確かむかーし「知ってるつもり」という番組で紹介されたと思います。
こころの手足―中村久子自伝 | |
クリエーター情報なし | |
春秋社 |
この本は、すでにこの人のことを知っていた母に勧められて探し、読んだもの。
もう少し前に出された自伝があります。この本、今はたぶん、実家にあるはず。
この方については、ご存知の方も多いと思います。
彼女は脱疽という病気のために、幼くして両手両足を失いました。
家族間でさまざまな葛藤を乗り越え、母親は彼女を「いつか一人で暮らさねばならないのだから」と、
ことのほか厳しく育てました。彼女は口で針を使い、着物を縫います。
初めて縫ったお人形さんの着物は、友人の母親によって「よだれで汚れたものなどいらない」と、
捨てられてしまいましたが、彼女は「ならば唾液で汚れないものを縫う」と決めて、
10数年かかって、そのワザを習得します。
見世物小屋で「だるま娘」という出し物で、手足がなくても縫い物をする字を書く…
そういうことを見せてお金を稼ぎます。
4度の結婚で、子供ももうけますが、夫運がないのか、みな早死にされてしまいます。
それでも子供はちゃんと育て、ヘレン・ケラーとも対面します。
50にして執筆や講演といったこともこなすようになります。
こういうことは、ここで長々書くよりも、「中村久子」で検索すると、写真も映像もいろいろ出てきます。
私は、母にこの人の話を聞いて、この目で本の写真を見るまでは信じられませんでした。
近年「五体不満足」で、サリドマイドの「乙武」氏が有名になりました。
男女の違いも、社会状況もいろいろ違いはありますが、両手両足がない、という事実は同じです。
二人はとてもしっかり「自分の人生」を生きています。自分の人生に意味をもって生きています。
「誰もが腕は二本、指は十本、やってできないことはない」…祖母が母に伝え、母が私に伝えた言葉です。
まだ子供だった私は、目の揃わない自分の編み物に苛立ち、どうしても曲がる縫い目にかんしゃくを起こし、
「おんなじだけあったって、できることとできないことがあるわい」と、心の中で毒づいていましたっけ。
今ならわかります。努力せよ、やるだけやらにゃいかん。それでダメならあきらめればいい。人のせいにするな…。
手も足もない人が、口で器用に針を操り、糸を通し、しかも着物を縫う…。
それを知って、人の心の可能性というのはどれほどすごいものなのか、と、驚嘆したものです。
彼女の言葉に「人は生きているのではなく、生かされている。どんなところにも、生かされていく道がある。
だから人生に絶望はない」というのがあります。
今、若くしてカンタンに命を絶つ人がいます。特に歯がゆいのは「いじめ」による自殺です。
まだ学校という狭い世界しか知らない年頃では、家と学校が世界の全部…。
そこで自分の居場所がない…と感じると、命を絶ってしまう。もったいないと歯軋りする思いです。
「いじめにちゃんと反論しなさい」「親に話しなさい」それができなかったら、
「自分の生きられない世界を捨てなさい。ただしそれは『死』を選ぶことではなく、
自分の生きる世界を探すこと」と言いたいです。
学校なんて行かなくたって生きていかれる、行きたくなったら大人になっても行かれる。
それよりも、今、自分が死ななくていい世界を選びなさい、と。
絶望はない、というのはそういうことだと思います。
幸いにも、私は五体満足です。中指が少々バネ指になっていて、時々よっこらしょと起こしてやらないと、
中指だけお辞儀したままになります。それがなんだ…と思います。
10本の指があるのだから、それを使う智恵も親から授けてもらったのだから、
「わかんなーい」「できなーい」という結論は、すぐには出すまい…と、そんなことを思うのです。
私の苦手は「立体」と「刺繍」です。どうにもこうにも、このときばかりは「このセンスは私にはないのだ」と、
思い知らされます。それでも、チャンスがあったらやってみようとも思うし、
とてもヒトサマには見せられなくても、ハンカチにちょっと刺繍をしてみたり…そんなことをやってます。
パソコンもデジカメも、使えば使うほど「ナゾ多き道具」になっていきます。
それでも、負けてなるものかと思っています。先日主人に「アイパッド購入許可」をもらいました。
「無線ランつけるんだぞ」…もうわかりません。調べるっ…。
追いかけても追いかけても、到底追いつくものではないのですけれど、わかんないからいーや、で、
せっかくの「楽しい世界」にいかれなかったらシャクです。
ケータイは「ほとんど使わない」という理由で、いまだスマホではありませんが、
スマホ買うなら「パッド」買え、といわれて、嬉々としています。
なんでって?だって「許可が出た」ということは、おとーさんの貯金から出していいってことですから。
へっへっへ、私の貯金は、別の夢のためにとっておくんだいっ。
中村久子さんの、心の強さには、到底及びもつかない私の大雑把なココロですが、
いつもなんでも「楽しまなきゃ損」とおもっていますし、時々「あぁもぉぉぉ」と思うような、いやなことがあると、
「ポリ袋に三重に包んで、次のゴミの日にだしてやるっ」と、いきまくことにしています。
太くて短い10本の指とともに、まだまだやりたいことがいっぱいです。
読み進めて行くうちに なんとなく 記憶が蘇りました。
ですが 今まで 全く すっかり 忘れていました。
母親に 不器用だ 不器用だと言われて育った私
不器用で当たり前 と思っていましたし
その言葉に甘んじていました。
へバーデンで指が曲がり 痛みがあり 力は入らず
指を折り曲げる事 強く握る事が苦手となり・・
爪も弱くなって 爪先 指先を使う事も出来なくなりつつある現状ではありますが
心を入れ替えなければいけませんね。
さて この先 どんな事が出来るかしら。
世の中にはこうして人の光となる方が現れる。
この方の存在がどれだけの人の力になったのだろうと思うとつくづくこういう方こそが仏なのではないかと思ったりします。
命を絶ってしまう若い人にぜひ知ってほしいですね。
痛みや不具合があるなら、そりゃ仕方ないですよ。
私も中指使いづらくなっていますので、
字が書きづらくなっています。
何かをしなければ、というより、できることをサボらない、と
そんな戒めに思っています。
なんせ「サボリ魔」ですから…。ほんと、動かないと…。
ほんとに「光となる人」ですね。
ヘレン・ケラーが「私より不幸な人がいた」と、
言ったそうですが、あるべきものがない、使えない、ということを
言い訳にしてはいけないのだなぁと。
いつも真摯なキモチでいられればいいのですが、俗物ですから、
ついグチが先に出ます。
それでも、最低限「命」は大切にしなきゃならないものだ、ということは、
当たり前のことだと、若い人に思ってもらいたいですね。
十代の人に、、とにかく生きていてくれればいい!
といったことを思い出します。
馬を水辺に連れて行くことはできる、水を飲ませることは出来ない、馬が自分で飲むのだ。
その時、思い出した言葉です。出典不明? (@_@)
しかしながら、苦しい時代ですね。
昨今のいじめや、理不尽な事件には、
どう腹を立てていいのやら、そこからわかりません。
生きていれば…それだけは、私も強く思います。
ほんとに、モノが豊かになったら、
別のものが、どんどん零れ落ちていくような時代ですね。