【書評】『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』ー 震災に乗じて襲来した朝鮮半島のテロ集団の実態

2009年12月21日 | Books
   当時の新聞報道



【書評】『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』工藤美代子著
2009.12.20 08:33

 ■まるで良質のミステリー

 関東大震災の時に流言蜚語(ひご)に惑わされた日本人自警団が何の罪もない多数の朝鮮人を虐殺した-。

 多くの日本人はこの事件にある種の後ろめたさを感じ、きちんと検証してみようとしなかった。
 
 大震災から86年、工藤さんが初めてこの困難な作業に挑んだ。

 まず、当時の日韓関係の中で朝鮮人のテロ、日本人襲撃が決して根拠のない流言蜚語ではなかったことを多くの資料・新聞記事から立証。

 工藤さんは〈朝鮮人による襲撃があったから、殺傷事件が起きた〉〈テロリストの襲撃から家族や町内を守るのは正義といっていい〉と断定している。

 当初は朝鮮人による襲撃事件を報じていた新聞がなぜ途中から事実を隠蔽(いんぺい)するようになったのか。それが、この本の大きなテーマに繋(つな)がっていく。まるで良質のミステリーを読むような面白さだ。

 圧巻は虐殺された朝鮮人の数を検証する部分。当時、吉野作造は2613人と書き、上海に亡命した大韓民国臨時政府の機関紙「独立新聞」は6419人と書いた。

 今回の取材中、工藤さんはロンドンのナショナル・アーカイブスで朝鮮独立運動派が諸外国の外交官にばら撒(ま)いた謀略宣伝用小冊子を発見した。そこに書かれた数字はなんと2万3059人。

 それでは当時東京に何人の朝鮮人がいたのか。政府統計によると東京に約9千人。近県に約3千人なのである(全国で約8万人)。

 そして、警察署などに保護された朝鮮人は6797人。

 この数字だけからでも虐殺されたとされる朝鮮人の数がいかに根拠のないものかわかろう。

 先に挙げた謀略宣伝用小冊子は虐殺の模様をこんなふうに書いている。〈彼ら(日本人自警団や民衆)は朝鮮人を電柱に縛りつけ、眼球をくり貫(ママ)いて鼻をそぎ、腹を切り裂いて腸が飛び出るままにした(以下略)〉

 どこかで読んだような記述ではないか。

 ぼくが今年読んだノンフィクションのベスト1だ。(産経新聞出版・1890円) 評・花田紀凱(かずよし)(『WiLL』編集長)

http://sankei.jp.msn.com/culture/books/091220/bks0912200834001-n2.htm


関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実: 工藤美代子

雑誌「SAPIO」に1年にわたって連載された注目作 話題作・問題作を次々と世に送り出している工藤美代子が、徹底した歴史考証を通して、「あの定説」に真っ向から挑み、新たな日韓関係の構築を目指す壮大な歴史ノンフィクション。関東大震災における「朝鮮人虐殺」の真実を掘り起こす。
あれは本当に「虐殺」だったのか? 彼らの狙いは、皇太子だった! 震災に乗じて半島から襲来したテロ集団の実態をあばき、悲劇の真相を糾明する衝撃のノンフィクション。

http://www.amazon.co.jp/dp/4819110837

【韓国】投げた爆弾で日本人官僚ら37人を死傷させた「姜宇奎像」ソウル駅で除幕式
【書籍】 天皇殺そうとした李奉昌(イ・ボンチャン)義士の人生~「木下昌蔵、天皇に爆弾投げる」
【韓国】11月のテロリストにイ・ソクヨン先生を選定 日本の施設を攻撃、天皇暗殺や東京放火などを計画
「【韓国】「金相玉義士・日帝下でのソウル市街戦勝利90周年記念大会」開かれる-日本人警察官を16人殺傷

英国情報局極東支部 「韓国人秘密結社がテロを計画、現在約50人の会員が東京で活動中」と本国に報告 1923年7月
朝鮮独立運動の秘密結社「義烈団」・大韓民国上海臨時政府の活動実態、英SIS秘密文書で判明




【書籍】「実は朝鮮人がテロリストだった」~『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』工藤美代子著★2[12/20]
http://www.logsoku.com/r/news4plus/1261291323/

10 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2009/12/20(日) 15:46:37 ID:KMt8fm69
関東大震災において朝鮮人が暴動・放火を行ったのはデマと捏造したのは社会・共産主義の学者

SAPIOの連載によると、つまり朝鮮人と社会主義者=アカが結託してクーデターを起そうと準備していた。そこに関東大震災が起き、混乱に乗じて朝鮮人が暴動・放火・強姦行為をやった。特に横浜方面から品川にかけてのエリアで物凄い人数で襲い掛かってきた。横浜方面だけでなく、深川、墨田他のエリアでどうみても火災が起きるはずの無いエリアで爆発や火災が発生した。
その情報が警察とかに上がって丸の内とか外国の要人が居るので朝鮮人の暴動に備えて厳戒態勢で備えていた。

この朝鮮人の暴動に怒り狂った日本人の自警団がそいつらをとっ捕まえて自衛の為に殺害した。
なかには無実の朝鮮人と朝鮮人に間違われた日本人も居た。
戦後アカが主導になってでっち上げの人数を6000人とか捏造してデマで殺されたと言い回った。本当はアカと朝鮮人が結託してテロ行為を起した事実を知られるとまずいから。
苦し紛れにデマ説を必死で流した某学者は日本の社会・共産主義の土台を作った一員でも有った(しかしそのアカの学者でさえ、実際に朝鮮人の暴動破壊行為が合った事を大筋認めている)つまり、隠蔽工作である。

朝鮮人が暴動を起していたという証言は多数でありリアリティが有り、当時の新聞はそれを伝えているが、当時の内務大臣、後藤新平が「朝鮮人の暴動が有った事は事実だが、自警団による自衛行為はやめさせてこの混乱を収拾させるべきだ」と考え、
風評の打ち消しに徹した。→それが所謂デマ説の正体。

「それではアカ朝鮮人から市民の安全を保証出来ない」と読売の正力氏は後藤大臣の決定に怒り、反発して、9月末に地方へ転勤願いを提出した。

後藤新平は社会主義者と交友が有り、社会主義への知己も持っていた(後藤は右翼とも関係が有り、いわば両刀使いだった)
が、一連の暴動をきっかけに、これではまずいと、治安維持法が制定され、社会共産主義者への弾圧へと、政府は政策を見直し、遂行して行った。

これが大筋の事実です。朝鮮人の暴動から自衛の為に戦ったという事が歴史の真実です。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail.php?qid=1426289464

23 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2009/12/21(月) 02:57:17 ID:OtIXUOy7
これを堂々とTVでやるようになれば日本も変わるんだがな~
NHKがスペシャルでやってくれんかのうw・
俺が独裁者になればやるんだがなw

29 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2009/12/21(月) 03:00:09 ID:RSPiYCRO
>>23
坂の上の雲でこんな真似するんだからNHKには期待できんだろ

352 名前: 日曜8時の名無しさん [sage] 投稿日: 2009/12/21(月) 00:25:46 ID:hnaJt73Z
原作では「現代の価値観で過去を裁くことのナンセンスさ」と「国際法を良く守り、
必死の知略と奮戦で一丸となった日本」をテーマに徹底して描いてるのに、NHK版では
現代的な反戦イデオロギードラマになってる。

見せ場の戦闘シーンでは、肝心の黄海会戦や提督自決等の原作の精神を色濃く反映した
重要なシーンを削って、日本側がやられるところばかりを描いてまるで負け戦。
日本側の「知略や奮戦」を描かずに「悲惨な戦争」を強調するだけ。だから戦闘シーンの後は唐突に
「日本は勝った」とナレーションせざるを得ず、視聴者は映像の脈絡のなさにあっけにとられる。

しかも、原作にない「昔は中国が先生で、そこの皿も漢詩も漢字も中国のものだよ」
という台詞を挿入し中国に媚を売り、これまた原作にない略奪シーンを挿入することにより
「残虐な日本兵vs復讐を誓うかわいそうな中国民衆」というまるで中国製反日ドラマのようなシーンをでっち上げ。

関東大震災の真実
http://d.hatena.ne.jp/mensch/20100131
http://d.hatena.ne.jp/mensch/20100208




震災下のテロとの戦い
 関東震災直後の混乱の中で、朝鮮人独立運動家たちは被災民に対して無差別テロを仕掛けた。

■1.「朝鮮人を電柱に縛りつけ、眼球をくり抜いて鼻をそぎ、、、」

 関東大震災の翌年、大正13(1924)年5月、在東京英国大使館から、ジェームズ・ラムゼイ・マクドナルド英首相に、あるパンフレットが送付された。『日本での朝鮮人大虐殺』と題した小冊子で、横浜の英国総領事あてに郵送されてきたものである。その中には、次のようなおどろおどろしい記述があった。[1,p245]

__________
1923年9月1日ごろ(JOG注: 震災当日)、日本政府は一般大衆のほか、兵士、警察本部、自警団に向けて無線で特別命令を出し、「朝鮮人の老若男女を街角で見つけるか、家の中、あるいはどこかに隠れているのを見つけたら、いつでも殺害せよ」と指示した。・・・

 騎馬兵はあらゆる方角から朝鮮人を追いかけ、銃撃を加えて皆殺しにした。このようにして殺された人数は次の通りである。

ハダ(羽田?)2000、隅田川沿い400、品川300,サキダマケン(埼玉県?)駅400・・・

 しかし、最も痛ましい殺人は、いわゆる自警団や民衆によって行われた。「朝鮮人だ、朝鮮人だ」と叫び、朝鮮人攻撃に加わった。彼等は朝鮮人を電柱に縛りつけ、眼球をくり抜いて鼻をそぎ、腹を切り裂いて腸が飛び出るままにした。・・・

 2万人以上の罪なき人が野蛮な日本人によって虐殺された。朝鮮人に開かれている道はただ一つ。それは「日本人が朝鮮人を殺したように、日本人を殺すこと」だ。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

「眼球をくり抜いて鼻をそぎ」というのは、中国や朝鮮でかつて行われていた虐殺方法だが、我が国では聞いたことがない。どうも「南京事件」と同様、中国や朝鮮が絡むと、そこに登場する日本人は突然、大陸・半島風の残虐さを発揮するようだ。

 今日でも流布されている関東大震災における「朝鮮人虐殺」が、すでにこのように国際的な政治宣伝に使われていたのである。


■2.「そう住民が思い込んだのには根拠がまったくないわけではない」

 この小冊子を本国に送るにあたって、在京英国大使館は次のようなメモをつけている。[1,p244]

__________
 小職の複数の報告でお分かりの通り、大震災後に多くの朝鮮人が殺害されたことは疑いのない事実であります。しかし、不幸な出来事はこの小冊子の著者によって著しく誇張されており、日本の当局が虐殺を扇動したという筆者の指摘には根拠がないと考えます。

 東京や横浜の住民は恐慌状態に陥り、朝鮮人が略奪や政治的復讐のため家々に火を放っていると思いました。小職には放火があったともなかったとも証明する手立てはありませんが、欧州人を含む事情通の多くは、そう住民が思い込んだのには根拠がまったくないわけではないと考えています。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 すなわち、英国大使館の見る所では:

・大震災後に多くの朝鮮人が虐殺された。
・日本の当局がそれを扇動したわけではない。
・住人は、朝鮮人が略奪や政治的復讐のために放火した、と思った。
・そう思い込んだのは、根拠がまったくないわけではない。

 当時の英国大使館といえば、中立的客観的な見方のできる立場にあった。当時の史実を丹念に分析した工藤美代子氏の労作『関東大震災 「朝鮮人虐殺」の真実』があきらかにしたところも、この英国大使館の見方を大筋で一致している。


■3.震災下のテロ

「住人たちが、朝鮮人が略奪や政治的復讐のために放火したと思った」のは、「根拠がまったくないわけではない」、という点を工藤氏は詳細な事実で明らかにしている。それによると、真相は次のようであった。

 震災前から朝鮮の独立運動家たちが、様々なテロ攻撃を計画し、実施してきていた。ちょうど、アメリカでの9.11事件を引き起こしたイスラム過激派のテロのように。

 そこに発生した関東大震災を好機到来として、朝鮮人テロリストたちは一般家屋への放火や、一般の日本人民衆を殺害し、混乱を増大させて、独立運動を盛り上げようとした。

 自衛のために、東京・横浜の各所で自発的に自衛団が作られ、一部の地域ではテロリスト集団との戦闘まで行われた。またその過程で、過剰防衛により殺害された朝鮮人もいた。

 この混乱を抑えるために、戒厳令が敷かれ、軍・警察が騒乱を鎮圧した。政府は「朝鮮人は全部が悪いのではない」と必死で政情安定に努めた。

 以下、工藤氏の著作から、ポイントとなる史実を追ってみよう。


■4.朝鮮人テロ集団

 日本統治下の朝鮮半島では、食糧増産、医療の普及によって、急速に人口が増加した。併合前の1906年(明治39年)に980万人だった人口が、その後の20年間で1,866万人へと倍増した[a]。

 その結果、職を求めて内地に移住する朝鮮人も増加した。在日朝鮮人の人口は、大正7(1918)年に1万4501人だったが、5年後の震災の年には8万617人と急増している。

 その中に、朝鮮独立を目指すテロリストたちが混じっていて、さまざまな事件を起こし、それが次のように新聞に報道されていた。

「首相邸を襲わんとした鮮人の大陰謀露顕-爆弾数個と陰謀書類」
「在阪鮮人の宅に爆弾数個を発見」
「大仕掛けの武器密売 拳銃1万挺、挺彈90万発」

「密売」とは、神戸在住のある日本人が青島の朝鮮独立家に大量の武器密輸を図ろうとして逮捕された事件である。このように震災の前から、朝鮮人テロリスト集団は活発な活動を続けていた。


■5.走り回る巡査、警鐘の響、ワーッと言う様な喊声(かんせい)

 大地震は大正12(1923)年9月1日午前11時58分に発生した。地震による家屋倒壊に引き続き、大火災が発生して、死者・行方不明者10万5千余人、家屋全・半壊23万戸、家屋全焼失44万7千戸、避難人数190万人以上とされている。

 こうした大災害の直後には、警察も機能不全に陥り、略奪や暴動が起こりがちである。2005(平成17)年8月末にハリケーン「カトリーナ」に襲われたニューオーリーンズでは、市内のあちこちで黒人による暴動、放火が発生したと報じられている。

 阪神淡路大震災の際には、被災地の人々の冷静な行動が世界を驚かせたが[b]、逆に言えば、大災害の後に無秩序状態になるのが、世界の常識なのである。

 東京・大森に住むある夫婦は次のような体験談を残している。[1,p117]

__________
 巡査の一人があご紐をかけて、自転車に乗って駆けて行く。それを捉えて「どんな形勢ですか」と訊ねると彼は「今○○の数300人程が団体を作って六郷川で青年団や在京軍人団と闘って居る。其中の5、60人が鞠子(まりこ)の渡し付近から馬込に入り込んだと云う情報がありました、そうして鞠子を渡った処で15、6人女や子供を殺したそうです。皆さん警戒して下さい」と叫びながらどこかへ飛んでいく。

 自分はこれは誠に容易ならざる事と思った。(略)警鐘の響が四方八方から起こる。ワーッと言う様な喊声(かんせい)がどこからか聴こえる。(中野栄談「福岡日日新聞」大正12年9月23日。伏字部分は他の関係資料によれば朝鮮人を指す蔑称が入る)
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 巡査が走り回り、四方八方で警鐘が鳴り、「ワーッと言うような喊声(大勢で突撃するときなどにあげる叫び声)が聞こえる。「朝鮮人による暴動」は流言飛語に過ぎないとするには、あまりにもリアルな情景である。


■6.馬のまぐさを保管する倉庫から爆発音

 2日の午後になって、不審火が空屋、小学校、商業ビルなどから新たに発生し、市内をさらなる混乱に陥れた。その一つにこんな体験談が新聞に報じられている。[1,p125]

__________
 これより先、越中島の糧秣廠(JOG注: りょうまつししょう、軍が馬の秣(まぐさ)を保管している倉庫)にはその空地を目当てに本所深川辺りから避難してきた罹災民約3千人が雲集していたところが、その入口の方向に当って異様の爆音が連続したと思うと間もなく糧秣廠は火焔に包まれた。

 そして爆弾は所々で炸裂する。3千人の避難者は逃場を失って阿鼻叫喚する。遂に生きながら焦熱地獄の修羅場を演出して、一人残らず焼死して仕舞った。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 馬のまぐさを保管する倉庫に爆弾が置いてあるはずもないし、火の気があるはずもない。しかし、乾燥したまぐさは火をつければ、勢いよく燃え上がる。誰かの仕業だろうと疑うのは、当然である。

 在京軍人団や青年団が捜査した結果、爆弾を携帯している朝鮮人が見つかった。厳重に詰問した結果、捕らえられた朝鮮人は、「今年のある時期」に日本政府高官が集合するから、これを狙って爆弾を投げ、次いで東京全市至るところで爆弾を炸裂させて市民を皆殺しにしようとしていた、と白状したという。

「今年のある時期」とは、この年12月27日に予定されていた摂政宮(昭和天皇)ご成婚の御大典であろう。朝鮮人テロリストらは、御大典を狙って爆弾を準備していたが、大震災の混乱を好機到来と、爆弾テロを前倒しで実行したようだ。

 白状した朝鮮人は、自警団により首をはねられた。こういう例が「虐殺」された人数にカウントされているのだが、テロ行為で殺された3千人と言われる避難民の方は、一顧だにされない。


■7.政府の治安回復努力

 震災の直後に発足した山本権兵衛内閣は治安回復に乗り出した。9月2日に東京全市、京浜地区に戒厳令が敷かれ、各地から総数約5万の兵が配備された。その戒厳令司令官から次のような命令が出された、と「東京朝日新聞」の4日付け手書き号外が報じた。[1,p157]

__________
武器を持つ忽(なか)れ

 朝鮮人が全部が悪いのではない。鮮人を不当にイジメてはならぬ。市民で武器を携えてはならぬと戒厳令司令官から命令を出した。
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 朝鮮人テロリストの襲撃がなかったとは、一言も言っていない。ただ襲撃は一部のテロリストによるもので朝鮮人すべてが悪いのではない、治安維持は軍に任せ、市民は武器を持つな、というのである。

 同時に戒厳令司令部は過剰防衛として日本人367人を逮捕した。彼らに殺害された朝鮮人は233人と公表されている。

 軍や警察は、朝鮮人を保護するために、習志野陸軍廠舎、市内各警察署などに6800人を収容した。彼らにはテントで雨露をしのぎ、毛布を配られ、握り飯が支給され、負傷者には赤十字と軍医から手当を施された。

 この時点で、190万人の日本人被災者の相当部分が、野宿をしたり、食糧不足に苦しんでいた事情と照らし合わせなければならない。


■8.震災下のテロとの戦い

 工藤氏の調査によれば、震災直後に東京とその近郊にいた朝鮮人の総人口は約9800人。ここから軍・警察に収容された6800人を除くと約3千人。この中に、震災被害者とテロリストとして殺害された人数が含まれる。

 工藤氏は、朝鮮人も多く居住していた本所区、深川区の震災による死亡率が約15パーセントであることから、多くの朝鮮人の家屋が劣悪だったことを加味して死亡率を20パーセントと仮定して、約9800人の20パーセント、すなわち2千人近くが震災被害者だと推定している。

 とすると、3千人から、推定震災死亡者2千人を引くと、1千人ほどがテロリストとして殺害された朝鮮人の数となる。1千人規模が殺されたとは今日から見れば大変な事だが、その一方で朝鮮人テロリストによる放火や爆弾によって殺された日本人もいた事を忘れてはならない。

 先に紹介した越中島の糧秣廠の爆弾攻撃だけでも3千人が死んだと言われている。そして同様の放火事件が各地で起きている。殺害された日本人も、数千、数万という規模になるだろう。

 震災下の混乱の中で、朝鮮人テロリスト集団が日本人被災者に対して無差別攻撃を仕掛け、せっかく大震災を逃れた被災者たちが多数殺された。市民を護るべく、自発的に住民の自警団が立ち上がり、テロリストたちと戦った。その過程で、当然、無辜の朝鮮人も巻き添えになって殺された。そういうテロとの戦いが、震災下にあったのである。

 こういう背景を伏せて「朝鮮人虐殺」だけを取り上げ、なおかつ犠牲者数を2600人とか、5千人とか、果ては2万人以上だというのは、「南京大虐殺30万人」[c]と同じ、悪質な政治宣伝である。

(文責:伊勢雅臣)

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h22/jog665.html



【当時の報道】


大阪朝日新聞、大正12年9月3日号外


大阪朝日新聞、大正12年9月4日


震災の混乱に乗じ、鮮人の行った兇暴


不逞鮮人一千名と横浜で戦闘開始

朝鮮人が暴徒となって放火ー関東大震災時の報道
関東大震災:虐殺から300人守り感謝状 当時の鶴見署長、朝鮮人から
阪神大震災のとき、北朝鮮工作員?の武器見つかる
<現在も進行中の朝鮮の工作活動>
関東大震災で犠牲後世の記憶に 朝鮮人追悼碑建立へ29日演奏会








墓標なき草原(上) 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録: 楊 海英

内容(「BOOK」データベースより)
他に先がけて文革の火蓋が切られた内モンゴルでは、かつて日本時代に教育を受けた者たちが、「内モンゴル人民革命党」一派として粛清された。さらに階級闘争論によって、漢族による草原の開墾とモンゴル族の迫害が正当化され、家畜と遊牧地は奪われ、モンゴル人への殺害がエスカレートしていった。戦慄の悲劇を招いた内モンゴルの文革。その要因と拡大化の実態を、体験者の証言を軸に克明にたどる。対日協力者はなぜ民族分裂主義者に仕立てられたのか。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
楊 海英 モンゴル名オーノス・チョクトを翻訳した日本名は大野旭。1964年、内モンゴル自治区オルドス生まれ。北京第二外国語学院大学日本語学科卒業。89年3月来日。国立民族学博物館・総合研究大学院大学博士課程修了。博士(文学)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

http://www.amazon.co.jp/dp/4000247719


樋泉克夫のコラム
@@@△◇@@@

野蛮で残虐で酷薄な「赤い漢人」への尽きない憤怒
         『墓標なき草原(上下)』(楊海英 岩波書店 2009年)

 △
 内モンゴルでの文革をGenocide on the Mongolian Steppeと捉える内モンゴル出身の著者は、中国共産党の“植民地”と化し漢族に蹂躙されるがままの内モンゴルの悲劇を、モンゴル人へのインタビューを交えつつ、歴史的に明らかにする。
なにはともあれ、著者の見解とモンゴル人たちの心の叫びに耳を傾けてみよう。なお▲は著者の見解。●は証言。

 ▲アヘンは中国共産党の軍資金になる。国民政府の軍隊が前線で日本軍と死闘を繰り広げていた際、共産党はアヘン製造に集中していた。・・・延安で女性を抱いていた。

 ●モンゴル人はひどい国に編入されたものだと思いました。飢餓なんて、満洲国時代にはなかったですもの。
 ▲共産党は・・・延安にいたころから、国民政府の兵士たちが前線で日本軍と死闘を繰り広げていたころは、ソ連から伝わったヨーロッパ式のダンスパーティーに興じていた。

 ●私は生き地獄をみました。(漢人によって)目が失明させられた者、腕や足を切断された者、そして頭の中なかに釘を打ち込まれた人など、言葉では表現できない惨状でした。
 ▲(文革時も)モンゴル人を殺害する行為は革命行動として推奨されたのである。

 ●あの時(日本統治下)は本当に良かった。知的な青少年が集まって、近代教育を受けて立派な人材になって・・・今や日本統治時代を評価しないけど、事実は事実です。
 ▲(騙されて共産党に参加させられた解放軍に編入させられた内モンゴル兵士は)朝鮮戦争の際には最前線に立たされて人海戦術の消耗品となった。
▲(日本統治時代の興安女高の写真への解説。袴姿の凛々しい日本人女性教師・堂本修を囲むようにオカッパ頭・セーラー服・スカートの8人のモンゴル人少女。撮影は1939年)「先生はとにかくもモンゴル人に優しかった」、「私たちもなんと幸せな顔をしていたのだろう」、と日本統治時代を経験したモンゴル人たちは証言する。1949年10月1日以降、彼女たちはことばでは言い尽くせない苦難を嘗め尽くした。「幸せなモンゴル人」たちに笑顔がなくなった。
 ▲現代中国で「人民の良い総理」(人民的好総理)と謳歌されている周恩来だが、まったく無関係にモンゴル人指導者たちに、革命大衆の憎しみの矛先を巧妙に転換させようとしていることが分かる。
 ▲内モンゴル自治区でも「封建的な残滓」とされた民族衣装を漢族の人たちがまとい、「モンゴル人」と「朝鮮人」を演出した。この「伝統的な演出」は2008年に開かれた北京オリンピックの開幕式でも踏襲された。

●中国の漢人たちは確かに、ここ数年で豊かになってきました。しかし、我が内モンゴル自治区は(漢族に)略奪されつづけています。モンゴル人たちは極貧生活を強いられています。極貧生活を送るモンゴル人たちが少しでも自己主張をすれば、たちまち民族分裂主義者だと批判されてしまいます

●今のモンゴル族は中国の奴隷にすぎません。
もはや多言は不要。それにしても、こんなにも過激な反中姿勢に満ちた“告発本”が、しかも岩波書店から出版されたのである。
流石に岩波だ。やる時はやるもんだナッ。
《QED》

http://www.melma.com/backnumber_45206_4716361/








沖縄から発信続ける旧満州
西部本社社会部 牧野田亨

 11月になっても、沖縄の街に吹く風は暖かい。半袖姿の人々が行き来し、信号を待つ間、街路樹の陰で日差しを避けている。

 この南国の地から、北に約1500キロ以上離れた旧満州(現中国東北部)の「今」を発信し続ける印刷・出版社がある。県庁近くに社屋を構える「池宮商会」。1985年に写真集『旧満州の街角1984年 長春・瀋陽・ハルビン・方正』を発行したのを始め、88年には旧満州の主要18都市を網羅し、全カラーで660ページに上る『旧満州』を発表した。その後も大連の観光誌、写真集を発表している。

 中心を担うのは、同社常務でカメラマンの池宮城晃さん(60)。戦後の沖縄生まれだが、両親と姉、兄が満州からの引き揚げだった。父親で創業者の幸興さんの代理として、84年に県主催の友好訪問団に参加。この時に長春や瀋陽などを訪れて以降、消えゆく往時の街並みを記録し、後世に伝えようと撮影を続けている。

 その池宮城さんには、忘れられない記憶がある。満州各地の風景写真を収め、昭和初期に人気を博した『最新満洲寫眞帖』(山崎■一郎編著)を見た85年ごろのこと。「昔の満州の写真なら、この本に勝る物はない」。そう思った池宮城さんはこの本を復刻しようと思い、奥付の住所を頼りに山崎さんを探し始めた。

 当時、山崎さんは90歳になるころ。生死も不明だったが、大阪市内の病院に入院していることがわかった。訪ねると、ぼんやりした表情でベッドに横たわっていた。看護師の話では、老衰と認知症が進み、話がわからないことがあるという。

 「あなたの写真帳が素晴らしいので、復刻させてほしい」。山崎さんの手を握り、そう切り出した。だが、反応がない。「もう理解できないのか」。あきらめが頭をよぎった瞬間、山崎さんの目から涙があふれ、声をあげて泣き始めた。そして、回診に来た医師に「この人は、私の昔の仕事を引き継ぎたいと訪ねて来たのです」と誇らし気に言い、震える手で復刻の承諾書を書いてくれた。

 山崎さんはその3か月後、静かにこの世を去った。

 池宮城さんは95年から大連に移り住み、合弁の印刷工場の代表を務める傍ら、旧満州の撮影を続けていた。その暮らしに終止符を打ち、年末に沖縄に戻って『続・旧満州』の製作を始める。来春に完成する予定だが、おそらく満州を扱う最後の作品になるという。

 「中国は変わった。昔の満州はもうほとんど残っていない。残念ですが、それがこの本のテーマです」。

 ただ、それでも『続・旧満州』を見る引き揚げ体験者たちは、懐かしさに胸を震わせることだろう。そこには、祖国を離れ、幾多の苦労を重ねながらも、確かに自分たちが生きた街の「今」があるのだから。それは、過去に埋もれていた自分の仕事に注目し、改めて世に送り出してくれる人に出会えた山崎さんが、人生の最後で無上の喜びを感じ得たことに似ている。そう思えてならない。

 来年は戦後65年。引き揚げ体験者も年々少なくなっており、あの満州が今、どうなっているのかを伝える『続・旧満州』への関心は高まるだろう。沖縄から南風に乗り、どのような本が届けられるのか、楽しみに待ちたい。

 ■(きん)は「均」の下に「金」

(2009年11月24日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/column/national/20091124-OYT8T00313.htm










松原久子さん新著「黒い十字架」 世界史から見た島原の乱
2009.1.31 07:58

 日本の歴史上もっとも大規模なキリシタン一揆として知られる島原の乱(1637~38年)を世界史の中に置くと何が見えてくるか-。松原久子さんの新著「黒い十字架」(藤原書店)は、歴史小説という形でこの問いに答えようとする作品だ。(桑原聡)
      ◇

 小説の舞台となるのは1612年の島原半島。1549年のフランシスコ・ザビエルの来日を機に、イエズス会をはじめとする修道会の優秀な宣教師が次々に来日、島原半島と長崎はキリシタンの砦(とりで)となっていた。松原さんは世界侵略に乗り出していた欧州各国の確執、カトリックとプロテスタントの抗争といった世界史的背景を織り込みながら、恋愛をからめた冒険大活劇を織り上げてゆく。

 「島原の乱では原城に3万7000人がこもり、幕府を相手に半年も持ちこたえました。その理由は何でしょうか」。松原さんは言う。「つまるところ、キリシタンの狂信性だと思うのです。実は島原にいた宣教師が1612年にこんな予言をしています。26年後に彗星(すいせい)が現れ世の終わりが訪れるが、キリシタンのみは救われると。彼らの闘争は神懸かり的だったのです」

 当時、プロテスタントという「敵」の出現に、カトリックは排他性に基づく二元論を強めていた。神の敵の殺戮(さつりく)は、神の栄光への奉仕と考えられた。その宗教的熱狂は度重なる宗教戦争に見ることができる。温和に見えようが内側には宗教的熱狂を備えた宣教師が、日本にキリスト教を植えつけようとしたのだ。

 「宣教師に魂を奪われたキリシタンたちは、コンフラリアという地域ごとの秘密結社で固く結ばれ、決して脱落者を出さないようにしていました。これは宣教師たちが数十年前から築いてきたものなのです。島原の乱でキリシタンの狂信性と組織性に脅威を感じた幕府が乱の鎮圧後、鎖国を完成させるのは当然のことだったと私は考えます」

 かつてドイツで論争を巻き起こした『驕れる白人と闘うための日本近代史』の著者らしい作品である。

http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090131/acd0901310803002-n1.htm










流れる星は生きている;藤原 てい 中公文庫BIBLIO20世紀

出版社/著者からの内容紹介
昭和二十年八月九日、ソ連参戦の夜、満州新京の観象台官舎。夫と引き裂かれた妻と愛児三人の、言語に絶する脱出行がここから始まった。敗戦下の悲運に耐えて生き抜いた一人の女性の、苦難と愛情の厳粛な記録。戦後空前の大ベストセラーとなり、夫・新田次郎氏に作家として立つことを決心させた、壮絶なノンフィクション。

内容(「BOOK」データベースより)
昭和二十年八月九日、ソ連参戦の夜、満州新京の観象台官舎?。夫と引き裂かれた妻と愛児三人の、言語に絶する脱出行がここから始まった。敗戦下の悲運に耐えて生き抜いた一人の女性の、苦難と愛情の厳粛な記録。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4122040639/503-3935323-6543931


国家の品格ー新潮新書 藤原 正彦 (著)
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