海山倶楽部

山海倶楽部は同じ名前の飲食店が出来て
検索順位が下がったため、海山倶楽部
うみやまくらぶ に変更しました。

親父の思い出

2015年07月06日 | その他

先月11日に親父が亡くなりました。
亡くなってから今までは、いろいろ忙しいのもあって、書く気にもならずにいました。
今頃、親父は三途の川も渡り切って、先に逝っている兄貴たちに迎えられているかもしれません。

以下、通夜式での喪主の挨拶より
親父の病状経過についての部分を抜粋しました。

62歳で仕事を辞めてから、55歳から始めていたゴルフを母親と夫婦で楽しんでおりました。
70歳でワンアンダー71と言うエージシュートの70まで、もう少しのスコアを出したりとか
片手ハンデの4くらいまで行っていた72歳の時に検査で胃癌と診断されました。
胃の入り口に出来る噴門がんと言われるものです。
しかし、親父は、胃を取ったら力が出なくてゴルフに行けなくなる、
ゴルフ出来ないくらいなら死んだ方がマシって言い出して、
そのまま3年間放置してゴルフ三昧していました。
3年後の75歳、今から7年前に、胃の入り口に癌があるものですから
癌が大きくなるにつれて食事が通らなくなり仕方なく胃を全部取りました。
3年放置していたにも関わらず、全く癌の転移もなく。元気に過ごしていました。
胃を全部取る時に内臓脂肪も取ったり、また、胃を取ったことにより
糖尿、高血圧などが逆に良くなって元気にしていました。

しかし、去年の8月に、手がしびれるとか言っていたのが、急に悪化して脚が立てなくなりました。
整形外科に受診したところ、脊椎症と言って、
首の頸椎にある神経の太い所が狭くなって神経が足まで行かなくなったのが原因でした。
また立って歩けるようになるように、脊椎症の手術を希望しましたが
その時には、認知症もあったので、医者によっては、そんな手術しても意味がないってことも言われましたが、
そういうのを押し切って脳神経外科で去年の10月頃に脊椎症の手術をしました。
手術は成功して神経が足まで行くようになりましたが、
本人は、リハビリして歩こうと言う意思をなくしてしまって
「もう歳やから歩かなくても良いねん」って言って、歩けなくなりました。
あれだけ、マメにちょこちょこ動いていた親父が、全く動く気をなくしてしまっていたのに初めて気づいた次第です。

それから、だんだん、食べるのも嫌になってきたようで、看護婦さんから食べさせてもらうのも嫌がるようになりました。
そして、今年の4月29日に、腕の静脈に入れる点滴も入らなくなってきて、
もう衰弱しきって死期も近い感じになってました。
それまでは、延命治療はしないってことになってましたが、見るに見かねて、
また、一度、回復して、今度は、食べるようになったら良いなという希望もあって
中心静脈 脚の付け根の太い静脈に高カロリー輸液を入れると、死にかけていたのが生き返ったようになりました。

しかし、唾液も気管に入ったりするようになり誤嚥性肺炎を起こして熱が出ていることを多くなり、
また、その影響で肺に水がたまるようになりました。
こうなってくると、誤嚥性肺炎で死ぬのか、食事が取れなくなって、
昔、よく病名で付いていた老衰といったことになるかの選択になります。
老衰の方が苦しまないってことだったので、中心静脈のカテーテルは3週間ごとに交換するのですが、
次回の交換時、5月20日に、中心静脈カテーテルをしないで延命治療をやめました。

もう食べないと弱っていく状態ですが、好きな水羊羹は、少しは食べていましたが他は受けつけない状態になりました。
食べないのは、誤嚥して気管に食べ物が行かないように防御する生体反応だったかもしれません。

6月9日ごろから昏睡状態に入りました。
その翌日の6月10日水曜日の夜に、「どないや!?」って私が聞いたら
昏睡していたのに、首を横に振りました。
「もう、あかん」って言っていたのかもしれません。
そして、体の全ての栄養を使い果たして、その翌日の6月11日、朝6時17分に息を引き取りました。

下段、先生の2人右の黒っぽい服を着ているのが親父。
成績は、通知簿を見たら、秀(今の5)が並んでいました。
級長を良くやっていたようです。

村の人と金毘羅山に行った時の写真。
オートバイにも乗っていたようです。 ツバサに乗っていたらしい。
母親が、結婚前のデートと言ったら
そのツバサに横座りして西宮まで建具の寸法取りに行ってたと言ってました。
当時は、もちろん高速道路もなかったですが道には、車もほとんど走ってなくてスイスイ行けたようです。

結婚式の写真。
親父は、三男でした。
上段左端に長兄、下段左から2番目に次兄です。

多分、長兄夫婦と旅行に行ってる写真です。
母親も若い。

22歳で独立して建具屋をやってました。
務めている職人さんと旅行に行った時の写真。
確か、他にも数人職人さんがいたと思います。
昼休みには、将棋か野球をやってました。
うちは、私が生まれた時から職人さんが沢山いて賑やかでした。
年末、紅白歌合戦を見ながら私は職人さんと忘年会です。
母親は、皆んなの酒の燗をして、親父は職人さんの手取りの給料を計算してました。
今でも、木を引いた後の引き粉の匂いが懐かしいです。

私を抱いている親父

家族で城崎温泉に行った時の写真

母親の弟の結婚式の写真
新郎新婦の間に居るのが親父。
左中段に居るのが、母親の5人兄弟のうちの三姉妹。

妹の結婚式の写真。
大学在学中にサークルで知り合った2人は、卒業してすぐに結婚しました。
湘南の教会で結婚式をあげました。
現在、妹の旦那は、東京でシステムコンサルタントの会社を経営しています。
偶々ですが、妹の旦那の家系は、代々神戸の湊川神社の神主の家系で、
平安時代からの系図があるそうです。
妹夫婦は、伊豆に温泉付きの別荘も持って気楽にやってるようです。
しかし、相手の居住環境など考えずに1番大きい雛飾りを買うところが親父らしいわ。



確か、1990年の正月に家族全員を連れてハワイに行った時の写真。

中華料理店に行けば、高橋英樹と名高達郎家族。
シーパラダイスに行けば、せんだみつお親子など
沢山の芸能人と会いました。

55歳(今の私の歳)からゴルフを始めた親父は、あっというまにシングルプレーヤーになりました。
年間、300ラウンド以上していたそうなので、ゴルフが仕事みたいだったようです。

コンペでの優勝シーン

よく夫婦でゴルフしてました。
母親もハンデ11で結構ウマかった。

うちの長男と妹の長女と

今から6年前の金婚式で神戸港からの客船で食事をした時の写真

亡くなるちょっと前に、裏ピースしている写真

つづく

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