萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

嶺風、浚明 act.1―side story「陽はまた昇る」

2011-11-06 23:41:20 | 陽はまた昇るside story

純粋だからこそ、




嶺風、浚明 act.1―side story「陽はまた昇る」

河辺駅に着いた時、夜明けの雲が山嶺を明るく彩っていた。
山から風が木々の香を吹きおろす。11月を迎えた朝風は頬に冷たい。
朝の淡い光の中で、稜線の空を見つめる横顔が、愛しかった。

「ほら周太、」

隣の顎をすこし上げさせて、英二はマフラーを巻いてやる。
朝晩は寒いだろうと、クロゼットを覗いた時に持ってきた。
黒目がちの瞳が微笑んでくれる。

「ありがとう、あったかい」
「よかった、」

この笑顔が嬉しい。嬉しくて英二も微笑んだ。
自分の日常になった街へ、今朝は眠ったまま浚ってきた。
それがこの隣には、今いちばん必要だと思ったから。

「おいで、」

そっと手を引いて歩きだす。
きっとまだ隣には、気怠さが残っているだろう。本当は抱き上げて歩きたい。
けれどきっと恥ずかしがって、ここでは流石に怒るだろう。
本当は怒った顔も見たい、なんでもかわいい。けれど少し我慢して、手を引いてゆっくり歩く。

駅のデッキの一角、カフェの扉を開けた。
始発列車に乗る客に合わせて、開いてくれる店。こんな早朝なのに、寛いだ雰囲気がうれしい。
明ける山が良く見える、窓際のソファの席。ここなら体も楽に、座っていてもらえる。

「夜明けの山は綺麗だから、見ていて。あとこれ」

言いながら、掌にオレンジ色のパッケージを渡す。
のどがもし痛かったら。そんな気遣いと、この意味に恥ずかしがる顔が見たくて。
オーダーを考えながら、そっと見た周太は予想通りに顔が赤い。
この顔がまた見られた。そんな幸せが本当は、今だって泣きたいほど嬉しい。

もし昨日、15分遅れていたら。きっとこんな幸せは、壊れて消えていた。
周太の心はまだ、痛んでいるだろう。
だから無理にも浚って、今日は奥多摩へと連れて来た。

けれど本当は自分自身、どこか心が痛んでいる。
もし15分遅れていたら、自分を置去りにしたままで、周太は遠く去るつもりだった。
そうした周太の潔癖こそ、自分にとって本当は、これ以上はない残酷な仕打ち。

もうずっと、出会ってから。この隣ばかりを自分は見つめている。
この隣がいてくれたから、男として警察官として、誇りを持つ意味を考えられた。
この隣に全てを掛けて生きる自分。だから、この隣が離れていくことは、自分という存在への拒絶。
それが、どれだけ残酷なのか、純粋な周太にはきっと気づけない。

俺を本当に傷つけられるのは誰なのか気づいて欲しい。
そう言った自分に、周太は告げてくれた。
「何でもするから、許してほしい」言ってもらって嬉しくて。
けれど自分は知っている、きっと本当には、まだ周太は解ってくれていない。

どれも全て解っている。周太は純粋に過ぎて、自分のような痛みは解らない。
自分の方が、想いが強いこと。そんなこと、最初から解っている。

かすかでもあの状態で「みやた」と呼んでくれたこと。
心開けない周太が、そうして呼んだこと。それだけでも奇跡なのだと、自分は解っている。
けれど本当は、もう少しだけでいい、この隣から自分を求めて、自分を見つめてほしかった。

心開いてもらって、甘えられ、頼られている。
けれど独占欲の強い自分は、もっと見つめてほしい、忘れないでいてほしい。
我儘だって解っている。けれど昨日から、時間が経つにつれて、そんな寂しさが締めつけてくる。

そうして思い知らされる。
想いの大きさの違いのまま、きっと永遠に、片想いのままになる。

それでもやっぱり、隣の笑顔が嬉しくて。笑ってくれたら幸せで。
こんな寂しさも痛みすらも、隣の為なら全て、喜びになっている。
だからもう自分はいい。この隣の笑顔の為に、自分は生きて行くと決めたのだから。
だから今日も自分は、きれいに笑って生きるだろう。

ウィンドウを覗くと店員が、おはようございますと声をかけてくれる。
おはようと笑って答えると、すこし頬染めて教えてくれた。

「今、どのパンも焼き立てですよ」
「ありがとう、」

あの隣が喜びそうなもの。
そんなふうに選べる今の、幸せが嬉しくて。幸せを、失わず守れた喜びが大きくて。
自分の寂しさも痛みも悲しみも、喜びの前には小さくなっている。

窓の外に明るむ空の、あわい光彩がきれいだった。
その空を見つめる横顔の、長い睫に光がけぶっている。きれいだなと、つい見惚れてしまう。
真直ぐな黒目がちの瞳は純粋で、ただ空の美しさを映して微笑んでいる。

純粋できれいな周太。そのままに、きれいでずっと隣にいてほしい。
けれどきっと、自分の気持ちの深さには、この純粋すぎる隣は気づけない。
それでもやっぱり、いとしくて。顔を見られたら嬉しくて、微笑んでしまう。

「オレンジラテ、あったよ」
「おれんじらて?」

勉強や仕事は何でもすぐ覚える癖に、こんな事はすぐ忘れてしまう。
そんなところが可愛くて、愛嬌で好きだ。英二は微笑んだ。

「飲んだら、思いだすだろ」

きれいに笑って英二は、熱いマグカップを周太に渡した。
オレンジの香が湯気と一緒に立ち昇る。ひとくち啜って、周太は微笑んだ。

「あ、新宿で飲んだ、あれか」
「周太、気に入っていただろ」

ほら思いだした。英二は笑って、周太の皿を前へ置いた。
クロワッサンのサンドイッチと、オレンジのデニッシュ。焼き立てを選んで、出してもらった。
ほら、オレンジのから手にとった。周太はオレンジの味が好きだから。

「うまいだろ?」
「ん、」

おいしそうに食べる口許が、今日も見られて嬉しい。嬉しくて、微笑んでしまう。
ほらもう、自分はこんなに、この隣を想っている。

だからきっと近いうちに、自分はまた思い知らされるだろう。
自分はこの隣への想いに、ほんとうに永遠に捕まってしまうこと。
そしてきっとほんとうに、永遠に片想いをしていくということ。
けれど、それでも構わない。
この隣だけに見つけた、静かで穏やかな居場所。
その隣に座れて守れるのが自分だけなら、それで充分に幸せだから。
だから昨日も今日も、これからも。ずっと約束を守っていく。


青梅署独身寮の管理人に、周太の事を紹介した。
その方がきっと周太には、気楽に過ごしてもらえるだろう。

「今日は訓練に来てくれて。午後からなのですが、時間まで、私の部屋を使わせても良いですか?」
「ああ、構わないよ。遠くから、ようこそ」

そんなふうに管理人は微笑んでくれた。
これでもう大丈夫、大切なこの隣は、ここで過ごす自由を得られた。
こうして管理人が自分を信頼してくれる、その事が英二は嬉しかった。

早朝の自室の窓は、広がる奥多摩の山並みがきれいだった。
扉が開いた瞬間、黒目がちの瞳が大きくなる。
カーテン開けっ放しで正解だった、嬉しくて英二は微笑んだ。

「きれいだろ?」
「すごいね、」

嬉しそうに隣が微笑んで、窓へそっと歩み寄る。
その横顔がきれいで。つい抱きしめてしまいたくなる。
けれど今朝は急がないといけない、午前中に業務を集中させてある。

シャツを脱いで新しい救助隊服に着替えた。その時に、首から提げた鍵にそっと触れる。
鍵によせられた想いが温かい、そっと英二は微笑んだ。

「今朝は巡回、御岳山から大岳山まで回る予定でさ。だから救助隊服で出勤なんだ」
「朝から、忙しいんだな」
「そのかわり、夕方の巡回は駐在所長の岩崎さんが、行ってくれるからさ」

今日は午後、軽めの山岳訓練を一緒にしてもらう。
その後すこし駐在所勤務に戻って、それから定時で上がって、新宿へ行く。
あの店で寛いで、そうして周太がまた一人で、行けるように居場所を作る。
そう考える隣から、周太が微笑んでくれる。

「いろいろ、ありがとう。うれしい」

素直な言葉と笑顔が、嬉しい。
ほらやっぱりこんなふうに、隣を見れば幸せになってしまう。
嬉しくて英二は、きれいに笑った。

「嬉しいなら、俺も嬉しいよ」

嬉しくて、そっと唇で唇にふれた。
けれどすぐ離す。だって長くしてしまったら、きっと離せなくなって出勤できない。
黒目がちの瞳に、英二は微笑んだ。

「診療室にさ、本返しに行くんだ。一緒に行こう?」
「吉村先生だよな、俺も会ってみたい」

嬉しそうに、隣は答えてくれる。良かったと英二は微笑んだ。
これから自分は勤務に出る。その後を少し、吉村医師に周太を託させて欲しかった。

吉村は息子を遭難で失い、山岳地域の警察医になった。
警察医として山岳地域の生死と向き合う。そうする事で吉村は、山に斃れた息子の軌跡を見つめている。
周太は父親を殉職で失って、警察官の道を選んでいる。
全てを掛けた孤独の底から、父の真実に向き合う道に立った。そして昨日、殉職に斃れた父の想いを見つめた。

父と息子。二人は相対する立場で、同じ想いに道を選んでいる。
そんな周太と吉村は、きっとお互いを受けとめられる。

だから吉村に、勤務に入る自分の代りに、周太を受けとめ一緒に過ごしてほしかった。
自分を息子代わりに想ってくれる吉村に、率直に甘えようと英二は思った。
借りていた本とファイルを片手に、いつものようにノックして、扉を開けた。

「おはようございます、」
「お、宮田くん、おはよう」

いつものように吉村医師は、穏やかに微笑んだ。
部屋にあふれる朝の光に、見慣れた診療器具は銀色に輝いてきれいだった。
すこし首かしげるように吉村は、周太にも笑いかけてくれる。

「湯原くん、ですね」

黒目がちの瞳が大きくなる。
きっと名前を呼ばれて途惑っている。英二は微笑んで言った。

「お、先生、やっぱり解ります?」

やっぱり吉村は解ってくれる。
一昨日の今日だから、解りやすいだろう。けれど一目で見てとって、吉村は名前を呼んだ。
そのことが、吉村も事情を聴いていると周太に教えてくれる。きっと周太は話しやすくなるだろう。
そういう吉村の、細やかな気配りは嬉しい。英二は笑って紹介した。

「湯原周太です。俺の同期で、一番大切なひとです」
「そうか、うん、素晴らしいな」

穏やかに微笑んで、吉村は周太へと会釈してくれる。
周太も、きれいに礼をした。

「新宿署の湯原です。朝早く、急にお邪魔して申し訳ありません」

いいんだよと笑って、吉村も礼を返してくれた。

「青梅署警察医の吉村と言います。いつも宮田くんには、お世話になっています」
「お世話しています、でしょう、吉村先生」

本を書棚に戻しながら、英二は笑いかけた。
こういう吉村の気さくさと、温かさが好きだ。きっと周太も好きだろう。
英二はザックとファイルを置いて、洗面台で手の消毒を始めた。

「今朝は大岳まで回るので、あと20分で出ますが、手伝わせて下さい」
「ああ、いつも悪いな。助かるよ」

青梅署には看護師がいないから、警察医が全てを取り仕切る。
だから英二は、毎朝こんなふうに手伝いをする。
自分の日常を周太に見てほしい。そして今日一日を、この穏やかさに暮らしてほしい。
そう思っている隣に、周太も立って消毒を始めた。

「周太も?」
「ん、」

振り向いた黒目がちの瞳が、楽しげで明るい。
この様子なら周太は、ここに馴染んで過ごせるだろう。
きっと吉村の温かさは、周太の心をほぐしてくれる。
手をきちんと拭いてから周太は、吉村医師に声を掛けた。

「俺にも、手伝わせて頂けませんか?」
「ああ、助かります。お願いできますか?」

温かく微笑んで、吉村は頷いてくれた。
吉村医師と英二のやり方を見ながら、周太も手伝い始める。

「周太、はじめてだろ?」
「ん、」

丁寧にきちんと、消毒の手入れを進めて行く。
聡明な周太らしく、見て要領をすぐ学んだようだった。
こういう周太なのに、不思議と「オレンジラテ」のような単語は忘れてしまう。
そういう所も可愛くて、英二は好きだった。そんな隣に英二は笑いかけた。

「上手いもんだな、周太」
「そう?」

すこし恥ずかしそうな笑顔は、瞳が明るくなっている。
だいぶ元気になった様子に、英二は微笑んだ。これなら多分大丈夫。
そろそろ質問しようかな、英二は吉村医師へと声をかけた。

「上腕二頭筋について教えてください。
 短頭は烏口突起、長頭は肩甲骨関節上結節から橈骨、前腕筋膜につながっている。これで合っていますか?」
「はい、その通りです」
「ここで言う橈骨は、先日お伺いした前腕部の橈骨と同じ骨でしょうか」
「そう、腕橈骨筋の真裏にある。これですね」

器具をセッティングしながら、人体図を吉村医師が指さす。
その指先を、英二は目で追いながら記憶していく。
ファイルにメモするとき、図解を頭に入れた状態から書きたかった。

「では、例えば橈骨が折れると、前腕だけではなく上腕も動きにくくなる。そういう事でしょうか」
「そうですね。それは尺骨にも言えることです」
「尺骨の鉤状突起には上腕筋、肘頭には上腕三頭筋がつながっている。その事でしょうか」

そうですねと微笑んで、人体図を指さして、吉村医師は続けた。

「ほら、上腕と前腕の筋肉と尺骨は、こんなふうに繋がっている」
「尺骨が非常に重要だと仰ったのは、この事なのですね」
「はい、そうです」

隣は、手を動かしながら、驚いた顔をしている。きっと意外だったろう。
警察医の吉村が教えてくれる事は、話してはある。
けれど今、吉村に質問する内容は、警察学校時代の救急法とはまた違う。

左腕のクライマーウォッチを見ると、7:20だった。
もうメモを始めないと、出るまでに書けなくなる。

「まだ途中なのに申し訳ありません、メモをとっていいですか?」
「もちろん。遠慮はいらない、デスクも使って下さいね」
「いつもすみません、ありがとうございます」

いつものようにデスクを借り、急いでファイルにメモをとった。
終えて立ち上がると、ザックを肩に掛けながら周太に笑いかけた。

「ごめん周太、俺もう行かないといけない」

もう7時半だった、でも走れば間に合うだろう。
それでねと、部屋の鍵を渡しながら、周太に頼んだ。

「部屋へ戻るとき、ファイル持って行ってくれるかな」
「ん、解った。気をつけて行って来て」
「14時頃には訓練始めるから、また電話する」

きれいに笑って英二は、吉村医師へ頭を下げた。

「すみません、よろしくお願いします」
「うん、大丈夫だよ。今日も気をつけて帰っておいで」

いつものように吉村の微笑みは温かい。そして周太の事も「大丈夫だ」と引受けてくれた。
吉村医師の想いに、いつも英二は心から感謝している。
けれどこんな時は尚更に、頼らせてもらえる事が嬉しかった。
いつか感謝を返したい、思いながら英二は駅へ走った。

時間いっぱい周太の隣にいたくて、出る時間を少し無理をした。
それでも改札を通って、無事に目当ての電車に乗り込んだ。
閉った扉の内側で、ほっと息をつく。けれど息があまり切れていない。
けっこう自分もタフになったかな、こういう実感は嬉しい。英二は微笑んで、シートに座った。

いつものように、胸ポケットからiPodを出そうとする。
30分の通勤時間を音楽に過ごす、朝夕の楽しみだった。
けれど、今朝は無かった。

「あ、…デスクの上、かな」

いつもならポケットの中身は、脱いだ服から翌朝の衣服へと移す。
けれど今朝は急いで、いったんデスクへ出して着替え終わった後に移した。
多分その時に、iPodだけデスクに置去りにしたのだろう。

仕方ない、英二は携帯を取出した。
メモリーから一葉の写真を呼びだすと、英二は微笑んだ。
周太の寝顔が、きれいに写っていた。
今朝、撮ったばかりの写真。着替えさせても眠っているから、つい撮ってしまった。

眠る周太は無垢で幼げで、けれど初々しい艶が清らかで。
きれいで、いとしくて、いつも見惚れる。
そうしていつも、目覚めるまで、抱きしめたまま見つめている。

けれど今朝は、連れ帰る仕度のために体を離した。
着替えさせても、周太は起きる気配が無い。今なら撮れるなと、つい思ってしまった。
だって本当はずっと、写真に撮って持ちたいと思っていた。自分だけが見るために。
そんなわけで、きちんと保護ロックをかけてある。

きっと知ったら、あの隣は必死に消去しようとするだろう。
そういう焦った顔も見てみたい。どんな顔も、自分だけは知っていたいから。
こんな自分は本当に馬鹿だなと、英二は我ながら可笑しかった。
こんなにまで誰かを求める。
自分がそういう生き方をするなんて、8か月前には想像できなかった。
8か月前の自分なら、馬鹿だと嘲笑しただろう。心の底では本当は、羨ましいと思いながら。

御岳駐在所で出勤報告を済ませると、英二は御岳登山道へ入った。
御岳山から大岳山頂までを廻り、登山道の崩れなどを確認していく。
山頂は紅葉シーズンに入っている。週末でもあり、一般登山客がいつもより多い。

「おはようございます、どちらまで今日は登られますか?」

そんなふうに声かけながら、追い越し足を進めていく。
声を掛ける時は、さり気なく相手の装備を確認する。
ルートと装備によっては注意を促さないといけない。こうして遭難事故を未然に防ぐ。

奥多摩は都心から近く、気軽にハイカーが訪れる。
その気軽さから、装備を整えず下調べもなく、遭難するケースが多い。
そういう理由で、奥多摩地域は遭難発生率が高かった。
昨年は51件88名の遭難事故が起きている。重傷者11名、死亡者5名。そして行方不明者1名。

そして今年の死亡者には、田中の名前が入っている。
ベテラン登山家で地元在住者。それでも田中は遭難死した。
山では、こんな事だって起きる。

山では自然に囲まれる、それは他人に簡単には頼れないと言うこと。
山では、自分で自分を救けるしかない。それが出来ない状況で、人は遭難死をする事になる。
10m落ちても人は死ぬ、人間はそれだけ脆い。
英二は生きることの厳しさを、山を歩くたびに思う。

そして歩くたび、山の美しさが心が響く。
秋を迎えた梢は、見上げるごと色彩を深める。
山底をそめる苔には、水の気配と土の香が息づいて瑞々しい。
そしてブナの木に、水で繋がれる生命の畏敬を想う。

警察学校の6ヶ月は、真実に向き合う覚悟を固める時間だった。
その6ヶ月間、あの隣の姿に、生きる誇りと意味を見つめた。
そしてこの奥多摩で、廻る生死の息吹を見つめている。
7ヶ月10日間、出会い与えられた全てが、自分を育んでくれた。
ここに立てて良かった、心の底から、そう思う。


12時頃に御岳駐在所に戻り、報告と昼食を済ませた。
交番表で岩崎と登山計画書のチェックをする。週末で晴天の今日、予想通りに件数が多い。
ひと段落して、茶を啜りながら岩崎が微笑んだ。

「昨日な、戻ってきた国村に、少しだけ訊いたよ」
「ご心配かけて、済みませんでした」

湯呑を置いて、英二は頭を下げた。
訓練終了後の英二は、挨拶はしたが焦っていた。岩崎にも、そして後藤にも心配をかけただろう。
けれど岩崎は、片眼をつぶって笑ってくれた。

「緊急事態に立ち向かう、それが俺たち警察官の任務だろ」

穏やかで実直な雰囲気だが、こんな茶目っ気も岩崎にはある。
それにも気遣いが底にある。ありがたいと思いながら、英二は微笑んだ。

「はい。自分が警察官だからこそ、昨日は救けられました」
「そうか。うん、なら良いんだ」

岩崎は微笑んで頷いてくれる。
英二にとって、最初に出会った山ヤの警察官は、岩崎だった。

卒業配置の初日、奥多摩の志望動機を訊かれた英二は、在学中の山岳訓練で経験した周太の救助について話した。
そのとき救助を志願した理由を訊かれ「絶対に自分が助けたいと思った」と英二は言った。
それを聴いた岩崎は「俺と同じだな」と微笑んで頷いてくれた。

その初日に初巡回から、秀介を背負って戻った英二を、岩崎は褒めてくれた。
「初日から対応が的確だな、宮田は適性があるよ」
そんなふうに笑って、初日の緊張を励ましてくれた。

英二は山岳経験が少ない、そんな引け目があった。
だから岩崎が、初日にそうして認めてくれた事は、大きな励ましになった。
この先輩は好きだと、英二はあの時から思っている。
岩崎の大きな背中に、自分も追いつきたい。

「こんにちは、」

かわいい声が背中に聞こえて、英二は振り向いた。
いつものように秀介が、ランドセルが大きい姿で笑っている。
卒配初日の時、母親の迎えを待つ秀介に、英二は九九を教えてやった。
それ以来、英二の勤務日には欠かさず顔を出す。
来なかったのは、祖父の田中が亡くなった、通夜と葬式の日だけだった。

「こんにちは、塾の時間だな」

笑って岩崎は、秀介の前にしゃがみこんだ。
秀介も嬉しそうに、岩崎に頭を下げた。

「はい、宮田のお兄さんを、お借りしてもいいですか?」
「もちろん。今日も土手でいいのかな?」

秀介にも丁寧に、岩崎は対応してくれる。こういう温かさが、英二は好きだった。
すみませんと頭を下げる英二に、構わないよと笑ってくれる。

「しっかり教えてやってくれ。俺も田中のじいさんには世話になったんだ」
「ありがとうございます、いつもすみません」

駐在所の前の土手に、秀介と並んで腰かけた。
晴れた日はここが定位置になっている。
土手の足許は田圃だった。今は刈入れが終わり、稲の切株がきれいに並んでいる。
新米の季節、今日も岩崎の妻が昼飯に炊いてくれた。

「今日のはね、特別おいしいわよ」

そう言われた丼飯を、英二は4杯を平らげた。
元気だなと、岩崎夫妻は嬉しそうに笑ってくれた。

この間の誕生日の時に、周太も新米を炊いてくれた。
肉ジャガも何でも、周太の手料理は旨かったな。
そう思っている目の前に、算数ドリルを差し出された。

「まずね、算数を見てくれる?」

表紙には「小学3年生・3学期」と書いてある。
秀介はまだ1年生だが、算数が得意らしい。親にねだったドリルで次々進めている。
解いてある場所は、きちんと正解だった。途中まで手をつけた問題も、そこまでは合っている。
周太も聡明だが、この「しゅう」も聡明な性質らしい。英二は微笑んだ。

「良く出来ているな」
「ありがとう。じゃあ、次は理科いい?」

嬉しそうに笑って、秀介はランドセルを開ける。
今度は教科書と「小学1年生3学期」のドリルが出てきた。

「理科も先に、進めているのか」
「うん。この間もうね、2学期のは終わったんだよ」

秀介は祖父の通夜の日、英二に訊いた。

―医者になるのは難しい?…僕、吉村先生みたいになりたい

検案所で吉村医師は秀介に、祖父の死を真直ぐ受け留めさせた。
それから秀介は、より熱心に勉強している。
吉村医師を目標にするなら、立派な温かい医師になれるだろう。
そんな二人の繋がりが、英二は嬉しかった。

そして通夜の夜、周太は英二の隣に来てくれた。周太から隣に来てくれたのは、あの時が初めてだった。
検案所で通夜で、秀介を抱きしめて泣かせた時。
幼い周太も、抱きしめて泣かせてやりたかったと、英二は思った。
そしてあの夜、英二は周太を抱きしめて泣かせた。

―このままどうか浚って 幸せを俺に刻みつけて―

泣いた後、初めて周太から求めてくれた。
それからの周太は、呼吸する度ごとに、素直になっていった。
素直な周太は可愛くて、きれいで、嬉しかった。

―隣にいさせて 離さないで浚っていて―

あの夜、そう周太は言ってくれた。
けれど昨日、周太は自分の隣から、去ろうとした。

きれいな純粋な周太。
自分の辛い運命に、誰も巻き込まない為に、孤独を選んで生きていた。
その13年間の孤独を、自分が壊してやりたかった。
そして昨日、自分は間に合うことが出来た。

けれど、本当は、一瞬でも周太が自分から離れようとした、その事実が痛い。

純粋な優しさが、英二を巻き込みたくないと想ってくれた。
きれいな潔癖さが、英二を守るために、孤独を選んで離れようとした。
どちらも周太らしいと、解っている。そんな凛とした生き方も好きだ。

けれど、でも、俺は、離れたくなかったのに。

あの隣の全てを、自分だけが肩代わりしたい。
その為に、自分は努力してきた。
その為に、同じ射撃姿勢を身につけた。自分の全てを掛けたから、今ここにいる。
その全てが、周太の隣を失いたくなかった。その為のこと。

それなのに、周太は自分から、離れて孤独に戻ろうとした。
それが、どれだけ残酷なのか、純粋な周太にはきっと気づけない。

純粋な周太が、好きだ。
けれど本当は、自分を深く傷つけた事を、知ってほしい。
自分を傷つけられるのは、誰なのか気づいて欲しい。

今朝も思った事、考えても無駄な事だと解っている。
けれどこうして、もうひとりの「しゅう」の隣にいて、思いだされてしまう。

「ほら秀介、ここはさ、この考え方の応用だよ」
「あ、なるほどね。よくわかった」

いま自分は、笑っている。
けれど本当は心には、昨日から痛んでいる部分がある。
それでもこんなふうに、自分は笑えている。自分は少しだけ、強くなれたのかもしれない。

「よお、塾の時間だな」

声に顔をあげると、細い目を微笑ませて国村が立っていた。
気配を消すのが国村は上手い、このひと忍者かよとたまに思う。
今日の国村は、Tシャツとペインターパンツに作業着の、農業青年といった格好だった。
色白で文学青年のような国村だが、こういう姿も様になる。
底抜けに明るい国村の目は、なんだか今の英二には嬉しかった。英二は笑った。

「昨日は、ありがとうな」
「まあね、」

ツキノワグマが人里へおりる事を防止するため、青年団では柿もぎをする。
その柿は干柿にして、町のみんなに配ると国村が教えてくれた。
今日の午前中は、国村はその配達係だった。
それが終わった後、訓練を一緒にする予定になっている。

「白妙橋に行こうと思うんだけどさ、宮田くん今、上がれる?」
「今から周太迎えに行ってだろ?勤務合間だしさ、時間が厳しくないか」

白妙橋は奥多摩駅よりも日原川上流になる。
青梅署とは逆方向だから、周太を青梅署に迎えに行った後では、時間が足りないだろう。
けれど国村は、ふうんと唇の端をあげた。

「宮田くんにはさ、干柿以外も配達したからね」
「え、?」

どういうことだろう?
英二が訊き返したのに、国村は秀介に声をかけた。

「秀介、茶を淹れるからさ、干柿食おうよ」
「うれしい、僕、すきなんだ。宮田のお兄ちゃん、食べてきていい?」

嬉しそうに立ちあがると、秀介は国村と駐在所に入って行った。
英二は首を傾げた、国村は干柿以外に、何を配達したのだろう。
なんだろうと上げた視線の先に、小柄な姿が立っていた。

「周太、来てくれたんだ」

顔を見れば、やっぱり嬉しい。きれいに笑って、英二は立ちあがった。
黒目がちの瞳は、なんだか気恥ずかしげで、物言いたげに見える。
いつものように、どうしたと見つめると、周太は口を開いた。

「あの、昨日、パトカーの事、聴いた」

青梅署からの道すがら、国村は自白したのだろう。
というよりも多分、周太が質問してくるよう国村が誘導した。その方が正解だろう。
あのひとらしい、英二は微笑んだ。

「ああ、聴いちゃったんだ。ごめんね周太」
「…なんであやまる?」
「職権利用だろ?そういうの周太、嫌かなと思って」

怒られるかなと英二は思った。
けれど黒目がちの瞳は、悲しそうに見上げている。
どうしたのだろうと想っていると、周太は真直ぐに英二を見つめた。

「来てくれて、本当に嬉しかった。それから、俺こそ、ごめんなさい」

そう言われると嬉しい、英二は笑った。
でも、どうして周太は謝ってくれるのだろう。
目だけで訊いて微笑むと、周太は声を押し出した。

「俺、昨日、宮田の事を裏切ろうとしていた。13年間に捕われて、俺から離れようとした」

ことん、心にひとつ響いた。
今朝からずっと考えて、望んでいる事。それを今、告げてくれるのだろうか。
静かな予感に、そっと英二は微笑みと頷いた。

「…うん、」

黒目がちの瞳は、純粋なままに見つめてくれる。
純粋だからこそ、気づいてはもらえない。そうに諦めていた。
でも目の前の瞳には、後悔に漲った涙の紗が見えている。
そして素直に、周太は唇を開いてくれた。

「ほんとうに酷いことを、俺…ごめんなさい。どうか、許して。そして隣にいさせて」

気づいてくれた。
自分の痛みに、この隣は純粋なまま見上げて、気づいてくれた。
嬉しくて、嬉しくて、ほんとうに幸せだと思える。きれいに笑って、英二は言った。

「言っただろ、全部を俺が、受けとめるって」

腕を伸ばし、静かに抱きとめて懐にとじこめた。
涙の温もりが布越しにそっと伝わる。肩のふるえが、いとしかった。

Then make you want to cry The tears of joy for all the pleasure in the certainty
That we're surrounded by the comfort and protection of The highest powers
―そして君を泣かせたいんだ 確かな幸福感の全てに満ちた、嬉しい涙で
僕らは、孤独を壊され庇護の中へと抱えこまれている 最上の力によって

今朝、忘れて来たiPod。何曲か入っているけれど、この曲ばかりをいつも聴いている。
リフレインする歌詞が、いつも言えない想いまで言葉にしてくれる。
そう思いながら、いつも、聴いている。

「大好きだよ周太、俺の方こそ隣にいさせて」

いつも告げている言葉、本当に心から願っている。

「…ん、隣にいてほしい。俺も、大好きだから」

見上げてくれる周太の、涙が明るくて、きれいだった。
求めてもらえて嬉しい、その涙が嬉しくて、英二は笑った。

「俺の方がね、きっともっと、周太を大好きだよ」

そっと唇を重ねて、静かに離れた。
だってきっと長くしたら、それこそ今は歯止めが利かない。
嬉しそうに見上げて、周太が微笑んでくれた。

「来週に休暇がとれるんだ。雲取山へ連れて行って」

I want to stand with you on a mountain
いつも聴く曲の、リフレインする歌詞。
自分がずっと望んでいる、叶えたい約束の言葉。
それを今、この隣が自分から、望んで微笑んで、告げてくれた。

「連れて行くよ。約束だろ、周太」

きれいに英二は笑った。



(to be continued)


【歌詞引用:savage garden「truly madly deeply」】

blogramランキング参加中!

人気ブログランキングへ

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 イラストブログ 風景イラストへにほんブログ村

にほんブログ村 小説ブログへにほんブログ村



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 嶺風、優明 act.2―another,si... | トップ | 嶺風、浚明 act.2―side story... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

陽はまた昇るside story」カテゴリの最新記事