明日と過去、記憶からの援助、
第63話 残証act.2―another,side story「陽はまた昇る」
ふる木洩陽の緑が濃くなった。
2週間前より優しい光は八月の空から欠片ちりばめる。
豊かな緑陰をぬける風は幾らか涼しい、そんな風光に盆を過ぎたと感じさす。
―今年はお盆のお墓参り行けなかったな、お母さんと英二が行ってくれたけど…いつ行けるだろう、
例年と違う盆だった、その現実が緑のキャンパスを歩きながら小さく痛む。
そして葉月もあと十日で終わる、そして九月が過ぎれば十月がやってくる、その先は?
この日付と刻限への覚悟があらためて込みあげて、今この隣を歩く友人への想いに周太は微笑んだ。
「美代さん、募集要項とかの隠し場所って決められたの?」
問いかけに綺麗な明るい目が周太を振り向いて、悪戯っ子に笑ってくれる。
さっき受取ったばかりの書類封筒を抱きしめながら、美代は答えと微笑んだ。
「あのね、私の部屋に抽斗つきの本箱あるでしょ?あそこの底に封筒入れてから仕舞おうかなって、」
「その抽斗って、宝物入れって教えてくれた鍵付のとこ?」
「うん、そこよ。でもね、お姉ちゃんが帰って来たら開く可能性があるの。合鍵持ってるから、」
思案と歩きながら美代は封筒の半分まで書類を出した。
選抜要項と大学案内、入学者募集要項に願書、その一つずつを確認すると嬉しそうに微笑んだ。
「ね、こんなふうに書類を見ると、本当に受験するんだって感じするね?」
弾んだ声が笑って、いつも明るい瞳が木洩陽にきらめく。
学べるチャンスを掴みに行く、夢の一歩の扉を開く、そんな意志と希望が友達を輝かす。
この笑顔に夢を実現させてもっと笑顔にしてあげたい、その願いへ自分の願いも重ねて笑いかけた。
「ん、願書とか見ると受験だなって思うよね?でも美代さん、その前にセンター試験があるからね?」
「そうよね、センターで点数採れないと受験も出来ないもの、」
輝く笑顔を引き締めて、美代は書類を封筒に戻した。
また大切そうに抱きしめる横顔は緊張と希望がまばゆい、この真摯な横顔が好きだ。
こういう友達が隣に居てくれて嬉しくて、今朝の通学で聴いた先輩の事も想いながら周太は尋ねた。
「美代さん、この学校以外はどこか併願するの?」
「うん、ちょっと迷ってるの。お金を考えると国立か公立なんだけど、本当に森林学が学べるとこって限られてるし、」
困ったよう首傾げて「どうしよう?」と綺麗な目が訊いてくれる。
確かに学費の問題から考えると私大は難しいだろう、しかも美代は反対するだろう家族に無断で受験する。
きっとハイレベルの大学に合格しないと進学すら許してもらえない?そんな可能性に周太は思案の口を開いた。
「あのね、ご両親の説得って合格してからするんでしょ?それってよほど良い大学じゃないと進学も許してもらえそうにないからだよね?
「そうなの、」
ますます困ったよう頷いて、そっと華奢な手が書類を抱きしめる。
その仕草にも横顔にも「絶対に進学したい」意志が強い、この願いを叶えたい想いに微笑んだ。
「美代さんなら大丈夫って俺は思うよ、この間の模試もA判定だし。でも夏休み過ぎると現役生の追い込みが始るから油断はダメだけど、」
現役生は夏を過ぎると浪人生に追いついてくる、だから夏休みまでの模試結果は判断し難い。
けれど美代も仕事と受験を両立させているから条件的には現役生と変わらない、むしろ高校生や浪人生より分が悪い。
それでも美代はA判定、合格安全圏の得点を採れている。あとは自信と試験慣れを備えるだけ、そう笑いかけた先で美代も笑ってくれた。
「ありがとう、最後まで頑張るね?あ、私って浪人生だと六浪って事になっちゃうね?」
「あ、ほんとだね?」
言われた言葉が何だか可笑しくて笑えてしまう。
ちょっと美代には不似合いな言葉だな?そんな感想を素直に周太は口にした。
「でも美代さんはね、たぶん現役生だって思われるんじゃないかな?聴講でも最初は高校生って思われていたし、」
「あれは湯原くんが一緒だからよ?私一人ならせめて短大生だって思うけど、」
可愛い笑顔で言い返されて自分自身で可笑しい。
確かに自分もいつも高校生と間違われる、その事実が以前は嫌だった。
けれどに今は素直に認めてしまえる、こんな自分の余裕が「大人」だと想えて嬉しくて周太は笑った。
「その答えは美代さん、きっと4月になったら解かるね?」
4月になったら入学式、そのとき美代を同級生が何歳だと思うのか?
そんな明るい未来予想に笑いあいながら3号館の入口を潜って、いつもの学食へと入った。
「あれ、手塚くんまだみたいね?先に講堂出たはずなのに、」
美代の言葉に指定席を見ると、青木准教授ひとりで座っている。
友達の姿がないことが不思議で首傾げたとき、ポンと肩を叩かれ周太は振向いた。
「よっ、俺がドンケツだったな?」
「あ、おつかれ手塚、」
懐っこい眼鏡の瞳に笑いかけた視界の端、手塚も書類封筒を持っている。
なにか手続きがあったのかな?考えながらもメニューを眺めた隣で美代が頷いた。
「私、A定食にする。先生待ってるから、お先に行ってるね?」
「はい、すぐ追っかけるね、」
明るく笑って美代は書類封筒を鞄に仕舞いながら、注文カウンターへ歩いて行った。
その背中を送りだしメニューに戻した視線、書類封筒が差し出され友達が微笑んだ。
「湯原、これ俺のノートのコピーなんだ。専修になってからの講義全部が入ってる、だから4ヶ月分な、」
差し出された封筒は分厚い、その枚数を想うと手塚の努力と厚意が解かる。
解かるだけに簡単に手が出なくて、見上げた周太に友達は明るく笑ってくれた。
「大学院の専門科目試験、勉強するなら講義ノートが一番って思ってさ。配布資料のコピーも入ってるよ、あとはテキスト買えばOKだろ?」
「そんな、申し訳ないよ、手塚…」
息呑む想いで声が出て、この友人を見つめてしまう。
この書類封筒には森林生物科学専修3年生の講義が入っている、それを学部生では無い自分が受けとって良いのだろうか?
本当は読んで講義を知りたい、けれど手塚の努力を奪うようで申し訳なくて手が出ない。
―聴講の学費しか払ってないのにノート貰うなんて、図々しいよね…でも勉強してみたい、
森林学で最高峰と言われる世界の断片が今、眼前の封筒に詰まっている。
その世界への憧れと遠慮に竦んでしまう、そんな途惑いの前から明朗な笑顔が言ってくれた。
「申し訳ないとか言うなよ、湯原と院の同期になりたくて俺が勝手にやってるんだからさ?折角だから受けとってくれよ、」
懐っこく大らかな笑顔ほころんで、日焼けした腕が周太の手をとり封筒を渡してくれる。
その分厚い重たさに真情が掌から温かい、その温もりが瞳から一滴になって周太は綺麗に笑った。
「ありがとう、手塚。このノート大切にする、」
そっと抱きしめた書類封筒に一滴、温かい涙が吸われていく。
この友人の想いに応えたい、けれど本当は約束など出来ない自分だと解っている。
それでも精一杯に報いたい願い笑った真中で、大らかに明るい笑顔が言ってくれた。
「ノートぼろぼろになるくらい勉強してよ、一緒に合格して例の研究手伝ってくれな?またノートとかコピー渡すし、」
「ん、ありがとう。でも俺、甘えっぱなしになるの悪いよ?なんかお返し出来ること無いかな、」
嬉しくて笑いかけながら書類封筒を鞄にしまい、友達に提案を求めてみる。
大学の講義ノート以上に役立ち返せるものは何だろう?そう見つめた先で愛嬌の笑顔ほころんだ。
「じゃあさ、TOEFLの試験対策つきあってよ?湯原の語学って実用的だから勉強法とか教わりたかったんだ、」
「ん、俺で良かったら付合うよ?…あ、冷やしラーメンにしようかな、」
自分にも出来ることがありそうで嬉しい。
語学は幼い頃から父が自然と親しませてくれた、それを友達の援けに出来る。
こんなふうに父が今も援けてくれる、嬉しい感謝とメニューを決めると手塚も楽しそうに笑ってくれた。
「俺は冷やしの大盛にするよ。聴講の時は小嶌さんの勉強みる合間に教えてよ、あと仕事休みとかで空いてる時は声かけてくれな?」
「ん、ありがとう。またメールとかで休みの日、調べて連絡するね、」
こういう約束は嬉しい、素直に嬉しく微笑んでカウンターへと一緒に歩きだした。
もう美代は青木樹医と差し向かいで笑っている、その手元には書類封筒が初々しい。
きっと受験の話をしているのだろうな?そんな様子に微笑んだ隣から手塚が尋ねた。
「湯原は TOEFL 受けたことある?」
「ん、大学の時に受けたけど…だから1年半前だね、」
「そっか、スコア良かったんだろ、何点だった?」
あのとき何点だったろう?明るい声の問いに記憶を思い出す。
トレイを手に数字を答えて微笑んだ先、眼鏡の瞳ひとつ瞬いて友達の口から驚いた声が出た。
ふるい書物に新しいインクの匂い織られて、数枚の印刷が終わる。
その音に立ち上がるとプリンターから取り出して、読みながら周太は書架と机の間を歩いた。
問題集を広げる二人の背後を通りパソコン前に戻ると、書斎机から青木樹医が困り顔で微笑んだ。
「すみません湯原くん、こんな手伝いお願いしてしまって、」
「こちらこそ申し訳ありません、最初に読ませて頂いて、」
すこし困りながら微笑んだ手には、今、書かれたばかりの文章が紙面に充ちる。
この瞬間に誕生していく新しい学説、その文面を眺めた向こうで准教授は笑ってくれた。
「申し訳ないなんて言わないで下さい、タダで翻訳お願いするなんて私の方が図々しいんですから、」
「いいえ、僕の方が図々しいんです。謝らないで下さい、」
本当に図々しいのは自分の方なのに?
その途惑いに首傾げた傍ら、問題集から手塚が顔上げて笑ってくれた。
「湯原、ノートのことなら図々しいとか無しだからな?俺が勝手にやってるんだし、コピーも先生の許可得てるから、」
「そうだよ、あのノートは私が許可しました。なんの心配も要らないよ?」
若い准教授も気さくに笑ってくれる、その笑顔が素直に嬉しい。
けれどやはり申し訳なくて、周太は辞書を披きながら友達と教師を見比べた。
「でもノートはこの研究室でコピーしたんですよね?コピー代のこともあるのに論文の英訳なんて、逆に勉強させて頂いて申し訳ないです、」
貰った講義ノートのコピー代は結局どこから捻出されたのか?
なにより青木樹医がこの手伝いを依頼してくれた、本当の意図が何なのか?
それが解かる自分としては恐縮するしかない、そう見つめた先で准教授は困ったよう微笑んだ。
「専門書は翻訳料も高いのに、君はバイト代も受け取れないでしょう?勉強になるって言われると私こそ気楽になれます、ありがとう、」
「そう言って頂けると僕も気楽になれます、ありがとうございます、」
答えながら二人の人へ心が温められる。
いま恩師に言われる言葉が嬉しくて、それが父の夢のために嬉しい。
―ね、お父さん?教えてもらった英語のおかげ俺、森林学の最先端を読ませて貰えるんだよ?
英文学者を志した父、その学問へ向けた真摯が息子の自分を援けてくれる。
もし父から貰った語学力が無かったら?山で父が植物採集の手伝いをしてくれなかったら?
父と過ごした9年半があるから自分は今、植物学の一隅に座って夢を未来に叶えるチャンスを与えられている。
―お父さんの夢、今、俺と生きてるね?
大切な俤へと微笑んで今、改めて気づかされる。
ずっと自分は「警察官である父」を追っていた、それが父の真実を知る道だと信じていた。
けれど父の姿は警察官だけじゃない、もっと他の素顔で父は現実に生きていた、その全てを自分は知りたい。
そうして父の真実と願いの全貌を抱きしめて、父が生きた喜びも哀しみも、その全てを共に笑って共に泣きたい。
本当は生きている父と笑いあい泣きたかった。
その願いが死に奪われたとしても軌跡は辿ることが出来る。
その願いに自分は大学で機械工学を学び警察官になった、その選択が母を泣かせた。
きっと父をも泣かせている、そして今朝の会話から自分の傲慢さにも今もう気づいている。
人生って自分だけのモノじゃない。
自分に出来ること全部やって、きちんと生きたって胸張りたい。
この一秒後だって終わるかもしれない、そのとき後悔するの嫌だからチャンスは大事にしたい。
通学する車窓で聴いた箭野の物語は、覚悟の意味を気付かせてくれた。
甘え、強情、傲慢、そして工学部と警察官を選んだことへ本当の責任を想う。
そんな朝があって今ここに座っている時間には、温かな懺悔と感謝と、そして幸せが目映い。
―お父さん、全部があって今があるね?たくさん間違えて、なんども赦されて、
that it is a continuous process of interaction between the historian and his facts,
an unending dialogue between the present and the past.
歴史とは歴史家と事実が対峙し続けるプロセスであり、現在と過去が交わす果てなき対話である
今、パソコン画面と辞書と論文に向かいながら想いめぐらす。
その合間には今朝も読んだ父の遺贈書が心へ映ってめぐりゆく。
あの言葉を光一は父からのメッセージと言ってくれた、その通り今も父の記憶と夢に対話する。
そうして交わされゆく過去と現在の物語りから、はるか未来へ指針は渡されて進む道が顕れだす。
そんな想いに母国語つづる学説を英文にも語らせて、手許の全てが完訳されたとき電話が鳴った。
「はい、青木です…あ、それなら、」
すぐ取った受話器に樹医は話しながら、周太の方を見た。
何の電話だろう?すこし首傾げた向こうから、青木准教授は可笑しそうに笑いかけた。
「湯原くん。申し訳ないのですが今、ちょっと出張してもらえるかな?」
ちょっと出張って何だろう?
解らないけれど恩師の役に立ちたくて、素直に周太は頷いた。
その肯定に青木は微笑んで、電話の向こうと少し話し受話器を置くと教えてくれた。
「湯原くん、仏文の研究室に出張してくれますか?前に話した先輩から緊急の依頼なんです、」
告げられた行先が、鼓動ひとつ心をノックする。
そして暁に見つめていた一文がメッセージのよう心に綴られた。
And yet, it moves ― それでも、それは動く
【引用文:Edward Hallett Carr『What Is History?』】
(to be continued)
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第63話 残証act.2―another,side story「陽はまた昇る」
ふる木洩陽の緑が濃くなった。
2週間前より優しい光は八月の空から欠片ちりばめる。
豊かな緑陰をぬける風は幾らか涼しい、そんな風光に盆を過ぎたと感じさす。
―今年はお盆のお墓参り行けなかったな、お母さんと英二が行ってくれたけど…いつ行けるだろう、
例年と違う盆だった、その現実が緑のキャンパスを歩きながら小さく痛む。
そして葉月もあと十日で終わる、そして九月が過ぎれば十月がやってくる、その先は?
この日付と刻限への覚悟があらためて込みあげて、今この隣を歩く友人への想いに周太は微笑んだ。
「美代さん、募集要項とかの隠し場所って決められたの?」
問いかけに綺麗な明るい目が周太を振り向いて、悪戯っ子に笑ってくれる。
さっき受取ったばかりの書類封筒を抱きしめながら、美代は答えと微笑んだ。
「あのね、私の部屋に抽斗つきの本箱あるでしょ?あそこの底に封筒入れてから仕舞おうかなって、」
「その抽斗って、宝物入れって教えてくれた鍵付のとこ?」
「うん、そこよ。でもね、お姉ちゃんが帰って来たら開く可能性があるの。合鍵持ってるから、」
思案と歩きながら美代は封筒の半分まで書類を出した。
選抜要項と大学案内、入学者募集要項に願書、その一つずつを確認すると嬉しそうに微笑んだ。
「ね、こんなふうに書類を見ると、本当に受験するんだって感じするね?」
弾んだ声が笑って、いつも明るい瞳が木洩陽にきらめく。
学べるチャンスを掴みに行く、夢の一歩の扉を開く、そんな意志と希望が友達を輝かす。
この笑顔に夢を実現させてもっと笑顔にしてあげたい、その願いへ自分の願いも重ねて笑いかけた。
「ん、願書とか見ると受験だなって思うよね?でも美代さん、その前にセンター試験があるからね?」
「そうよね、センターで点数採れないと受験も出来ないもの、」
輝く笑顔を引き締めて、美代は書類を封筒に戻した。
また大切そうに抱きしめる横顔は緊張と希望がまばゆい、この真摯な横顔が好きだ。
こういう友達が隣に居てくれて嬉しくて、今朝の通学で聴いた先輩の事も想いながら周太は尋ねた。
「美代さん、この学校以外はどこか併願するの?」
「うん、ちょっと迷ってるの。お金を考えると国立か公立なんだけど、本当に森林学が学べるとこって限られてるし、」
困ったよう首傾げて「どうしよう?」と綺麗な目が訊いてくれる。
確かに学費の問題から考えると私大は難しいだろう、しかも美代は反対するだろう家族に無断で受験する。
きっとハイレベルの大学に合格しないと進学すら許してもらえない?そんな可能性に周太は思案の口を開いた。
「あのね、ご両親の説得って合格してからするんでしょ?それってよほど良い大学じゃないと進学も許してもらえそうにないからだよね?
「そうなの、」
ますます困ったよう頷いて、そっと華奢な手が書類を抱きしめる。
その仕草にも横顔にも「絶対に進学したい」意志が強い、この願いを叶えたい想いに微笑んだ。
「美代さんなら大丈夫って俺は思うよ、この間の模試もA判定だし。でも夏休み過ぎると現役生の追い込みが始るから油断はダメだけど、」
現役生は夏を過ぎると浪人生に追いついてくる、だから夏休みまでの模試結果は判断し難い。
けれど美代も仕事と受験を両立させているから条件的には現役生と変わらない、むしろ高校生や浪人生より分が悪い。
それでも美代はA判定、合格安全圏の得点を採れている。あとは自信と試験慣れを備えるだけ、そう笑いかけた先で美代も笑ってくれた。
「ありがとう、最後まで頑張るね?あ、私って浪人生だと六浪って事になっちゃうね?」
「あ、ほんとだね?」
言われた言葉が何だか可笑しくて笑えてしまう。
ちょっと美代には不似合いな言葉だな?そんな感想を素直に周太は口にした。
「でも美代さんはね、たぶん現役生だって思われるんじゃないかな?聴講でも最初は高校生って思われていたし、」
「あれは湯原くんが一緒だからよ?私一人ならせめて短大生だって思うけど、」
可愛い笑顔で言い返されて自分自身で可笑しい。
確かに自分もいつも高校生と間違われる、その事実が以前は嫌だった。
けれどに今は素直に認めてしまえる、こんな自分の余裕が「大人」だと想えて嬉しくて周太は笑った。
「その答えは美代さん、きっと4月になったら解かるね?」
4月になったら入学式、そのとき美代を同級生が何歳だと思うのか?
そんな明るい未来予想に笑いあいながら3号館の入口を潜って、いつもの学食へと入った。
「あれ、手塚くんまだみたいね?先に講堂出たはずなのに、」
美代の言葉に指定席を見ると、青木准教授ひとりで座っている。
友達の姿がないことが不思議で首傾げたとき、ポンと肩を叩かれ周太は振向いた。
「よっ、俺がドンケツだったな?」
「あ、おつかれ手塚、」
懐っこい眼鏡の瞳に笑いかけた視界の端、手塚も書類封筒を持っている。
なにか手続きがあったのかな?考えながらもメニューを眺めた隣で美代が頷いた。
「私、A定食にする。先生待ってるから、お先に行ってるね?」
「はい、すぐ追っかけるね、」
明るく笑って美代は書類封筒を鞄に仕舞いながら、注文カウンターへ歩いて行った。
その背中を送りだしメニューに戻した視線、書類封筒が差し出され友達が微笑んだ。
「湯原、これ俺のノートのコピーなんだ。専修になってからの講義全部が入ってる、だから4ヶ月分な、」
差し出された封筒は分厚い、その枚数を想うと手塚の努力と厚意が解かる。
解かるだけに簡単に手が出なくて、見上げた周太に友達は明るく笑ってくれた。
「大学院の専門科目試験、勉強するなら講義ノートが一番って思ってさ。配布資料のコピーも入ってるよ、あとはテキスト買えばOKだろ?」
「そんな、申し訳ないよ、手塚…」
息呑む想いで声が出て、この友人を見つめてしまう。
この書類封筒には森林生物科学専修3年生の講義が入っている、それを学部生では無い自分が受けとって良いのだろうか?
本当は読んで講義を知りたい、けれど手塚の努力を奪うようで申し訳なくて手が出ない。
―聴講の学費しか払ってないのにノート貰うなんて、図々しいよね…でも勉強してみたい、
森林学で最高峰と言われる世界の断片が今、眼前の封筒に詰まっている。
その世界への憧れと遠慮に竦んでしまう、そんな途惑いの前から明朗な笑顔が言ってくれた。
「申し訳ないとか言うなよ、湯原と院の同期になりたくて俺が勝手にやってるんだからさ?折角だから受けとってくれよ、」
懐っこく大らかな笑顔ほころんで、日焼けした腕が周太の手をとり封筒を渡してくれる。
その分厚い重たさに真情が掌から温かい、その温もりが瞳から一滴になって周太は綺麗に笑った。
「ありがとう、手塚。このノート大切にする、」
そっと抱きしめた書類封筒に一滴、温かい涙が吸われていく。
この友人の想いに応えたい、けれど本当は約束など出来ない自分だと解っている。
それでも精一杯に報いたい願い笑った真中で、大らかに明るい笑顔が言ってくれた。
「ノートぼろぼろになるくらい勉強してよ、一緒に合格して例の研究手伝ってくれな?またノートとかコピー渡すし、」
「ん、ありがとう。でも俺、甘えっぱなしになるの悪いよ?なんかお返し出来ること無いかな、」
嬉しくて笑いかけながら書類封筒を鞄にしまい、友達に提案を求めてみる。
大学の講義ノート以上に役立ち返せるものは何だろう?そう見つめた先で愛嬌の笑顔ほころんだ。
「じゃあさ、TOEFLの試験対策つきあってよ?湯原の語学って実用的だから勉強法とか教わりたかったんだ、」
「ん、俺で良かったら付合うよ?…あ、冷やしラーメンにしようかな、」
自分にも出来ることがありそうで嬉しい。
語学は幼い頃から父が自然と親しませてくれた、それを友達の援けに出来る。
こんなふうに父が今も援けてくれる、嬉しい感謝とメニューを決めると手塚も楽しそうに笑ってくれた。
「俺は冷やしの大盛にするよ。聴講の時は小嶌さんの勉強みる合間に教えてよ、あと仕事休みとかで空いてる時は声かけてくれな?」
「ん、ありがとう。またメールとかで休みの日、調べて連絡するね、」
こういう約束は嬉しい、素直に嬉しく微笑んでカウンターへと一緒に歩きだした。
もう美代は青木樹医と差し向かいで笑っている、その手元には書類封筒が初々しい。
きっと受験の話をしているのだろうな?そんな様子に微笑んだ隣から手塚が尋ねた。
「湯原は TOEFL 受けたことある?」
「ん、大学の時に受けたけど…だから1年半前だね、」
「そっか、スコア良かったんだろ、何点だった?」
あのとき何点だったろう?明るい声の問いに記憶を思い出す。
トレイを手に数字を答えて微笑んだ先、眼鏡の瞳ひとつ瞬いて友達の口から驚いた声が出た。
ふるい書物に新しいインクの匂い織られて、数枚の印刷が終わる。
その音に立ち上がるとプリンターから取り出して、読みながら周太は書架と机の間を歩いた。
問題集を広げる二人の背後を通りパソコン前に戻ると、書斎机から青木樹医が困り顔で微笑んだ。
「すみません湯原くん、こんな手伝いお願いしてしまって、」
「こちらこそ申し訳ありません、最初に読ませて頂いて、」
すこし困りながら微笑んだ手には、今、書かれたばかりの文章が紙面に充ちる。
この瞬間に誕生していく新しい学説、その文面を眺めた向こうで准教授は笑ってくれた。
「申し訳ないなんて言わないで下さい、タダで翻訳お願いするなんて私の方が図々しいんですから、」
「いいえ、僕の方が図々しいんです。謝らないで下さい、」
本当に図々しいのは自分の方なのに?
その途惑いに首傾げた傍ら、問題集から手塚が顔上げて笑ってくれた。
「湯原、ノートのことなら図々しいとか無しだからな?俺が勝手にやってるんだし、コピーも先生の許可得てるから、」
「そうだよ、あのノートは私が許可しました。なんの心配も要らないよ?」
若い准教授も気さくに笑ってくれる、その笑顔が素直に嬉しい。
けれどやはり申し訳なくて、周太は辞書を披きながら友達と教師を見比べた。
「でもノートはこの研究室でコピーしたんですよね?コピー代のこともあるのに論文の英訳なんて、逆に勉強させて頂いて申し訳ないです、」
貰った講義ノートのコピー代は結局どこから捻出されたのか?
なにより青木樹医がこの手伝いを依頼してくれた、本当の意図が何なのか?
それが解かる自分としては恐縮するしかない、そう見つめた先で准教授は困ったよう微笑んだ。
「専門書は翻訳料も高いのに、君はバイト代も受け取れないでしょう?勉強になるって言われると私こそ気楽になれます、ありがとう、」
「そう言って頂けると僕も気楽になれます、ありがとうございます、」
答えながら二人の人へ心が温められる。
いま恩師に言われる言葉が嬉しくて、それが父の夢のために嬉しい。
―ね、お父さん?教えてもらった英語のおかげ俺、森林学の最先端を読ませて貰えるんだよ?
英文学者を志した父、その学問へ向けた真摯が息子の自分を援けてくれる。
もし父から貰った語学力が無かったら?山で父が植物採集の手伝いをしてくれなかったら?
父と過ごした9年半があるから自分は今、植物学の一隅に座って夢を未来に叶えるチャンスを与えられている。
―お父さんの夢、今、俺と生きてるね?
大切な俤へと微笑んで今、改めて気づかされる。
ずっと自分は「警察官である父」を追っていた、それが父の真実を知る道だと信じていた。
けれど父の姿は警察官だけじゃない、もっと他の素顔で父は現実に生きていた、その全てを自分は知りたい。
そうして父の真実と願いの全貌を抱きしめて、父が生きた喜びも哀しみも、その全てを共に笑って共に泣きたい。
本当は生きている父と笑いあい泣きたかった。
その願いが死に奪われたとしても軌跡は辿ることが出来る。
その願いに自分は大学で機械工学を学び警察官になった、その選択が母を泣かせた。
きっと父をも泣かせている、そして今朝の会話から自分の傲慢さにも今もう気づいている。
人生って自分だけのモノじゃない。
自分に出来ること全部やって、きちんと生きたって胸張りたい。
この一秒後だって終わるかもしれない、そのとき後悔するの嫌だからチャンスは大事にしたい。
通学する車窓で聴いた箭野の物語は、覚悟の意味を気付かせてくれた。
甘え、強情、傲慢、そして工学部と警察官を選んだことへ本当の責任を想う。
そんな朝があって今ここに座っている時間には、温かな懺悔と感謝と、そして幸せが目映い。
―お父さん、全部があって今があるね?たくさん間違えて、なんども赦されて、
that it is a continuous process of interaction between the historian and his facts,
an unending dialogue between the present and the past.
歴史とは歴史家と事実が対峙し続けるプロセスであり、現在と過去が交わす果てなき対話である
今、パソコン画面と辞書と論文に向かいながら想いめぐらす。
その合間には今朝も読んだ父の遺贈書が心へ映ってめぐりゆく。
あの言葉を光一は父からのメッセージと言ってくれた、その通り今も父の記憶と夢に対話する。
そうして交わされゆく過去と現在の物語りから、はるか未来へ指針は渡されて進む道が顕れだす。
そんな想いに母国語つづる学説を英文にも語らせて、手許の全てが完訳されたとき電話が鳴った。
「はい、青木です…あ、それなら、」
すぐ取った受話器に樹医は話しながら、周太の方を見た。
何の電話だろう?すこし首傾げた向こうから、青木准教授は可笑しそうに笑いかけた。
「湯原くん。申し訳ないのですが今、ちょっと出張してもらえるかな?」
ちょっと出張って何だろう?
解らないけれど恩師の役に立ちたくて、素直に周太は頷いた。
その肯定に青木は微笑んで、電話の向こうと少し話し受話器を置くと教えてくれた。
「湯原くん、仏文の研究室に出張してくれますか?前に話した先輩から緊急の依頼なんです、」
告げられた行先が、鼓動ひとつ心をノックする。
そして暁に見つめていた一文がメッセージのよう心に綴られた。
And yet, it moves ― それでも、それは動く
【引用文:Edward Hallett Carr『What Is History?』】
(to be continued)
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