goo blog サービス終了のお知らせ 

教育基本条例下の辻谷処分を撤回させるネットワーク

憲法に反する「君が代」条例ならびに公教育の理念に反する大阪の新自由主義的教育諸条例の廃止を求めます。

オランダの教育は日本の3周先を行く―他者への理解、寛容性を育むには

2016-10-05 10:23:27 | 当該より
ぜひ、観てほしい。オランダの教育施作を部分的に取り入れることは危険だが、オランダが教育の理念をどのように求めたか一見に値する。そして現在の日本の、大阪の教育を見つめ直そう~

オランダの教育は日本の3周先を行く

「君が代」起立斉唱命令には従えない

2016-08-04 15:23:57 | 当該より
ただいま、グループZAZAでは、冊子「池田浩士さん講演録①」や「13人の不起立の思い」を頒布しております。以下は、その「13人の不起立の思い」に寄稿したものです。お読みいただければ幸いです。


「君が代」起立斉唱命令には従えない

辻谷博子

◆序にかえて

 明日(2016.1.25)は、「君が代」減給処分取消訴訟の証人尋問法廷です。2012年最高裁判決から考えても、また昨年の東京地裁・高裁の判決から考えても、処分取消は明らかなはずです。しかし、それが取り消されなかったとしたら、時代はますます危険な水域に入ったということかもしれません。
話は変わりますが、私は今大連で日本語教師をしています。実際に中国で1年余りを暮してみて、自分がいかにこの小さな国の教育とメディアに毒されていたか痛感しています。そして、それとともに、ますます「君が代」強制はあってはならないと言う気持ちも強くなりました。司法がどのような判断をくだそうとも、私は、これからも「君が代」強制の問題に取り組んでいきます。
次の文章は、明日の証人尋問に向け裁判所に提出した陳述書から抜粋しました。読んでくださればうれしいです。そしてともに考えていただければなおうれしいです。なぜ、かくも「君が代」が強制されるのかを。

◆これほどまでに「君が代」を強制するのはなぜ?

私は、大阪府国旗国歌条例下「君が代」斉唱時に起立して斉唱せよとの職務命令にどうしても従うことができませんでした。当時、橋下知事は、大人の知恵を働かせればよい、逃げ道は与えている、「君が代」を歌えない教師は、卒業式に出なければよいとマスコミを通じて発言しました。私はこれを聞き、なぜ、「君が代」を歌えない教師は卒業式に出てはいけないのだろうか、まるで「君が代」に反対する教師が子どもたちの卒業を祝福することなどもっての他だと言わんばかりに聞こえました。そして子どもたち全員に「君が代」を歌わせる時代を作っていくためには、きっと「君が代」に反対する教員を何が何でも排除したいんだなと思いました。橋下知事は、これは思想の問題などではなく服務の問題であると言い、そのうえ、「君が代」を歌えという職務命令に従わない教員はいずれクビにしてやるとまで言い放ちました。いったい、いつの時代の話だろうか、「君が代」を歌わない教師はクビだなんて、正直なところ頭がクラクラする思いでした。
今、これほど「君が代」を学校に強制するのはどうしてなのだろうと考えた時、まさか再び歴史が繰り返されることはないと思いながらも、もしも自分が教師としてそれに加担するようなことは、あってはならないことだと思いました。
一方で、「オリンピックやワールドカップで歌うんやから、卒業式でも歌ってええんと違う。私は先生には『君が代』歌ってほしいけど」…近所の人や学校以外に勤めている人からはそんな声を聞きました。「先生、歌ったふりだけしといたらええやん」そう言う生徒もいました。そういう声を聞きながら、私は、「君が代」問題について、学校と学校以外の世界でいつの間にかこんなに距離ができてしまっていることに教師として責任を感じました。「君が代」に対する教員の問題意識は確かに学校以外の方には解かりにくい話かもしれません。しかし、私たちは毎年議論し続けて来たのです。1975年に教員になり定年を前にした時こんなことが起こるなんて、いったい今までの教育は何だったんだろう、平和や人権より国家が大事という時代が再び来るのだろうか、そう思うと信じられないような気持でありながら、それに加担することだけはしてはならないと思いました。

◆私は「君が代」を歌えない、立てない。

近代における差別はどのように作られていったか。学校の儀式で「君が代」を執り行うことは戦前に行われたことと同じではないか。今でも多くの「在日」生徒にとってある意味では戦争は終わっていないのではないか。戦時、学校は多くの少国民や軍国少女を生み出しお国のためと称して人を殺させ、また自分の命も捧げさせたではないか。論理(理屈)としてではなくシンボルとして視覚や聴覚を通して直接身体に刻印されるゆえ国連人権委員会も警鐘しているではないか。シンボルであるゆえに「日の丸」「君が代」は危険なのだ。学校でそれを行うことは許されないのではないか。「愛国心」のもと自分を犠牲にしたり排他的な考えにつながることは自他の人権を侵すのではないか。意味もわからぬまま国歌であるという理由だけで、畢竟天皇を讃える「君が代」をここまで強制されことはどう考えてもおかしい。これまでに行って来た憲法や人権教育には反する。大きな力や流れの中で、自分にはそれをどうすることもできないかもしれないが、少なくも「君が代」斉唱時には座ろう。「君が代」を立って歌うと言うことは、かつて私が責めた母の“しかたがなかったんだよ。あの時代は誰でもそうだったんだから”を今度は私自身が繰り返すことになる。いやそれだけにとどまらず教師として生徒たちに教えることになる。私が今まで聞いて来た生徒の声を私は無視していいのか。なぜ「君が代」を歌えないのか、立てないのか。どう述べても言い尽くせないような気がします。私が今まで生きて来て、教師として聞いた・話した―それらすべてを反故にするならもうこの仕事はできない、そんな思いを抱きました。―たかがウタです。そんなに思いつめなくてもと言われるかもしれません。しかし、誰でもこれだけは譲れない何かというものがあるのではないでしょうか。私にとって「君が代」を歌うことはそれまでの私自身を否定するようなことだったのです。「君が代」不起立の一番大きな理由は、私が私であるための、いわば私自身に対するひとつのけじめのようなものでした。

◆最後の卒業式

枚方なぎさ高校第7回卒業式に、私は当然参列するつもりでした。3年間かかわって来た、そして教員生活最後の卒業式です。しかし、私は「君が代」斉唱時には立つことはできません。それはこれまで述べて来た通り、立つわけにはいかない、立てない、立てば、私がこれまで生徒に言って来たことは嘘になる、そんな思いでした。いかに条例下とは言え、いやその条例が問題だと思うのですが、職務命令に従って「君が代」起立斉唱することは様々な立場にある生徒を一つのシンボルのもとでまとめることは危険であると思っています。そしてこの陳述書を書いている現在、ますますその危険性は高まっているように思います。日本が集団的自衛権行使に向け法律を完備した今、「日本のため」「平和のため」と称して戦争を肯定し戦争に赴く「日本人」作りがますます教育に求められることでしょう。その時、国家のシンボルとして「日の丸」「君が代」は重要な役割を果たします。教員がそれに手を貸すことは、先の戦争の後、深い戒めになったはずです。私は、やはり「君が代」斉唱時に立つわけにはいかないのです。
卒業式前の職員会議、「どう考えても命令で『君が代』を歌わせるのは異常な事態であり、教職員への「君が代」強制の次に来るのは生徒への強制であり、それではかつての過ちと同じ過ちを再び教育が犯すことになる」という趣旨の発言をしました。校長は何も答えませんでした。その場で卒業式において初めてのことですが、教員席をすべて座席指定にすると言われました。私たちは驚愕しました。いまだかつて卒業式において教員席が座席指定されたことなど一度もありませんでした。いや、そもそも卒業式は、仕事の関係上、当初から着席することが難しい場合は多々ありますので、遅れて着席することも珍しいことではありませんでした。予め何人が着席するかはわかりませんからできるだけ多めに席に設けるのが常でした。それが変わったのは、条例下「君が代」起立斉唱の職務命令が発出されたからです。卒業式本来の意義が忘れ去られ、教職員が「君が代」斉唱時に起立するかどうかを確認することが卒業式の第一の目的と化してしまったのです。A先生が、「座席指定は府教委の指示か、校長の判断か、もしも校長の判断ならやめてほしい」と発言されたのはある意味当然の発言でした。

◆おかしな卒業式

どう考えても条例はおかしい、悪法とは言え法である以上、従わなければならないのでしょうか。しかし、それによって自分がこれまで生きて来たこと、すなわちして来たこと、生徒に話して来たことすべてが無に帰するようなことになってでも従わなければなりませんか。自分自身のアイデンティティ、特に教師としてやって来たことを思えば、私は卒業式に参列したいです。いや参列して卒業の姿を見届ける必要がありました。そして「君が代」斉唱時には立ちません。それ以外は考えられませんでした。校長にも教頭にもそのことは伝えました。
役割分担についてですが、卒業式における役割分担は卒業式参列を最優先に考えられてきました。だからこそ事前の打ち合わせや時間指定もなかったのです。どの教員も適宜卒業式に参列して、それで役割を果たしていないなどと咎められることは皆無でした。私はいつものようにしました。何を優先して考えればよいか、これまでの経験から当然それは卒業生を祝福し見届けることでした。教育委員会という行政機関にとっては教職員が条例下の職務命令に従うかどうか、卒業式での関心事と言えばそれしかなかったかもしれません。しかし、言わせてもらえば、38年間の教員の矜持に基づき何をしなければならないかは心得ているつもりです。私は、これまでと同じように警備の仕事をしてそれから式場に行きました。ごくあたりまえの自然な行動です。そのことによって警備の仕事を放棄したなど言われることはいまだかつてありませんでした。条例下の職務命令が学校をそして卒業式を本来の意義から逸脱させ、いびつなものにしてしまったのです。そのいびつさの中で本来的な教員としての行動が教育委員会から指弾されることになってしまったのです。しかし、卒業式とは本来どのような場であるかを考えれば、どちらがおかしいかは自ずと明らかなはずです。

◆卒業式に出てよかった

卒業式で特に印象に残ったことは、卒業生を代表した女子生徒が述べた次の言葉でした、「なぎさで学んだことで無駄なことは何一つなかった」。
私はその言葉を聞きながら、卒業式に参列して本当によかったと思いました。卒業生がこれから体験する世界は決して楽な明るい世界ではないかもしれないが、自信を持って一人ひとり自分を大切にして生きていってほしいと思いました。「君が代」斉唱のときはこれまでと同じように静かに座りました。
条例とそれに基づく職務命令が絶対であるならば、私のしたことは咎められて当然かもしれません。しかし、「君が代」が歴史的にどのような役割を果たしたか、そして今現在も「在日」生徒が本名すら名乗ることすらできないのはなぜか、教育が戦前どのような役割を果たしたか、その反省のもとに出発した公教育に38年かかわって来たわけですから、いかに条例に基づく職務命令であろうともそれに従うことはできませんでした。公教育に携わる教員の服務とは任用時に宣誓したように何よりも憲法遵守であるはずです。憲法第99条は言うまでもなく公権力に携わる者へ憲法擁護を義務づけています。そのうえ、私は人権教育において、憲法を説き続けて来ました。むかし、ある同僚が「生徒が嘘つくことあっても教師は嘘ついたらあかんのですわ」と言った声はずっと私の中に残っています。私は「君が代」に立つことはできません。そうすれば私は何よりも自分自身を殺すことになります。私は一点の恥じるところもありません。私にくだされた処分は不当です。私は日本国憲法を尊重しています。


教育条例はどうなったか?

2016-04-30 18:41:50 | 当該より
明日5月1日から8日まで一時帰国します。

中国では、5・1メーデーは3連休、大連海洋大学では9連休ですので、それを利用して、今後のことを相談するために帰国することにしました。

「君が代」不起立で処分され、それを人事委員会に不服申立をするときに、教育基本条例下の辻谷処分を撤回させるネットワークは誕生しました。

その時当該としてこだわったのは、2つありました。

まず、「君が代」問題だけではなく、2012年4月に制定された教育条例の問題に取り組んでいきたい、そしてもうひとつは、私たちの運動が閉じた運動ではなく、いろんな人と出会うなかでつながっていきたいと考えたことです。

既に2年余が経ちましたが、この間に様々な人と出会うことができました。確実に私たちの運動は広がって行っていると嬉しく思っています。

ただ、もうひとつの課題、教育条例の問題にはなかなか取り組めていません。正直なところ人事委員会審理や裁判の準備をするなかで「君が代」問題だけでアップアップしているような状態です。むろん、それが何らかの形では教育条例の問題とかかわるのですが、、

最近になって橋下維新政治が「教育改革」と称して行ったことがいろんなところで問題が噴出しているように思います。

今回の帰国では、そのあたりのところをTネット世話人と話し合いたいと考えています。


教師だから「君が代」は歌えない

2016-04-15 21:28:34 | 当該より
 教師だったら「君が代」は歌うべき、と言う方もおられますが、原告の気持ちを吐露させていただくなら、教師だから立てなかったというのが正直なところです。


 引き続き4月13日の戒告処分取消訴訟第4回口頭弁論の際に出した証拠のひとつを掲載します。お読みいただければ嬉しいです。       


教師だから立てなかった

志 水 博 子

 私の母は1930年生まれ、今年86歳。私は子どもの頃、母からよく戦争中の話を聞かされた。戦争末期の国民学校で母はそれはそれはみごとな軍国少女だったそうだ。「死ぬことはちっとも怖くなかった、日本は神の国だと思っていたんだから。天皇陛下は神様、本気でそう思っていたよ」と言う。なかでも忘れられないのは、戦地にいる兄に「どうか、お国のために名誉の戦死を遂げてください」と手紙を書いた話だ。信じられない話だが、母はため息まじりに言った、「教育のせいなんだよ、教育って恐ろしいものだね」と。

 母は、日本の統治下「満州国」大連で育った。母の思い出の中の「大連」は美しい故郷でもあった。ベトナム戦争の頃日本の加害責任が話題になったが、高校生だった私は、戦争の被害者であると同時に加害者でもある母を責めることがあった。すると、その時決まって母はこう言った、「仕方がなかったんだよ。あの時代はだれでもそうだったんだから」と。

大学を卒業し、府立高校の教師になった私は、母の言う「恐ろしい」教育を担う側になった。しかし、その時は、母の時代は過去のことだと思っていた。ところが、私は戦争が終わっていないことを知ることになる。毎年出会う生徒に中には少数ではあったが、必ず「在日」の生徒がいた。そして大方は日本名を名乗っていた。教師になって6年目、私は初めて3年生を担任したが、そのなかに本名で就職を希望する生徒がいた。しかし、彼女は就職差別に遭い、本名で生きる道を断念せざるを得なかった。私自身、この時、差別の現実を初めて知った思いがした。その後、出会った「在日」の生徒からこんな話を聞いたこともある。彼の姉の話。成人式に彼女は着物を着て行った、そして家へ帰ってからチマチョゴリを着て家族と記念写真を撮った、と。

「日の丸」「君が代」を象徴とした戦争は終わっていない。教師をしていると、その現実に何度もぶち当たる。そこに差別や人権侵害があるならば、「おかしい」と言わない限り結局はそれに加担することになってしまう―これは、大阪の人権教育の鉄則とも言えるものであった。戦後復活した「日の丸」「君が代」を、再び学校で掲揚し斉唱することについて、大阪の学校では30年以上議論し続けて来た。様々な考えにどう折り合いをつけるか、あるいは異なる意見をどう共存させるか、難しい問題だ。橋下知事(当時)はその議論を停止させようとした。全国でも例をみない「君が代」条例を制定し、教師が「君が代」を歌うのは当然、これは人権の問題ではなく服務規律の問題だと言い放った。教師には人権はないと言わんばかり。だが、人権のない教師では生徒に人権を教えることはできない。仮に服務の問題だとして、教師は、それが新たな差別や人権侵害を生むことであったとしても従わなければならないのだろうか。歌によって、この国に住む者をみんなニッポン人として束ね、生徒に「君が代」を歌えよと自ら模範を示さなければならないのだろうか。退職する3年前のこと、両親と一緒に中国から来日し日本人名で通っていた一人の生徒は、「俺は歌えへんで」と言って卒業式を欠席した。理由は体調不良。彼は何を思っただろうか。
  
条例で議論や思考に終止符を打った先にどんな教育があると言うのだ。「ニッポン人やったら大きな声で歌え」教師が生徒を一斉に指導する時代はすぐそこまで来ている。

私は自分が生まれ育った日本が好きだ。しかし、それは必ずしも国家に無条件に従うということではない。日本が好きだからこそ国家を批判することもある。教師なら「君が代」は歌うべきだと言う人もいる。しかし私は教師だから歌えない。「先生は生徒に嘘ついたらあかんのですわ」-ある先輩教師の言葉。私はこれまで生徒に語って来たことを嘘にするわけにはいかない。そう思うと私は立てなかった。私は今、日本という国が一人ひとりを大切にする国であってほしいと心から思う。

憲法で保障されている思想・良心の自由とは何?

2016-04-14 20:25:15 | 当該より
昨日(4月13日)の戒告処分取消訴訟弁論にて、証拠のひとつとして出した拙文です。お読みいただければれば嬉しいです。


憲法で保障されている「思想」「良心」の自由とは?
                 ―私自身の「思想」と「良心」に即して―

 志 水 博 子

1.「思想」「良心」の自由って何?
 1952年生まれの私は、日本国憲法のもと平和と民主主義を学ぶなかで育ちました。小学校で初めて憲法について学んだとき、とても誇らしげな気持ちになったことを今でも覚えています。学校すなわち教育の場で「君が代」斉唱が強制されてよいものかどうか、様々な側面から考えることができますが、私は、これは憲法上の問題だと思っています。
憲法19条は、「思想及び良心の自由はこれを侵してはならない。」と規定しています。では、いったい「思想」の自由とは何か?「良心」の自由とは何か?それは誰が有しているものなのか?また、「侵してはならない」とありますが、誰に対して禁じているのか?そして、憲法19条で保障されている「思想」・「良心」の自由と「君が代」強制とはどのようなかかわりがあるのか?自らの体験を踏まえて考えてみたいと思います。なぜなら、「思想」・「良心」の自由とは多数が決めるのものではなく、極めて個別的なものであると考えるからです。

2.「君が代」強制条例と処分条例
2011年6月3日大阪府議会は、大阪府の教職員が入学式や卒業式等で国歌斉唱時起立し斉唱することを義務付ける条例、すなわち「大阪府の施設における国旗の掲揚及び教職員による国歌の斉唱に関する条例」(以下、「君が代」強制条例)を可決し、大阪府は6月13日に施行しました。
そして、翌年4月1日には、不起立3度で免職とする、いわば「君が代」不起立免職処分条例とも言える「大阪府職員基本条例」(以下、「君が代」処分条例)を含む「大阪府教育行政基本条例」「大阪府立学校条例」「職員基本条例の施行に伴う関係条例の整備に関する条例」、いわゆる教育4条例を施行しました。

3.「思想」とは、背骨のようなもの
私は、自らが勤める府立高校において卒業式や入学式「式次第」で「君が代」斉唱が実施されて以来、斉唱時には常に着席して来ました。学校は多様な考え方を尊重する場でなければならないはずです。また、異なる考え方を尊重する場でなければなりません。オリンピックやワールドカップとは違い、教育の場で国家のシンボルである国歌を儀式で斉唱することは、事実上生徒に強制することになります。
国歌斉唱によって帰属意識や集団意識を高めることは、一見、国を愛する心の涵養のように見えますが、集団同調的圧力に強い日本では排外的なものにもなりやすく、また自らが生まれ育った郷土を愛するがゆえの国家への批判をも封じることになるのでなると思ったからです。このことは、長年の間に培われた私の「思想」と関係しています。思想とは、いわば背骨のようなものではないでしょうか。また、教員という仕事をするなかで、最低限、これだけはしてはならないと戒める「良心」とも関係しています。私にとって、「君が代」斉唱時に立たない(立てないと言った方が正確かもしれません)という行為はそれまでの私の教員としての経験から考えれば不可避の行動でした。
 よって、たとえ条例で義務付けられようが、校長から職務命令が発出されようが、それらにしたがうことはできませんでした。おおげさに聞こえるかもわかりませんが、なぜなら、それは私にとってこれまで生きてきたこと、そしてこれから生きていくうえでも必要な、つまり背骨のようなものと関係していることだったからです。私にとって学校で強制される「君が代」の問題を避けて通ることはできませんでした。それは畢竟、私の「思想」の問題であり、私の「良心」の問題であったということができます。

4.良心の自由とは?
「思想」が背骨のようなものなら、では、「良心」とはいかなるものでしょうか。憲法19条が保障するところの「良心」の自由とはいったいどのようなものでしょうか。それは、多数者によって決められる、ある種の規範なのでしょうか。しかし、それなら、憲法によってわざわざ、その自由が規定されることはないはずです。「良心」とは、一般的・客観的に判断されるものではなく、極めて個別的なものであるはずです。だからこそ、為政者に対して、その自由を侵すことを憲法は禁じているのではないでしょうか。

『広辞苑(第六版)』によると、「思想」「良心」はそれぞれこうあります、
「思想」①考えたこと。かんがえ。「誤った―」
     ②〔哲〕ア判断以前の単なる直観の立場に止まらず、このような直観的内容に論理的反省を加えてでき上がった思惟の結果。思考内容。特に、体系的にまとまったものをいう。「新しい―」
         イ社会・人生に対する全体的な思考の体系。社会的・政治的な性格をもつ場合が多い。北村透谷、厭世詩家と女性「安んぞ知らむ、恋愛は―を高潔ならしむる嬭母なるを」
「良心」 何が善であり悪であるかを知らせ、善を命じ悪をしりぞける個人の道徳意識。「―がとがめる」
 思想が「体系的にまとまったもの」、「社会的・政治的な性格」と表現されているのに比して、良心は「個人の道徳意識」とあります。

では、その良心、すなわち個人の道徳意識の「自由」を憲法で保障するとはどのようなことなのでしょうか?そこには、まずその前提として、個人の道徳意識が時代や社会のなかで侵害された歴史があり、今後も侵害される恐れがあるという認識があります。そして、個人の道徳意識とは時代や社会で多数者によって、まして為政者によって決定されるものではないという認識があります。それはあくまで「個人」のものなのです。「良心の自由」とは、たとえ社会や世間すなわち多数者と対立する道徳意識であっても、個人の尊厳に基づきそれを有することはあり得るということではないでしょうか。つまり、良心とは、多数者の価値観によって判断されるものではなく、むしろ多数によって形成される主流的な秩序、すなわち多数者価値とは相容れない、もしくは対立する少数者の抱く道徳意識であり、その権利擁護こそが憲法19条の趣旨ではないでしょうか。私たちは、良心とは、すべての人間が普遍的に抱く道徳意識だと錯覚しがちです。しかし、もし良心がそのようなものであるなら、なんら法的にその自由を保障する必要などないはずです。多数者価値観によって少数者が迫害もしくは排除されないためにこそ、憲法19条は存立すると考えます。

5.私自身の思想と良心
「君が代」―それ自体の問題性はひとまず置くとして、ここでは、「君が代」が強制されること、すなわち、「君が代」強制条例と、それを踏まえて発出された通達ならびに職務命令が、私自身の「思想」と「良心」を侵害するものであることを明らかにしたいと考えます。
そこで、まず問題となるのは、そもそも私の「思想」とは何か?「良心」とは何か?と言うことになります。先に記しましたように、それは、私のこれまでの60年余年の生きて来た過程、特に38年間の教員生活を通して私のなかに「培われ」「蓄積されたもの」であり、一個人として、また特に教員として有するに至った善悪の判断基準です。それらは、普遍的あるいは社会的に確立した善悪の認識と言うようなものではなく、それらを前提としながら、より血肉化されたものであり、仮に、それを葬り去るならば職業人としても人としても精神的死に至るもの―そのようなものと考えます。そのことをご理解いただくためには、教員としてどのような体験をしたか記す必要があります。なぜなら、それらの体験によって、私の「思想」と「良心」は私のなかに構築されたものだからです。

6.―教員として―
(1)南寝屋川高校において
 ① 解放教育に触れて
1975年4月、最初の勤務校として私は大阪府立南寝屋川高校に赴任しましました。当時、同校は同和教育推進校の指定を受け、差別の問題や、在日朝鮮人の問題に取り組んでいる高校でした。世の中にある差別や偏見と真っ向から向き合う同校の教育理念は、自分が受けて来た公教育の中では実感できなかったものでした。私が受けた教育―小学校時代は越境入学が「ふつう」であり、また中学おいては、当時「府験(フケン)」「市験(シケン)」と呼ばれる統一テストの成績が広く保護者や生徒にとってある種の判断(価値)基準であり、そこには厳然たる学校差別がありました。また中学における進路指導は、成績による輪切り指導が「ふつう」でした。おかしいと感じることが多々ありましたが、どうすることもできませんでした。ところが、南寝屋川高校では、世の中にあるおかしなことに対してそこからの解放を求める教育理念がありました。私は初めて教育の可能性に触れた思いでした。
差別について「自分は差別をしない」という意識の問題で終わっていましたが、実は、それこそが自らの差別観を内包し隠匿するものであったことも、同校の(人権)教育を通して気づくことができたように思います。また、差別とは、「する・しない」という個人の心情的な問題ではなく、社会に構造的に存在する差別に対し自分はどう関わるかという問題であることも(人権)教育を通して教えられました。

② 就職差別事件
赴任後4年目にして同校6期生を私は初めて担任として持ち上がることになりましました。そして(人権)教育推進委員としても積極的に人権教育にかかわっていきました。そこにある種の教育の可能性を見たからです。差別解放研究会や朝鮮文化研究会の生徒から聞く話は、私にとってこれまでの人生で初めて触れる話ばかりでした。たとえば、ある被差別に住む生徒の、「差別があかんとか、するなと言うだけでなく、先生らは、○○に住むおっちゃんやおばちゃんらが、どうやって差別と闘って来たか、そういう話をみんなにして欲しい」と言う言葉に、教師である私自身がまず差別と闘って来た歴史を知らなければならないと思いました。ある在日の生徒が言った「他の日本人の子らは、何やっていいかわからんみたいやけど、私は自分の問題として在日朝鮮人差別と闘っていくということがはっきりしている。」との言葉に、闘うことの勇気のようなものを感じました。実際に差別がありそれに抗していくことが大事だと教えてくれたのは、彼や彼女ら、差別されている現状に向かい合って来た、そして、向かい合おうとしていた教え子たちであったように思います。
しかし、その一方で、「もし、私が被差別出身だということがクラスで知られたら自分は生きていくことはできへん。自殺する。」という生徒もおり、差別が人の心をそこまで苦しめることも知りました。
1980年、私は、あの時教師という仕事がどういうものなのか知ったのかもしれないと、今振り返って思う事件が起こりました。それは、私が初めて担任した3年生のクラスで起こった就職差別事件です。まず、事実経過について書きます。
以下、事実経過―
その生徒をかりにAとする。Aは、通名(日本名)を使い、高校に入学するまでは自分が韓国籍であることは知らなかったが、朝鮮文化研究部や朝鮮奨学会の活動を通して、「本名で同胞のために働きたい」と考えるようになる。就職第一次試験で、彼女は本名で応募書類を、甲社(仮称)に提出した。私は担任として就職担当者と共に、甲社を訪れ、Aが本名で就職したいと考えている意向を伝え、差別選考がないようお願いをした。その時、企業側人事担当者が言ったこと―「私どもはなんら差支えないが、(本名となると)ご本人さんが、(周囲との軋轢の中で)辛い思いをなさるんじゃないでしょうかね。」―結果は不合格、理由は「総合判断で点数が足りなかった」とはっきりしないものだった。生徒も私も差別を疑ったが、それを立証する手立ては何もなかった。やむなく二次試験としてAは乙社(仮称)を受けることとなった。ところが結果はまたしても不合格。しかも、乙社が就職面談の際に、近畿統一応募用紙の趣旨に違反する質問があったことが判明し、学校は大阪府教育委員会ならびに大阪府労働部と連携し、就職差別違反選考の撤回に取り組んだ。
当時、今でもそうだろうが、府立高校では、3年生1学期のHRで「近畿統一応募用紙」がどのような経過を経て生まれたかを学び、就職差別の問題を学ぶことが常であった。もちろん、私も初めての3年担任としてHRでこの問題を取り上げ、たとえ自分がされなくとも就職差別を許さないことが大事であると生徒に話をしていた。
Aが受験した企業は、一旦はそのこと、つまり違反質問を行ったことを認め謝罪したものの、後には居直り差別選考の結果を翻すことはなかった。「私は本名で同胞のために働きたい」と語っていたAは、この差別選考の結果に精神的にすっかり参ってしまっていた。同校では、管理職をはじめ進路指導部、同和教育推進委員会が、大阪府教育委員会や大阪府労働部と折衝を積み重ね、何とか、企業側に「差別選考」を認めさせ「合格」をかち取ろうとしたが、企業側は頑として認めず、結局差別選考を撤回させることはできなかった。Aは、埼玉の親せきをたより大阪を離れていった。私は、卒業式を終えた後の3月に埼玉の親せき宅にAを訪れたが、Aは差別の現実にすっかり委縮してしまっているように見えた。
―以上事実経過

この時、私は差別とはどのようなものであるか初めて体験しました。社会にあまりにも根強く残る差別と、その壁に阻まれ理想や夢を捨てざるを得なかったに生徒を前にして、私は教員という仕事の持つ意味と、また、自分の教員としての無力さを痛感することとなりました。
その後も、私は、同校で何人もの在日朝鮮・韓国人の生徒、被差別の生徒、家庭的、経済的に被差別の状況におかれている生徒と接して来ました。そのたびに、構造的に差別が温存されている社会を変革しなければならないと思う一方で、一教員としての自分の無力さに対する痛恨の思いはいつまでも消え去ることはなく、いや、むしろ深く沈殿し、教育という仕事の持つ重圧感に押し潰されそうになったこともありました。

③大喪の礼
1988年4月、私は同校14期生の入学を3度目の担任として迎え入れました。そのなかには、中学生のころ、それまで名乗っていた通名すなわち日本人名から朝鮮人の「本名」を名乗り始めたOがいました。そのときの私の正直な気持ちは、彼女と向かい合いたいと言う気持ちと、教師として『在日』の生徒に私がどのように向かい合うことができるのだろうかと不安も大きかったのです。しかし、OやOの母親の話を通して、日本社会にある朝鮮人に対する差別が構造的にも、また心情的にもあることを改めて感じ、それに向き合わなければならないと思うことができたように思います。1988年秋、ソウルオリンピックが開催され、テレビ等を通じて、隣国である韓国はそれまでに比して非常に身近になっていましたが、OやOの両親は「朝鮮」籍(それは国籍としてではなく、記号として扱われているのですが)を変えずにいました。朝鮮半島が分断されている現実は、そのまま日本社会の問題であり、それを解決していくのは日本人の責任です。
1989年1月、昭和天皇の死去に際して、学校で「日の丸」が半旗として掲揚されることになりました。もちろん、職員会議では多くの反対の声が起こりました。これまで教員として接して来た何人もの、いまだ本名を名乗ることさえ叶わない在日朝鮮人(韓国籍・朝鮮籍の総称として用いています)の生徒を思えば、戦争を象徴するものとして、また日本国家を象徴するものとして天皇の死を悼む「日の丸」半旗掲揚は到底受け入れられるものではありません。しかし、当時の校長はそれらの反対を押し切り「日の丸」掲揚を断行しました。府立高校教員となって、その時、私は初めて校門に掲げられた「日の丸」を見ました。取り返しのつかないことをしてしまったと言う思いがありました。いくら反対したと言っても私は「日の丸」を掲げる側に立つことになったのです。それが私には遣りきれませんでした。私にできることは、「日の丸」掲揚に対する異議申立てとして始業式に出ないことぐらいでした。学校で「日の丸」「君が代」が強制されるたびに、私たち教員はそれへの精一杯の抵抗の形を作っていったのです。後の「不起立」も同じことでした。当時私だけでなく担任であった教員の何名かは同じように始業式には参列しませんでした。いかに文科省からの指導があろうが、儀礼上のことであろうが、同和教育を通して差別の現実を知り、平和教育のなかで戦争の歴史を生徒に教え、ともに学んで来た立場から、教員として、再び天皇賛美の行為につながる、学校における「日の丸」の掲揚は認めるわけにいかなかったのです。始業式参列を拒否し生徒にその問題性を伝えることが私にできる精いっぱいの行動でした。

④ 89年学習指導要領
昭和天皇の死からほぼ1か月後、1989年2月10日文部省(当時)は新学習指導要領案を公表しました。1947年から数えて大きな改訂としては5回目になるこの案は、道徳の徹底や小学校6年の歴史学習で「教えるべき歴史上の人物」として日露戦での「英雄」東郷平八郎が推され、また、「伝統」が強調されるなど、国際化をたてまえとしながらも、日本人化教育いわば「愛国」教育強化の内容になっていました。そして、学校での「日の丸」「君が代」の扱いが、それまでのゆるやかな「強制」から、事実上の義務付けに転じたこともいわばその一環であり、象徴とも言えます。これまでは、「祝日儀式など」と、ぼかし、「国旗を掲揚し、国歌を斉唱させることが望ましい」という文言であったものを、案では「入学式や卒業式においては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする」とし、この案はそのままの内容で3月5日文部省から告示されることとなりました。以後、全国的に、そして大阪でも、学校への「日の丸」「君が代」の強制が一段と強まっていきました。振り返って思うに、学校への「日の丸」「君が代」の強制は、市民にとっては自身の学校時代のその時(だけ)のものでしかなく、それほどの印象も持たれないかもしれませんが、私たち教員は、学校という場で、次第に「日の丸」「君が代」の強制が進む有様を30年近くずっと見続けて来たわけです。「君が代」強制問題に関する学校の教員と市民との温度差は、そのことと関連しているように思います。そしてもう一点あげるならば、教員は、教育の担い手であるだけに、「する」側の責任の自覚がありました。

⑤ 大喪の礼
1989年2月24日、大喪の礼当日、府立高校はすべて休校となりました。しかし、同校では多くの教職員が大喪の礼という天皇制賛美につながる行事を問題視し、自主的に天皇制について学習会をもちました。私は.組合には入っていませんでしたし、差別問題で学ぶ以外は、それまで象徴天皇制に対し特に疑問を持つことはありませんでした。ただ、昭和天皇死去の前後の奇妙な自粛ムードにはとても無気味はものを感じました。それまで特に意識したことのない「天皇制」が私たちの生活のなかに厳然としてあり、それが私たちの生活のある種の決定権を持っている、天皇制ってこういうことだったのか―そんな気分でした。いわゆる「天皇制」なるものに危険を感じたのはこの時が初めてでした。それは、右へならへの意識とともに、日本人をある種の思考停止状態に陥れるもの、およそ民主主義とは相容れないもの、意識する意識しないにかかわらず人々をひとつの流れに連れていくもの、うまく言えませんが、戦後の日本国憲法下の天皇制を実感するに至った体験でした。

(2)東寝屋川高校において
① 奨学金係り
1989年4月、私は2校目の勤務校である東寝屋川高校に転任しました。ここで、私は初めて生活指導部奨学金係りの仕事をしました。その奨学金係りの仕事を通して一人の在日朝鮮人生徒と出会いました。その生徒とは、本名で学校生活を送り朝鮮奨学会へ申込みを行った2年生のKでした。Kは学校生活を送るなかで出くわした「在日」としての体験を私に話してくれました。これは、日本社会で日本人として生まれ日本人として生活する私も含めた多くの人間にはなかなかわからないことでした。思うに、教員とはこういった出会いのなかから多くのことを知っていくのだと思います。私は前任校南寝屋川高校朝鮮文化研究部の生徒Oを紹介するなど、何とかKがKとして生きていくために彼女のアイデンティティを尊重することができる道がないかと模索しました。
一方、「日の丸」「君が代」の強制は、この時期、またその度合いを一段と強めることとなりました。いったい誰が?―文部省?政治家?ただ、ひとつ言えるとすれば、この日本社会では、おそらく戦後ずっと国家を優先して考える勢力と、国家以前に国民つまり個々人を中心に考える勢力とがいつも拮抗しながら時代を築いて来たのではなかったか、ということです。そして前者の勢力が、「教育」と「情報」を掌握し利用し、国家なるものの存在を印象づけ高めようとするのは、おそらく歴史的にみても常套手段なのではないでしょうか。私、いや私たち教員は、過去の歴史から考えても、国家のための教育には手を貸せない、貸すわけにはいかないという大きな抵抗感がありました。

② 強まる強制
1989年度の卒業式を巡って、校長からは、新学習指導要領にそって「『日の丸』を掲揚し、『君が代』を斉唱したいと提案がありました。そのため数日にわたる職員会議が続き、多くの教員がそれぞれの「日の丸」「君が代」に対する思い、また学習指導要領に則り公教育に「日の丸」「君が代」を取り入れること、すなわち「愛国心」教育は、果たして問題はないのか、戦前の軍国主義教育が復活することになるのではないか、戦後民主主義教育とは何であったのか等々発言し、侃々諤々の議論が行われました。あれほど「日の丸」「君が代」について真剣な議論が行われたことは後にも先にもありませんでした。ほぼ、全員に近い教員が発言しました。しかし、最終的には、校長との妥協案として「日の丸」は生徒や保護者の見えないところで掲揚し、「君が代」は、開式前の誰もいない会場でテープが流すこととなりました。以降、毎年のように職員会議では、卒業式前には「日の丸」「君が代」を巡って、断行しようとする校長と反対する教職員の間で議論があり、平行線のままその妥協案を模索することが恒常化していきました。

③ 13期生入学式
1990年4月、私は、同校13期生の担任となりました。恒例のように卒業式前の職員会議では、「日の丸」「君が代」の実施を巡って議論がありました。ただ、これは学校の教職員以外には見えない議論でした。私たち教職員は毎年のように「日の丸」「君が代」を学校で取り行うことの是非について話し合い、実施すべきではないとの思いを強くしていきましたが、それを保護者や生徒と共有する場はほとんどありませんでした。それは教育の担い手として教職員側の責任の問題だったのです。この年も職員会議においては、学校で「日の丸」「君が代」を執り行うべきではないとの意見が圧倒的多数であり、管理職と対立することとなりました。職員会議では、反対決議が挙げられ、入学式においては、同校教員のうち一人が、正門前に掲揚されていた「日の丸」を一時おろす行為までありました。当時は、その教員が処分されるようなことはありませんでした。しかし、徐々に徐々に、教職員と市民との間で、この問題に対する意識の隔たりは大きくなっていきました。それは今振り返ってわかることなのですが…。

④ サムルノリ
さて、Kは2年生となり、周囲の無理解な発言を私に訴えることがよくありました。私は、文化祭で朝鮮文化にかかわる取組をしてはどうかと提案しました。Kは自分のアイデンティティを巡って、それを自らのなかにどのように作り、そしてそれを通して他者とどのようにかかわっていくかが見えず迷っているように見えました。Kはいろんな意味で力を持った生徒でした。この提案を実現していく上ではいくつものハードルがありましたが、彼女は有志を集め、朝鮮民族音楽である「サムルノリ」演奏を企画することになりました。私はその顧問となり、10月のある日、他の在日朝鮮人生徒や日本人生徒と共にサムルノリ発表会を行いました。後日、それを冊子としてまとめましたが、この取組を通して私も色々と考えさせられました。日本社会が圧倒的多数の日本人で構成されている実態において、少数者である在日外国人、特に在日韓国・朝鮮人の姿はなかなか見えて来ません。外観は日本人とそう変わらず、しかも、戦争の歴史のなかで日本人名を名乗ることを余儀なくされ、戦後も占領政策やその時々の日本政府の政策に翻弄されながら、いまだに本名を名乗る環境も整っていません。一教員として、私は改めて公教育のなかで朝鮮人生徒の人権を保障していくにはどうしたらよいだろうかと考えることになりました。
1992年4月私が担任する3年のクラスには在日朝鮮人生徒4人がいました。4人はそれぞれ日本社会で少数者として生きる課題を抱えており、本名ではなく「通名」すなわち日本名で生活していました。彼・彼女らが提起する問題は、すぐさま解決できるような問題ではありませんでしたが、私は、この4人と接するなかで、日本人でありかつ府立高校教員である自分の責任を自覚していったように思います。人であることの責任と教員であることの責任が、「日の丸」「君が代」問題における私のかかわり方を明確にしていきました。そういった積み重ね、蓄積のもとに、「不起立」はあるように思います。

⑤ 妥協案
さて、卒業式や入学式では、教職員と校長との話し合いのなかで一種の妥協案として「生徒の見えないところ」での「日の丸」掲揚。「生徒が入場する以前」の会場で「君が代」演奏のテープを流す形が続いていました。生徒や保護者の知らないところでです。年を追うごとに、卒業式前になると例年のように繰り返される、管理職からの「学習指導要領に基づいて国旗国歌を執り行う」と、「学校で『日の丸』『君が代』を執り行うことは過去の歴史から見て受け入れられない」という教職員の意見は平行線のままかみ合うことはなく、次第にそういった議論に疲れ果てる教員も増えて来ました。しかし、卒業式前には、十名を超える教職員で何度も何度も繰り返し校長を説得しました。これも繰り返しになりますが、生徒や保護者の知らないところでの話です。私たちは、過去の歴史を繰り返さないことは教員の役目だと考えていたのです。

⑥ 18期生を迎えて
1995年4月、私は18期生1年を担任として迎え入れました。新校長に赴任したH校長に対して、1年学年団を中心とした教員は粘り強く「君が代」斉唱は止めてほしいと説得を続けました。結果、校長は18期生新入生の中に車椅子を利用している障がいのある生徒がいたこともあり、力づくで「君が代」斉唱を強制しないという立場に立ちました。これは東寝屋川高校だけのことではなく、府立高校の多くの教職員は、年度末の卒業式から年度当初の入学式にかけて「日の丸」「君が代」を巡って何度も何度も管理職との間での話し合いをもったのです。そして、妥協案ともいうべき形で、だれもいない場所で「日の丸」を掲揚し、卒業生や入学生が入場する前のだれもいない式場で「君が代」のテープが流されていたのです。欺瞞的な遣り方には違いないし、ある見方をすれば滑稽にさえ思われるかもしれませんが、それでも私たちは、生徒の目に触れないということで「日の丸」「君が代」が公教育のなかで再び利用されるのをぎりぎりのところで阻止できたという気持ちがありました。今考えて見ると、そういうやり方が果たしてよかったのか、結果的に、生徒自身がこの問題を考える機会を奪うことになってしまったのではないか、と悔いを感じることもあります。

⑦ 人権教育
私は、同校で18期担任団人権教育係りとして、1年生入学当初に起こった「いじめ」事件をきっかけに「いじめと人権問題」に取り組みました。そして、人権学習講演会には朴一さんを迎え民族差別の問題に取り組み、また教員向け人権研修としては、寝屋川市に住むKさんを迎え、「この寝屋川で在日朝鮮人のオモニとして生活する中から見えて来たもの」というタイトルで語っていただきました。それらの取り組みの一方で、18期生に在籍する3名の在日朝鮮人との対話も持ち続けていました。が、うち一人は「帰化」を考えているなど、日本社会で在日朝鮮人として生きていく困難性を、ますます私は認識することになりました。
1998年度、私は担任を離れ、人権教育推進委員会の主担となりました。職員会議では校長から学習指導要領に則って入学式や卒業式において「日の丸」「君が代」を実施したい、つまり檀上に「日の丸」を掲揚し、式次第に「君が代」斉唱を入れたいとの提案がなされ、それに対し教職員は全員一致で反対しました。私は、これまで以上に人権教育の立場から、積極的に校長交渉等にも参加し、「日の丸」「君が代」実施の問題性を指摘しました。

⑧ 国旗国歌法
1999年2月、「日の丸」「君が代」の実施を巡って広島でひとりの校長が自死しました。それを契機に政府は1999年夏、国旗国歌法を制定したのです。唖然とする思いがありました。先にも記しましたが、学校における「日の丸」「君が代」の実施については、それこそ戦後すぐから、押し進めようとする勢力と学校への持ち込みには反対する、ふたつの勢力がたえず争いを展開していたのです。それは、よく日教組vs文部省と言われますが、国家への帰属意識を持たせたいと考える政治・行政勢力と組合員であるかどうかに関係なく実際に生徒と向き合っている教員との対立であったように思います。国旗国歌法制定というひとつの山場で、その時、私が勤める東寝屋川高校で具体にどのようなことが起こったか、記したいと思います。

⑨ 22期生を迎えて
 同年4月、私は22期生の担任となりました。新たに赴任したK校長は入学式式次第において「君が代」斉唱を行うと宣言しました。この年の卒業式まで同校では、式場で開式前に「君が代」のテープを流す方法が取られていました。先に記したように、府教委の指示を受けた管理職の、とにかく「君が代」を流す形を作りたいという意向と、最低限生徒にだけは聞かせたくないとする教職員の意向の妥協点がその形だったのです。何度も話し合いを持ちましたが、それでもK校長は実施したいという意向を翻すことはありませんでした。私たち1年学年団は、教員にできる最低限のこととして入学式直前に新入生にプリントを配布し、その事実を伝えるとともに、入学式の主役として、新入生の一人ひとりに日本国憲法19条思想・良心の自由が保障されていること、21条では表現の自由が保障されていることを担任から伝えました。結果、入学式では多くの新入生が「君が代」斉唱時に式場から退出し、また私を含む多くの教員も退出しました。上意下達により、「君が代」を式次第に入れ有無を言わさず起立し歌わそうとするやり方は人権教育の観点のみならず公教育の条理に照らし合わせても納得できないものだったわけです。私は、担任クラスでプリントを配り、新入生にことの経緯を話し、『憲法』や『子どもの権利条約』の話をしましました。そして、このような事態になったからには、一人ひとり、自分の問題として判断してほしいと話しましました。その時、真ん中あたりに座っていた一人の生徒が隣の席の生徒に『そんなん、どうするか学校で決めておいてほしいやんなぁ』と、そういうことを話す声が聞こえて来ましました。私は、それが入学生にとっては正直な思いだろうと聞きながら、これはだれかに決めてもらってそれに従うという問題ではないので、自分でどうすればいいか迷う気持ちも当然あると思うが、でも、一人ひとり自分で決めて欲しいし、決めなければならないことだというようなことを話しました。
入学式が終わって、生徒や保護者のなかには、今後の高校生活に不安を抱かれる方もいるのではないかと思い、人権教育の係り、学年通信の係りとして、校長や学年団の教員らと相談の上、校長からのメッセージとともに、次のような記事を掲載しました。長くなりますが、全文を引用します。
「 東寝屋川高校では、開校以来、今春の入学式まで新入生を前に「君が代」が流れたことはありませんでした。今春の入学式を前に、学校長から入学式において開式に先立ち『君が代』を入学生に聞かせたいとの要請があり学校長ともども教職員一同この件について限られた時間の中で論議を続けて来ました。これまでの本校の教育活動の経過を振り返り、そして、また、「日の丸・君が代」について入学生・保護者の方々がそれぞれのご意見をお持ちであろう事を考えあわせ、本校の教育活動のスタートの場である入学式において、主役である新入生一人一人のアイデンティティを尊重するにはどのような形で入学式を執り行うのがよいのか、どうすればよいのか、入学式直前まで議論を続けました。何よりも、入学式が混乱するようなことは何としても避けたいというのが、学校長を初め、私たち一年学年団、そして全教職員の一致した意見でした。
入学式当日、「君が代」を流すに先立って、メロディ-だけでも新入生に聞かせたい、しかし、どうしても聞くことができないという人については配慮したいとの学校長の意向を受け、一年学年団として、式場入場の前に今起こっている事態を新入生に説明をし、そして、式場において校長より前述の説明がなされた折り、新入生が意見表明(退席するか、その場に残るかの判断)をしやすいように、学年団の教師から生徒に対し「このような形で『君が代』を聞きたくないとう思う人は、退席できます」と声をかけるようにした次第です。
思いがけない突然の事態にとまどった生徒も多かったと思います。保護者の方からも、いくつかの忌憚なきご意見をいただいております。私たち一年学年団は、この「入学式」が巻き起こした波紋を忘れることなく、今後の日々の教育活動を通して「生きる力」―さまざまな意見に耳を傾け、論議をし、考える中で、自らの意見を表明することのできる力の育成を目指していきたいと考えております。どうかこれからも子どもたちの教育を巡っての連携についてご尽力のほどよろしくお願いします。」

校長の強引とも言える「君が代」実施の後、「日の丸」「君が代」問題はあからさまになり、皮肉にも、保護者や生徒を含めて真剣な議論を交わすことになったのです。
そして、4月の人権教育において、生徒たちに入学式についての意見・感想を書いてもらいました。入学式における「日の丸」「君が代」について、多くの生徒たちが意見を書いてくれました。それは今も残していますが、この時、確認できたことは、生徒たちの間に実さまざまな意見がある以上、それぞれ異なる意見を尊重する必要性でした。これは、私自身の、これまでの「日の丸」「君が代」問題に取り組む教員としての責任の内実が変わったということでした。つまり、生徒の目に触れさせない教員側としての責任から、生徒らの間にある多様な意見を尊重する、とりわけ少数者の意見を尊重する教員としての責任を大きく意識することになったのです。

⑩ 天皇在位10周年
国旗国歌法が成立したは、その年1999年の8月のことでした。
そして、同じくその年1999年秋「天皇陛下御在位十年記念式典」の挙行に際して、K校長は国旗掲揚を提案しました。学校における「日の丸」「君が代」の強制がまた一歩進んだわけです。私は、これまでに行って来た人権教育の観点から考えれば、天皇の在位に事実上祝意を強制する行為を教育の場ですべきではないと考え、他の教員とともに強く反対しました。また、20期生3年生有志もこの問題について校長に話し合いを求めました。しかし、K校長はどうしても譲らず11月12日「日の丸」掲揚を行いました。私たち東寝屋川高校教職員は、一同の総意として、前日の11日には、生徒・保護者宛てに教育の場での「祝意の強制」「掲揚の強制」は憲法上すべきではないという趣旨のプリントを配布しました。
そのように学校で強制の度合いを強める「日の丸」「君が代」の実態を明らかにすることが、私たち教職員にできる精一杯のことだったのです。

⑪ 20期卒業式―うちらのめでたい卒業式には血で汚れた「日の丸」や「君が代」はいらん!
2000年3月東寝屋川高校20期卒業式はとりわけ忘れられません。私は生徒たちから教えられました。東寝屋川高校では、毎年、卒業生が卒業式委員会を結成し、自分たちの卒業式に取り組むことが伝統でありました。20期生は「日の丸」「君が代」問題に取り組みました。まず、卒業式委員は、その実施の是非についてみんなの意見を集約し校長との話し合いにまで持ちました。そして、学習指導要領を根拠にあくまで実施するという校長に対し、「うちらのめでたい卒業式に血で汚れた「日の丸」も「君が代」もいらない」と、全校生から署名を集め、1、2年生のクラスにおいてもアピールを行いました。私は、このとき中心となった女子生徒から次のような話を聞いました。「私は小学校時代に教わった平和教育や同和教育を通して、学校に「日の丸」や「君が代」はいらないと思っていた。ところが、東寝屋川高校に入学したとき、誰もいないところにしても『君が代』が流され、誰も見ていないにしても屋上に『日の丸』が掲げられていることを知った。このことは、私はずっとおかしいと思っていた。」と。私はこの言葉を聞き、さらに公教育の場で「日の丸」「君が代」を執り行ってはいけないとの思いを強くしました。そして、そのことを、生徒と共に考えていかなければならないとも思いました。私が担任した22期生も、先輩らが卒業式を自ら作り出す過程を見て、自分たちの卒業式は自分たちの手で作っていきたいと話していました。しかし、私は22期生1年担任を終えた後、四條畷高校に転任することになりました。
東寝屋川高校についてもうひとつ述べておきたいことがあります。同校は2009年度の卒業式において、大阪で初めて卒業式における「君が代」斉唱時不起立を理由に4名の教員が戒告処分を下された学校です。私はそのことを知ったときに、東寝屋川高校において生徒と教員がともに声をあげ作り出して来た伝統というようなものを感じました。

(3)四條畷高校において

大阪弁護士会人権救済
 
私は、2000年4月に、三つ目の勤務校として四條畷高校に転勤しました。そこでは、「日の丸」「君が代」の強制はさらに一段と進んでいました。百周年記念行事、そして57期生の卒業式における「日の丸」「君が代」問題で、思いもかけず私は、教職員の評価・育成システムを利用した人権侵害にさらされることになりました。教職員の評価・育成システムについては、多々問題があるとしても、私自身「君が代」問題についての教員の姿勢によって、これほどまでに露骨な低い評価を受けるとは思ってもいませんでした。多くの教職員や市民の支援を受け、私は自分が受けた人権侵害を公的機関に訴えることにしました。いったいどのようなことが起こったか、当時、大阪弁護士会に人権救済した申立書と勧告書を別紙として添付します。
2008年秋、弁護士会から大阪府教育委員会と四條畷高校校長に対して、私のC評価を撤回するよう勧告が出ました。この時の嬉しさは忘れられません。「君が代」問題にまつわる不当な評価が認められたたのですから。ところが、その実現を求めていた矢先、私は、突然、四條畷高校から枚方なぎさ高校に転勤を命じられたのです。

(4)枚方なぎさ高校
2009年4月、やりきれない思いを抱えながらどうすることもできず、私は枚方なぎさ高校に赴任しました。枚方なぎさ高校O校長は「先生のことはK四條畷高校校長より聞き経緯については知っている。」と。つまり、私が「君が代」強制に反対してきたこと、弁護士会に人権救済申立をし「勧告」が出たこと、そしてその実現を教育委員会に迫っていることも了解しているとの話でした。以後、校長とは立場の違いはあれ、何度か話し合いの場を持つこととなりました。
枚方なぎさ高校では、2009年度卒業式を前にして、O校長が3年担任を一人ずつ呼び出し「君が代」斉唱の際、起立するかどうかの意思確認をしていると3年担任より聞きました。これはこれまでにはなかったことでした。このことは、思想チェックに当たります。そのことをO校長に告げました。翌年、国語科の意向もあり担任を希望しましたが、O校長は頑として私の担任希望を認めませんでした。校長からは人権教育推進委員会の長をやってほしいと懇願され、私は残された教員生活を担任としてではなく人権教育にあたろうと考えました。
2010年4月1日、職員会議において、私はO校長に対して、3点を要望しました。1点目は、「東寝屋川高校卒業式において「起立・斉唱」の職務命令が発出され、「不起立」を理由に4名の教員が4名懲戒処分を受けた。このことについて、同じ府立高校校長として、府教委に抗議をしてほしい。」と。O校長の回答は「(自分が府教委に抗議)してもどうにもならない」とのことでした。2点目は「枚方なぎさ高校でも3年全担任を個別に一人ずつ呼び出し、『君が代』斉唱時に起立するかどうかの確認をされたと聞くが、これは思想のチェックになる。入学式に向けて1年担任団にはそのようなことはしないでほしい」と。校長はこれに対し「しない」と言明しました。3点目に、「職務命令は出すべきではない。出さないでほしい」と要望しました。校長は、「職務命令は出すつもりはない」とはっきりと答えました。府教委の指導の下、管理職の苦しい立場を理解しつつも、府立高校における「君が代」強制がこれ以上進むようなことがあってはならないと考えていました。

7.「日の丸」「君が代」強制の嵐
2008年2月橋下徹氏が大阪府知事として就任し、大阪府教育委員会は、2009年度「府立学校指示事項」における卒・入学式における「日の丸」「君が代」の実施について、これまでとは異なる姿勢を示しました。それは次のような文言の変化に表れています。
「入学式や卒業式においては、学習指導要領に基づき、国旗を掲揚し、国歌を斉唱するよう指導するとともに、『望ましい形』となるよう、その指導の徹底に努めること」(前年度までは「徹底」ではなく「充実でありました。」)。「教員は教育公務員としての責務を自覚し、国歌斉唱に当たっては起立し斉唱するとともに節度ある行動をとること。(前年度までは「起立」のみで「斉唱」はなかった。)。
2009年春、A高校では不起立者の調査が行われ、入学式前には1年担任団全員に、校長から個別に「起立するよう」指導がありました。また、B学校でも不起立者の調査が行われ、不起立者全員に「顛末書」の提出が求められ、提出に応じた全員27名が「厳重注意」処分とされました。大阪府教育委員会は、2009年3月18日、この時期としては異例の通知を府立学校長あてに出し、改めて、「教員には教育公務員としての責務を自覚させ、国歌斉唱に当たっては、起立し斉唱させる」ことを求めました。政治の力によるものでした。その後、私がかつて勤めた東寝屋川高校の卒業式で、担任団全員が不起立を理由に、当該の担任らが全員「顛末書」提出を求められました。また同じように近隣のN高校入学式においても担任団全員が不起立を理由に「顛末書」提出を求められました。そして、6月2日、大阪府教育委員会は退職者1名を除く両校の当該の教員15名に「厳重注意」処分をくだしました。「日の丸」「君が代」の強制はさらに進んでいったのです。2010年1月15日、大阪府教育委員会は、「平成21年度府立学校に対する指示事項」を「参考」に掲げ、教育振興室長名で府立学校長・准校長に「卒業式及び入学式の実施について」を通知しました。2010年、先に記しましたように、私がかつて勤めていた、そして長女も学んだ東寝屋川高校でN校長は府立高校・府立学校校長のなかでただ一人、同校教員に「君が代」起立斉唱の職務命令を発出しました。そして、学年主任を初めとする3年担任団4名の教員がそれには従わず、大阪府立高校において初めて「君が代」不起立により懲戒処分すなわち戒告処分がくだされたのです。
2011年、大阪に「君が代」強制条例が制定され、私たち大阪の教職員は、納得できないまま条例に従い「君が代」起立斉唱するのか、それともあくまで「不起立」という形で抗するか、岐路に立たされました。このまま黙って見過ごしていけば、やがては生徒たちまで、強制の手が及ぶことは明らかでした。それはおそらく強制ではなく指導という形で。それが学校というところであることは近代の学校に成立史を紐解けばわかることではないでしょうか。

8.私自身の「思想」と「良心」

 以上、私が教師として体験したことを長々と書いて来ましたが、それは、私の「思想」や「良心」は、それらを通して形成されて来たものだからです。「思想」はたんにイデオロギー的なものを指すのではなく、体験を通して個々人の核として存在するものだと考えます。条例で定められようが、命令されようが、「君が代」斉唱時には起立斉唱はできません。それは私がこれまでかかわって来たもの、そして私のなかに蓄積されたものすべてを否定することになるからです。特に教員として「君が代」強制の一翼を担うことは、憲法が保障するところの「思想」及び「良心」を自ら捨てさせられることに等しく到底受け入れられないことなのです。学校における「君が代」強制を抵抗することなくそのまま受け入れることは、教員としてのアイデンティティである「思想」及び「良心」に反する行為を自らが行うことによりそれらを無に帰する行為と言っても過言ではありません。そのような状況から心身を守るためにこそ憲法19条は存在すると考えます。