アララギなど写実派の歌というものは単なる描写であってあんまり面白くない、というのがこれまでの私の印象だった。だが最近はそれが誤解であったと感じている。
正岡子規にこんな歌がある。
瓶にさすふじの花房みじかければ 畳の上に届かざりけり
この歌は写実の典型ではないかという程の感慨しか覚えなかったのだが、最近になってやっと詠み手の気持ちが分かるような気がするーー
これは当時脊椎カリエスに苦しみ癒す手段もなく、ただ仰向けに寝たきりで毎日をすごし、部屋の中のその花くらいしか見ることができなかった詠み手が精一杯生きる願望を込めた歌だ、と感得したのである。「届かざりけり」には普通の生涯を生きることが叶わなかった無念さが吐露されている。
これに似た歌を子規は他にもいくつか歌っている。
鶏頭の十四、五本もありぬべし
これは鶏頭が咲く季節に、もはや見ることができなくなったその花、昔出あったその美しい群落を思い出し、また再びそんな花に出会いたい、しかしもう叶うことはないだろう、との諦めを込めた願望を歌ったのである。
また、こんな歌もある。
いちはつの花咲き出でてわが目には 今年ばかりの春行かむとす
これは幸にも寝たきりでありながら庭に咲いたその花を見ることができたのだろう。だが体調が分かる詠み手は、この花を見るのもこの春が最後だろう、という悲痛さが「今年ばかりの」の一句にある。また自分の不幸の嘆きが「わが目には」の一句から感じられる。それらが「いちはつの花」、「春」と対照されて詠み手の無念と悲痛さを訴える。
もう一人、釋迢空の一群の歌にも私は深い印象を受ける。
葛の花ふみしだかれて色あたらし。この山道をゆきし人あり。
多くの近代短歌の選集には必ずと言っていいほど釈超空の歌として真っ先にこの歌があげられる。この詠み手もアララギの系統だそうだが、それにしてもなぜこの歌がそんなに素晴らしいのか、不思議であった。そもそも花を踏みしだいて、というのが無粋に聞こえる。そんな風にして山道を歩くのがなぜ歌になるのだろう、と疑問であった。
釈迢空はその名前からしてわかるように浄土真宗の門徒であった。そして生涯を旅に過ごしたと言えるほど、とりわけ国内の辺鄙な田舎を歩いて昔ながらの人々や部落集落を訪れ山河を跋渉した。その旅はわれわれの旅のように物見遊山ではなく、そこで釈迢空ならではの何かしらを感得したのである。そのように得たものが作品すべてで明かされており、作品はすべてそのような旅の空でつくられたものだ。
ーー「感得した何かしら」、それは歌によってのみ表現されえたのであろう。あるいは伝承や物語として語られ、無形の何かしらを示唆し、あるいは民俗学的な洞察を導いたのかもしれない。そんな何かと出会うこと、それがこの人にとって何よりも大切な旅の目的であった。
この歌はこれからいよいよその旅に入ってゆく、目指す部落はこの山道の向こうだ、と自分に言い聞かせている歌なのだ。
(葛の花というものを都会の人は知らないだろう。かつて福島にしばらく住んだときに知ったのだが、葛の根は食用として重用されるものの、赤黒いその花はむしろまがまがしく見えるほどでとても鑑賞にたえるものではない。葛は繁殖力の強い蔓草であって植木や作物におおい被さり枯らしてしまう。踏みしだいて歩くのは当たり前なのである。)
をとめ子の心さびしも。清き瀬に身はながれつつ 人恋ひにけむ。
注記によれば、実はここに至る山道には古い言い伝えがあり、城が敗れて落ちのびてきた飛弾の上﨟が行き倒れてここで命を落としたという。歌われた乙女子はその上﨟だったのかも知れない。それならばこの歌はその乙女への挽歌である。
(「小梨沢」という表題にまとめられた連作の一つなのだが、小梨沢がどこかは不明である。仙台の近くに一つみつかるが、飛弾から落ち延びるには遠すぎる。上﨟とは御台所に仕える奥女中のことだが、仕えたに違いない城が飛弾だとすれば、城はみな戦国時代の山城で、その城址だけがいくつか残っている。当時、嫁入りや奉公で家を出る女性はみな十代の若さだったので上﨟は二十才位だったのだろう。別の歌に「きさらぎの雪のごと清きうなじ」との形容がある。いずれにせよ迢空自身による注記集を見てみたい。)
しかしこの歌はそのような由来を持つ挽歌を超えて訴えてくる--深い山奥、人知れない異境を流れる川、その川原に寂しげにたたずむ一人の乙女子・・・この乙女子も恋を知っているはずだ、自分と同じように・・・だが乙女は幻のように流れとともに姿をけす・・・
この歌は夢かうつつか分からない不思議な世界を感じさせる。
ながき夜の眠りの後もなほ夜なる。月おし照れり。河原菅原。
水底にうつそみの面わ沈透き見ゆ。来む世も我のさびしくあらむ。
(みなそこに うつそみのおもわ しづきみゆ こむよもわれの さびしくあらむ)
これらの歌に接するたびに異界への扉がひらき、そこに連れてゆかれるような胸苦しさを覚える。
釋迢空の歌はみな仏教的、神道的、あるいは他になんと形容すべきか、不思議な魔術的な力で迫ってくる。われわれの生と死の狭間を垣間見せてくれる。