朝鮮人が暴徒となって放火ー関東大震災時の報道

2006年06月13日 | メディア・芸スポ
大阪朝日新聞、大正12年9月3日号外

目黒と工廠の火藥爆發
     震源地は太平洋にも
【早川東朝社員甲府特電】
▼朝鮮人の暴徒が起つて横濱、神奈川を經て八王子に向つて盛んに火を放ちつつあるのを見た
▼震源地は伊豆大島三原山の噴火と観測されてゐるが他に太平洋の中央にも震源があるらしい
▼砲兵工廠は火藥の爆發のために全燒し目黒火藥庫も爆發した




大阪朝日新聞、大正12年9月4日

各地でも警戒されたし
   警保局から各所へ無電
神戸に於ける某無線電信で三日傍受したところによると、内務省警保局では朝鮮總督府、呉、佐世保兩鎭守府並に舞鶴要港部司令官宛にて目下東京市内に於ける大混亂状態に附け込み不逞鮮人の一派は随所に蜂起せんとするの模樣あり、中には爆彈を持って市内を密行し、又石油鑵を持ち運び混雜に紛れて大建築物に放火せんとするの模樣あり、東京市内に於いては極力警戒中であるが各地に於いても嚴戒されたしとあつた。

関東大震災での朝日新聞の人道的報道
http://www.asahicom.com/anotoki/

当時の各地新聞報道
歴史資料集/関東大震災 - PukiWiki
歴史資料集/続・関東大震災 - PukiWiki


●不逞鮮人各所に放火
 

●不逞鮮人益々拡大
 

●震災の混乱に乗じ、鮮人の行った兇暴
 

●鮮人浦和高崎に放火
 

●不逞鮮人一千名と横浜で戦闘開始 ※日本人は武器を持つことを禁止されていました
 

●屋根から屋根へ鮮人が放火して回る
 




関東大震災 - Wikipedia
流言飛語と虐殺事件
朝鮮人が暴徒となって放火していると伝える大阪朝日新聞(1923年9月3日号外)

デマを流す事・者に対して警告する警視庁のビラ

記事差し止め解除を受けて朝鮮人の事件を伝える東京時事新報(1923年10月22日)

加藤友三郎内閣総理大臣が8月24日(震災発生8日前)に急逝していたため、地震発生時及びその後は内田康哉が内閣総理大臣臨時代理として職務を代行した。

当時電話は一般家庭に普及しておらず、ラジオ放送の実用化はこの直後、大正末期のことであり(ラジオ#日本初のラジオ放送)、通信、報道手段としては電報と新聞が主なものであった。しかし、東京にあった新聞社は地震発生により活字ケースが倒れて活字が散乱した事で印刷機能が崩壊し、更に大火によって東京日日新聞・報知新聞、都新聞を除く13社は焼失し、最も早く復旧した東京日日新聞が9月5日付夕刊を発行するまで報道機能は麻痺した。通信・交通手段の途絶も加わって関東以外の地域では伝聞情報や新聞記者・ジャーナリストの現地取材による情報収集に頼らざるを得なくなり新聞紙上では「東京(関東)全域が壊滅・水没」、「津波、赤城山麓にまで達する」、「政府首脳の全滅」、「伊豆諸島の大噴火による消滅」、「三浦半島の陥没」などと言った噂やデマとされる情報が取り上げられた[5]。

こうした情報の中には、当時日本植民地であった朝鮮人が「暴徒化[6]した」「井戸に毒を入れ、また放火して回っている」というものもあった。流言の数々が9月2日から9月6日にかけ、大阪朝日新聞、東京日日新聞、河北新聞で報じられており、大阪朝日新聞においては、9月3日付朝刊で「何の窮民か 凶器を携えて暴行 横浜八王子物騒との情報」の見出しで、「横浜地方ではこの機に乗ずる不逞鮮人に対する警戒頗る厳重を極むとの情報が来た」とし、3日夕刊(4日付)では「各地でも警戒されたし 警保局から各所へ無電」の見出しで「不逞鮮人の一派は随所に蜂起せんとするの模様あり・・・」と、警保局による打電内容を、3日号外では東朝(東京朝日新聞)社員甲府特電で「朝鮮人の暴徒が起つて横濱、神奈川を經て八王子に向つて盛んに火を放ちつつあるのを見た」との記者目撃情報が掲載されている。

こうした情報の信憑性については、早くも2日以降、官憲や軍内部において疑念が生じ始め、2日に届いた一報に関しては、第一師団(東京南部担当)が検証したところ虚報だと判明、3日早朝には流言にすぎないとの告知宣伝文を市内に貼ってまわっている[7]。5日になり、見解の統一を必要とされた官憲内部で、精査の上、戒厳司令部公表との通達において

“ 不逞鮮人については三々五々群を成して放火を遂行、また未遂の事件もなきにあらずも、既に軍隊の警備が完成に近づきつつあれば、最早決して恐るる所はない。出所不明の無暗の流言蜚語に迷はされて、軽挙妄動をなすが如きは考慮するが肝要であろう ”

と公表[8]。「朝鮮人暴動」の事実を肯定するも流言が含まれる旨の結論が出された。8日には、東京地方裁判所検事正南谷智悌が一部流言内容を否定する見解を公表、併せて「(朝鮮人による)一部不平の徒があって幾多の犯罪を敢行したのは事実である」とし、中には婦人凌辱もあったと談話の中で語った[9]。一部の流言については、1944年(昭和19年)に警視庁での講演において、正力松太郎も、当時の一部情報が「虚報」だったと発言している[10]。

また、震災後は事態の混乱を防止する為、当局により朝鮮人犯罪に対する報道規制が10月20日まで続けられた。10月20日以降は当局による記事差し止めが解除され、朝鮮人による日本橋の大倉倉庫への放火や、四つ木での少女輪姦殺人・ピストルによる銃乱射等、朝鮮人犯罪者が実名で改めて報じられた。[11]
一方、過去数多く繰り返されてきていた朝鮮人の暴動・襲撃はこの際においても事実であり、台風の時期及び、震災の年の11月に予定された摂政宮(昭和天皇)御成婚式を標的にテロを計画していた集団が、予想外の震災を前にしたため前倒しで騒擾を企てたものであって、それに対する自警団の組織化と防衛は正当だったとし、その後、過剰な排撃による社会混乱を恐れた後藤新平ら治安筋が、暴動自体は事実だとしながらも、事態の収束を図ろうと報道統制に入ったもので、また、善良な朝鮮人が巻き添えになった事実はあるが、被害数は誇張された政治プロパガンダにすぎないという分析もある[2]。

警視総監・赤池濃は「警察のみならず国家の全力を挙て、治安を維持」するために、「衛戌総督に出兵を要求すると同時に、警保局長に切言して」内務大臣・水野錬太郎に「戒厳令の発布を建言」した。これを受けて内務省警保局(局長・後藤文夫)が各地方長官に向けて以下の内容の警報を打電した。

“ 東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加え、朝鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし ”

更に警視庁からも戒厳司令部宛に

“ 鮮人中不逞の挙について放火その他凶暴なる行為に出(いず)る者ありて、現に淀橋・大塚等に於て検挙したる向きあり。この際これら鮮人に対する取締りを厳にして警戒上違算無きを期せられたし ”

と“朝鮮人による火薬庫放火計画”なるものが伝えられた[12]。

実際、当時の混乱の中、大衆の多くが“暴徒と化した朝鮮人”を恐れ、自警団との衝突も発生した。そのため、朝鮮人や中国人なども含めた死者が出た。朝鮮語では語頭に濁音が来ないことから、道行く人に「十五円五十銭」や「ガギグゲゴ」などを言わせ、うまく言えないと朝鮮人として暴行、殺害した[13]。朝鮮人かどうかを判別するために国歌を歌わせた[14]、警官手帳を持った巡査が憲兵に逮捕され偶然いあわせた幼馴染の海軍士官に助けられたという逸話もある[15]。千田是也は、自身が朝鮮人と間違えられ、危うく殺されかけた経験から芸名をつけている(「鮮(朝鮮人)だ、これは」という自警団の言葉から取られているとも「千駄ヶ谷のコリアン」を自称したためとも言う)。当時早稲田大学在学中であった後の大阪市長中馬馨は、叔母の家に見舞いに行く途中群集に取り囲まれ、下富坂警察署に連行され「死を覚悟」する程の暴行を受けたという[16]。また、福田村事件のように、方言を話す地方出身の日本内地人が殺害されたケースもある。聾唖者(聴覚障害者)も、多くが殺された[17]。

一方で横浜市の鶴見警察署長・大川常吉は、保護下にある朝鮮人等300人の奪取を防ぐために、1000人の群衆に対峙して「朝鮮人を諸君には絶対に渡さん。この大川を殺してから連れて行け。そのかわり諸君らと命の続く限り戦う」と群衆を追い返した。さらに「毒を入れたという井戸水を持ってこい。その井戸水を飲んでみせよう」と言って一升ビンの水を飲み干したとされる[18]。また、軍も多くの朝鮮人を保護した。当時横須賀鎮守府・野間口兼雄長官の副官だった草鹿龍之介大尉(後の南雲機動部隊参謀長)は「朝鮮人が漁船で大挙押し寄せ、赤旗を振り、井戸に毒薬を入れる」[5]等のデマに惑わされず、海軍陸戦隊の実弾使用申請や、在郷軍人の武器放出要求に対し断固として許可を出さなかった[14]。横須賀鎮守府は戒厳司令部の命により朝鮮人避難所となり、身の危険を感じた朝鮮人が続々と避難している[19]。

殺害された人数は複数の記録、報告書などから研究者の間で議論が分かれており、当時の政府(司法省)の調査では233人、吉野作造の調査では2613人余[20]、最も犠牲者を多く見積もる立場からは6661人(上海の大韓民国臨時政府の機関紙「独立新聞」社長の金承学の調査)[21]と幅が見られる[22]。内務省警保局調査(「大正12年9月1日以後ニ於ケル警戒措置一斑」)では、朝鮮人死亡231人・重軽傷43名、中国人3人、朝鮮人と誤解され殺害された日本人59名、重軽傷43名であった[22]。

また警察は、朝鮮人や中国人などを襲撃した日本人を逮捕している。殺人・殺人未遂・傷害致死・傷害の4つの罪名で起訴された日本人は362名に及んだ。しかし、そのほとんどが執行猶予となり、福田村事件では実刑となった者も皇太子(のちの昭和天皇。当時は摂政)結婚で恩赦になった[23]。“自警団”が本格的に取り締まられるようになるのは10月、解散が命じられるようになるのは11月のことである。

政府はこうした混乱の拡大を防ぐため、朝鮮人が起こした事件の報道を一定期間禁止した[24]。10月21日に差し止めが解除されると翌10月22日から震災当時の朝鮮人による事件が報道されるようになった[24]。10月21日の時点では、すでに取り調べが終わり起訴された朝鮮人による事件は十数件に上り、その他に治安警察法違反・窃盗・横領で起訴された朝鮮人が23人いた[24]。


地震の混乱で発生した事件


政府による記事差止めが解除されたことを受けて事件の正体を報じる10月22日付東京時事新報[21]

9月2日午後11時、下江戸川橋を破壊中の朝鮮人を警備中の騎兵が射殺[26]。9月2日午後11時、南葛飾郡でこん棒などで武装した30人の朝鮮人が砲兵第七連隊第一中隊長代理砲兵中尉高橋克己のオートバイを包囲したが中尉は脱出に成功した[26]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD


【書評】『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』ー 震災に乗じて襲来した朝鮮半島のテロ集団の実態






>「NHKスペシャル放送開始80周年放送記念日特集」NHK(19:30~21)
関東大震災では、情報発信の中心地である東京が大きな被害を受けたため情報が途絶。それが混乱を拡大させることになったのだ。その中で起きたのが、一説には犠牲者6000人 ともいわれる朝鮮人虐殺事件だった。 
震災後、こうした悲劇を防ぐためにも放送が必要だという気運が高まり、公益法人による放送がはじまったのである。   by NHK

大震災で6000人虐殺ってのは1970年になって歴史捏造で有名な姜徳相って朝鮮人が突然言い始めたものです、本当は震災当時暴れてたのはその朝鮮人だったのです 放火、火事場泥棒、レイプなど。大震災の被害が大きかったのは大火事が発生したからだというがその裏には彼らの大活躍があったかららしいこんなプロパガンダ番組を堂々と流すNHKが日本の公共放送なのでしょうか? 
だとしたら日本の恥です

http://takenakaheizo.cocolog-nifty.com/takenaka/2006/01/post_2645.html



関東大震災時の「在日朝鮮人虐殺者」の数

> 6000人というのは誰がカウントしたのでしょうか??

 上海独立新聞社(1919年設立された大韓民国臨時政府の機関誌発行機関)が11月に日本で調査したとされるルポに「6661人」が出てきます。これが根拠のようです。ただし、臨時政府自体が世界から認められておらず取り締まり対象の組織ですし、日本へは極秘入国での調査で、震災から3ヶ月も経ってからの調査ですから、信用できるものではありません。

>また当時、被災地域にはどれくらい朝鮮人が居たのでしょうか?

 震災時の東京在住の朝鮮人は概数で9千人とされていますが、別資料では東京府で警察等に保護された朝鮮人は1万2千人とされています。要するに混乱していて、正確な数字は分かりません。

tsujimoto blog
http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/06/09/398058



news archives 関東大震災:虐殺から300人守り感謝状 当時の鶴見署長、朝鮮人から/神奈川


歴史資料集/関東大震災
http://naver.uwakina-honeypie.com/index.php?%CE%F2%BB%CB%BB%F1%CE%C1%BD%B8%2F%B4%D8%C5%EC%C2%E7%BF%CC%BA%D2
http://naver.uwakina-honeypie.com/index.php?%CE%F2%BB%CB%BB%F1%CE%C1%BD%B8%2F%C2%B3%A1%A6%B4%D8%C5%EC%C2%E7%BF%CC%BA%D2



■関東大震災と朝鮮人
関東大震災で朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだなどのデマが広まり6、7千人の朝鮮人が虐殺されたとされていますが…
【死者数】  『 死者数の調査は当然さまざまな調査で食い違いが見られるのだが、 死者数は当時の
・内務省調査で400-600人
・新聞記事の総数で1400人
震災の数年後やってきた
・朝鮮人の調査で6400人
それでこの6000人って数字だけが一人歩きしているのさ。どこを見てもわかるのだが軍隊、警察は朝鮮人を保護 する方向で働いている。デマを作った(?)のは新聞。朝鮮人を殺したのは民間の自警団。ただし震災に乗じて不穏な 活動をしていた朝鮮人がいたのも事実ワシは自業自得だと思うがのお。あ、ここで書いた死者数ってのは虐殺された 朝鮮人ね、震災死は入っているかどうか知らんけどねあと、当時、関東にいた朝鮮人は2万人程度だって左翼本です ら書いているよ。2万のうち6000人殺されたらどうなるよ? 』『奇っ怪な事に、関東大震災の時に虐待を目撃した のは、在日コリアだけなのですよ。当時、日本人も、在日台湾人も、中国からの留学生たちも、目撃しておらぬのですよ。 (しかも、証言者する在日コリアは,仮名を使用している)当時の警察関係者の話によれば、「混乱を恐れ、我々が真っ 先に朝鮮人を保護したのだから、そんな馬鹿な事がある筈がない」との事。まあ、戦前も戦後同様、不良朝鮮人犯罪が横 行し、朝鮮人に対する評判が極めて悪かった事は事実ですがね。韓国には「恨(ハン)」と呼ばれる気質がありましてな。 彼らは、例え自分側に原因があろうと、受けた恨みは永遠に語り継ぐと言う伝統がござる。無論、その恨みを語り継ぐに は、誇張や湾曲や虚実を混ぜる事も必要となる訳で。』
【姜徳相(滋賀県立大学教授)】 『「関東大震災」(1975.11 中公新書)。この本の著者・姜徳相(滋賀県立大学教授) は、関東大震災に関するコリアンの「最高権威」視されている姜徳相でありまして、この者が「軍隊・警察が朝鮮人を大 虐殺した」とデマ工作を働いて来た中心人物だと言っても間違いありません。』『姜徳相は、歴史の改竄・歪曲・捏造の 第一人者です。「関東大震災」は、その典型といったところで、原資料の歪曲、摩り替え、改竄のオンパレードですね。 他でも、姜は「事実この時期(関東大震災時)の治安責任者だった水野練太郎(注、内相)、赤池濃(警視総監)、石光 真臣(第一師団長)のトリオはすべて3.1独立運動(大正8年)の時に朝鮮で鎮圧に当たった現場の指揮官である」( 関東大震災七〇周年記念行事実行委員会編「この歴史永遠に忘れず」p143)と言っていますがこれは実は大嘘。まず 、前記の3.1暴動ですが発生したのは大正8年3~4月でした。一方、震災当時の水野内相ですが、彼が朝鮮総督府政 務総監に起用されたのは、事態が鎮定された後の9月です。就任当日、斉藤新総督と共に爆弾テロに襲われた水野総監で すが、にも関らずハングル新聞の発行や結社の自由を認める等、政治的自由の拡大を断行した人物でした。』『姜は、他 でも資料集(姜徳相・琴秉洞編「関東大震災と朝鮮人」1963・みすず書房)でも、水野内相談話を改竄しております。一 体誰が、こんなデマ屋に滋賀県立教授なんて地位をくれてやったのでしょうか?姜を知る、ある拉致問題の専門家は、呆 れ顔で「お話にならない」という風にだけ評していました。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Apricot/9959/2ch/word.html

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