未来へ/梅ヶ渕不動堂保存会 公式ブログ

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調所広郷と玉江橋と梅ヶ渕不動堂

2018-11-20 09:30:11 | 梅ヶ渕不動堂の歴史




今年の鹿児島は大河ドラマ「西郷どん」と明治維新150周年のイベントも相まって活気ある一年にとなりました。


今回は 西郷隆盛が薩摩の地に誕生した頃の時代、天保(てんぽう)年間頃の 鹿児島の歴史についてお話をしてみたいと思います。



大河ドラマばりに少し長めにお送りします(^^)
どうぞ お付き合いください。




江戸時代後期、薩摩では大々的な藩政改革が行われていました。



第8代 薩摩藩主 島津重豪 (しまず しげひで)公は 隠居してもなお、孫の 斉興(なりおき)公の後見として実権を握り藩政の改革を推し進めていました



それまで閉鎖的であった薩摩藩でしたが、島津重豪 公は 娘の茂姫 (広大院) を 江戸幕府 第11代 征夷大将軍 徳川家斉の正室に輿入したり、子や孫を有力な藩の大名家との婚姻や養子縁組を行い江戸幕府の政権にも大きく影響を与える地位を得ていました。



島津重豪 公は西洋文化に明るく藩校の造士館、演武館、明時館(後の天文館)、医学館を設立した。これらは武士だけではなく百姓町人などでも通える学校として広く藩内に教育の機会を与えることとなりました。



その反面で、度重なる出費に加えて 島津重豪 公は贅沢な暮らしぶりで西洋の珍品には目がなく、数多く買い揃えさせるなど藩の財政は、ますます困窮します。


とうとう西郷隆盛が誕生した1828年頃は薩摩藩の借金は500万両に達していて、借り入れ先の大阪や京都の豪商たちの悪評は広まり薩摩藩に融通する商人は いなくなります。

当時の薩摩藩の年間収入は12万両〜14万両でしたが、借金の利息は年間80万両を超える勘定で、もはや薩摩藩の財政は破綻寸前でした。


島津 重豪 公は 調所広郷 (ずしょ ひろさと)を抜擢し財政再建を命じます。



調所広郷は、手始めに奄美大島、喜界島、徳之島の特産品である黒糖を 専売制とする三島方(さんとうほう)という役所の新設を行いました。


この薩摩藩の特産品である黒糖は、かなりの利益をもたらし薩摩藩にとって救い主となっていきます。



そして調所広郷は借り入れ先の 商人達に、500万両の借金の利息を帳消しにして 元金のみ250年の分割払いとすることを商人達に強引に納得させることに成功しました。

その見返りであっのか薩摩藩が密輸した御禁制の品を商家に取り扱いさせることを許したのです。



調所広郷は「寒天」造りを始めました。



寒天は日本固有のものであることを知ると寒天造りに適した都城に寒天工場を建設しました。原料のテングサは甑島(こしきじま)より福山港に運ばせました。寒天の凝固剤として福山の黒酢を使いました。
この黒酢を増産するために美山(みやま)の薩摩焼窯元を再興させて黒酢造り用の、かめ壺を造らせました。また黒酢造りの原料の米の増産のため働き手が少ない荒れた田畑を耕作させるために天草から多数移民させて お米の生産力の向上に努めました。
こうして出来上がった寒天は中国やロシアに輸出したのです。
もちろん江戸幕府には内密にです…。


さまざまな政策で得た利益で精製前の 綿を大量に買い占めました。綿の相場が高騰すると一気に売りさばき、さらなる利益を産みました。


調所広郷は 勉強熱心な人物だったらしく農業のことは百姓に教わり、建築のことは大工に、商売のことは商人を先生として学んでいたそうです。



薩摩藩は財政難に苦しんでいていましたが有益な産業には進んで藩の財源を活用しています。


調所広郷の藩政の改革は このようにして薩摩藩の さまざまな産業を活性化させたり 内政や軍事力に指揮を執り 薩摩藩を一国の雄藩と呼ばれるまでに押し上げていきました。



1840年 天保11年 藩主 島津斉興 公と 家老 調所広郷の名前で豪華なな金灯籠を二基 京都の北野天満宮に寄進されています。

薩摩藩の財政再建が成功したことへの お礼参りとて寄進されたものです。


調所広郷の財政改革は薩摩藩の準備金が200万両を超えるほどの成功を収めていました。


さらに藩政の改革は 推し進められました。


この年 肥後(現在の熊本県八代市)の石工 岩永三五郎 一族を招き 薩摩藩の城下整備を依頼しました。


その一環として甲突川に石橋を掛ける工事が始まります。










薩摩藩の玄関口とも言える西田橋








高麗橋(こうらいばし)



残念ながら平成5年の8月鹿児島豪雨の災害で崩壊流失してしまいましたが 武之橋 、新上橋(しんかんばし)を建設しました。




そして この当時「お不動さま参り」が評判だった梅ケ渕不動堂への参詣者のために、玉江橋が架けられました。

















この藩政の改革が行われていた天保年間は度重なる天災が続いていました。豪雨による洪水や冷夏による大凶作が数年続きました。あの天保の大飢饉が この時期です。それに加えて数年ごとに疫病が流行り藩民達は疲弊していました。


この当時、梅ケ渕不動堂は藩民の心の拠り所となり、憩いの場でもあったのでしょう。





その当時から祀られている五穀豊穣を祈る田の神さま





健康を祈る 薬師如来さま





子授けや、安産を祈る 子安観音さま





ご本尊の 波切不動明王さまや 観世音菩薩さまへ無事をご祈願されたのでしょうか。





薩摩藩のご祈祷所であった梅ケ渕不動堂へ度々、薩摩のお殿様が馬に乗って お城から梅ケ渕不動堂の展望台まで参詣したことは 今に語り継がれています。


梅ケ渕不動堂には薩摩の城下町を一望できる展望台がありました。発展する城下町を眺めることは お殿様にとっても藩民にとっても憩いの時であったと思います。










現在 甲突川に架かっていた五石橋は石橋記念公園に移設されて今でも橋を歩いて渡れます。







岩永三五郎は 五石橋だけでなく、洪水の度に川筋を変える「暴れ川」の異名を持つ甲突川を河川改修したり薩摩藩内の 各港の改修工事や道路の整備と、ゼネコン並み?に藩内いたるところで目覚ましい働きをして肥後の地へ帰りました。













天保山(てんぽざん)公園に調所広郷 像 があります。

この地には 交易の出発点である港がありました。

天保年間には度々豪雨による洪水があり その都度、港に土砂が流れ込んでしまい土砂を取り除く作業が欠かせませんでた。その土砂の捨て場が山のようになり、いつしか この人工の山を天保山と呼ぶようになりました。



今ではこの山の名前が由来となり天保山の地名となりました。



下級武士から家老の職まで 出世し偉業を成し遂げ 数奇の運命を終えた調所広郷は 島津斉彬 公と反対勢力の家老であったため悪人として描かれることが多い人物です。


しかし藩民の生活を潤す事業も数多く行った人物でもあります。


暮らしぶりは質素であったと伝えられています。


調所広郷 は薩摩藩の安定を第一に行動した人物ではなかったかと個人的には思います。



しかし、薩摩藩も日本も激動の時代へと流れ始めます。



梅ケ渕不動堂の歴史を調べるうちに調所広郷に興味を抱きましたので、文章も長くなってしまいました (^ ^)



調所どん !おやっとさぁ !



今宵は ここらで よかろかい…。(^ ^)