Tomatopiaの日記帳

クラシック、短歌、旅、思い出、政治

9月のぶらあぼ

2016-09-10 11:02:34 | 音楽

秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる

やっと涼しい風をかんじるようになった。朝晩だけだけど・・・
色々な大事件が起きる今日この頃、日本は、そして我々はみな疾風怒濤の中で揉まれているようだ。

万葉の響き-「音楽劇」だろうか、それをクラシックとして聴ける日がきた!嬉しい。

 

どんな新しい「日本の歌」が生まれているのだろうか、昔の西洋の曲もすばらしいけど、音楽は新しく生まれてゆくものでなくては。

 

旧朝香宮様のお屋敷。すばらしい石造りで音響も申し分ない。隣に広い目黒自然園があって武蔵野の散策がゆっくりとできる。これから紅葉が始まる。

 

はやく帰国して腰を落ち着けて頂きたい。

 

この作曲家は存じ上げないが、全作品とは思い切った試み。演奏家の方々もみな一流である。

 

このホールは海に近い。マチネだし、前後に海を散歩すると楽しいかな? 客船用の埠頭があった。だがさびれていた。いまはどうだろう? 広い道に大きな並木があった。もう何年も前のなつかしい思い出。

 

西欧の音楽は爛熟し乾燥し何もかも飛散してしまった、と言うべきだろう。東欧はいまだ静かな前世紀の、ときには中世の雰囲気を残していると言われるが・・・一度訪ねてみたい地である。

 

バレエ「忠臣蔵」! ぜひ見てみたい!

 

なつかしい歌、なつかしい響き、この時代の作曲家たちはみなしみじみと心に響く。

 

日本の歌の伝統を守ってゆきたい。みな新曲のようだ。

 

スターリンに消された?にも関わらず多くの作品が生き延びたのはよかった!ずいぶんつらい生活を送られたようだ。「機械主義」であるが他方で民謡の採譜なども行った、というのは興味深い。YouTubeでは前者の例が載っている。後者のものも聴いてみたい。

 

オルフェオ、あるいは亡くなった妻を探して黄泉の国へゆく、という世界中の古文書で物語られた人類的なテーマ。補作によって原作を完成された、というのはすばらしい。

 

このマーラーの曲、私は中学生か高校生の時に聴いてそれ以来一度も聴いてなかった。どうしてかというと・・・ これについてはまたの機会に。ピアノでなくオーケストラ伴奏での歌曲、というのはあまり機会がなく貴重。

 

私費を投じて六本木の自社ビルでこのようなイベントを続けていらっしゃるのは実に尊敬すべきことだ。コンクールのレベルも高い。いまに東京を代表するコンクールになるだろう。(9月10日)

 

邦楽が新しい表現を得つつあるのは嬉しい。日本の作曲家はみな、山田耕筰はもちろん武満徹もじつは邦楽の精神に貫かれている、と私は感じる。(9月10日)

 

「子供は宝」。額田王の言葉には深くうなづかれる。子供は愛情の源泉、思い出の源泉、創造の源泉である!

 

 

 

 

 

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日本人のためのコンクールに戻れ

2016-09-01 10:24:32 | 音楽

前回の記事で東京音楽コンクールへの懸念を書いた。
http://blog.goo.ne.jp/tomatopiagoo/e/611f61e238cce23dd4b044b70d9e3a75
この記事の最後のあたりだ。いまもそのままの気持ちなのだが・・・

8月末、東京音楽コンクールが終り、入賞・入選者が発表されている。
http://www.t-bunka.jp/onkon/onkon.html


ピアノと声楽は一位を反日国が占めている。そもそも国を挙げて憎悪する日本のコンクールに出てみようという気持ちが分からない。良い成績を収めてコンサート開催を後援してもらっても人気は出ないだろうに・・・

これは国際コンクールというより、2国の共同コンクールとなってしまった。互いに背中を向け合う相手とそんなものを開催する必要がどこにあるのか? 無意味、かつあまりにも異形だ。結局、他のもろもろのこの種の機会と同様、価値観が相反する反日国のために日本がひたすら犠牲を払い便宜を提供する格好になってしまった。
まさにそのような都政に邁進し、最後にとうとう出自が明かされることになったマスゾエ元都知事の置き土産であるのは確かだろう。

審査員全員も審査委員長も公表されていない。審査員はピアノの方(3名だけ)はみな名前を聞いたことがあるが、声楽の方はみなまったく知らない人ばかりだ。全員の正しい本名(通名でなく)を公表してもらいたい。
審査員は言うだろう--「実際その〇国人の演奏はよかったのだ」。その時、「わが日本の文化、伝統、感性」という判断基準はあったのか? 
日本のピアノ学生と他国のかれらとは感性が、従って音も違う。他国のそれを聴くと「おお、面白い!」と思うだろう。しかし、だからといってそれが「図抜けている」などと判断してはいけない。
たとえば日本の大学の学生の大半が他国からの出身者で占められることになったらどうだろうか?-- やがて日本の文化も学問も社会も滅びてしまうだろう。

結論--コンクールは元通りに「日本の若手の発掘と後押し」という本来の仕事に戻ってもらいたい。

いま日本社会、日本文化の様々な場面で日本人の存在が押しのけられ他国人がその地位に着く動きが進んでいる。実に残念だ。
「多文化共生」、「人種差別反対」という所謂ポリティカルコレクトネスの標語が叫ばれるのだが、そんな共生はありえないし、わが日本とわれわれ日本人の社会・文化を守らねばならないのは当然のことだ。ポリティカルコレクトネスというものがいかに欺瞞的か、その「先進国」で人々は本音を語り始めている。

EUもアメリカもその失敗を犯して文化も社会も崩壊しつつあり、伝統的社会の保守への回帰に向かっている。前者はドイツがかつてユダヤ人600万人の抹殺を行ったため、また後者はインデアン虐殺(全体の95%)、黒人・シナ人の奴隷制度という原罪があるため、「イスラム難民を無制限に受け入れる」とか「黒人も白人もすべて平等」とか言わざるを得なかった。しかし日本にはそんなことを言わねばならない過去の国民的犯罪、人道的犯罪、歴史的犯罪はない。我々が受け継いできたのは世界でも最も古い誇りに満ちた文化である。この歴史を思いおこし、大切にせねばならない。それが我々に今迫られている最大の切実な課題だ。

思いだすのだが、ショパンコンクールでも何年か前、2位がなくて3位に2人隣国の財閥の息子が同位で入賞したことがあった。当時ずいぶんと話題になって「審査員全員へのわいろ攻勢」などとネットでは「炎上」した。賄賂は大昔からの儒教文明の習慣である。
その入賞者のその後は聞いたことがない。また他の回におけるその国の入賞者も「正当」であったのか、判断し難い。ときどきYouTubeで見かけたりはするが、「なるほど、あの国の感性はこんなものか」と思うだけで何ら感銘はない。

少し横道にそれるが・・・
何年か前に「劇団四季」の事件というものがあった。これは劇団員がある時いっせいに日本人から〇国人に代わってしまったのだ。正しく美しい日本語が舞台から聴こえてこず、演技も姿も日本人のものではなくなり、出演者も通名で発表され、ポスターではどれが日本人でどれが〇国人なのか分からず、日本人の公演を選ぶこともできなくなった。これを嫌った固定客はみな離れてしまった。日本は大衆的な音楽演劇という大切なジャンルを失った。

これは劇団運営者がその国を訪問して公演許可を依頼したとき、交換条件でそんなことを受け入れたためと言われる。どんな対価を得たのか知らないが、自分の利益と引き換えに国の文化をそっくり反日国に売り渡すとは、言葉を失う。

(そういえばこの人はかつて長野の冬オリンピックで演出の責任者をやり、その時入場式の行進曲に「ある晴れた日に」--アジアの植民地支配時代、日本の現地妻が自分を捨てていった白人の男の帰りを信じてひたすら待つ歌である--を使って我々国民をいたく恥づかしくいたたまれない気持ちにさせた。未だに忘れられない。 ついでに言えば、その時の音楽監督は名前がよく知られたあの老指揮者であった。)

テレビ放送が、そしてそこに登場する「音楽」や「芸能」がみな日本人の支配を離れつつある。いまやとうとうクラシックにまで及ぶのか、と感慨深い。

 

 

 

 

 

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