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教育基本条例下の辻谷処分を撤回させるネットワーク

憲法に反する「君が代」条例ならびに公教育の理念に反する大阪の新自由主義的教育諸条例の廃止を求めます。

申立人の「思想」「良心」に即して憲法19条を考える④

2014-09-26 11:45:07 | 憲法19条

2.「日の丸」「君が代」とわたし―教員以前―どのような時代を生きて来たか。

 申立人は、1952年9月24日大阪市阿倍野区に生まれた。両親は、戦後、旧満州国からの引揚者である。「日の丸」についての最も早い記憶は、「白地に赤く、日の丸染めて、ああ、美しい日本の旗は」という歌である。おそらく幼稚園で教わったもので、馴染みやすく歌いやすいメロディとともに、日本という「国」を意識した最初の経験だったかもしれない。
小学・中学時代、おもに、戦争の恐怖は空襲や原爆にあった。つまり、戦争が起こるとどんな酷い目にあうか、いわば戦争を被害者側からとらえるものであった。
申立人の父母は、ともに旧満州大連からの引揚者である。父は戦時の経験を何ひとつ語らなかった。しかし、母は戦時中の話をよく申立人に語った。戦争末期の最も皇民化教育の激しかった時代に教育を受けた申立人の母は、天皇が神であるという教えに何の疑いも抱かなかったという。徴兵された兄に対して「どうぞ、お国のために死んでください」と手紙に書いたこともあったという。母は申立人に、教育の恐ろしさを語った。「信じられないかもしれないが、当時の教育によって多くの人がそう思っていた。」と。日の丸・君が代、御真影、そして古典作品までもが皇民化教育に利用されていた。母は、「『太平記』そそらんじながら、忠君正成を心から偉いと思ったものだよ」と語ることもあった。

申立人の「思想」「良心」に即して憲法19条を考える③

2014-09-25 08:21:27 | 憲法19条
君が代強制条例は、言うまでもなく大阪府の教員一人残らず全員に「君が代」起立斉唱を義務づけている。そしてそれを踏まえて大阪府立学校全教職員に「起立し斉唱せよ」との通達が教育長から、そして職務命令が校長から発出された。「君が代」それ自身の問題性は別に述べるとして、ここでは、君が代強制条例、それを踏まえて発出された「君が代」起立斉唱の通達ならびに職務命令が、申立人の生きるにあたってのアイデンティティつまり背骨のようなものとして存在する「思想」、そして個人の「良心」を侵害するものであることについて述べる。

そこで、問題となるのは、そもそも申立人の主張するところ「思想」とは何か、「良心」とは何かと言うことになる。申立人の「君が代」不起立の行為は、申立人のこれまでの60年間の人生、特に38年間の教員生活を通して培われて来た「思想」の表出であり、人としてまた特に教員としての「良心」に基づくものである。この場合の「良心」とは道徳的なものと言うよりも、それをも内包しながらより血肉化された、いわばアイデンティティのようなもの、それを葬り去るならば職業人として人として死に至るものと捉えられる。そのことを明らかにするために、申立人が、これまでの人生において、また公教育の場で、「君が代」にどのように接し、また教員としてどのようにかかわってきたかを縷々申し述べる必要性があることをご理解いただきたい。

申立人の「思想」「良心」に即して憲法19条を考える②

2014-09-25 08:19:22 | 憲法19条
―申立人の「思想」「良心」に即して憲法19条を考える―

1.はじめに

2013年6月3日大阪府議会は、大阪府の教職員が卒・入学式等で国歌斉唱時起立し斉唱することを義務付ける条例、すなわち「大阪府の施設における国旗の掲揚及び教職員による国歌の斉唱に関する条例」(以下、「君が代強制条例」という)を可決し、大阪府は6月13日施行した。
そして、2012年4月1日には、不起立3度で免職を可能とする、いわば「君が代処分条例」とも言うべき「大阪府職員基本条例」(以下、「君が代処分条例」と云う。)を含む「大阪府教育行政基本条例・大阪府立学校条例・大阪府職員基本条例・職員基本条例の施行に伴う関係条例の整備に関する条例」、いわゆる教育4条例を施行した。

申立人は、2000年、卒業式や入学式「式次第」において「君が代」斉唱が実施されて以
来、一貫して自分自身の「思想」を守るため、また人として教員としての「良心」にしたがい、「君が代」斉唱時には、立つことも歌うこともしなかった。いやむしろできなかったと言ってよい。申立人にとって、それは不可避の行動としてあった。

2011年6月条例で義務付けられようが、2012年校長から職務命令が発出されようが、「不起立」を変えることはできなかった。なぜなら、それは申立人にとって、「思想」の問題であり、「良心」の問題であり、そこから帰結するそれまでの教員としての言動を裏切ることのない必要不可欠の行動であったからである。

憲法19条が保障するところの「思想」「良心」の自由のうち「良心」の自由とは、一般的・客観的に判断されるものではなく、極めて個別的なものである。
『広辞苑(第六版)』によると、「思想」「良心」はそれぞれこうある、

「思想」
①考えたこと。かんがえ。「誤った―」
②〔哲〕
ア判断以前の単なる直観の立場に止まらず、このような直観的内容に論理的反省を加えてでき上がった思惟の結果。思考内容。特に、体系的にまとまったものをいう。「新しい―」  
イ社会・人生に対する全体的な思考の体系。社会的・政治的な性格をもつ場合が多い。北村透谷、厭世詩家と女性「安んぞ知らむ、恋愛は―を高潔ならしむる嬭母なるを」

「良心」
何が善であり悪であるかを知らせ、善を命じ悪をしりぞける個人の道徳意識。「―がとがめる」

思想が「体系的にまとまったもの」、「社会的政治的な性格」と表現されているのに比して、良心は「個人の道徳意識」とある。つまり、良心の自由とは、多数者の価値観によって判断されるものでもなく、むしろ主流的な秩序すなわち多数者価値とは相いれない場合の少数者の権利保護こそが法の趣旨である。多数者価値観によって少数者が迫害もしくは排除されないためにこそ、憲法19条は存立する。


申立人の「思想」「良心」に即して憲法19条を考える①

2014-09-25 08:16:25 | 憲法19条
まえがき

憲法19条が保障するところの「思想」「良心」の自由とは、いったい何でしょうか?
「思想」とは、たとえば共産主義であるとかイデオロギー的なものに限定されるのでしょうか?
「良心」とは、道徳的なものなのでしょうか?そしてそれらは一般的なものなのでしょうか?

私は、「思想」も「良心」も極めて個別的なものだと思っています。つまり個人にとって生きていくうえでの背骨のようなもの。よって、それがどんなに少数派であろうが、たとえ本当に一個人であっても、その人が生きて来た過程で、そして今後も生きていくうえで、どうしても「譲れないもの」であるならば、それは尊重されるべきものと考えています。これはあらゆるイデオロギーを超えて個々人の尊重するという理念に基づくものではないでしょうか。

「君が代」が、再び教育の場において執り行われようとした時、私はそれに反対の意見表明を行い順法的に抵抗しました。言うなれば、それは、私の「思想」と「良心」に基づく行動でした。そして、最後に残された抵抗のスタイルは「君が代」斉唱時に立たない、歌わないというささやかな抵抗でした。それが、橋下政治のもとで、条例により「君が代」起立斉唱が義務付けられたとき、これは法による「思想」・「良心」への弾圧だと考えました。民主主義社会では許されないことです。私はその条例には従わず、「君が代」斉唱時はこれまでと同じように不起立・不斉唱で臨み、懲戒処分を受け、ただいま、それを司法の場で争っています。

これを機会に、私自身も憲法19条の意義とその内実について考えてみたいと思います。長文ゆえ、シリーズで当ブログに掲載していきますので、どうかご覧ください。そして、メッセージやコメントをいただければ幸いです。