十勝の活性化を考える会

     
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自信過剰

2021-11-30 05:00:00 | 投稿

 

別冊宝島の本まだ見ぬ「アイヌ」へには、次のことが書かれていた。

『 (前略)

常にアイヌと接している「和人」、あるいはアイヌ自身が言っている。「それはシャモが言うべきことじゃないよ」、「まだ、アイヌ自身がそれを言うべき時期ではありません」、「アイヌ自身が言い出すのを待つしかないよ」

奥歯にモノが挟まったままなのだ。いったい何をそんなにはばかる必要があるのだろうか? いったいこれは何なのだろう? アイヌをアイヌ民族たらしめる価値観は、日本古来の、もしくは現在の日本社会の持つ価値観とも異なるものだ。

アイヌプリ—彼らなりのやり方ともいうべき流儀、考え方がある。それを理解できないと「アイヌ」の文化というものはわからない。 

とはいえ、アイヌ独自の価値体系が、彼らアイヌのすべてを律しているわけでもない。なぜなら彼らも日本人であるからだ。そう、問題を複雑にしているのは、彼らが、「日本人」であることだ。われわれ“日本人”がアイヌについて考えるとき、単なる国籍上の一致でしかないこのことが、多くのことを見失わせてしまっている。

しかし、少なくても日本人である「私」が意識したことのない歴史を常に意識し続けている人びとが、この日本に確かに存在している。「私」と異なった価値体系を意識している人たちがいる。そういう価値観や歴史に基づく異質の文化の存在と、それを背負っている人びとの存在は、間違いのない事実なのだ。

では、アイヌにとって「アイヌ」とは何なのか。アイヌであれば「アイヌ」について説明できるのであろうか。“日本人”であるわれわれが日本人について説明するのが難しいと同じように、自分がアイヌであると確信することと、「アイヌ」について説明するということはまた別だ。アイヌ自身が「アイヌ」であることを独占しているうちは、アイヌのことを知られるようにはならない。もちろん、いいかげんなことが数多く流布しているから、それに対する自己防衛だともいえる。

「そういってシャモが何度アイヌを騙してきたか知ってるか」。 そんな声が聞こえてくる。もちろん、過去を清算することはたやすいことではない。“シャモ”が、一升瓶から革命のビラまで手を替え品を替えアイヌを欺き続けた記憶は風化していない。

しかし、だからといって、「シャモ対アイヌ」といった図式からは見えてこないものがある。実はひとりひとりのアイヌが、「自分」のことを語る、あるいはアイヌに関わる和人が自分が関わるアイヌのことを語る、もしくはアイヌと関わるアイヌを語る・・・・・・、そうした積み重ねのなかにしか「アイヌ」は見えてこない。 (中略)

 こうした言葉の上に、現在の「アイヌ」はある。多くの人間がアイヌについて語ること、それが「アイヌ」の姿を明確にするのだ。「アイヌ」について考えること、それはアイヌにとっては自己の歴史、自己の文化を自ら捉え直すことであり、“日本人”にとっては、自己の歴史に欠けていた部分、異質な部分を認めることなのだ。そのとき「アイヌ」はあなたの前にいる。』

友人である難聴の障害者が、上記と同じようなことが言っていた。即ち、障害者は「このように変えてほしい」と、声を大にして訴えていく必要があるといつも思っている。

先日、チョマトー慰霊祭でアイヌ踊りを見てきた。アイヌ踊りをする人たちは、練習に加えて自分に“自信”や“誇り”を持ってきたのだと思う。自信とは、自分の能力や価値などを信じること、自分の行為や考え方を信じて疑わないことである。ただし、自信過剰は困る。世の中には、自分を含めて自信過剰の人が多いのも事実である。人間は、本当の人間にならなければならないのである。アイヌ語で人間らしい人間のことを、 “アイヌ ネノアン  アイヌというそうである。

「十勝の活性化を考える会」会員


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