ほばーりんぐ・とと

ただの着物好きとんぼ、ウンチク・ズッコケ・着付けにコーデ、
あちこち飛んで勝手な思いを綴っています。

手仕事

2012-11-27 18:25:03 | 着物・古布

 

写真は、今年も出番の綿入りひっぱり。

 

昨日はものすごい雨でした。夜のうちにようやくあがり、今朝まだ暗いうちにゴミ捨てに出ましたら、

それはそれはキレイな星空で、しばし立ち止まって眺めてしまいました。

空気がキンと冷えている時間、この「綿入りひっぱり」は薄いんですけど本当に暖かくて、

帰り道は、雀踊りのように袖の中に手を入れて、ひょいひょいと帰ってくる…そんな季節になりました。

 

古着ですから、誰がどこで着ていたものか…贅沢に錦紗やちりめん、お召しの端縫いです。

一枚一枚の布は、元は何だったのでしょう。誰が着ていたんでしょう。

こうして縁あって受け継いで、毎年背中を暖めてもらって…ありがたいことです。

一番好きなところ、ざらざらのちりめんです。

 

     

 

こういうものを見ると、母の言っていたことを思い出します。

母は、縫い物をしながら、よく「ウチはなぁ、ばぁば(母の母)の手ぇがほしかったんや」と言ってました。

早い話が「手わざの技量」のことなんですが…。

祖母という人は、生きていれば今年130歳になろうかという、明治の女です。

京都の山奥、浄土谷という平家の落人の村に生まれ、12歳で母親がなくなり、

弟や妹の世話をしながら、家事一切を切り盛りしていたそうです。だから学校へもロクに行かれなかったと…。

山を降りる形で農家に嫁ぎ、4人の子供を育てましたが、4人目、つまり母が生まれたころに、

つまらないことで財産の大半を失い、やがて戦争…本当に怒涛のような一生だったでしょうね。

 

その祖母は、たいへん器用な人だったそうで、夫があまりこまめな人ではなかったらしく、

大工仕事までしたそうな。私もかすかに覚えていますが、軒の深いわらぶきの家に入ると、

土間があり、右側が普通の座敷、左側には、なにやら小さな階段がついていて、

覗くと狭いながらも座敷がありました。そこに次男(母の兄)夫婦が住んでいました。

その「座敷」を、祖母は自分で設計して作ったのだそうです。

もちろん縫い物も達人。祖母は自分自身は一生束髪と着物ですごした人でしたが、

時代は子供たちに「洋服」というものを着せる道に差し掛かっていました。

祖母は洋裁はまったくできなかったので、まず弘法市(京都で有名な露天市)で、

洋服の古着を買ってきて、それを丁寧に解き、新聞紙にのせて型紙を作ったそうです。

「着物と同じや、解いた順番に縫うていったらできる」と。

二人の男の子二人の女の子に、それで洋服を縫って着せたそうです。

むろん、ミシンなどというものはなく、すべて手縫いです。ただ、細かい洋裁の決まりはわかるわけもなく

母は「裏地のつき方が着物と同じで、袷のスカートだった」と、そんな話をしていました。

編み物も、祖母の娘時代には、まだまだありませんでしたから、祖母は近所の若いお嫁さんに習って、

みんなのセーターや毛糸のパンツを編んでくれたそうです。

 

母も、縫い物編み物、何でもする人でしたが、自分自身は祖母に習い、結婚してからはミシンも買えた、

だから祖母のような苦労はしていないというのです。

小学校もロクに出ていない祖母が、編み物の本も見ずに、年下の人に教えてもらって、

洋服を解いて自分で考えて何でも作ったことは、努力だけではなく、智恵も「腕」もあったのだろうと。

その全部が詰まった「祖母の手」がほしいと思った…ということです。

若いころは「ふ~~ん」だけでしたが、今、私が同じように「おかぁちゃんの手ぇがほしかったなぁ」と、思っています。

和裁も洋裁も、母には叶わなかったし、はじめてトライした「毛糸の靴下」は、

どうしても「カカト」の減らし目がキレイにできなくて、泣きながら母に編んでもらいましたっけ。

今に至るも「カカト」は嫌いです。

色の取り合わせ、素材の選び方、母もまた「自分の智恵」で楽しむ人でした。

手元に、山ほどのハギレを持ちながら、今もまだそのままです。

「ちっさいハギレは置いといたかて、鼻かみにもならへん。つないだら立派な布になる」、

「誰もが腕は二本、指は十本、やってできへんことはない」

母の三回忌が近いせいでしょうか、なにかにつけ、ふと思い出します。

母にクリスマス・リースを作ったことがあります。一言「オマエはこういう無駄なもんは器用に作るなぁ」…。

でも毎年出して飾ってくれていましたっけ。

 

今、なかなか「針を持つ」ということがありません。時々「禁断症状」が出ます。

母の手ぇはもらわなかったけど、キモチはもらっているのだと思いたいです。

女の子がいないので、これを伝えることがありません。

せめてブログで、手抜きシリーズでもいいから、針を持つ楽しさを伝えていけたらなと思っています。

う~~なんか縫いたいよぉ…。


コメント (8)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« なにを焦って早々お年賀… | トップ | 「母の手がほしい」と書いて… »
最新の画像もっと見る

8 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
……(涙) (べにお)
2012-11-27 19:02:52
なんだか、読んでいて涙がにじんできました。
おばあちゃんからおかあさん、おかあさんからとんぼさんへと受け継がれていく確かな心というか…。
じんわり、いい話ですね。

最近、祖母の着物をよく着ます。
どの着物も緑色ばかりで、「どこまで緑好き~?」と笑ってしまうこともありますが、かくいう私も緑好きで初めて仕立てたのも緑色の小紋でした。
生前、祖母の緑好きなんて全く知らなかったのに。面白いものですね。
おかしなもので、そんなところで「血」を感じて、嬉しくなりました。
私は独り身なので、この「血」を受け継がせることができません。それは心残りですね。
せめて、この「心」だけでも生徒達に受け継いでもらえたら…と思って仕事をしています。
返信する
とんぼさんのおかげで、針を手にする機会が増えております! (まあや)
2012-11-27 19:30:30
いつも楽しく拝見しております。
腱鞘炎も持病の一つ (T.T) なものですので、はかどりませんが、、‥。

クリスマスケーキに付いていた飾りが数個見つかったので、チョットダケ手作り飾りに。

たくさんのヒント、暖かい言葉、ありがとうございます。
返信する
Unknown (陽花)
2012-11-27 20:17:48
本当に昔の人は解いて覚えて縫うという
事をしていたんですね。
「誰もが腕は2本指は10本、やってできひんことはない」と
いう言葉は頑張ってやってきた人だから言える言葉なんだと思います。
返信する
Unknown (とんぼ)
2012-11-27 22:49:30
べにお様

何気なく耳にしていたことや「そのハナシ、耳タコ」なんて
ため息ついていた話が、今となっては宝物のように
輝いて見えます。
男性のことはよくわからないのですが、女親と娘、
祖母と孫って、フシギなつながりがありますね。
気がつくと母と同じだ、と思ったりして…。
誰によらず、何かが受け継がれるということは、
生きている証でもあると思います。
生徒さんたちに、いっぱい教えてあげてください。
返信する
Unknown (とんぼ)
2012-11-27 22:50:56
まあや様

私も腱鞘炎が持病です。
それでもチマチマやっていればと続けています。

同じ楽しみを共有できたと思うとうれしいです。
お役に立てて、こちらこそありがとうございます。
返信する
Unknown (とんぼ)
2012-11-27 22:52:19
陽花様

確かに今のような便利道具もない時代ですから、
やらなければならない状況ではあったとは思いますが、
私なら、途中でほうりだしていたのではないかと、
昔の人の辛抱強さに感服しています。
返信する
Unknown (古布遊び)
2012-11-28 08:44:16
今朝は良いお話を聞かせていただきました。
気持ちは受け継がれていくのですね~~
なんだかジンときました。

しかし昔の人は凄い人がたくさんいたものだと本当に感心いたします。
その根っこにあるのはやろうと言う気持ちかなあと思います。

私の祖母も明治生まれの東北の田舎の人でしたがやはり編み物は知らなくて都会に出た時にウインドーに飾ってあるものを見て毎日眺めて、どういう経緯でかは知らないのですが、とうとう物にしたそうです。
それに比べると、すぐに「無理~~」と手もつけない私は恥ずかしい!!!
娘はそんな私に似てしまった!!!
返信する
Unknown (とんぼ)
2012-11-28 18:06:08
古布遊び様

ありがとうございます。
昔の人は、何もないからこそ、自分でやらなければならなかった…
それなんですよね。
あまりに何でもある、お金を出せば買える…そういう暮らしに慣れてしまうと、
人間は怠惰になる気がします。
昔の人には叶いませんから、あるものは使って、楽しめたらと、
いつもそんな風に思っています。
両面テープなんて、ほーーんと便利だしー。
返信する

コメントを投稿

着物・古布」カテゴリの最新記事