ここのところ私がずっと書いている「何もしないで何も考えない瞬間」をできるだけ多く作るという意味はお分かりになれますか?
どうしたらそういう瞬間が作れるのかお分かりですか?
それについての訓練の仕方なども折々に解説して行きますが、基本的に人の話をよく聞ける人はそういった瞬間をよく作っています。
逆に人の話をいい加減に上の空で聞いている人はいつも絶え間なく自分の思考の世界に浸って人です。
人の話をよく聞こうと思ったら自分の思考をある程度止めねばなりません。
自分で考えていたら人の話しが入って来ないので、頭の中をある程度空にする必要があります。
しかし人の話を聞いている時も、何もしないで一人で物思いにふけっている時も、思考が完全に止まっているわけではないのです。
本当に思考が完全に止まってしまったら、相手の話を理解できません。
頭がこんがらがるかもしれませんので整理しますと、思考の時間と無思考の瞬間が絶え間なく繰り返されているということなので、思考を全くしないということではないのです。
基本的には穏かに思考をしているとき、その合間に真理が流れ込むのです。
一方で何も考えないという瞬間を作れないで、いつもセカセカしていたり、人の話に耳を傾けなかったり、未来の心配ばかりしていたり、子供の心配ばかりしている人は、余裕なく常に思考空間に浸かっています。
子供の心配ばかりして常に思考を忙しくしている母親の「念波」の所為で、多くの子供が精神疾患に掛かっています。
実はスピィリチャル的に観ると、子供のウツや登校拒否、発達障害、統合失調症などの精神疾患は、考えるということしかできない親と共に暮らす子供が多く掛かる疾患でもあります。
思考の空間にどっぷりと浸かっていると、これがストレスを生むために精神疾患だけではなくて肩コリからガンまで、肉体のすべての疾患の大きなけ原因にもなっているのです。
ですから真理を呼び込むだけでなく、平和な心と健康を維持するためにも、何もしないことをして何も考えないことをする瞬間を生活の中に習慣づけることはとてもむ大切なことなのです。
これについては追々触れていきます。
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さて、「思いのままに10-2」と「思いのままに10-3」では、
私が勤めていた会社の仕事で絶壁に立たされたことをエネルギーに告げても、
私たちを信じて進めとエネルギーから言われました。
その後にインディ・ジョーンズの映画を観てアビスの河を渡る場面を知りました。
今日は拙書「真実の扉 第4章 P124」からその場面を引用します。
「真実の扉」第四章『インディ・ジョーンズ』の目に見えない橋(アビスの河)
;*;?♪ 以下抜粋 ♪★*;☆*;?♪☆
さて、この章の最後に、ジョージ・ルーカスの『インディ・ジョーンズの最後の聖戦』 を譬えに、神を信じることについて書いてみます。
ジョージ・ルーカスが制作・監督をする『スターウォーズ』などには、スピリチュアル的に見るといろいろなヒントが隠されています。特に『スターウォーズ・エピソード1』はよくできている作品でした。
http://hw001.spaaqs.ne.jp/true-gate/sonota/kodawari/99.10-11starwars1-2.html
ジョージ・ルーカスの作品には21世紀に向けてのメッセージが多く入っています。
昔から伝わるイスラエルの智慧である神秘的伝統―「カバラ」の教えの図式である「生命の樹」は、多くのセフィロート(道)で構成されます。
(中略)
カバラを学ぶ者が最後に神の愛を勝ち取りカバリストとなるには、神にすべてを託し全面的に神の愛と意思を信じることで最後の神への境界を超え、神のトライアングルへと進まねばなりません。その魂とスピリットとの境界に立ちはだかるのがアビスの河です。
(中略)
私がアビスを思うとき、思いだすひとつの映画があります。それがジョージ・ルーカス制作の『インディ・ジョーンズ最後の聖戦』です。この映画の見えない橋を渡るシーンは、見ものです。ここでもアビスが別の形で現されています。
この『インディ・ジョーンズ最後の聖戦』という映画は、永遠の命を得ることのできる聖盃を探すナチスに、ハリソン・フォード演じるインディ・ジョーンズとその父親を演じるショーン・コネリー親子が巻き込まれるという物語です。
物語の終わり近くで、聖盃のある入り口の近くでインディの父親が銃で腹を撃たれます。永遠の命を授かる聖盃で父親の命を救うためにインディに聖盃を取りに行かせようと、ナチスがたくらみ、インディの父を撃ったのです。インディは、聖盃とそこに入れる泉の水を求めて危険に立ち向かいます。ところが、その聖杯のある場所に行き着くには、三つの試練のある関門を通り抜けて行かねばなりません。
それぞれの関門にはそれを抜けるためのヒントがあります。
一つ目の関門を抜けるヒントは、
「悔い改める者だけが通れる」(反省するものが救われる)です。
二つ目は、
「神の名を呼ぶ者だけが通れる」(神の存在を信じるものが救われる)です。
この二つの難所を通り抜けたインディは最後の難所に向かいます。
先の二つはヒントの謎を解き、その通りに進めばよかったのですが、最後は違います。ヒントを解くことで得た答(論理的知識や情報)だけではクリアできないのです。
神に全幅の信頼を置き、神と一体である自分を信じて進まねばなりません。
三つ目である最後の試練を成し遂げるヒントは、
「ライオンの頭から跳躍する者だけがその価値を認められる」です。
ライオンの彫刻を背にし、聖盃のある方に行かねばならない場面でした。ところが、その先は橋のない絶壁なのです。
腹を撃たれ、インディから離れ横たわる父親は苦しみの中で息子への想いをこう呟きます。「神を信じれば大事にならない」と。
断崖でしばしたたずむインディは、父のインスピレーションを受け「神を信じて進むしかないな」とつぶやき、見えない橋がそこにあることを信じて一歩を踏み出し進みます。
すると、足は空中に止まります。見えないはずの橋がそこには確かにあるではありませんか。
最後の最後に必要なものは「恐れを捨てて神に全幅の信頼を置くこと」でした。
そして、神と共にある自分の判断にも・・・・・・。
このようにして私たちは先ず、神の想いを地上で演じ始めることになるのですが、そこに到るまでには幾多のテストをクリアしなければなりません。
私たちは誰もが神の御使いです。今、神は、私たちがどれだけ神の御使いとして天の仕事を任せられるだろうか? どれだけ自分が神の子で、神の想いとつながることができると信じて生きられるだろうかと、私たちに日々、テストをしているのです。
神は恐れが反映されるテストの環境を仕組んで、そこに神の想いを送り込みます。
私たちの内面を通じて。
Amazing Grace ♪♪♪
(前略)
'Twas grace that tought my heart fear,
私の心に恐れを教えてくれたのは神の恵みで
And grace my fears relieved.
恐れを解いてくれたのも神の恵みだった
How precious did that grace appear.
The hour I first believed.
私が(神を)信じたそのときに神の恵みは素晴らしきものとして観じた・・・・
(後略・・・・多くの危険、試練を乗り越えてきたとき、と続く)。
「Amazing Grace(素晴らしき神の恵み)」 より、とびら訳
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