ほばーりんぐ・とと

ただの着物好きとんぼ、ウンチク・ズッコケ・着付けにコーデ、
あちこち飛んで勝手な思いを綴っています。

黒い羽織について

2015-04-13 00:08:40 | 着物・古布

 

まだ、あれこれやってはおりますが、着物のことを書いてないと、なんかへん…な日々でして。、

ちょっとずつでもと、綴っています。

「黒羽織」は時節柄もっと早くに書きたかったのですが、えぇいつものとおりの「いろいろ」で…。

 

着物の質問サイトで黒い羽織についての質問と回答を見ると、あぁちょっと不安…と思うことがあります。

「黒い紋付の羽織を女性が着る」って、今の時代あまりないことだからでしょう。 

よく眼にする質問は「入・卒に黒い羽織はどうか」「この着物に黒羽織はあうか」など…。

 

まずは…黒い羽織は、大きく分けると三つあります。

「紋付で・柄の染めていない・黒い羽織」、織の柄のものはあります。これがいわゆる「黒紋付き」。

「黒い地で・背中部分や袖に絵羽づけの柄のあるもの(紋はあったりなかったり)」、

これは黒絵羽・黒絵羽羽織と呼ばれます。

「普通の羽織のように小紋柄がついていて、紋はナシの『地色が黒』の羽織」、

これは地色が黒いというだけで、おおむね街着、おしゃれ着の羽織。

この三つですが、それぞれに「着られるTPO」が違います。

ラストの「ただの地色が黒の羽織」は、普通の羽織なので、フォーマルの要素はありません。

 

トップ写真の「黒い羽織」前から見るとただの黒にみえますが(もう一度出します)

 

            

 

背中に一つ紋つき。揚羽蝶ですので「通紋」かもしれませんね。

紋がついていることや、柄のつけ方などから、戦争を無事越えたか、戦後すぐくらいかなぁと思います。

戦後の短い羽織よりは、1寸くらい長いかなというところ。

 

            

 

そして実は「お召しの黒絵羽」です。漆糸ですね。こうしてみるとハデでしょう。

 

         

 

こちらは現代に近いもの、たぶん昭和50年くらいかしら…です。いとこの娘さんのもの。

 

                     

 

紋はなく、後ろ身頃に華やかに柄があります。昭和30年代40年代はみんなこんな感じでした。

 

          

 

刺繍のように見えたのですが、実はほそーい線描き、花の芯やつぼみだけ刺繍です、

 

      

  

 

黒い羽織はどう着分けるか…。

結論は…実は難しいのです。

元々単に「黒紋付き」といっても、女性の場合は正式でも「三つ紋」、次が一つ紋、

またほかの着物と同じように「染め抜きと縫い紋では染め抜きの方が上」

黒絵羽も本来は紋をひとつつけるものですが、今はつけなくてもまぁ略装ならいいでしょう…です。

現時点での「まぁこンな感じかな」…で言うと、

「黒紋付き」は、女性の場合「慶弔」どちらにも略礼装として使えます。

「黒絵羽」は、紋がついていなくても、今は略礼装として使えます。

絵羽も原則としては慶弔両用に使えますが、色柄によっては、慶事のみ、弔事のみと

分けられてしまう場合もありますので、柄に注意が必要です。

上の写真、古いほうは柄は少ないけど大きいし、金銀がはいってますから弔事には向きませんね。

下も花ですし、色が赤中心なのでやっぱり、略礼装として着るならお祝い事ですね。

また、絵羽織には黒だけでなく「色絵羽」もあります。これも使い方は同じです。

葬儀については、地色は黒のみ。

そしてよく言われる「入・卒」に黒絵羽を着るときの下に着る着物…

これは原則としては「小紋・縞」…というのが「本来の着方」です。 

 

この辺りのことが、今うやむやといいますか、まぁいいんじゃない?という時代ごとの緩みとか、

人によっていうことが違ったりで、迷うんですね。

これを少しでも「あぁそれならこうでいいかなぁ」ていどにと思えるところまで、考えてみましょう。

 

 

ではまず「羽織ってなんだ?」…から。

羽織の元は、戦国時代の武将が日常の上着としていた「胴服(どうぶく)」と言われています。

これは京都、風俗博物館のHPからお借りした画像、秀吉の「胴服」です。

 

               

 

今の羽織の形にそっくりですが、袖が「広袖」でフル・オープンですね。衿と身頃の色や素材も違います。

また、戦(いくさ)の時は、鎧を付けた上から袖のない「陣胴服」を着ました。のちに「陣羽織」と呼ばれます。

つまり、胴服は「羽織るもの」の総称であって、それが形をひとつに固定したものが

「羽織」という名称に落ち着いて、今に至るわけですね。

 

さて、戦国時代が終わり、徳川さんがやっとこさ国をまとめました。

のちに江戸時代と呼ばれるようになる徳川の御代は、だいたい270年くらい長い時代ですから、

服装も、当然さまざま変化していきます。

武士には武士の装束があったわけですが、徳川の世になって「武士のなかでの身分」というものも、

きっちり分けられましたから、それぞれの衣装も大名の格だの、それぞれの役職だので、

いろいろ細かく決められたわけです。その中で「羽織」というものは、元が普段の上着ですから、

たとえ黒で紋がついていても、最初のうちは衣服のなかで「格下」、普段着ランクのものでした。

黒地に紋をつけた着物と羽織、袴、の三点セットは、江戸も中期に入ってからようやく「武士の略礼装」、

「庶民男子に於いては礼装」…というような、やはり身分制度がひっかかるランクづけで落ち着きました。

庶民といったって、誰しもが持てるわけではありませんから、あくまで裕福な家の男性ですが。

このあと明治維新が起こり、身分制度なども変わったりして、黒紋付きの位置づけはまたまた動きます。

当時は「太政官」という役職があり、そこがいろいろと「これはこうしますからね」と、

命令を出したりしていました。そこで「黒紋付きは、男子の礼装にするから」と、

ここでやっと、黒紋付きセットが「日本の男性の第一礼装」と決められたわけです。

 

ちと話がさかのぼりますが…身分制度とともに「男尊女卑」も存在しましたから、

元々武家社会から出た「羽織」「黒紋付き」は、女は着ないもの…でした。

「ちょっといいじゃない?これ」なんてことで、女性もいっとき羽織を着たこともあったのですが、

これは上からのお達しで「女は羽織は着ないこと」と、決められてしまいました。

これも「女どもが助長しないように」という意味だったとかで、今ならパワハラセクハラですねぇ。

なので、江戸も末期になるまで、女性は羽織とは縁がなかったのです。

女性は女性で、着物の変遷がいろいろあるわけですが、

女性にとって「上着を着る」ということは、限られた人でした。身分の高い人の「打掛」とか…。

つまり女性にとっての「正装」は、着物に帯…で、それが主流になっていたわけです。 

身分制度の上に、格差もありましたから、長屋に住むようなその日暮らしの庶民には、

晴れ着からして「あったらフシギ」みたいなもの、常に古着専門でした。

やがて時代がかわり、いわゆる生活水準もあがりはじめ、普通に着物を買うということも

進んだわけです。ただその時でも…いや、今もそうですが、買うと言ったらまず普段に着るもの、

オシャレに着るものが優先で、留袖だの喪服だのは嫁入りのときに…なんて感じですよね。

高価なものがそんなには買えない状態で…実は黒紋付きの羽織は「便利グッズ」になったわけです。

女性が羽織を日常的に着るようになったのも幕末から明治という浅い歴史です。

更に「黒紋付き」なんて男の着るもの、でしたから、女性にとってはなじみが薄い…

そういうものでしたが「男の礼装に使えるなら、一枚あったら、女だってちょいと改まってつかえるんじゃない?」

に気が付いた?!いえ、誰がそう考えたかはわかりませんが、着物だけで暮らしていた時代、

そんなにいいものや礼装は揃えられないけど、とりあえず外に着ていかれるものは持っている、

それならその上に黒紋付の羽織を着たら、ちょっと改まったところでもOKでしょ…というわけです。

そうやって新しく考えられた着方だった…ということなんですね。

 

昔は、冠婚葬祭のほとんどは家でやりました。だからお祝いや仏事にも自宅を訪ねました。

町内の誰かの家で赤ちゃんが生まれた、娘さんの結納が終わった、おばぁちゃんが寝付いてしまった、

長老さんが亡くなった…そんなときに「このたびは…」と、袱紗を掛けたり、風呂敷に包んだりして、

お祝いやお見舞い、お香典を包んで持っていくとき、ちょっといい着物に黒紋付きの羽織を羽織れば、

礼を尽くした身支度…と通ったわけです。

そういうときの一番都合のいい着物は「細い縞柄」でした。一番は「縞のお召し」。

お召しは縮緬ですから、高級品です。これに慶事なら明るい帯、弔事なら黒い帯で、

黒紋付きの羽織を着ていけば、事足りたわけです。

縞の着物は普段の街着としても着られますから、つまりは…庶民の知恵の産物…ですね。

 

やがて、日本は「昭和」という激動の時代を迎えます。洋装もたくさん見られるようになりつつも、

始めのころは着物は銘仙が大流行したり、派手なお召しや華やかなちりめんなど、いまよりずっとニギヤカ。

それが、戦争の足音が近づくにつれて、だんだん窮屈になっていき、

しまいには「着物なんか着ている場合じゃない」と、みんなもんぺになり、華美な行事は控える…で、

日本からは「華やかなこと、にぎやかなこと」が、どんどん減っていきました。

ようやく戦争が終わったら…日本は「総ビンボー状態」…。着たくても家財はみんな燃えてしまったり、

あっても食べ物や日用品にかえなければならなかったり…着物にとって最大の受難であったわけです。

ようやく戦争の影も薄れ、暮らしも少しずつ上向いてきて…これが私が小学生のころですが、

近所のおばさんたち、つまり当時50代60代以上ですね、そういう人は、ウールや木綿であっても

けっこう着物を着ていました。割烹着やひっぱり、その下に前垂れ、別珍の足袋に下駄つっかけて、

家の角で立ち話していたり、縁先でお茶していたり…。

でも、当時30代40代の人たちは、ほとんどが日常的に洋装、そして「特別なとき」だけ着物…。

この「特別なとき」が、お正月とか「入・卒」だったわけです。

でも、それでなくてもやっと立ち直ったばかりの状況で、それこそ、明治の初期と同じような状態です。

だから、黒紋付き着ていったら、なんとかカッコになるわよね、と、戦前の知恵である黒い羽織を着たわけです。

これは私の思うことですが、当時テレビや雑誌などの「情報」が、たくさんあふれるようになりました。

それまで様々な情報は、狭い地域でゆっくりと流れていたものが、

テレビでニュースなど流れるわけです。入学式に黒絵羽のお母さんたちが…なんて見ると、

あ、そうだわ、私もあれで…そんなこともあったのではないかと思っています。

そうなったとき、ただの黒紋付きよりも「柄がある方が華やか」…で、絵羽織が台頭してきました。

 

また、これは呉服屋さんの作戦でもあったわけですが、元々今「長羽織」と言われている膝くらいまであるもの、

本当はあれが「羽織」、「本羽織」です。当然着尺から作られました。

丈の少し短いものは中羽織と言います。

戦後、着物が着られなくなり、呉服屋さんは衰退を恐れて洋装に追いつけ追い越せ…とばかり、

やたらウエストを締める着方だの、衿元を詰める着方だのを考案し、写真も洋装のモデルのように撮り、

なんとか「モダン」とか「スマート」とか「スポーティー」とか、およそ着物には不向きな要素を盛り込んで、

売り出したわけです。その中で「羽織」も「短くスッキリと」で、お尻の下くらいのものを出しました。

これは尺がなくても作れたので「短い分、お安いです」でもあったのですね。

最近はあまり見ませんが、羽織しか作れない長さの「羽尺」という反物が、アタリマエにありました。

これにきれいな絵羽柄をつけて「絵羽織」にしたものが、爆発的に売れたわけです。

ついに「留袖と同じ絵羽柄なんだから、紋がなくても礼装」と、紋も消えました。

当時の入卒にでかけるお母さんの姿を「カラスの軍団」とか「忍者の集会」などと、揶揄したのもこのころです。

ところが…着物は更に着られなくなり(自分で着られる人も減ったのですね)、洋装が主流になって、

着物はそこでストップ…それ以降の変化もなにもおこるほど着られなくなってしまいました。

この状態が、今でもズルズルと続いているわけです。

今、急に「入卒に着物着たいけど」…となったら、迷うのはこんな経緯があるからなんですね。

 

このお話、いつにもまして長くなります。続きは明日とします。記事は書いてありますから大丈夫です。 


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6 コメント

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Unknown (古布遊び)
2015-04-13 08:32:04
なるほどそういう経緯があったのですね~

懐かしいです。
入学式には母たちがそろって黒の絵羽織ーまさに鴉の軍団でしたね(笑)。



返信する
黒の羽織 (kitty)
2015-04-13 12:16:20
私の年代は ぎりぎり黒の絵羽織を 入学式卒業式に着る年代でした!
それも 長男の保育所の入所式(昭和53年)のみ 
2年後の卒業式は 絵羽織の時代は終わっており 帯付けでした!
その後の 幼稚園・小学校・中学校・高校・・・(長男次男共)の入卒式に 絵羽織は登場せず 訪問着や色無地に袋帯で出席してました!
もう昭和臭のプンプンする 丈の短い絵羽織の登場はないものと思ってましたが・・・
お嫁ちゃんが 孫の小学校の卒業式(来年)に 黒の長羽織が かっこいいと言い出しましたので
染め紋の黒の羽織・金の縫い紋の金紗の柄の黒の羽織・銀の縫い紋の黒の地模様の羽織と それぞれ洗い張りして襟を天接ぎにして長さを確保 お嫁ちゃんのお気に入りの 黒地に兎の柄が絞ってある長じゅばん地の反物・水色地に麻の葉の長じゅばん地・・・から肩裏をとり 見事に3枚のそれぞれ趣の違う長羽織が完成!
来年の卒業式・入学式に うちの子(嫁)一番の晴れ姿を想像して 着物や帯や小物選びを楽しんでいる
    KITTY でした!
返信する
Unknown (女々)
2015-04-13 23:20:10
あら? 母が黒羽織…記憶には着ているのですが…姉の入卒のどこか?かしら 古い写真を見ても 私の入卒に母は着物着ていません。
でも 同級生の お母さんは 着ていたわ(写真にも残ってます)
私の小学校の入学式の日は 母は運転免許の試験日で 学校は玄関開けたら1分かからず学校だったのに 母を自動車学校まで 父の運転する車で迎えに行った記憶があります。先日の連休の二日目 三味線教室が先生の都合で休みになり 息子に十勝方面ドライブ(雨でしたが)に連れて行ってもらいました。
「超参勤交代」テレビでメイキングみたいなのは見ていましたが…本編はまだです。佐々木蔵之介さん 色々な顔を見せてくれる役者さんですよね
返信する
Unknown (とんぼ)
2015-04-14 13:40:45
古布遊び様

羽織って「さすらいの和服」って感じですね。
私の記憶のなかにも、枯らすの群が…。
でも、あのころの方が、なんかのんびりしてて
よかった気がします。
返信する
Unknown (とんぼ)
2015-04-14 13:45:44
kitty様

私も帯付きでした。実は短い羽織がキライで…。
私自身の幼稚園の入園式は、なんと「雪」でして、
後年母が「晴れ男、雨女…アンタは雪女やったわ」と。
長靴で入園式に向かう写真がばっちり残っていますが、
ハテ、母は着物をあきらめたんだったか
覚えていません…。

お嫁ちゃまの着姿、楽しみですねぇ。
あ、お天気ピーカンをお祈りしますね。
返信する
Unknown (とんぼ)
2015-04-14 13:47:43
女々様

最近「カラスの軍団スタイル」が見直されてきたような気がします。
私の年代では、いかにも入学式って感じで、
いいなぁと思います。

佐々木蔵之介さんは、芸達者ですね。
猿之助さんと仲がよくて、歌舞伎もなさるようですが、
ちと体が大きいかなぁです。
返信する

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