未来へ/梅ヶ渕不動堂保存会 公式ブログ

梅ヶ渕不動堂の歴史や解説、ボランティア活動やイベント情報を、ゆる〜く書いていきます。ご気軽に、お立ち寄りください。

薩摩藩士 有川矢九郎

2017-02-20 16:05:41 | 梅ヶ渕不動堂の歴史



先日より仕事で鹿児島に来ておりました。

何となく梅ヶ渕不動堂に足が向いて、お堂まで登ると、ご婦人と息子さんが、お参りをしておられました。

ご挨拶をしましたところ、何と!

有川矢九郎さまの末裔の方で、梅ヶ渕不動堂に有川矢九郎の別邸があったことを知り訪ねて来られた とのことでした。

何という、ご縁でしょうか、嬉しいやら感激やらで有川矢九郎の話で、しばらく話込んでしまいました。

梅ヶ渕不動堂が今年、七百年を迎えられたのも江戸時代末期から明治初期にかけて徹底して行われた廃仏棄釈の後に有川矢九郎が、この地を購入し遺していただいたおかげである。

梅ヶ渕不動堂にとって有川矢九郎は救世主と言っても過言ではありません。

残念ながら有川矢九郎の別邸は平成5年、八月豪雨水害(8.6水害)の土石流の被害に遭い無くなってしまいました。現在では僅かに庭園が残るのみです

せっかくですから「有川矢九郎が遺した石碑がありますので」と石碑が建つ山中へと ご案内しました。



明治二四年 八月
【有川矢九郎誌 】(有川矢九郎が書き記す)



【上伊敷宮之前所有地 明治六年購入ス 同八年二月ヨリ同十七年一月迄杉苗木乃差穂】



文字が所々、読み取れません。

おそらくですが要約すると、この地に植林した杉の木は八十年育てた後に伐採するように。と書かれているようです。

薩摩藩士は実に働き者で、藩の勤めを終えて家に戻ると畑仕事などをして過ごしていました。

西郷隆盛も例外では無く江戸や京都から戻り藩へ報告などを済ますと、我が家の畑仕事に励んでいるようすが語り継がれています。

有川矢九郎も同様に藩の勤めを終えると畑や山林の手入れに励んだのでしょう。薩摩藩士の暮らしぶりが伺える石碑だと思います。

現在、梅ヶ渕不動堂には有川矢九郎に関する遺物は、この石碑しか残っていません。

石碑といえば西郷隆盛から有川矢九郎に贈られた石碑が、この別邸にありました。しかし、現在は移動された後、その後の行方がわかりません。

有川矢九郎は、この地を購入できた感謝の気持ちを恩返ししたいと伊敷を流れる甲突川から田畑へと流すための農業用水路の工事費用を村に寄付し村民を集め施工しました。

村民たちは、とても喜び、お礼にと当時の村長が有川矢九郎の功績を残したいと原文を西郷隆盛に依頼し、その文字を石碑に刻んだ「有川矢九郎頌徳碑」を贈ったのである。

私も随分と探し回ったが見つからないままであることを、有川矢九郎さまの末裔の方に、お話しましたところ、何と!この方が鹿児島県に寄贈されたとのことでした。現在 南洲公園の西郷南洲顕彰館の敷地内にあります。ということでした。

その後も、また話が弾みましたが、是非また お越しください!と、お見送りしました。

お忙しい中、長々と引き止めてしまい恐縮でした。本当に素晴らしい ご縁でした。感謝!です
ありがとうございました!


さっそく、南洲公園へ行ってみました。西郷南洲顕彰館の建物の裏側に、ひっそりと安置されていました。




文献などを調べていて石碑があることは知っていましたが、実際に目の当たりにするのは初めてのことです。感激です。

碑文の詳しい内容は改めて、また別の機会に。

今回は、みなさま方に有川 矢九郎について、ご紹介したいと思います。

有川矢九郎は幕末の薩摩藩士で後、実業家としても成功しています。

西郷隆盛が誕生してから3年後の天保2年9月14日に有川矢九郎は誕生しました。

薩摩藩海軍として活躍します。薩英戦争では談合役(参謀)として指揮を執りました。

元治元年(1864)に「胡蝶丸」の艦長、のち薩摩藩海軍軍艦「三邦丸」艦長を務めています。

「胡蝶丸」や蒸気船「三邦丸」は幕末の歴史に度々、登場します。
藩の命を受け幕末の大阪や江戸を何度も航海していたことは無論のこと、西郷隆盛が遠島先から帰る、迎えの船が「胡蝶丸」であり、坂本龍馬の妻おりょうと新婚旅行で薩摩に向かって乗った船が「三邦丸」です。

戊辰戦争では軍艦掛(船奉行)として輸送を担当。

明治五年「三邦丸」の払い下げを受け、海運業を設立。明治六年には大蔵省から「鹿児島丸」の貸与を受ける。

この年に梅ヶ渕不動堂の地を所有しています。

明治七年の台湾出兵では兵員の輸送にもあたりました。

海運業は主に台湾やフィリピンなどで交易し、実業家としても成功しています。

勝海舟やシーボルトなどと交流があり、アーネスト・サトウの手記にも有川矢九郎が登場しています。

有川矢九郎は西郷隆盛の妻(糸子)を紹介したことでも知られています。

明治四十一年十月三日死去。享年78歳。名は貞実。

有川矢九郎さまの末裔の方から、お聴きした話では、西南戦争の時、有川矢九郎は大蔵省から借りていた「鹿児島丸」を政府に戻したことで有川矢九郎は政府と通じていると薩摩藩士達から噂され命を狙われることとなりました。これを知った西郷隆盛は有川矢九郎を謹慎処分とし、有川矢九郎の命を救った。という歴史秘話があるとのことでした。

ここ梅ヶ渕不動堂にあった有川矢九郎の別邸に度々、西郷隆盛が訪ねています。

薩摩藩 陸軍隊長 西郷隆盛と薩摩藩 海軍艦長 有川矢九郎が藩の勤めを終え平穏無事なひと時、ここ梅ヶ渕不動堂で、どんな会話をしたのでしょうか?(^ ^)





















梅ヶ渕不動堂保存会の励み

2017-02-12 01:30:01 | 梅ヶ渕不動堂保存会の活動


日本列島に猛烈な寒波が、やってきましたね。
日本各地での、大雪の被害のニュースが報道されました。大雪の被害に遭われた方々に、お見舞い申し上げます。

南国、鹿児島にも積雪がありました。
鹿児島のシンボル、桜島も雪化粧です。



恒例の第二日曜日の、お掃除にやってまいりました。



今年も節分ご祈願祭に奉納いただきました真新しい のぼり旗が参道に並びました。

来年の節分前まで、これから一年間 みなさま方の、のぼり旗を、お世話させていただきます。



梅ヶ渕不動堂の自然の中ともいえる参道にのぼり旗が立っていますので、春から夏には草木の勢いと闘いながら、秋には台風が近づけば、のぼり旗を避難させ、ポールなどが壊れたりすると取り替えて、また参道に安置して一年間を無事に迎えられるよう、しっかり管理しております。



たまに草木に絡まった、のぼり旗を見かけますと、草木を刈り取りながら 、のぼり旗にむかって「頑張ってください!」などと声掛けながら作業しております(^ ^)

この参道の、のぼり旗が気持ちよく風に、たなびいている様子を見ていると、のぼり旗を奉納された施主の方々も元気で活躍されていらっしゃるだろうと想像するのです(^ ^)

参道に並ぶ、のぼり旗の管理をしながら、また、我々も励まされております。

みなさま方の頑張りに負けないよう梅ヶ渕不動堂保存会も、この一年頑張ってまいります。



梅ヶ渕不動堂は今年、七百年を迎えますが、8.6水害(平成5年)の後に閉鎖されていたこともあって、以外と鹿児島市民に知られておりません。

昭和時代にも大水害があって度々、梅ヶ渕不動堂は、危険防止のため閉鎖された時期があったようです。そのために梅ヶ渕不動堂の認知度が低くなっていたのかもしれません。

今日も参道の、お掃除をしていましたら、参詣者の方から「初めて梅ヶ渕不動堂に来ました。良いところですね。」と、数組の方からお声を掛けられました。

梅ヶ渕不動堂の話や世間話などをして、「是非また、お越しください!」などと、ご挨拶する時は、梅ヶ渕不動堂を管理する者にとって、とても励みになります。

また、お掃除、頑張ろう!という気持ちになります。

梅ヶ渕不動堂保存会の活動も20年になりました。

梅ヶ渕不動堂の常連の方々の支えがあり活動を続けてこられました。また、毎年「初めて梅ヶ渕不動堂に来ました。」という お声の、その積み重ねの、ご縁があってこそ続けてこられたのだと思います。

勿論、梅ヶ渕不動堂の堂主 大道法山 先生の活動があってこそ続けて来られたことは、言うまでもありませんが…。



のぼり旗の施主の方々は遠方の方が多く、大道先生の、ご活躍が伺えます。

遠方から鹿児島に、お越しになることがありましたら、是非、梅ヶ渕不動堂へも、お立ち寄りください。お待ちしています(^ ^)



そろそろ日も傾いてきました。



今日は、後片付けをして、引き上げるとします。

また、お会いしましょう(^ ^)











吉兆の雨降る梅ヶ渕不動堂

2017-02-06 23:50:21 | 梅ヶ渕不動堂保存会の活動


平成29年度 節分ご祈願祭を無事に終わり、一夜明けました。

大道先生の元へ数多くの、ご祈願の お申し込みがあり、みなさま方、お一人お一人の、ご祈願を読み上げ、お祭りを終える事ができました。



お祭りは、鳴動釜(なりどうがま)作法の ご祈願で行われました。

木製の釜に、お米を入れると「ヴゥオーン」と、なんとも言えない不思議な音がする釜を使った、ご祈祷の作法で、大道先生の お話では必ずしも音が出るものではないとのこと…。ましてや梅ヶ渕不動堂では屋外に祭壇を設営しての、ご祈祷です。当日は、朝から時より強い雨が降る悪天候の日和ということもあり、はたして音が鳴り響くものか不安の中、お祭りが始まりましたが、いざ始まると「ボボボボヴゥオーン」と力強い音が梅ヶ渕不動堂に鳴り響きました。

ご参詣客の皆さま方お一人づつ、お米を入れていただきましたが、全ての人が釜を鳴らすことが出来、最高の お祭りとなりました。

お祭りの最後に大道先生の法話の中に鹿児島では神事ごとなどに雨が降ると島津雨(しまずあめ)と呼ばれ吉兆の雨とされるとお話がありました。

島津雨とは、鎌倉時代から代々続く薩摩藩の藩主 島津家の祖である初代 島津忠久が雨の降りしきる中に誕生したことが由来で 以来、島津家が代々栄えたために鹿児島では神事ごとなどに雨が降ると吉兆の兆しがある島津雨だと喜ぶ風習があります。

梅ヶ渕不動堂は、古来より島津家とは深い繋がりがあり、島津家代々の、ご祈祷所として栄えていました。

島津の殿様が馬に乗り、お供の方々を引き連れ梅ヶ渕不動堂を訪れ、梅ヶ渕不動堂にあった展望台(現在は立ち入り禁止)に立ち薩摩の街並みを眺めることが当時の習慣であったと語り継がれています。

まさに今年は梅ヶ渕不動堂が創建七百年の年のご祈願祭ということもあり、皆さま方の躍進の年を祝福する島津雨となりました。

本当に春から縁起が良いですね(^ ^)

大道先生の法話の最後に、苦しみながら頑張るのではなく、晴れやかな顔をして顔晴って(頑張って)ください❗️との言葉で節分祭を終えました。



梅ヶ渕不動堂保存会スタッフ一同からも、皆さま方のご活躍をご祈念申し上げます。


また雨の中、梅ヶ渕不動堂の節分祭に、ご参列いただきました方々の、お顔をみますと梅ヶ渕不動堂保存会スタッフ一同、感激や感謝の気持ちでいっぱいになりました。
ありがとうございました!

今回は、梅ヶ渕不動堂保存会のスタッフのメンバーの都合がつかずに、お接待が、行き届かずに心苦しい気持ちと不安の中、当日を迎えましたが、逆に、ご参詣客の方々に支えられ、お祭りを終えることができました。ありがとうございました❗️

お祭りの前日より準備のために駆けつけていただきました、とも先生、宮さん、いよっち君の活躍で無事に準備や、お祭りを終えることができました。お疲れさまでした!

お祭りの当日にも体調が優れない中に駆けつけていただきました保存会の松氏、お春さん。また応援スタッフの、ちえちゃん、たけさん、お疲れさまでした!

感謝!感謝! の梅ヶ渕不動堂 節分祭でした。