こぶちっ子の天天向上

平々凡々の日常生活の中にも日々の活動、眼にふれたこと、体験したこと等を日記として記録しています。楽しく元気に!

二宮神社

2021-03-27 19:21:57 | 寺社仏閣

今日は以前から訪れたいと願っていた小田原「尊徳二宮神社」を訪れましたわ~

 

子供のころから教えられていた「二宮金次郎」さんを祭った神社です。

野良仕事をしながら、本を読むという小学校から馴染の二宮金次郎像

積小為大(せきしょういだい)

毎晩勉強していた金次郎は、読書をするための油代を稼ぐために荒地に菜種を植え、たった一握りの菜種から7〜8升の取り入れになった経験や、捨て苗を荒地で丹精こめて育てて、秋には一俵の籾を収穫したことにより、自然の恵みと人の力の素晴らしさを知 ると共に、小さな努力の積み重ねが大切(積小為大)だと学び、これが後の行いや考え方の基になりました。

偉大なる功績

大人になった尊徳翁は、生涯を世の中のためにささげ、小田原藩家老服部家の財政再建をはじめ、藩主大久保忠真候の依頼により分家宇津家の桜町領を復興させるなど、自分の体験をもとにして大名旗本等の財政再建と領民救済、北関東から東北にかける各藩の農村総合的復興事業(仕法)を行い素晴らしい成果をあげました。大飢饉で農村が疲弊しきっていた当時、尊徳翁が仕法を手がけた村々は600ヶ村以上に上ります。多くの農村や藩を貧困から救い、独自の思想と実践主義で人々の幸福を追求し、数理、土木建築技術から文学まであらゆる才能を発揮した世界に誇れる偉人です。内村鑑三著『代表的日本人』の中でも、19世紀末、欧米諸国に対して「日本人の中にも、これほど素晴らしい人物がいる」と苦難の時代を救った偉人として尊徳翁は紹介されています。
 
なかなか努力しても成せるのものではありませんが、二宮尊徳として人のために多くの人のために動力を惜しむことなく様々な偉業を成し遂げた人ですね。
 
小田原城の濠から松の木へと舞い上がったアオサギ。
 
素晴らしい人物に出会えて時間でした。訪問してよかったわ~

小田原城

2021-03-27 15:57:54 | 寺社仏閣

今日は以前より気になっていた小田原城へ急に思い立って行きましたわ~

 

そろそろ桜も満開を期待していたのですが、まだ3分程度の開花でしたね

小田原駅から徒歩10分程度の場所にありました。想像以上に人出があり不安もありましたが・・・。人々は感染よりも行ってみたいこの時期の小田原城と桜なんでしょうね

さて、小田原城とは・・・。

小田原城が初めて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀中ごろのことと考えられています。1500年ごろに戦国大名小田原北条氏の居城となってから、関東支配の中心拠点として次第に拡張整備され、豊臣秀吉の来攻に備えて城下を囲む総構を完成させると城の規模は最大に達し、日本最大の中世城郭に発展しました。
 江戸時代を迎えると小田原城は徳川家康の支配するところとなり、その家臣大久保氏を城主として迎え、城の規模は三の丸以内に縮小されました。稲葉氏が城主となってから大規模な改修工事が始められ、近世城郭として生まれ変わりました。その後、大久保氏が再び城主となり、箱根を控えた関東地方防御の要衝として、また幕藩体制を支える譜代大名の居城として、幕末まで重要な役割を担ってきました。
 しかし、小田原城は明治3年に廃城となり、ほとんどの建物は解体され、残っていた石垣も大正12年(1923)の関東大震災によりことごとく崩れ落ちてしまいました。
 現在の小田原城跡は、本丸・二の丸の大部分と総構の一部が、国の史跡に指定されています。また、本丸を中心に「城址公園」として整備され、昭和35年(1960)に天守閣が復興、次いで昭和46年(1971)には常盤木門、平成9年(1997)には銅門、平成21年(2009)には馬出門が復元されました。さらに小田原市では、貴重な文化的遺産である小田原城跡をより一層親しんでいただくとともに、長く後世に伝えていくことを目的として、本格的な史跡整備に取り組んでいます。

 

今の小田原城は後世に伝えていくことも担っているってことですね。

私も多くの人の撮影スポットから今日の1枚

来週末までたのしめそうですね。