Tomatopiaの日記帳

クラシック、短歌、旅、思い出、政治

安達ケ原、二本松へ(つづき)

2020-06-11 12:00:00 | 旅行

二本松に行ってからもう半年になる。毎日のようにその印象を書こうと思いながらなかなか手につかなかった。書けないままになってしまう前に今日書けるところだけでも書いておこうと思う。

 

 

明治の世の開始を告げる東北の戊辰戦争で二本松は会津とともに最も悲劇的な戦争で知られる(「日本の百名城」でも二本松城は「悲劇の城」と名付けられている)。全国的に進行していた藩財政の窮状はとりわけ東北諸藩では厳しかった。そんな中で東北諸藩は西洋諸国の支援を得て維新を進める薩長勢力を憎み大勢に逆らってあくまで古い体制を守ろうとした。

会津と二本松では現役の武士だけでなく老人隊、少年隊も加わった総力戦が戦われ城も武士も家も街もすべてが滅んだ。特に二本松では十三才から十七才と会津より一段と幼かった少年武士60余名が戦に加わり死地に散っていった。かつて10万石を誇ったこの地随一の城下町も戦の後は福島と郡山にその地位を奪われて静かな古い歴史の町となり、いまはひっそりと過去の思い出を抱いてあだたらの麓に休んでいるように見える。

この地を訪れたのは2回目である。初回はもう20年近くも前郡山に住んだとき、昔の所以は何も知らず「古い城下町がある」という話を聞いてぶらぶら散策しただけだった。その時に撮った写真がまだ残っている。(http://midi-stereo.music.coocan.jp/strfotos/tohoku/tohoku.htm
今回の旅は少年隊の史跡、智恵子の前半生の跡をたどり、鬼婆伝説の地をこの目で見るためであった。

 

再びぶらぶら歩きにならないよう、今回は案内人を依頼した。市役所の観光担当部署で紹介して頂いた。やってきたのは現地出身のボランティアの方であった。町の宿泊場所のことを訊ねるとホテルが1つだけあるそうで選択の余地はなかった。20年前に見たのと変わりない駅の近くにそのビジネスホテルがあった。出された夕食は料金に釣り合わないような本格的な和食で「もったいない」と心で呟きながら頂いた。窓からは安達太良山の上に赤くやける大きな夕空が見えた。静かな町の夜は早く訪れ、飲み屋が2軒、コンビニが1軒晩くまで開いているだけだった。

 

翌日からさっそく少年隊の史跡を回った。

 

 

朝、駅の広場で待っていてくれた少年隊の一人。
お城の前にも同様な銅像があるが、やはり「突き」の態勢である。
かれらは「突き」を徹底して教えられた。「切り結ぶな、それでは決して勝てない、突けば非力な少年も勝つことができる」と。そう教える師範はどんな気持ちだっただろう。

 

大壇口という戦跡。南から二本松に至る奥州街道上にある小さな丘で、ここで少年隊の多くが死傷した。攻め上ってくる薩長兵は新式の小銃と数門の大砲、こちらは火縄銃とたった一門の先込め式の大砲、そして戦慣れしていな少年隊である。当時はすでに大砲と大砲の戦いであった。

 

 

 

大壇口の丘から城山を見る。
少年隊は最大の損失を出して撤退せざるを得なかった。隊長は敵の砲弾に当たって動けなくなり、「首を取れ」と部下に命じた。まだ21才であった。しかし少年らは首を打つことができず、かわりに年長の副隊長が打った。二人の少年が隊長の首を持って逃げてゆく途中、城下に迫った敵とばったり遭遇した。敵は「まだ子供ではないか、よう戦うたのう、早う家に帰んなされ」と声をかけてくれた。しかし少年らは向き合って背負った大刀を抜き会うや、敵に斬ってかかったのである。その結果は言うまでもない。「敦盛」を思い出させるこの種の話は沢山聞かれる(ネットや書物にも色々な記載がある)。

 

町から東北に伸びる奥州街道が阿武隈川と出会う所に供中口(ぐちゅうぐち)の古戦場があった。今は立派な橋がかかっているが当時橋はなく渡し船であった。

 

現代風な大きな橋が向うにあり,ここは昔の橋の跡、さらにその前の渡し場の跡である。ここ供中口にはかつての戦いで散った兵を供養する碑石が残っており、いまも人々の花が絶えない(訪れたのは秋の彼岸の後だった)。

ここにも少年隊は出陣した。指揮官は三浦某というかなり高位の武士だったが、入牢中のところ戦のために急遽呼び出された。兵士の多くは農民で、武器はせいぜい火縄銃で大砲はなかった。川向こうから敵が迫って来、相手の新式銃に農民兵の火縄銃が勝負にならず全員散り果てるしかないことを即座に見抜いた三浦は兵をみな集めて解散・帰宅を命じた。そして自分一人抜刀して敵兵の中に斬り込みをかけ壮絶な死をとげた。
三浦はもともとこの戦に反対で、おそらくそのため牢に入れられていたのであろう。けっして謀反人ではなかった。それはそれで潔い武士の振る舞いであった。

 

お城の入り口は公園のように広々と整備されていて皇居前広場を思い起こさせる。少年はやはり「突き」である。

 

 

広場に清流があった。城は丘の上にあり、はるか安達太良山の中腹からはるばると谷を越えて水道を引いており、この小川はその終端なのだという。

 

 

 

少年隊は全員城主の菩提寺「大隣寺」に祀られている。いつも花が絶えない。向うにはお釈迦さまではなく観音様に見守られているように見える。

 

 

 

ちょうどこの町が毎年行っている菊人形展の季節であった。「少年隊」は昨年のテーマだったが一年後もなお飾ってあった。
まるでお母さんたちが自分の息子を美しく着飾っているようである。紅白と黄色の菊に飾られた少年はお母さんたちの記憶の底に残る失った子供たちだろう。

私はかつて短歌の先生に今は亡き「私の母が若くして嫁いできたときこの道でこの花を見たに違いない」という歌を作ってみてもらったことがある。
だが先生の言葉は「身内のことを歌うのは難しいね」というものだった。

 

 

 

 

 

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