
トップ写真は、戦前の本からのもの、「繰り回し」の本なので、全部「○○から作った何々」で、
これは「ハデになった母親のじゅばんから作った子供の着物」
えっ、着物じゃなくて、じゅばんだったの?…と思わず確認してしまったくらい、華やかなじゅばんですね。
色柄ものの染の長じゅばんは、今でも売られていますが、数は少ないです。
やはり訪問着などには淡い色の綸子の織り柄のもののほうがいいと思いますが、
「街着」では、もっと遊び心があっても、いいんじゃないかと思っています。
肌じゅばんは「下着」、半じゅばん、長じゅばんは、下着でも表着でもない、フシギなもの…。
今下着というと、肌に直接つけて汗を吸い取ったり、表着への直接の汚れを防いだり、保温したり…
という働きをするもの、であって、原則として「人の眼に触れない」もの。
まぁ最近、洋装には「下着風のタンクトップ」とかあったりして、わざわざ「見せる下着」なんて書いてあったりします。
つまり、元々は見せないもの…でも、じゅばんは「見えるところもあり」「見られてもかまわないところもある」です。
例えば女物の着物は袖のフリはあいていますから見えますし、雨やぬかるみなどでは、
ちょっと着物をたくしあげて、長じゅばん見えたスタイルで歩いたりもします。
昔は床掃除なんていうと、帯を隠すくらい、着物を背中に裏返してあげるくらいのカツコもしました。
急な階段を登るときなど、着物の裾がすれないように、ちょっとたくしあげたりすると、ちらちら見えますね。
でも例えば、汚れるからスカートをたくしあげて、スリップ丸見えで歩くとか、
ちょっと暑くなったから、セーターの袖たくしあげてシャツの袖見せて歩く…なんてことはありませんよね。
じゅばんは「下着のようなもの」だけど「下着」ではない…。
だからといって、じゃ暑いから今日は長じゅばんに帯締めて歩く…は、ありませんね。
もし、長じゅばんを下着、と分類するなら、たぶん世界中探しても、同じようなものってそうはないと思います。
なんでこんなふうになったか…正確なこと、これはもう服飾の専門家に聞くよりないのですが、
単純に考えて、日本は寒くてビンボーだったからではないか…なんて思うのです。
まず家のつくりからして、西欧のように「石造り」ではありません。
木と、紙やら藁や萱でできた、通気性のいい…ハツキリ言うと「隙間風だらけの保温性のない」家に住み、
暖炉などの大きな暖房器具も生まれず、防寒は「重ねて着る」しかなかったんですね。
着物として着られるだけの大きさのものがなければ、背中に綿を背負ったり、
紙子(和紙の着物)を中にきて、スースーするのを防いだり(昔は麻が多かったですから)…。
そして、いろいろ重ねることは、またスティタスでもあった…というわけで、
どこまでが肌着なのか…最初の一枚だけでしょうねぇ。つまり晒しの筒袖の…。
となると、その上から着るものは「着物その1、その2」…。
昔の身分高いご婦人は、何枚も重ねてきています。
あれは「着物」を重ねているのか「じゅばん」を重ねているのか、悩むところですが、
襲、と言う着物では、三枚襲、五枚襲、なんてのがあって、これは一番上の表着は着物で、あとは中着。
その下にじゅばんで、肌じゅばん…ややこしいことですわ。
美しくて高価なそろいの着物を「襲」で着るのは、十二単の名残といいますか、
スティタスの表れですが、あの十二単は、正式名称「唐衣・五衣・裳」…つまり、一番下に着る白い小袖が、
長じゅばん…いやいや、それに袴をはきますからねぇ…あれも着物…。
あれは「下着」といいます。袴も含めて「下着」。
下着というと、今は肌着のことをさしますが、当時は「上にキレイなものを着るための土台」の意味。
ややこしいのですよ。
江戸時代の後半までは、長じゅばんはありません。富めるものも貧しきものも、老いも若きも、
武家も町人も、みんな半じゅばんに裾よけ。
今、裾よけは下着の扱いですが、元々は今の「うそつきのセット」の形が「じゅばん」だったわけです。
じゃなんでいま裾よけをつけるのか…あれは元々「パンツ」のかわり。
このあたりについては、下着のお話しで書いていますが、もともとは「湯文字」と言ったくらいで、
湯屋で裸にならないためのもの。江戸の湯屋は、最初は「サウナ」でしたから、
男女ともに肌着をつけて入りました。後年「湯船」につかる方式になっても、
しばらくは男性は褌、女性は女褌、つまり湯文字をつけて入りました。
今のように、全部脱いで入るようになるまでには、時間がかかったのです。
で、この入浴用の腰巻を裾よけの中に着て行って、湯に入り、あがるとこれをとって裾よけをつける…、
これが、保温とか汚れたら洗える便利さとか、そういうことで、裾よけの下にもう一枚巻く…になり、
やがて長じゅばんになったときには「肌着」として残ったわけです。だから「パンツのかわり」。
関西では「裾よけ」、関東では「蹴出し」と呼ばれました。
浮世絵などを見ても、着物の下にやたらと何枚か重ねていて、
一番下に「赤い蹴出し」が見えているものなんてのがけっこうあります。
じゅばんのお話しなのに、どうして「江戸パンツ」のお話しになっちゃったんでしょうか…。
とりあえず、そんなわけで(どんなわけ?)、着物って元々重ねて着ることが当たり前だったので、
一番下の「筒袖」で、衿のないもの、が肌着、あとは平安時代の「土台としての下着」、
というような分け方なんだと思います。だから長じゅばんは「見せてもいい」「見られてもいい」もの。
だからこそ!と、ここで力説ですが、チラリと見えるわずかな色に、気を使ってオシャレするといいよぉという
そんなことなんですね。
着物は「柄 on 柄」で着るものです。どの着物にも合うように、淡い色目、薄い色目も、
それはそれで品があって優しくていいものですが、この着物にはこのじゅばん、というオシャレも、
なかなか捨てがたいミリョクがあります。
昔の人は「節約」という点からも、いたんだ着物やハデになった着物をじゅばんにしました。
最初っからそうではなかったと思いますが、もったいないからこうしよう…と工夫をしてきたことも合わせて、
そういうものの「美しさ」や「センス」を磨くことになったのではないかと思うのです。
トップ写真の「子供の着物」、ハデになったじゅばん…これをじゅばんとしてきていた人は、
このじゅばんの上には、どんな着物を着ていたのかと思います。
どこをとっても美しい…。
あらっ、そうですか?
いわれてみれば、やたら眼がぐりぐりでおかっぱ…。
もうちょっとヒネた子でしたが、イメージはこんなかもですー。
子供の着物って、子供らしい柄もかわいいし、
こんなふうに大人のものでも、
なんかおしゃまでかわいいですよね。
もっと子供に着物をきせてほしいものです。
それに「ゲタ」って子供のころから履きなれると、
足にいいんですよね。
印刷の悪さを差し引いても、いい柄ですね。
着物を着た人というのは、出会うと
なんかそれだけでホツコリします。
ふしぎなものですね。
ほんとに華やかですよね。
母も、古い伯母の着物の袖とかつないで、
襦袢にしていた記憶があります。
ほんとに無駄がないですよね。
私のツボです!
子供の着物姿は本当に可愛いですね。
子供が小さかった頃、良く着物を着せていました。浴衣に、絣、そして骨董市で手に入れた子供着物。中身が多少難有でも子供の着物姿は可愛らしいーー小さい子にもっと着物を着てほしいと思います。
それはともかく襦袢のお話はそういうことなのかと納得。
そうした歴史は面白いものですねえ~~
興味深く読ませていただきました。
当時の写真、白黒のうえに
着彩されたものを
印刷用の色におきかえていますから
ほんとうの色目は、もっと深かったかも。
新聞で、今年の葵祭の斎王代は
老舗呉服店のおじょうさんとか。
ご両親もそろっての着物姿、しつらえに
ほっとながめさせていただきました。
ご当主の、着こなしにうっとりです。
ほんとに長襦袢だったの?と疑いの目で
見てしまいますね。
昔の人は小さな布でも無駄にせず、大切に
していましたね。