先日、白血病を克服した水泳選手の池江璃花子さんが、競泳の大学選手権自由形で4位に入賞したことを報じていた。
復帰レースを終えた池江選手は、「ああ、本当に戻って来られて夢のようです。自分のことだけど感動しました。“第二の水泳人生”の始まりかなと思います。」と語っていた。その涙は、コロナ禍のなかで多くの人々に感動を与えた。
退院した頃の池江選手は、腕立て伏せ1回を出来なかったことを思うと、奇跡と言ってよい。人生にとって奇跡はあまり起こらないが、努力無くして奇跡は決して起こらないと思う。
第二の人生の言葉には、いろいろなケースが考えられる。例えば、結婚や定年を迎えるなど、新たな生活をスタートする場合などに使われる。
人生は一度しかないのだから、新たなる第二の人生も大切にしなければならない。それまでの様々な経験、反省、思いを活かし、新たな決意をもってすれば、きっと有意義な第二の人生を送ることが出来るだろう。
現場第一主義ではないが、それを第二の人生に活かすことである。人生、100年時代と言われる。自分は70歳だからまだ30年間もある計算になる。30年もあれば、何か出来るかも知れない。
一方、私の30年前の40歳頃はどうであったろうか。40歳と言えば“不惑”の年齢で、「不惑にして迷わず」という言葉があるが、随分、迷っていたように思う。“悟り”や大きな自覚になどに至らなければ、人生は迷いの連続であるだろう。
この迷いから抜け出すためには、どうしたら良いのだろう。非常に難しい問題であるが、生きた証しを残すこともひとつである。
先日、2019年放送されたNHK朝ドラ『なつぞら』の登場人物“山田天陽くん”のモデルになった、画家の「神田日勝記念美術館」に行ってきた。
神田日勝記念美術館は十勝の鹿追町(人口5千人)あり、十勝と一口に言っても東京都の5倍、日本の7番目の広さを誇る岐阜県と同じ広さである。
神田日勝は、その才能を惜しまれながら32歳で亡くなった短命の画家。農民であり且つ画家であった彼は、開拓農家をしながら生きている証しに好きな絵を描いていたという。
代表作の「馬」は、そんな神田日勝の終着点であり、未完の絶筆である。描かれているのは馬の半身のみであるが、生きているような目を見るとその見事な描写に心を揺さぶられる。
私も小学校時代、毎日、近くの農家の農耕馬に乗って遊んだ。ある日、友人が投げた雪だるまがその馬に当たり、ビックリした馬は急に走り出して振り落とされた記憶は、今でも鮮明に残っている。
人間は好きなものを持つことで、人生を豊かにしてくれる。自分にとって好きなものは何であろうか。“好きこそものの上手なれ”とは、よくいったものである。
「十勝の活性化を考える会」会長
神田日勝の生涯
『結局、どういう作品が生まれるかは、どういう生き方をするかにかかっている。』
( 25周年記念全道展帯広巡回展目録より )
彼の生涯を貫いた画家としての姿勢である。
開拓農民として
神田日勝は1937(昭和12)年、東京・練馬に、父神田要一、母ハナの次男として生まれた。
日本の敗戦が色濃くなった1945(昭和20)年8月、一家は拓北農兵隊(戦災者集団帰農計画)に応募し、北海道へ向かう。 鹿追に着いたのは、終戦の前日8月14日であった。 "東京・疎開者"は全く農業の経験もない中、素手同然での開拓を強いられ、その殆どが5年を待たず脱落した。 そのようななか、神田一家は鹿追に定着した。
1953(昭和28)年、日勝は中学を卒業すると営農を継ぎ、地域の青年団の仲間と演劇や相撲、釣りなどに積極的に取り組む、 快活な青年として成長した。その頃兄一明は東京芸大に進学。 元々絵に興味のあった日勝は兄の影響を受け、本格的に油絵制作に取り組むようになる。
(出典:memorial museum of artより)
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