十勝の活性化を考える会

     
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蟷螂の斧

2020-08-23 05:00:00 | 投稿

蟷螂(とうろう)の斧とは、カマキリが前足を上げて、大きな車の進行を止めようとする意味から、弱小の者が自分の力量もわきまえずに、強敵に立ち向かうことのたとえである。

 

これで思い出すのは、1989年に起こった「天安門事件」で、戦車の前に立ちはだかった一人の青年である。

 

その後、彼はどのような処罰を受けたかは知る由もないが、もし戦車の前に立ちはだかる者が複数人いたなら、引き殺されていたかもしれない。蟷螂の斧ではないが、たった一人であったからこそ、無言の力を戦車に与えたのかも分からない。

 

一方、火事場の馬鹿力という言葉がある。「新型コロナ禍」で世界中が大変なことになっているので、いまこそ国民の公僕は火事場の馬鹿力を発揮すべきだと思う。そうすることによって、世界平和をもたらすことができると思う。

 

しかし、アメリカやロシア、中国などの足並みは揃っていないし、公僕にも危機感が感じられない人がいるので、それほどまだ新型コロナ禍は差し迫ってはいないのかもしれない。ただ中小零細企業では、バタバタと倒産している。

 

働き過ぎと言われる日本。休日を取れない人もいるが、昔よりも休日や祝日が多くなり、働くことが楽になってきたことは事実である。

 

国民総生産(GDP)は、国民がどれだけ汗を流したのかを反映している。日本のGDPは、経済成長により約500兆円であるが、2010年に中国に抜かれ、インドや後進国のGDPも伸びてきている。

 

ただ日本は、GDPの伸びをあまり気にしなくても良い時期になったと思う。なぜなら、GDPは、必ずしも国民の豊かさを反映しているとは限らないと思うからである。

 

先日、「ガダルカナルの戦い」を放映していた。もし日本軍に戦況の判断ミスが無ければ、太平洋戦争に勝利していたかも分からなかったという。

 

また、NHKスペシャル証言と映像でつづる原爆投下の全記録では、第三の原子爆弾を新潟に落とす予定であったことも放映していた。

 

このテレビをみて思ったことは、日本が太平洋戦争に勝利していれば戦後の高度経済成長はあり得ず、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という言葉も生まれなかったかも知れないということである。

 

なお、天安門事件の5ケ月後、家族で天安門を訪れたが、この場所で何千人もの学生が戦車に引き殺されたことが今でも信じられない。

 

ただ言えることは、中国という国は恐ろしい国で、日本は平和であるということである。平和ボケにならないように注意しよう。そして日本は、二度とあやまちを行なってはならず世界平和に貢献しよう。

「十勝の活性化を考える会」会長

 

注) ガダルカナル島の戦い

 

ガダルカナル島の戦いは、第二次世界大戦において1942(昭和17)年8月以降日本軍連合軍が西太平洋ソロモン諸島ガダルカナル島を巡って繰り広げた戦いである。ミッドウェー海戦と共に太平洋戦争における攻守の転換点となった。日本側は激しい消耗戦により兵員に多数の餓死者を発生させたうえ、軍艦、航空機、燃料、武器等多くを失った。

 

日本軍の撤退

19432月の最終局面)

126日には閣議において、参謀本部作戦部長の田中新一中将が支援に必要な165000トンの艦船をガダルカナルに送り込むよう訴えたが、その半分の増援も認めなかったため、東條首相ら政務側に対し「馬鹿野郎」と怒鳴りつけ事実上更迭された。その理由は、元々東條はこの方面の作戦には反対であったこと、過去に投入した船団もことごとく全滅状態となったことであった。

また、参謀本部や海軍の要求を通すと南方からの資源輸送・南方への物資輸送が滞り、戦時経済そのものに悪影響を与えるためでもあった。

1231日の御前会議において「継続しての戦闘が不可能」としてガダルカナル島からの撤退が決定された。この決定からさらに1ヶ月を経た1943年21日から7日にかけて、撤退作戦が行われた。各部隊のほとんどは予定通りに撤退地点まで到着することができたが、身動きの出来なくなった傷病兵を自決させ、あるいは「処分」することが大規模に行われていたという。

 

ガダルカナル島に上陸した総兵力は31,404名、うち撤退できたものは10,652名、それ以前に負傷・後送された者740名、死者・行方不明者は約2万名強であり、このうち直接の戦闘での戦死者は約5,000名、残り約15,000名は餓死と戦病死だったと推定されている。一方、アメリカ軍の損害は戦死1,598名、戦傷4,709名であった。

このとき撤退は「転進」という名で報道され、撤退した将兵も多くはそのまま南方地域の激戦地にとどめ置かれた。29日の大本営発表では「ソロモン群島のガダルカナル島に作戦中の部隊は昨年8月以降引続き上陸せる優勢なる敵軍を同島の一角に圧迫し、激戦敢闘克く敵戦力を撃摧()(げきさい)しつつありしが、その目的を達成せるにより、2月上旬同島を撤し、他に転進せしめられたり」と報じられている。

同時にニューギニアのブナからの転進(ブナ守備隊は1月に玉砕)も大本営発表が行われた。なお当時から陸軍の報道班の手記や新聞記事からガダルカナル島の悲惨な状況についてはおおむね公表されていた。

ガダルカナル島最後の撤退作戦に参加した海軍輸送部隊指揮官の言によると、撤退するのが難しい傷病兵の多くは捕虜になることを防ぐため、手榴弾などで自決するか、戦友達の手(手榴弾・銃・銃剣など)によって葬られた。

戦後刊行されたグラフ雑誌『ライフ』には、アメリカ軍の捕虜となった日本の傷病兵などが、戦車の前に一列に並べられ、キャタピラでひき殺されている様子が掲載されたという。

(中略)

ミッドウェー海戦とともに、太平洋戦争における攻守の転換点となった戦闘とされている。ガダルカナル戦は、日本軍が米軍の物量に圧倒されて敗北した戦いと指摘されており、川口支隊の敗北までの時点で、その点を冷静に判断し、兵を引いていれば、その後の泥沼のような消耗戦で何ら得るところなく戦力と継戦能力をすりつぶす事態は避けられたとする指摘もある。

 

本戦闘では航空部隊の消耗の原因に、拠点であるラバウルからガダルカナル島まで往復8時間という長距離攻撃を強いられた事が一因に挙げられる。ブーゲンビル島のブカやブインなどへの中間飛行場整備も、その当初は必要性が認められず整備が遅れており、着手した時にはその戦機を既に逃して間に合わなかった。

 

物量については、最終的にはアメリカ軍の物量は日本軍を圧倒したが、一連の戦闘の全期間でそうであったわけではない。8月頃の時点では、アメリカ軍は第一次ソロモン海戦での敗北のため、輸送船団が一時退避するなどして重火器や弾薬の揚陸が遅れており、物量はかなり欠乏を来していた。

ヴァンデグリフト少将は「実際の手順とは逆の手順で日本軍が来襲していたら、ガダルカナルの連合軍はなすすべもなく追い落とされていただろう」と述べている。

しかし、実際には日本軍は、最初900名の一木支隊第1挺団を派遣したが700名ほどのアメリカ兵に敗北した。次は6,000名の川口支隊と一木支隊第2挺団を投入したが、これを撃退したアメリカ軍部隊の兵数は半分以下の3,000名あまりであった。

仮に占領に成功していたとしても、その後日本列島から6,000キロメートル以上も離れたガダルカナル島を、アメリカ軍の再反攻を前に、どこまで兵站を維持できたかは疑問である。

戦後、軍事評論家の伊藤正徳によれば、「ガダルカナルは、たんなる島の名でない。それは帝国陸軍の墓地の名である。」と批評している。

 

(出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)

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