昨日は、ご心配いただきまして、ありがとうございました。フッカツしてまーす。
写真はまず義父の結婚式の写真です。
義父の葬儀が終わったあと、遺品整理をして全て我が家に引き上げたのですが、
とりあえず写真と手紙や書類にだけ分けて箱に入れ、そのままになっていました。
ずっと気になっていたので、ブログで戦争のお話を書いた日に引っ張り出してきました。
戦後の写真は家族のものとそれの3倍くらいの庭木の写真。
植物好きは知っていましたが、庭で育てている樹や花を大切にしていて、
花が咲くたびに撮っていました。たまーーーに義母やオットが一緒に写っているのですが、
ほんとに人間の方が「お添え物」みたいです。
その中に一袋、戦争関係の写真、これはまたいずれ…。
そして結婚式の記念写真が何枚かありました。
古いものばかりです。義父のころは、出征が決まると急いで結婚させる…
なんていうこともありました。夫婦として暮らしたのは一週間…なんて人も
たくさんいるんですよね。
義父は、昭和10年に結婚しています。ちなみに最初の出征は結婚二年目。
義母はこの時代の人にしては背が高くて、160センチくらいありました。
義父の方が小さい「ノミの夫婦」…。でも義父は顔だけは大きかった…コラコラ。
義母はとってもきれいに写っていますが、実は「眼鏡」のいる人で、
言っちゃなんですがこれ、かなり美人に写っているかと…顔つきが和風なのかもですね。
そしてこちらが、義母の妹、つまり「義理の叔母」です。
不思議だなぁとおもうのですが、日常の写真は「妹」の方がかわいくてきれいです。
暴露写真ってわけじゃありませんが、普段ガオはこちら、義母(右)と叔母です。
花嫁衣裳の写真も、見るのが楽しいですけれど、
普通の写真も、いろいろ着物が見られて楽しいものです。
義母もその実家も東京でしたので、これらの写真はほとんどが
「靖国神社参拝記念」とか「明治神宮参拝記念」として撮られています。
つまり出征が決まって「武運長久」を祈願に行くとか…ですね。
実際何枚かの写真は、義父が戦地に持っていったようです。
そういう写真ですから、一応「お出かけ着物」だと思います。
義母はさすがに年上ですし、既婚者となってから着物もジミっぽい感じです。
上の写真は義母は「村山大島」のようです。羽織と叔母の着物と羽織は銘仙のようですね。
色がわからないのが残念です。
向かって左が義母、後ろは義父、義父の右は義母の実弟で、このかたは戦死しました。
義母の着物は明らかに銘仙ですが、色はきっと「臙脂系」…。
これもまた別の結婚式写真、仏前結婚のようです。
ネットでも古い写真などは見るのですが、初めて発見!「絽の振袖」…。
挙式の日は6月下旬です。単ではなく絽にしたのですね。
お嫁さんだけアップ、夏ものらしく「水の流れに鷺と川辺の水草」のようです。
もう少し裾をきれいに広げてほしかったなぁ…。
上の写真は、ダレだかわからないのです。
義父の写真はこまめに「年月日」は書いてあるのですが、
名前や続き柄があまり書いてありません。
これも名前はあるので身内なのでしょうけれど…ダレなんだ?
とりあえず、名前を見ると義父の身内のダレか…こんなんばっかし。
さて、この全部で5枚の花嫁さんの写真をしげしげと眺めました。
えぇ当然「着物」のほうです。
義母の衣装は「留袖」タイプです。袖丈は昔風で長いですけれど。
妹の方はいわゆる「花嫁振袖」ですが着付けが普通でお引きずりにはなっていません。
妹の方が当然あとですから、昭和14年、もう戦争直前ですね。
それほどの枚数ではありませんし、また東京近辺ばかりですので、
一概には申せませんが、5枚の花嫁衣裳のうち、4枚まで「振袖」ではありません。
もちろん、そのおうちの都合、そして戦前という社会状況などもあるでしょうから、
一概には言えませんが、やはり「時節柄、華美は避けよ」ということが
言われていたのかもしれません。古着で出てくる「黒振袖」も、
あきらかに花嫁衣装でありながら、最初から留袖になっているものが多いです。
けっこうイロイロだったのですね。
さて、これは…もう全て故人となられているので
天国に向かって「ごめんなさーい」とご挨拶してのお話ですが…。
実は、義父は、義母よりも叔母の方をお嫁にほしかったのだという話があります。
まだ義父の存命中から、ちらっと耳にしていました。
それでもお見合いでしたし、姉妹なら姉が先、というのが当然の時代ですから、
義父は義母をお嫁さんにもらった…ということらしいんです。
義母、義父と相次いでなくなり、その3年後でしたか叔母も亡くなりました。
その時、親戚からまたそんな話を聞き、オットも「だったらしいよ」と…あらら。
お義母さん、かわいそーーに。そういえば義母の葬儀のとき、
叔母が実の姉のことを「姉は意地の悪い人でねぇ…」と、そういってました。
なんでもわざわざ電話で横浜まで呼びつけて、買い物の荷物持ちをさせたり、
あげくお茶しても「はい割り勘ね」と言われたとか…。
私には姉妹がいませんのでよくわかりませんが、身内であるがゆえに、
かわいさあまって…というのはあったのかもしれません。
なんでこんなお話しを暴露したかと申しますと…。
上の「○○参拝記念」などの写真と、そのほかのいわゆるスナップは、
「在営記念」という「軍」の記念アルバムに収められているのですが、
その中に義母の写真はごちゃっと写っていたりのものを含めても、枚数が少ないのに、
叔母の写真だけは、ひとりで写真館で写したものが何枚もあるのです。
真相はわかりませんが、義母はこれを見たのかもしれません。
叔母は結婚しましたが、その後実家にもどり、弟が戦死したために
そのまま実家をつぎました。再婚はせず、女の子を育て、婿養子をもらいました。
義母が半身不随になって入院している間や、なくなってからの義父の一人暮らしの間、
叔母は月に一度は義父を訪ね、数日泊まって世話を焼いていました。
そのことからも、親戚に「ほんとはねぇ…」といわれたわけです。
下司の勘ぐり…はしたくありませんが、お互いに気持ちは惹かれても、
それがかなわない時代であったわけで…。
叔母が再婚を拒んだのも、もしかすると…なんてその純情と思いに、
ちょっとうるっとしてしまった私です。
お義母さん、ほんとのところはわかりませんし、
お義母さんの気持ちもわかりませんが、最後までちゃんと夫婦でしたよね。
三度の出征、シベリア抑留、どれほど不安な思いで、義父の帰りを待ったことでしょう。
茶化すようなことを書いてたいへん申し訳ないことでしたが、
三枚目、眼鏡の義母の写真の裏には、母の手でこう書かれてあります。
「神かけて 無事凱旋を祈るのも われら銃後の誠なりけり」
つらい時代を生き抜いた三人の、昔の写真を見ていると、
一枚の着物、一本の帯にも、それぞれの暮らしの色も思いもが見える気がします。
私はいい時代に生まれて、本当にシアワセだと思います。
お義父さん、義母さん、私たち元気で暮らしていますから、
上で三人仲良くしてくださいね。
せめてものキモチで…義母の見事な丸髷です。もちろん地毛ですよぉ。
サービスに色つけてみました。
写真はまず義父の結婚式の写真です。
義父の葬儀が終わったあと、遺品整理をして全て我が家に引き上げたのですが、
とりあえず写真と手紙や書類にだけ分けて箱に入れ、そのままになっていました。
ずっと気になっていたので、ブログで戦争のお話を書いた日に引っ張り出してきました。
戦後の写真は家族のものとそれの3倍くらいの庭木の写真。
植物好きは知っていましたが、庭で育てている樹や花を大切にしていて、
花が咲くたびに撮っていました。たまーーーに義母やオットが一緒に写っているのですが、
ほんとに人間の方が「お添え物」みたいです。
その中に一袋、戦争関係の写真、これはまたいずれ…。
そして結婚式の記念写真が何枚かありました。
古いものばかりです。義父のころは、出征が決まると急いで結婚させる…
なんていうこともありました。夫婦として暮らしたのは一週間…なんて人も
たくさんいるんですよね。
義父は、昭和10年に結婚しています。ちなみに最初の出征は結婚二年目。
義母はこの時代の人にしては背が高くて、160センチくらいありました。
義父の方が小さい「ノミの夫婦」…。でも義父は顔だけは大きかった…コラコラ。
義母はとってもきれいに写っていますが、実は「眼鏡」のいる人で、
言っちゃなんですがこれ、かなり美人に写っているかと…顔つきが和風なのかもですね。
そしてこちらが、義母の妹、つまり「義理の叔母」です。
不思議だなぁとおもうのですが、日常の写真は「妹」の方がかわいくてきれいです。
暴露写真ってわけじゃありませんが、普段ガオはこちら、義母(右)と叔母です。
花嫁衣裳の写真も、見るのが楽しいですけれど、
普通の写真も、いろいろ着物が見られて楽しいものです。
義母もその実家も東京でしたので、これらの写真はほとんどが
「靖国神社参拝記念」とか「明治神宮参拝記念」として撮られています。
つまり出征が決まって「武運長久」を祈願に行くとか…ですね。
実際何枚かの写真は、義父が戦地に持っていったようです。
そういう写真ですから、一応「お出かけ着物」だと思います。
義母はさすがに年上ですし、既婚者となってから着物もジミっぽい感じです。
上の写真は義母は「村山大島」のようです。羽織と叔母の着物と羽織は銘仙のようですね。
色がわからないのが残念です。
向かって左が義母、後ろは義父、義父の右は義母の実弟で、このかたは戦死しました。
義母の着物は明らかに銘仙ですが、色はきっと「臙脂系」…。
これもまた別の結婚式写真、仏前結婚のようです。
ネットでも古い写真などは見るのですが、初めて発見!「絽の振袖」…。
挙式の日は6月下旬です。単ではなく絽にしたのですね。
お嫁さんだけアップ、夏ものらしく「水の流れに鷺と川辺の水草」のようです。
もう少し裾をきれいに広げてほしかったなぁ…。
上の写真は、ダレだかわからないのです。
義父の写真はこまめに「年月日」は書いてあるのですが、
名前や続き柄があまり書いてありません。
これも名前はあるので身内なのでしょうけれど…ダレなんだ?
とりあえず、名前を見ると義父の身内のダレか…こんなんばっかし。
さて、この全部で5枚の花嫁さんの写真をしげしげと眺めました。
えぇ当然「着物」のほうです。
義母の衣装は「留袖」タイプです。袖丈は昔風で長いですけれど。
妹の方はいわゆる「花嫁振袖」ですが着付けが普通でお引きずりにはなっていません。
妹の方が当然あとですから、昭和14年、もう戦争直前ですね。
それほどの枚数ではありませんし、また東京近辺ばかりですので、
一概には申せませんが、5枚の花嫁衣裳のうち、4枚まで「振袖」ではありません。
もちろん、そのおうちの都合、そして戦前という社会状況などもあるでしょうから、
一概には言えませんが、やはり「時節柄、華美は避けよ」ということが
言われていたのかもしれません。古着で出てくる「黒振袖」も、
あきらかに花嫁衣装でありながら、最初から留袖になっているものが多いです。
けっこうイロイロだったのですね。
さて、これは…もう全て故人となられているので
天国に向かって「ごめんなさーい」とご挨拶してのお話ですが…。
実は、義父は、義母よりも叔母の方をお嫁にほしかったのだという話があります。
まだ義父の存命中から、ちらっと耳にしていました。
それでもお見合いでしたし、姉妹なら姉が先、というのが当然の時代ですから、
義父は義母をお嫁さんにもらった…ということらしいんです。
義母、義父と相次いでなくなり、その3年後でしたか叔母も亡くなりました。
その時、親戚からまたそんな話を聞き、オットも「だったらしいよ」と…あらら。
お義母さん、かわいそーーに。そういえば義母の葬儀のとき、
叔母が実の姉のことを「姉は意地の悪い人でねぇ…」と、そういってました。
なんでもわざわざ電話で横浜まで呼びつけて、買い物の荷物持ちをさせたり、
あげくお茶しても「はい割り勘ね」と言われたとか…。
私には姉妹がいませんのでよくわかりませんが、身内であるがゆえに、
かわいさあまって…というのはあったのかもしれません。
なんでこんなお話しを暴露したかと申しますと…。
上の「○○参拝記念」などの写真と、そのほかのいわゆるスナップは、
「在営記念」という「軍」の記念アルバムに収められているのですが、
その中に義母の写真はごちゃっと写っていたりのものを含めても、枚数が少ないのに、
叔母の写真だけは、ひとりで写真館で写したものが何枚もあるのです。
真相はわかりませんが、義母はこれを見たのかもしれません。
叔母は結婚しましたが、その後実家にもどり、弟が戦死したために
そのまま実家をつぎました。再婚はせず、女の子を育て、婿養子をもらいました。
義母が半身不随になって入院している間や、なくなってからの義父の一人暮らしの間、
叔母は月に一度は義父を訪ね、数日泊まって世話を焼いていました。
そのことからも、親戚に「ほんとはねぇ…」といわれたわけです。
下司の勘ぐり…はしたくありませんが、お互いに気持ちは惹かれても、
それがかなわない時代であったわけで…。
叔母が再婚を拒んだのも、もしかすると…なんてその純情と思いに、
ちょっとうるっとしてしまった私です。
お義母さん、ほんとのところはわかりませんし、
お義母さんの気持ちもわかりませんが、最後までちゃんと夫婦でしたよね。
三度の出征、シベリア抑留、どれほど不安な思いで、義父の帰りを待ったことでしょう。
茶化すようなことを書いてたいへん申し訳ないことでしたが、
三枚目、眼鏡の義母の写真の裏には、母の手でこう書かれてあります。
「神かけて 無事凱旋を祈るのも われら銃後の誠なりけり」
つらい時代を生き抜いた三人の、昔の写真を見ていると、
一枚の着物、一本の帯にも、それぞれの暮らしの色も思いもが見える気がします。
私はいい時代に生まれて、本当にシアワセだと思います。
お義父さん、義母さん、私たち元気で暮らしていますから、
上で三人仲良くしてくださいね。
せめてものキモチで…義母の見事な丸髷です。もちろん地毛ですよぉ。
サービスに色つけてみました。
聞いた事があります。
ほとんど顔も見ないまま結婚したとか・・・
今ではありえないような話ですけどね。
地毛で結っている丸髷、色っぽくて
いいですねぇ。
成人式の振袖は経済的な負担になるからと
お盆の帰省の時期に成人式を行う地区もありますが、やっぱり振袖って良いですよね・・・。
昔の結婚観は厳しいなあと。
婚活・離活の今の時代では考えられませんね。
お義母さまのようなたっぷりと豊かで真っ直ぐで綺麗な髪の毛が本当に羨ましいです~!
色がつくとぱあっと鮮やかになりますね。
昔は、挙式当日まで顔知らないとか、
生まれたときから親が決めてるとか、
信じられないことが普通だったんですよね。
丸髷はお正月に結ったようです。
大正7年の生まれですから、
まだまだ着物生活も日本髪も、
珍しくなかったんですね。
今では振袖は成人式用、ですからねぇ。
元々は「娘の晴れ着」だから、
二十歳前にみんな作ったものなんですが…。
それだけのため、じゃ確かにもったいないですけれど、
やっぱり振袖はいいですよね。
いまや嫁のなり手が少ないと…。
いとこも40過ぎてまだ嫁に行きません。
とりあえず予約ってわけにいきませんし、
今は今で、悩ましいことです。
義母のかんざしが残っていないかと思ったのですが、
処分したらしく、櫛一本残っていませんでした。
「この、この挿してるかんざしはどこっ!?」