んだ。

「肺気腫の症例と外科手術の事例をまとめてみました、執刀経験は御岳に戻ってからも何度かあります。それからね、このページですけど、」

穏やかな声と一緒に長い指はページを繰り、詳細な資料が現われる。
印刷された文字に図表、ボールペンの端正な筆跡が充ちる紙面を示し吉村は教えてくれた。

「登山の運動生理学についてまとめた資料です、肺気腫の治療と予後の可能性やトレーニングも書かれています。どれも雅樹の研究です、
雅樹はね、自分と国村くんのお父さんを被験体にして高地での人体について研究していました。どれも現場に役立つ内容で、ありがたいです、」

語る貌は愛惜にも明るい、そこには同じ山ヤの医師として息子を認める誇りがある。
生と死に別たれても父子は医学と山で繋がりあう、そんな姿への素直な賞賛に英二は微笑んだ。

「後藤さんも安心してますね、先生と雅樹さんに任せられるなら、」

後藤は山ヤとして医学生として雅樹を嘱望していた。
その雅樹の研究が後藤を生かす、そんな廻りの温もりに吉村医師も笑ってくれた。

「ありがとうございます、そう言って頂くのは本当に嬉しいんです。私にも雅樹にもね、」

本当に嬉しい、そうロマンスグレーの笑顔ほころぶ。
この笑顔を雅樹も喜んでいる、そう感じながら英二は率直に尋ねた。

「先生、今この話を俺にしてくれたのは富士登山があるからですよね?注意点や準備を教えて下さい、」

言いながらワイシャツの胸ポケットから手帳をだし、ペンを片手にページを開く。
その前で吉村もファイルのページを眺めながら説明を始めてくれた。

「まず歩く速度に気を付けて下さい、標高と斜度でATも変動します。とにかく疲労を押えて肺の負担を軽くすることを心掛けて下さい。
酸素の摂取が劣る状態ですから低酸素症も気を付けて下さい、順化のスピードも前とは違う可能性があります、無理は絶対に禁物です、」

話してくれる内容をメモし、対応を考えていく。
タイムスケジュールも組み直した方が良い、酸素ボンベも必要だろう。
そして何時でも下山する心構えがお互い必要だ、そんな思案に手を動かし溜息を呑む。

―今回が富士のピークハントは最後になるかもしれないって、たぶん後藤さんは覚悟してる。でも嫌だ、

今回がラスト、そんなことは嫌だ。
なんとか次へと繋げてあげたい、そう願うままペンを奔らせる。
何が自分には出来るのだろう?考えながらメモが終わり手帳を仕舞うと吉村医師が微笑んだ。

「でも良かったです、後藤さん、」
「え、」

何が良かったのだろう?
解らないまま目で問うた先、ロマンスグレーは笑ってくれた。

「宮田くんが一緒だから良かったです。今回の後藤さんの富士登山はね、もし君が一緒じゃなければ私もOK出来ませんでした。
だけど後藤さんでしょう?きっと手術するのでも内科治療でもね、今回が最後かもしれないって単独でも富士山に登ったと思うんです、」

自分が一緒だから良かった、そんな信頼は温かくて幸せだ。
自分はここが居場所、そう想える幸せに英二は綺麗に笑った。

「先生、最高の富士登山をしてきますね?次も一緒に登りたいって思えたら後藤さん、治療も頑張れると思うんです、」
「そうだね、きっとそうだよ?」

穏やかな笑顔で吉村はファイルを閉じ、そっとデスクに置いた。
机上の写真立に笑いかけて振り向くと、真直ぐ英二の瞳を見つめて言ってくれた。

「宮田くん、後藤さんの夢を叶えてあげて下さい。君にしかお願い出来ないことだから、」
「はい、」

短い言葉で頷いて、英二はテーブルのマグカップ2つ手にとった。
どちらも空になっている、それに時刻からも予想して英二は微笑んだ。

「先生、もう一杯いかがですか?たぶん藤岡たちも直に来ると思います、」
「ええ、お願いします、」

嬉しそうに頷いてくれる笑顔の後ろ、窓の黄昏は黄金あざやかになる。
ゆるやかに照らしていく夏の陽に微笑んで、ふと吉村医師は訊いてくれた。

「藤岡くん達ってことは、彼も初参加ですか?」

指摘通り、今夕は初参加者がいる。
それが楽しくて英二は流しに立ちながら、明るく笑った。

「はい、初参加してくれます、」
「それは良かった。赴任されてもう2週間以上になりますね、お茶に来るのならだいぶ馴染まれたのかな?」

吉村も楽しそうに笑って、また菓子箱から小皿に取り分けてくれる。
さっきと違う茶菓子に微笑んで、英二は相談してみたかったことに口を開いた。

「はい、だいぶ馴染んでくれたと思うんですけど。でも、たまに態度が変なんですよね?」
「おや、どう変なんですか?」

どういうことだろう?
そう眼差しが英二に問いかけて、けれどノックが響いた。

「噂をすれば、ですね?」

可笑しそうに吉村が笑ってくれて、つい一緒に笑ってしまう。
そんな診察室へとがらり扉は開かれて、人の好い笑顔と声が入ってきた。

「失礼します、先生、原さんも誘ってきましたよ、」

いつもの明快なトーンで藤岡は笑い、後ろの男を引っ張りこんだ。
制服を引っ張られるまま登山靴は踏みこんで、日焼顔は照れくさげに少し笑った。

「吉村先生、ご一緒しても良いですか?」
「もちろんです、」

楽しげな笑顔で迎えてくれる、そんな吉村に原の顔は安堵ほころんだ。





【引用詩:William Wordsworth「Intimations of Immortality from Recollections of Early Childhood」XI】

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冬夜春眠、氷雪の跡

2013-03-04 23:15:27 | お知らせ他
弥生氷雪、春よ風のみに 



こんばんわ、日々春らしくなる神奈川です。
近所ではミモザが先だしました、ほんと春が来るんだなあと。
その割には未だ梅の花が少ないですね、この冬はやはり寒かったのかな?

写真は秩父湖の凍結した風景です。
凍った水面に雪が降った、その風紋が足跡のよう見えます。
夜か季節、そんな時間が歩いた痕のようにも感じて、面白いかなあと載せてみました。

いま短編連載「雪花の鏡3」加筆校正が終わりました、御岳の河原クリスマスイヴです。
美代の姉と、宮田と仲良し小学生秀介の父・秀平と祖父でアマチュアカメラマンだった田中老人が登場しています。
19年前の御岳は雅樹が生きています、国村の両親も生きて笑っている風景が描かれていくターンです。
もうその先を書いてしまってから過去を書く、そういうのって何か切ないモンでして。
読んでいる方は何を想われるのだろう?と思いながら描いています。

このあと本篇の宮田サイドUP予定です。が、少し迷うのが本篇の国村サイドを書こうかどうしようか?と。

取り急ぎ、


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引文解説:提問朗々 『What Is History?』

2013-03-04 01:16:00 | 文学閑話散文系
文章、瞬間の凍結と永劫   



こんばんわ、日曜から月曜に変る今です。笑
いま第61話「塔朗5」の加筆がほぼ終わりました、これが「塔朗」最終話です。
今回は英文からの引用を2つさせて頂きました、どちらも有名なのでご存知の方も多かったかと。

My first answer therefore to the question 'What is history?'
is that it is a continuous process of interaction between the historian and his facts,
an unending dialogue between the present and the past.

問いかけ「歴史とは何か?」へ、まず最初の答えとして、
歴史とは歴史家と事実が対峙し続けるプロセスであり、
現在と過去が交わす果てなき対話である。

Edward Hallett Carr『What Is History?』の原文と対訳です。
対訳は自作なので間違いがあるかもしれません、ミス訳あればご指摘くださいね?
岩波新書で邦題『歴史とは何か?』として邦訳版もあります、ちょっと昔の翻訳なために古語調が特徴的です。
この『What Is History?』は、1961年1月から3月にケンブリッジ大学で行われたE.H.カーの連続講演を収めたものです。
歴史の定義と存在について根本問題を述べた内容で、歴史を研究する導入門として現在も読まれています。

ようするに史学の専門書なのですが、英文学者を目指していた馨の愛読書にリストアップしました。
今まで登場の外国文学は詩文や純文学小説に冒険譚等ですが『What Is History?』は専門書の翻訳が難しいことから今回登場させています。
学者を目指した馨は英文学を深めるため翻訳をしました、母国語=思考言語に変換する作業は思考の学習でもあるからです。
翻訳する対象の言語、ここではイギリス英語を話させる思考回路を学びたい。この目的達成には専門書の翻訳は適任です。
専門的な単語と言い回しを学び、文章の中身である専門知識も思想も学ぶことができる。
そんな一石何鳥の方法論で馨は英文学への造詣を深めていました。



My heart leaps up when I behold A rainbow in the sky :
So was it when my life began,
So is it now I am a man
So be it when I shall grow old Or let me die!
The Child is father of the Man : 
And I could wish my days to be Bound each to each by natural piety.

私の心は弾む 空わたす虹を見るとき
私の幼い頃も そうだった
大人の今も そうである 
年経て老いた時もそうでありたい さもなくば私は終焉に向かう
子供は大人の父である
願えるのなら私の生きる日々は 自然への畏敬に充たす涯に結びたい

William Wordsworth「My Heart Leaps up When I Behold」日本では「虹」の名で親しまれています。
ワーズワスの詩は本作中でよく引用していますが、英国を代表する詩人の一人です。
自然描写に心情を映しこんだ詩風が特徴で、数篇は岩波文庫の邦訳版があります。
ただ岩波邦訳版に「虹」は無く、部分的な引用が題詞にされた詩が載っています。

The Child is father of the Man : 
And I could wish my days to be 
Bound each to each by natural piety.

この部分が「Intimations of Immortality from Recollections of Early Childhood」の題詞です。
邦題は「幼少期の回想からうける霊魂不滅の啓示」と幾らか堅物な感じになっています。
この詩の一節も、何度も本編中に遣わせてもらっています。

The innocent brightness of a new-born Day  Is lovely yet;
The Clouds that gather round the setting sun
Do take a sober colouring from an eye That hath kept watch o’er man’s mortality;
Another race hath been,and other palms are won.
Thanks to the human heart by which we live. Thanks to its tenderness,its joys,and fears,
To me the meanest flower that blows can give Thoughts that do often lie too deep for tears.

生まれた新たな陽の純粋な輝きは、いまも瑞々しい
沈みゆく陽をかこむ雲達に、謹厳な色彩を読みとる瞳は、人の死すべき運命を見つめた瞳
時の歩みを経、もうひとつの掌に勝ちとれた
生きるにおける、人の想いへの感謝 やさしき温もり、歓び、そして恐怖への感謝
慎ましやかに綻ぶ花すらも、私には涙より深く心響かせる

よく英二が山の現場で思い出している詩、あの一節です。
本作中での英二は日英ハーフの家庭教師がいます、また専属モデルを務めた写真家も英国人です。
そういう人物設定の背景から、よく英文学にからめた回想や思考をさせています。

その点では周太のターンになると、いっそう外国文学が登場します。
祖父が仏文学者で父も英文学を志望していた為、幼い頃から英仏の文学と言葉にふれて育った設定です。
こうした生立ちが父たちの死をめぐる真相を辿る鍵となり、また「夢」人生の支柱ともなっていきます。
筆跡、文字、言語、文法、文学、学問。これらが周太の「50年の束縛」を解く重要な過程です。
ある意味で行動派の英二と対照的な手法、けれど本当の意味で解放するツールになり得るか?
その辺をどう描くのかは、書いてる自分の思案ドコロです。笑



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第61話 塔朗 act.5―another,side story「陽はまた昇る」 

2013-03-03 22:52:54 | 陽はまた昇るanother,side story
与えられた燈火、その意味を 



第61話 塔朗 act.5―another,side story「陽はまた昇る」 

第七機動隊付属寮の20時半、いつもの明るいノックが響く。
扉を開くとレシーバとラジオを携えた長身が、底抜けに明るい目で笑った。

「こんばんは、湯原くん。今日も盗聴器のチェックさせてくれる?」
「はい、お願いします、」

先輩後輩の応答で光一は部屋に入り、扉を閉めてくれる。
いつものよう白い手はFMラジオのダイヤル合わせ、雑音のチェックを始めた。

「うん、コッチは大丈夫そうだね?帰ってきた時に変な感じとかした?」
「特には気づかなかったです、ドアと窓も出掛けた時のままでした、」
「そっか、でもコッチも一応チェックさせてね、」

話しながら光一はレシーバのスイッチを入れてくれる。
この間の高田と同じよう盗聴器チェックをしていく、その横顔は愉快に明るい。

…光一、ちょっと楽しんでるよね?狙い通りって感じの貌だもの、

光一からしたら今の状況は「狙い通り」で、愉しくて仕方ないだろう。
盗聴器チェックを口実に光一は毎晩来てくれる、それは色んな面で都合が良い。
この盗聴騒ぎを逆利用してしまう、そんな全てを冷静に面白がれる余裕が頼もしい。
こういう所に自分は救われている、この感謝と見守るなか光一はレシーバのスイッチを切った。

「はい、周太。チェック完了だよ、安心してお喋りしよっかね、」
「ありがとう、いつもごめんね…あ、止血帯のこと教えてほしいんだ、」

ほっとして周太はデスクに行くと、広げたままのファイルにしおりを挟んだ。
その横から長身の影が覗きこんで腕のばし、机上のハードカバー本を手に取った。

「ふうん、立派な本だね。大学で借りてきた?」

愉しそうに訊いてくれながら、白い繊細な指は表紙を開く。
その透明な目がすぐ気がついた様子に、嬉しく周太は微笑んだ。

「そう、大学で借りてきたんだけど、たぶんお父さんの本なんだ…ほら、」

大きな手が開いた見開きのアルファベット達に、そっと指ふれてみる。
いま指先に綴られてあるブルーブラックの筆跡、その意味に周太は笑いかけた。

「日付の書き方がね、日、月、年ってなってるでしょ?これはイギリス式の書き方でね、アメリカ式とは月と日の順序が逆になるんだ。
この書き方って父と祖父と同じなの、名字を略すのも一緒で…アルファベットの癖も父と同じだし、インクも父の万年筆と同じだと思う、」

“ 15.Mar.1978 Kaoru.Y ”

短いサイン、けれど父の俤あざやかに見えてくる。
父の本を父の母校が大切に保管してくれていた、この嬉しい幸運を幼馴染へ話した。

「俺のお祖父さんって東大の先生でね、父も同じ大学に行ったみたいなの…それで父はね、大学を卒業した後に本を寄贈したらしいんだ。
大学の図書館に寄贈書のコーナーがあるんだけど、父の本は何百冊ってあって…イギリス文学の原書や研究書でね、一部は貴重書になってる、」

立派な装丁の本たちは、どれも高価そうで綺麗だった。
きっと大切に集めて読んでいた、そんな父の軌跡を辿って読めることが嬉しい。
この喜びを光一ならば解かってくれる、そう笑いかけた先で底抜けに明るい目が優しく微笑んだ。

「そっか、本を透してオヤジさんに会えたんだね?よかったね、周太、」

本を透して会えた、そんな表現に理解が見えて嬉しい。
嬉しくてもっと聴いてほしくて、微笑んで周太は続きを話しだした。

「ありがとう、光一もそう言ってくれるの嬉しいよ。でね…もしかして父も祖父みたいに、学者になりたかったかもしれないって思うんだ。
だけど警察官だったでしょ?きっと父はね、自分の代わりに本を読んでほしくて寄贈したんだと思うんだ…自分と同じ夢の人に役立つように、」

父が本を手離したのは、学問と夢の未来を信じていたから。
そんな父の意志は今もきっと生きている、そう願う前からテノールの声は綺麗に笑ってくれた。

「オヤジさんの気持ち、ちゃんと今も生きてるね。だから周太、同じガッコで勉強してるんじゃない?オヤジさんの夢も願いも継いでさ、」

父の夢と願いを継いで、同じ大学で学ぶ。
それを今日は何度も考えていた、そして今こうして言われることが嬉しい。

…きっと俺、誰かに認めてほしかったんだね?お父さんと自分のこと、

そっと心に納得がおりて、深い喜びに笑顔が起きだす。
こんなふう受容れてくれたことが嬉しい、その感謝へ周太は綺麗に笑った。

「ありがとう、光一。俺ね、いつか必ず樹医になるよ?お父さんとの約束を叶えるよ、だから今もここで頑張りたいんだ、」
「イイ心意気だね、きっと周太なら出来ちゃうよ?」

底抜けに明るい目を笑ませてベッドに座り、光一は父の本を捲りだした。
白い指がセピア色のページを繰り、長い睫の瞳はアルファベットを素早く追っていく。
その眼差しは文意を汲んでいる、そんな視線と指の動きに能力のレベルが見えて溜息こぼれてしまう。
やっぱり光一は優秀だ、そう素直に感嘆しながら隣に腰掛けると周太も救急法のファイルを開いた。

かさっ、…かさり、

ふたり並んで座りこむ部屋、ページくる紙音が優しい。
FMラジオの喋る声、扉向うの遠い喧騒、そんな微かな音たちに夜の静寂は深くなる。
たたずむ隣からは水仙の香が涼やかで、古い紙の匂いに甘く重厚な香が懐かしい。
真夏の夜、けれど静かな時間は心地よい温もりに安らいで、そっと心ほどかれる。
こんな時間を光一と過ごせる機会が今、与えられて嬉しい。そう微笑んだ隣テノールが笑った。

「ほら、周太?ココなんてさ、オヤジさんからのメッセージっぽいね?」

My first answer therefore to the question 'What is history?'
is that it is a continuous process of interaction between the historian and his facts,
an unending dialogue between the present and the past.

問いかけ「歴史とは何か?」へ、まず最初の答えとして、  
歴史とは歴史家と事実が対峙し続けるプロセスであり、現在と過去が交わす果てなき対話である。

Edward Hallett Carr『What Is History?』

この著名な一節を、父の寄贈書で読み直したくて自分も借りてきた。
それを光一も解かってくれる、こんな受容は嬉しくて周太は微笑んだ。

「ん、俺もそう想ったから借りてきたんだ…この本を読んでいた過去のお父さんと、今の俺が話してるみたいって想えて嬉しいから、」
「だね?俺もオヤジの本を読むとき同じコト想うよ、」

明るく笑ってくれながら、白い手は丁寧に本を閉じて周太に返してくれる。
きれいな笑顔の眼差しは無垢のまま優しい、この笑顔が何度も自分を援けてくれた。
だからこそ16年を超えて伝えるべきことがある、父の本を抱きしめて周太は幼馴染の瞳に真直ぐ問いかけた。

「ドリアードはね、恋した相手を自分の木の中に閉じこめるよね?だから、俺が雅樹さんを隠しているって、いつか帰すって想ったんでしょ?」

問いかけに透明な瞳が瞠らかれ、真直ぐ周太を見つめる。
すこし驚いたようで哀しそうで、それでも傷の分だけ安堵と感謝が温かい。
こんな眼差しに正解だと解かってしまう、いま傷の露わになる瞳のまま光一は微笑んだ。

「やっぱり君は解かっちゃうんだね、その通りだよ?だから俺、君と結婚したかったんだ…ずっと一緒にいたら、いつかはって信じてた、」

どうして周太を13年間も待っていたのか、あの山桜から離れないよう生きてきたのか?
その真実の欠片を光一は3週間前、富士山を仰ぐ森のなかで教えてくれた。
あのとき明るい瞳は涙きらめいて、宝物のよう1つの名前に微笑んだ。

『君の山桜はね、雅樹さんが見つけて俺に教えてくれたんだ…君の山桜を雅樹さんは本当に愛してた、』

光一が初めてアンザイレンパートナーに選んだ、美しい山ヤの医学生。
彼を光一は深く慕って想い続けている、その想いは恋愛という言葉ですら尽せない。
亡くなって16年が過ぎ、それでも尽きせぬ涙に何を願い山桜を護って生きてきたのか?
この傷みも喜びも今なら解かる、その全てを飲みこんで周太は静かに微笑んだ。

「ごめんね、俺はなにも出来ないんだ…どんなに光一が大切にしてくれても雅樹さんを帰してあげられない、だけど教えることは出来るよ、」
「…何を教えてくれんの?」

訊いてくれる声も見つめる瞳も、ただ哀切が透明にふれてくる。
透けるよう明るい無垢は哀しんで、それでも真直ぐな想いの真中で周太は口を開いた。

「雅樹さんの気持ち教えてあげる。光一のこと、遺して逝きたくなかった、」

遺して逝きたいはずがない。
本当に想う相手なら傍にいたい、けれどそれ以上に願うことがある。
その全ては今の自分こそ教えられるはず、その想いのまま言葉を紡いだ。

「だけど追いかけてほしいんじゃないよ?幸せに笑っていてほしいんだ…大切だから、大好きだから、ずっと笑顔を護りたいんだよ?
だから自分の持っている全てをあげたい、命だってあげたい、ただ笑って幸せに生きていてほしい、ずっとずっと幸せなまま生きてほしい、」

唇から音になる想いは、瞳の底で熱を充たしていく。
本当は嘘でも良いから蘇生と再会を信じさせてあげる、その方が幸せかもしれない。
けれど吉村医師から聴く「雅樹」という人は全てに真摯だった、だから光一にも真直ぐ向き合わせたい。

…光一は16年ずっと縋ってたね、雅樹さんが生き帰るって…でも、辛くても哀しくても現実と向合わないと、亡くなった人を大切に出来ない、

大切な人の死は、苦しい。
世界の全てが一瞬で色褪せてモノクロになる、心が凍ってしまう。
そして止めた時間のなかへ現実から逃げたくなる、そんな逃避で心を護ることも必要かもしれない。
それは確かに楽な生き方だと思う、自分も13年間の孤独は父の死と正面から向き合えなくて記憶も失っていた。
だからこそ解る、もう二度と会えない現実から逃げることは亡くなった人を遠ざけて、本当には大切に出来ない。

「雅樹さんが光一にどうしてほしいのか、光一がいちばん解かってるはずだね?だって光一がいちばん近くにいるんだから、」
「うん…当たり前だね?」

周太の声に応えるよう呟いて、透明な瞳が見つめてくれる。
長い睫ゆっくり瞬いて呼吸ひとつ、優しい眼差しが周太に微笑んだ。

「俺さ、そういうことアイガーからずっと考えてたんだ。でも君から言ってもらってスッキリしたよ、ありがとね、」

もう光一は向合おうとしていた、それが嬉しい。
これなら光一は大丈夫?ただ願うよう微笑んだ周太に光一は訊いてくれた。

「で、ソレってね、君があいつに対しても想うことなんだろ?」
「そうだよ?だから解かるんだ、雅樹さんと俺は同じだから。俺も英二のこと、ひとり置いていかなくちゃいけない、」

はっきり応えて見上げた先、秀麗な顔が哀しそうに顰めてゆく。
哀しみの傷む瞳は純粋なまま見つめてくれる、その眼差しへ周太は真直ぐ笑いかけた。

「もう解ってるんでしょ?どうして俺がここに異動してきたのか、この先どこに行くのか?どんなに約束しても戻れないかもしれないって。
それでも俺は生きることを諦めないよ?10年後の自分は樹医になってるって信じてる。それでも覚悟はしてる、明日にだって終わること、」

明日、それどころか1秒後も解らない。
射撃の名手として警察官に採用された、その瞬間から覚悟している。
この覚悟と想いのまま綺麗に笑って、正直な気持ちを幼馴染へ告げた。

「だから光一と英二が恋人同士になってほしかったの、他の人とえっちされるの嫌、でも光一なら納得できるんだ。光一のこと大好きだから。
でもごめんなさい、光一には大好きな人いるのに、英二のこと押しつけようとして…雅樹さんのこと生き返らせてあげれなくて、ごめんね、」

ごめんね、そう告げた途端に瞳から熱こぼれだす。
本当に自分は何て無力なのだろう?その想いに涙ひとつ頬を伝う。

「ごめんね、本当にドリアードなら出来るかもしれない。でも俺は人間なの、ただの男なんだ…出来るんなら何でもしてあげたい、
出来るなら雅樹さん生き返らせてあげたい、でも出来ないんだ。だから光一、もう俺のこと護る必要なんてないよ?もう自由になって、」

ひとつの涙と一緒に現実を告げて、笑いかけるまま感謝あふれていく。
15年前の冬の森で光一がくれた言葉も笑顔も嬉しかった、そして大人の今もたくさんの言葉と笑顔をくれる。
その全ては温かで優しくて勇気をくれる、どれも大切で愛しくて、だからこそ自由にしてあげたい。
この願いのまま微笑んだ真中で、透けるよう明るい瞳は無垢に笑ってくれた。

「謝んないでよ?どれも俺が勝手に想ったことが発端だね、君に責任なんて無い、」

大らかに透明な笑顔ほころんで、白い指が涙ぬぐってくれる。
頬ふれる優しい指に微笑んだ隣、すこし困ったようテノールが笑ってくれた。

「俺だって久しぶりにヤれて気持ち良かったし、ちゃんと幸せだったんだ。でもやっぱり違うって解ったよ、ドリアードとして聴いて?」

ドリアードとして聴く、それは警察官ではなく男でもなく、人間ですらない。
ただ一本の樹木として聴いてほしい、その願いに周太は微笑んで頷いた。

「ん、そうだね…俺は山桜のドリアードだね、なにも出来ない精霊だけど、」
「なにも出来なくってイイんだよ、元気で居てくれて笑ってくれてたら充分だね、」

綺麗な声が笑って、そっと耳元に唇ふれてくれる。
頬のキスはただ温かい、この優しさに微笑んだ隣は話しだした。

「俺さ、マジで英二のことは惚れてるんだ。最初に気になったのは雅樹さんと似ているからだよ、でも惚れたのはソレじゃない。
北鎌尾根で雅樹さんの慰霊登山をさせてくれた時さ、あいつ、雅樹さんの身代わりをしてくれたんだ。今だけは雅樹さんだって言ってさ?
俺とアンザイレンパートナーするって雅樹さんとの約束をね、身代わりになって叶えてくれたんだよ。そういうの本当は大嫌いな癖にね、」

北鎌尾根の物語は今日、英二からも改めて聴いている。
このことを光一も話そうとして口を開いた、その想いへ周太は心を傾けた。

「アイツって怖いくらいプライドが高いんだよ、だから山のことも救助隊のことも絶対に負けたくなくって、あんなに努力できるんだ。
周太には絶対服従の英二だけどね、ホントは誇り高い分だけキレたら怖い男でもあるんだ。だから誰かの身代わりとか本当は大嫌いだね。
それでも北鎌尾根でアイツ、雅樹さんの身代わりをしてくれたんだ。それって雅樹さんのこと認めて好きだから出来る、ソレが嬉しかった、」

嬉しかった、そう言った雪白の貌が幸せほころんだ。
透けるよう明るい瞳は微笑んで、綺麗なテノールは言ってくれた。

「あいつは雅樹さんじゃない、でも雅樹さんを好きになったアイツなら俺も本気になれるかも?そう想ったんだ、だから惚れたよ?
でも、惚れてもダメなもんはダメだね。そんなに俺は器用じゃない、やっぱり雅樹さんだけだ。なのにヤらなきゃ解んなくってごめん、」

率直な言葉で笑ってくれる、その長い睫から光こぼれていく。
綺麗な明るい笑顔で泣いてくれる、この想いごと受け留めたくて周太は腕を伸ばした。

「ごめんなんて要らない、光一こそ謝らないで?」

笑いかける言葉ごと見つめて、広やかな肩を抱きしめる。
白いカットソーの肩はふるえている、それでも底抜けに明るい目は笑ってくれた。

「だね、ありがとうって言うトコだよね?君のお蔭で俺、気づけたんだからさ。雅樹さんのこと俺、あいつと君のお蔭で気づけたよ?」

明るい瞳は涙ひとつまた零す。
ルームライトに長い睫の雫きらめいて、雪白の貌は幸せに微笑んだ。

「雅樹さんの体はもう帰ってこない、もう墓の下に骨になって眠ってるよ、でも心は眠ってなんかいないね?ずっと俺の傍にいる。
ガキの頃と同じよう俺を抱きしめて、いつも一緒に泣いて笑ってくれてる。ずっとアンザイレンパートナーして、ずっと恋して愛してる、」

恋して愛して、そう告げた無垢の瞳が笑ってくれる。
きれいな瞳のままで周太を真直ぐ見つめ、透明な声は歌うよう真実を告げた。

「ドリアード、君は雅樹さんと俺より先に出逢ったね?でも雅樹さんが本気で恋愛した相手は、俺だけだよ?俺が生まれた瞬間からだよ、
俺が生まれて最初に恋して愛してくれたんだ、俺だって同じだね。キスも何もかも全部お互いが初めての相手同士で、独り占めしあってる。
そんなの一生変えられっこない、体が消えたって心まで消せないね、姿が見えなくても触れなくっても変んない、ずっと両想いで大好きだ、」

誇らかで明るい宣言は、幸福なままに笑ってくれる。
明るく幸せな分だけ綺麗で切なくて、無垢なままに愛おしい。
この笑顔をずっと護ってあげたい、そう願う祝福のまま祈りに微笑んだ。

「雅樹さんも同じように光一のこと想ってるよ、唯ひとりだけ、ずっと想ってる。だから幸せに笑っていてね?」

それが雅樹の真実、そう自分には解るから偽れない。
本当は亡くなった人を想い続けることなく、新しい恋愛を探す方が楽だろう。
それでも、唯ひとりに出逢ってしまったのなら他なんて探せない。それは自分も同じだから解かる。

…雅樹さん、あなたもなんでしょう?いちばん近くにいて護りたくて、ずっと傍で見つめていたい…幸せになってって、

唯ひとり恋して愛したら、ただ幸せな笑顔を祈りたい。
それ以外なんて自分も解らない、そのシンプルな願いのまま抱きしめた幼馴染は微笑んだ。

「ありがと、やっぱり君はあの山桜のドリアードだね?雅樹さんを生き帰らせるとかしなくてもね、君はあの山桜だよ、」

綺麗なテノールで笑ってくれる、その瞳は底抜けに明るくて幸せが温かい。
こんな瞳で笑える心は切ない、それでも一緒に明るく笑って周太は応えた。

「ん、頼りないドリアードでかっこ悪いけど、ごめんね?」
「そんなことない、最高だよ?」

大らかな笑顔ほころばせ腕をほどくと、白い手は周太の頬を拭ってくれた。
周太も雪白の頬に掌伸ばして拭いながら、今、すべきことに微笑んだ。

「ね、救急法のこと教えて?止血帯の細かい注意点とかチェックしてほしいんだ、出来るだけ短時間で処置するコツとか知りたい、」

ベッドに座りこんだ傍ら、置いたままのファイルを周太は開いた。
このファイルは英二が作ってくれた、これに現場が豊富な光一の経験も生かさせて欲しい。
そう想う隣から光一も覗きこんでくれる、その眼差しは涙の気配なく真剣に強靭で頼もしい。

…こんな貌が出来るんなら光一は大丈夫だね、きっと英二と支え合える、

いま隣に座る横顔に安堵して、そして唯ひとりの笑顔を想ってしまう。
もう光一と英二が恋愛に寄添うことは無いのだろう、それでも二人の信頼関係は変わっていない。
その繋がりを信じて自分の支えにさせてほしい、そして迷い1つまた消して「死線」での勇気に変えたい。
こういう想いを29年前、同じよう父も抱きながら明日を見つめたのだろうか?

My heart leaps up when I behold A rainbow in the sky…
So be it when I shall grow old Or let me die…
And I could wish my days to be Bound each to each by natural piety.

私の心は弾む 空わたす虹を見るとき…
年経て老いたときもそうでありたい さもなくば私に死を…
われ生きる日々が願わくば 自然への畏敬で結ばれんことを

別名を「虹」と呼ばれる父の愛誦詩が、今もまた心めぐって降りつもる。
いま自分は父も居た場所で夜を過ごす、その隣には幼馴染が笑ってくれる。
同じように父も同期の安本と過ごしていたのだろう、けれど「虹」への想いは違う?

…お父さん、今の俺と同じ時には学者になろうって信じていたの?それとも違ってた?

虹は空へ七彩に輝いて、この心ごと祈り見惚れる。
けれど掴もうとすれば水の粒子を手は通りぬけ、ふれることは決して出来ない。
それでも見つめて心響かすことが出来る、その道程に願いは叶うのだと信じて今、自分はここに居る。

だから父の想いも信じている、きっと父は「虹」に触れられなくても見つめる事は諦めなかった。
だからこそ大切にしていた本も惜しまず母校に納めて「虹」追う同朋の羅針盤にしたいと願った。
その願いはきっと仏文学者だった祖父も同じだろう、そう想う心と未解の事実が再び問いかける。
大学図書館に収蔵された『La chronique de la maison』祖父の遺作小説、あの見開きが問う。

“Je te donne la recherche” 探し物を君に贈る

ブルーブラックが記す祖父のサインに添えられた、短い詞書。
あの5つの単語から祖父は「何」を探し物と言い、誰を「君」と呼んでいる?

…お祖父さんが「君」って呼ぶなら身近な息子のことかもしれない、でも、そうだとしたらあの本は、

もしも「君」が父だとしたら、あの本の元の持主は誰なのか?
その推察にまた謎が生まれて、また新たな「過去の理由」を探しだす。
もし自分が想う人物が元の持主ならば、なぜ祖父の著作を手離したのだろう?

「周太、そろそろ説明始めてイイ?」

思考の廻りに声かけられて、周太は隣を振り向いた。
隣の胡坐姿は不思議そうに見つめてくれる、その貌に明るく微笑んだ。

「ん、お願いします、」

祖父のメッセージは気に懸る、けれど今すべき優先順位を守りたい。
その意志に周太は集中力と笑いかけ、膝のファイルに視線を向けた。
目と聴覚は知識を追いかけて、けれど心には一節が静かに響きゆく。

“ an unending dialogue between the present and the past ”

父、祖父、その過去との対話は現在の自分に、大切な灯を渡してくれる。
それは学舎に辿り着かす英知の塔火、虹を見失わない朗々と澄んだ思考の瞳。
その全てを息子の自分に継がせていくことが父と祖父の祈り、意志、そう信じている。







【引用文:Edward Hallett Carr『What Is History?』第1章 The Historian and His Facts】
【引用詩:William Wordsworth「My Heart Leaps Up」】

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